無藤隆@お茶の水女子大さんのご意見(1997/2/16)

 以下の無藤さんのご意見に関して、誤解がありましたので、掲載の経緯を簡単に述べます。[この項は別掲の1997.2.19と2.20に届いた安藤さん・豊田さん・無藤さんのメールの後1997.2.21に付加したものです。]この件に関してご迷惑をおかけしたことをお詫びします。

以下のご意見は、基本的にはKRとは無関係に無藤さんがご自身 で発行しているMutoNewsNo.161に掲載していたものです。

 ただ、私がKRの安藤論文特集を配信したすぐ後にいただいたMutoNewsの中の記 事でしたので、

> MutoNewsNo.161(1997-02-16)ありがとうございました。
> この中の「教育において遺伝は重要か」の記述、「KR」への直接のコメントでは
>ないかもしれませんが、内容的に関連する部分が多いので、「KR」ホームページに
>転載させていただいてもいいでしょうか?

とメールでお尋ねしたところ、

>大歓迎。こちらこそ申し訳ないことをしました。KRを引用して、そこから思いついた
>議論であることを明示すればよかったですね。もっとも、議論のないようそのものは、
>ふだん、プローミン等の研究を院生に紹介するときに言っている話しなのですが。

とお返事いただいたので、「MutoNews161から転載」と明記してKRに載せたものです。

(以上、守付記1997.2.21)


[MutoNewsNo.161(1997-02-16)から許可を得て転載]


教育において遺伝は重要か

 プローミンなどのデータを見る限り、発達に対して遺伝的影響が強いことは疑えませ ん。個人差の分散の半分くらいを様々な人間の特性について説明しています。もちろん 、現在の社会の通常の環境的散らばりを前提としての調査であることは言うまでもあり ませんから、半分くらいというのは絶対ではなく、個人の遂行を予測するほどの強さで はありませんが。

 その上で、こういったデータが学校教育に対して何か意味を持つのかを考えたいと思 います。例えば、ジェンセンは以前に黒人に対して白人とは別の暗記・ドリル中心の教 育を行うことを提言して、社会的センセーションを巻き起こしました。

 少なくとも現在までのところ、遺伝的特性に応じて教育の仕方を基本的に変えること が有効だという調査はありません。障害として同定される場合を別として、正常の範囲 においてはあまりに数多くの様々な特性があるので、集団として教育方法を変えること は適切でないし、個人毎に診断するのも無理です。要するに、出来るのは全員共通の教 え方と個人毎の扱いの何からの組み合わせでしょう。


 そもそも、遺伝的な影響が個人差の分散の半分くらいを説明するということは、原理 的には通常の意味での教育とは無関係です。なぜなら、教育は各々の人に最小限の社会 的常識(読み書きやら社会的参加への態度やら文化的常識やら)を習得させ、かつ各々 の学力を伸ばすことにあります。そこでは本来的に個人差を解消することが求められて いませんし、追求されてもいません。簡単に言えば、「頭のよい」子が「頭の悪い」子 と同一の学力水準を達成することは求められていないはずです。必要なことはたとえ「 頭が悪い」といっても最小限度の学力を達成すべきことであり、その上で、各々が自分 の力をさらに伸ばせることのはずです。経験的に言っても、頭のよい子を無理矢理足止 めさせない限り、どんな教育方法もうまくいってすべての子どもを伸ばすのに成功する のであり(元の個人差を消さない)、悪く行けば、頭の良い子だけが得するのです。

 分散の半分くらいというのは、確率的な予測ですから、頭が悪いとされた子がその後 の環境や努力によりさらには運に恵まれれば、頭のよいとされる子に追いつきまた追い 越すことは十分にありうることです。しかし、頭の悪いとされる(その基準が何であれ )子が統計的な集団として頭の良い子に追いつくことは強制収容所でも作らない限りあ るいは中国の文化大革命のように「下放」しない限り無理でしょう。ですが、そこで言 う集団とは、統計的な集団であり、特定の実体としての集団ではありません。特定の実 体としての集団を取れば必ずその中に頭の良い子も悪い子もいて、もし集団的に遂行が 著しく悪いならば、その原因が環境側にあるのは当然のことです。


 では、日本において個人差を説明するのに遺伝がある程度効くのだという信念は存在 しないのでしょうか。伝統的には確かにあったと思われます。瓜の蔓にはなすびはなら ず、蛙の子は蛙、なのです。その逆もあって、氏より育ち、とも言います。

 現代ではどうなのでしょうか。親が頭がよければ子どもも頭がよいという想定は生き ているのではないでしょうか。不愉快なことですが、親が東大を出ていれば、子どもも 出るのが当然といった見方があります。子どもがそれで苦労するケースもあります。東 大に入ることが頭のよいことの証かどうか疑わしいのですが、もちろん、頭のよさも多 少は効いているには違いないでしょう。

 他方で、もしかすると、戦後の豊かで平等志向の強い社会で、遺伝的制約を無視して 、環境万能の志向が強くなっているのかもしれません。早期教育熱はその現れかもしれ ませんが、正確には、遺伝的影響と見えることは無視できないので、その代わりにごく 小さいときの影響を重視して、それがよかったから今頭がよいのだとする正当化する考 えになったのではないでしょうか。

 早期教育の根拠は心理学的にはほとんどないので、教えれば文字を覚えるにせよ、別 にそれで頭がよくなるわけではありません。頭の善し悪しを取り扱っている知能の研究 はもっと基礎的な情報処理メカニズムの個人差を扱っており、それは生得性が強く、容 易に教育訓練では変わりません。教育訓練で変化しうることは、知識内容に依存するの で、特別に幼い時期がよいとも言い難いでしょう。