塘さん@甲子園短期大学から守への反論(1998/6/2)

塘さん@甲子園短期大学から守への反論(1998/6/2)

Date: Tue, 02 Jun 1998 02:07:00 +0900
From: 塘 利枝子
Subject: KR
To: kazmori@gipwc.shinshu-u.ac.jp
MIME-Version: 1.0

信州大学教育学部学校教育講座 守 一雄 先生

あなたは誤解しています。それは、私が教科書を「買いかぶっている」とあな たが言う点です。それは「論文を書く(研究をする)」ということを冷静に考 えれば明々白々のことと思われます。おそらく大学で「論文を書く」という点 について共通理解が得られていると思いますが、あえてここで繰り返させてい ただきます。

論文を書くとは、ひとつの主張を確立することです。その主張が荒唐無稽では なく科学的意味をもつためには、その主張が、一定のルールに従って確立され ていなければなりません。そのルールとはいくつかの前提にもとづいて仮説を たてそれを論理的あるいは実証的な方法によって論証するということでしょう。 ここで、論証するために設定された前提が正しいかどうかについては、それ自 体、独立した研究を必要とするものでしょう。論文を書く場合、論証されては いないけれども、しかし、plausibleであるとされる前提をおくことは許され ると考えます。もちろんそのplausibilityについての印象や考えは人それぞれ であることは認めます。しかし前提がplausibleであろうがなかろうが、それ は論文の結論の正否とは直接には無関係であり、また論文の著者の思想とも直 接的には関係がないと考えます。前提のplausibilityに関して見解が相違する ことは十分ありえます(だからこそ別の独立した論文が必要となる!)が、そ の点に関する議論は、論文の主張の正否とは全く無関係なのです。たとえ、あ る人にとってplausibleではないと思われる前提にたった論文であっても、論 理を理解し、あるいは統計的処理を理解できる人がその前提を正しいと考え、 分析の正しさを確認したうえで、論文の結論は正しいと判断することは十分に あり得るのです。

以上の一つの方法論の立場に従って、私は研究を行っています。ここで、この 方法論を認めないというのであれば、これ以上議論する余地はありません。例 えば前提のplausibilityが納得できないので、論文の結論も認められない、と いう立場もあると思います。そのような立場であるならば、議論をしても無駄 でしょう。まずご確認ください。

もしこの方法をお認めになるのであれば、私の研究についての理解も得られ、 誤解も解消されるものと考えます。

すなわち「子どもが毎日接する教科書の内容は子どもに大きな影響を与える」 という前提を私が置いたのは、全く研究の目的のためであり、それを正しいも のとして研究を進めていますが、その現実的妥当性についての印象とか判断に ついては不問にふしています。だからといって、それはこの前提にともなう判 断を信じているとかぜったいに確立されたものと考えていると判断されるなら ば、それは間違っています。それどころか私は「教科書が子どもの世界を反映 しているかどうか」という点については、まったく別の研究プロジェクトを必 要とするくらい大切なことと考えています。

しかし、私の今回の論文では、その点についての研究はなされていません。あ くまでも、研究方法上の「前提」なのであって、「子どもが毎日接する教科書 の内容は子どもに大きな影響を与える」ということを金科玉条と信じているわ けではありません。そのようにとらえられて、「教科書を買いかぶっている」 などという判断をされることは心外であり、まったく私の論文の主旨を理解し てもらっていないか、あるいは、上に述べた論文の書き方について合意が得ら れていないかのどちらかとしか考えられません。

論文で提出された命題の意味内容だけで、論文の著者の立場と判断基準を邪推 することは避けるべきと考えます。論文に書かれてあるすべでが著者の信念と か思想を吐露したものであると考えるのは誤っています。そのうちのいくつか は分析方法論上の単なる前提であるものを含んでいるのです。ここが論文と雑 文との大きな違いと私は考えます。

  塘 利枝子


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