第4巻第1号             1998/5/1
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Kyoshinken Review, or Knowledge of Results

学問の発展は
互いに批判しあうことで
なされるものである。

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不定期発行・発行責任者:信州大学教育学部・ 守 一雄
kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp
http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/kr/krhp-j.html


目次


【『教心研』第46巻第1号掲載論文批評】

(その1)

小林春美論文
「ガラス製の卵型の置物」に「これはムタです」と命名した後、転がして見せる(形に基づく動作)か、透かして見る(材質に基づく動作)かの動作をしてみせる。その後、「木製の卵形の置物」と「ガラス製のピラミッド型の置物」のどちらが「ムタ」かを選択させ、その理由も尋ねる。こうした手続きを、保育園児(4歳児36人、6歳児33人)に個別に行うことによって、幼児が言葉の意味を習得していく際に大人の動作からどれだけ情報を取り入れているかを調べた研究である。幼児は語の意味の習得に確かに大人の動作を活用しており、6歳児の方が大人の動作をより多く活用していること、動作を伴わない場合には、形に基づく命名がなされたと判断される傾向があることなどが明らかになった。図表が中途半端に英文表記になっていて見にくい点を除けば、実験そのものも論文のまとめ方も優れた好論文であると思う。
○水野りか論文:
(次号掲載)
松尾・新井論文
「児童用対人不安傾向尺度」を作成し(研究1)、この尺度と「既存の関連する3つの尺度」、および「教師による対人不安傾向の評定」との関連性を調べた(研究2)。その結果、「公的自己意識尺度」とは正の相関(r=.721)が、「対人効力感尺度」とは負の相関(r=-.246)があることがわかった。つまり、自己意識が強くて対人効力感が乏しい児童ほど対人不安傾向が高いということである。また、児童の対人不安傾向の尺度得点は教師による評定とは小さな相関(r=.269)しかえられなかった。「可もなく不可もなく」という論文である。
○平 直樹論文:
(次号掲載)
◎●松田・原・藍論文:
パソコンの画面上を2台の自動車が「同じ時間(8秒または16秒)」走行するのだが、走行距離(速度)や出発時刻を違えても、「同じ時間」であることを小学生がちゃんと判断できるかどうかを調べた研究。出発時刻と到着時刻が同じであることがわかっていても「時間=到着時刻−出発時刻」という論理的判断ができずに走行時間が同じであることが判断できないことなど、研究内容そのものは大変優れた興味深いものであるが、不適切な命名の略語の多用と図表の使い方のまずさから、非常に読みにくい論文になってしまっている。
○牧野・田上論文:
(次号掲載)
有川・丸野論文
これは面白い。ニクロム線などの発熱体が熱を発する理由についてのメンタルモデルを調べ、鉛筆の芯や細い心線も発熱する実験を示範することで、間違ったメンタルモデルの修正がどれくらいなされうるかを調べた研究である。図表の使い方も適切で「教育心理学者なら論文もこれくらいわかりやすく書いてもらいたい」というお手本のような論文である。国立大学の付属中学校の生徒を被験者にしたために、もともとの成績がかなりよく、実験結果そのものは効果があまりはっきりと示されなかったのが残念である。
○土井康作論文:
(次号掲載)
笠井孝久論文
小中学生はどんな行為を「いじめ」と認識するのだろうか?この研究では、加害者と被害者の関係(仲よし・交渉なし・仲悪い)、加害者の人数(単数・複数)、行為の背景(面白い・しかえし・ぼんやり)、行為の形態(悪口・暴力・無視・嫌がらせ)を組み合わせて72通りの架空の行為場面を作り、質問紙法によって、それぞれの行為が「いじめ」とみなされるかどうかを小中学生に判定させた。その結果、「無視」は小学生では「いじめ」と認識されにくいが、中学生では「いじめ」と考えられていることなどが明らかとなった。(データの分析方法に疑問点がある。「計画的なデータ収集ができなかった」という理由から、「比較する平均値の差が、標準誤差の3倍を越えていれば有意な差とみなす」という方針がとられているが、どうもよくわからない。標準誤差はどう算出したのだろう?この検定方針は結局のところt検定と同じことではないだろうか?4要因の分散分析にかけてもいいのではないかと思うのだが、著者や読者からのご意見・ご教示をうかがいたい。)
○遠藤・橋本論文:
(次号掲載)
塘・真島・野本論文
日本とイギリスの小学校の国語の教科書に載っている物語を比較分析することによって、日本とイギリスの文化的比較を試みた研究。その背景となる研究の論理は、「教科書の与える知識や情報は、どのように行動したらその社会の成員として認められるかを子どもたちに示す材料としても使用される」からというものだが、教科書を買いかぶりすぎているのではないだろうか?テレビやマンガ雑誌、ゲームソフトの影響力の方がはるかに強力である。「教科書を分析したのは、研究がしやすかったから」というのが著者らの本音だろう。それにしても、なぜ「日本とイギリスの比較」なんだろう?これも「分析対象の教科書が手に入りやすかったから」のように思える。
○河内・四日市論文:
(次号掲載)

【図表の英文表記は何のため?】

 本号掲載論文のうち3論文で、図表が英文表記になっていました。「執筆要項」には「図表中の文字は英文にしてもよい」となっていますが、なぜわざわざ読みにくい英文表記にするのでしょう?おそらく、その理由は『「心理学研究」執筆・投稿の手引き』にあるように、「英文アブストラクトの理解を助けるために、原則として英語とすることが望ましい」ということからきているのでしょう。しかし、日本人以外の読者がいったいどれくらいいるのでしょう?それに、日本人以外の読者のことを本気で考えるのなら、英文アブストラクトそのものをもう少しちゃんとしたものにしなければ意味がありません。中途半端に英文を使うより、しっかりとしたアブストラクトを書いた上で、興味を持った非日本語圏の読者には、著者に直接問い合わせができるよう、著者の住所やe-mailアドレスを付記するというやり方の方が実効はずっと大きいはずです。『KR』英語版はこの方針をとっています。それよりなにより、非日本語圏の読者を考えるのだったら、論文そのものを英文で書くべきです。