KRKyoshinken Review, or Knowledge of Results学問の発展は
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倉八論文(1996)での双生児34組を使った英語教育の教授実験データを行動遺伝学の観点から分析したもの。学習意欲のようなおよそ遺伝とは関係ないと思われている性質が遺伝的な影響を受けていることを双生児統制法によって明らかにした研究。双生児研究法のすばらしさ・研究の本格さには敬意を表したい。本質的な問題ではないが、疑問に思った点を2点。(1)倉八論文と同じデータのはずが、被験者の住所と・性別ごとの人数が合わない(たぶん倉八氏のまちがい?)。(2)P.228において、『「プリント活動」および「ゲーム活動」に対する意欲以外のすべての変数で、一卵性双生児の値が二卵性双生児のそれを上回り、・・・』とあるが、「プリント活動」でも上回っているのに、なぜこれ以外なのか?また、Table 4で「プリント活動」は「発音への関心」などとよく似た値であるが、Table 5では「プリント活動」だけがceモデルになるのはなぜか?本質的な疑問点として「非共有環境」の解釈の問題は次の展望論文(安藤,1992)へのコメントの中で論じる。
さて、「遺伝をタブー視するな」という主張には全面的に賛成したい。また(A)「共分散構造分析」などの研究方法も確かに洗練されたものであると思う。(C)についても賛成である。ただ、問題は(B)である。(なお、以下においては基本的にIQ(およびその表現型としての学業成績)の遺伝について念頭に論を進める。多くの研究がこの領域でなされ、安藤(1992)でもこれまでの成果の大部分がこの領域であることが示されている。)
疑問点(1)「人間行動遺伝学が扱うのは、遺伝と環境の、ある集団内の個人差への相対的効果の大きさである[3]」という主張は認める。しかし、それは遺伝の「絶対的重要度」を否定することにはならないのではないか?その論拠として2点を挙げたい。まず、行動遺伝学が「集団内の個人差」を研究していて「遺伝が頭の良さを決めているかどうか」を研究しているのではないことは確かである。だから個人個人で考えるならば、環境からの働きかけで個人の能力が力動的に変化する可能性があることが否定されるわけではない。だからIQが個人内評価としてだけ論じられるのであれば、これでなんの問題もない。しかし、現代社会において「頭の良さ」は「偏差値」に代表される相対評価でなされる。「頭の良さそのものではなく、その差を問題にしているだけなのだ」と行動遺伝学者は言うだろうが、世間で問題にされているのも、頭の良さそのものではなく、その差なのである。そこで、その差の大半が遺伝によるとすれば、やはり「絶対的重要度」が高いと言わざるをえないのではないだろうか。
遺伝の「絶対的重要度」が否定できない第2の論拠は、環境要因の「天井効果」である。行動遺伝学では確かに遺伝と環境の「相対的効果」が研究されるだけである。しかし、現代の日本のように教育環境が画一化されてしまうと、遺伝の相対的効果がほとんど絶対的効果と同義になるのではないだろうか。IQに及ぼす遺伝要因の大きさを調べた研究はアメリカの研究がほとんどのようである。アメリカほど教育環境に違いがあってもIQの遺伝率が50%なのだとしたら、同じ研究を日本でやったら遺伝の影響はもっとずっと大きくなるのではないだろうか。
疑問点(2)「非共有環境」とは何か?安藤(1992)では「非共有環境」の相対的重要性が強調される。しかし、これは本来「誤差」のことではないか。これを「非共有環境」と名付けることによって「環境要因」の影響を不当に大きく見せようとしているのではないか。(プロミンの本では非共有環境と誤差が別になっているが、両者を分離する手続きは示されていない。)非共有環境の要因を誤差として取り除いて考えると、遺伝要因の相対的重要性はずっと大きくなる。これは疑問点(1)につながることになる。
疑問点(3)「遺伝の要因」には「直接的影響・交互作用的影響・相関的影響」があるという。前述の安藤(1996)では「相関的影響」を操作的に分離することが難しいため、前2者だけを検討しているにもかかわらず、全体から遺伝的要因の効果を差し引いたものが環境要因(上述の非共有環境要因も含む)となっている。ここでも環境の要因を不当に大きく見せる意図があるように思える。