以下のご意見は、基本的にはKRとは無関係に無藤さんがご自身 で発行しているMutoNewsNo.161に掲載していたものです。
ただ、私がKRの安藤論文特集を配信したすぐ後にいただいたMutoNewsの中の記 事でしたので、
> MutoNewsNo.161(1997-02-16)ありがとうございました。
> この中の「教育において遺伝は重要か」の記述、「KR」への直接のコメントでは
>ないかもしれませんが、内容的に関連する部分が多いので、「KR」ホームページに
>転載させていただいてもいいでしょうか?
とメールでお尋ねしたところ、
>大歓迎。こちらこそ申し訳ないことをしました。KRを引用して、そこから思いついた
>議論であることを明示すればよかったですね。もっとも、議論のないようそのものは、
>ふだん、プローミン等の研究を院生に紹介するときに言っている話しなのですが。
とお返事いただいたので、「MutoNews161から転載」と明記してKRに載せたものです。
(以上、守付記1997.2.21)
プローミンなどのデータを見る限り、発達に対して遺伝的影響が強いことは疑えませ ん。個人差の分散の半分くらいを様々な人間の特性について説明しています。もちろん 、現在の社会の通常の環境的散らばりを前提としての調査であることは言うまでもあり ませんから、半分くらいというのは絶対ではなく、個人の遂行を予測するほどの強さで はありませんが。
その上で、こういったデータが学校教育に対して何か意味を持つのかを考えたいと思 います。例えば、ジェンセンは以前に黒人に対して白人とは別の暗記・ドリル中心の教 育を行うことを提言して、社会的センセーションを巻き起こしました。
少なくとも現在までのところ、遺伝的特性に応じて教育の仕方を基本的に変えること が有効だという調査はありません。障害として同定される場合を別として、正常の範囲 においてはあまりに数多くの様々な特性があるので、集団として教育方法を変えること は適切でないし、個人毎に診断するのも無理です。要するに、出来るのは全員共通の教 え方と個人毎の扱いの何からの組み合わせでしょう。
分散の半分くらいというのは、確率的な予測ですから、頭が悪いとされた子がその後 の環境や努力によりさらには運に恵まれれば、頭のよいとされる子に追いつきまた追い 越すことは十分にありうることです。しかし、頭の悪いとされる(その基準が何であれ )子が統計的な集団として頭の良い子に追いつくことは強制収容所でも作らない限りあ るいは中国の文化大革命のように「下放」しない限り無理でしょう。ですが、そこで言 う集団とは、統計的な集団であり、特定の実体としての集団ではありません。特定の実 体としての集団を取れば必ずその中に頭の良い子も悪い子もいて、もし集団的に遂行が 著しく悪いならば、その原因が環境側にあるのは当然のことです。
現代ではどうなのでしょうか。親が頭がよければ子どもも頭がよいという想定は生き ているのではないでしょうか。不愉快なことですが、親が東大を出ていれば、子どもも 出るのが当然といった見方があります。子どもがそれで苦労するケースもあります。東 大に入ることが頭のよいことの証かどうか疑わしいのですが、もちろん、頭のよさも多 少は効いているには違いないでしょう。
他方で、もしかすると、戦後の豊かで平等志向の強い社会で、遺伝的制約を無視して 、環境万能の志向が強くなっているのかもしれません。早期教育熱はその現れかもしれ ませんが、正確には、遺伝的影響と見えることは無視できないので、その代わりにごく 小さいときの影響を重視して、それがよかったから今頭がよいのだとする正当化する考 えになったのではないでしょうか。
早期教育の根拠は心理学的にはほとんどないので、教えれば文字を覚えるにせよ、別 にそれで頭がよくなるわけではありません。頭の善し悪しを取り扱っている知能の研究 はもっと基礎的な情報処理メカニズムの個人差を扱っており、それは生得性が強く、容 易に教育訓練では変わりません。教育訓練で変化しうることは、知識内容に依存するの で、特別に幼い時期がよいとも言い難いでしょう。