安藤寿康@慶應義塾大学さんのコメント(1997/2/19)

安藤寿康@慶應義塾大学さんのコメント(1997/2/19)

Date: Wed, 19 Feb 1997 00:52:31 +0900
From: Juko Ando
Reply-To: HDA02306@niftyserve.or.jp
X-Mailer: Mozilla 3.01Gold [ja] (Win95; I)
To: kazmori@gipwc.shinshu-u.ac.jp
Subject: 時間を下さい(安藤)
Content-Transfer-Encoding: 7bit
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
Content-Length: 7230

守 一雄先生

拝啓

 オリンピックが1年を切り、長野は慌ただしさを増しているのではないでしょ うか。

 さて、このたびはKRに拙稿の批評をいただき、うれしさとありがたさでいっ ぱいで、ご返事を差し上げる次第です。先生の「学問の発展は互いに批判しあう ことでなされるものである」とのお言葉通り、疑問点や別の解釈に出会うこと で、いろいろと考えが浮かんできます。実はKRをいただいてすぐこのメールを 書き始めたのですが、今年は入試事務を引き受けており、いま突入の直前準備 で、まとまって考えをまとめる時間がとれませんでした。そして今日を逃すと、 おそらく3月のはじめまで頭は全く学問に向かず、ご返事も差し上げるゆとりが なくなるだろうと思われます。ですからご質問に対する細かい返答はあらためて 3月になってからということで、いまは取り急ぎ、思いつきで書いたことの途中 までをお送りします。

 うちわけ話になりますが、遺伝・環境問題に関心を持ち出した最初のきっかけ は、鈴木メソッドでした。あの「人は環境の子なり」「才能は生まれつきではな い」をスローガンとして、世界的に驚異的な成果を生みだしている鈴木鎮一とい う人物に惹かれ、その方法とそれを支える教育観について、いわゆる心理学論文 ではない(いまにして見ればエッセイのような)卒論を書きました。松本の本部 に鈴木鎮一自身のレッスンも見に行きました。で、私は基本的に、教育にはもの すごい可能性があるということを信じているのだと思います。そして教育に関心 を持つ以上、ある意味で「環境重視」の姿勢は潜在的にぬぐい去れないといえま す。教育がスバラシイのは自明のことです(!?)。確かに行動遺伝学の成果 を、岩井先生や守先生がおっしゃるように「環境重視の偏った現行の教育観の積 極的変更」の道具として使うことは可能です。それは最も安易で容易で陳腐な使 い方とすらいえるような気すらします。それは、そう主張したい人が主張すれば よいでしょう。しかし、危機感の不足といわれることを恐れずにいえば、内心 「環境重視、それもまたよし」くらいの気がしてもいる身としては、遺伝を明確 にしつつ、それでも環境や教育の役割を明確にしてゆくというスタンスを重視し たいと考えています。。

 ただ科学はイデオロギーではありません(もちろん科学とイデオロギーをそん な単純に区別はできないことも確かで、そここそが私自身も含めてのこの問題の 本質的問題だと思いますが)。教育環境を重要視することを自明と思っている人 どうしが、教育環境はこんなにスゴイ、スバラシイという科学的データをうちわ で出し合っているなんて、何かマヌケな感じがしませんか。もっと強い言い方を すれば「欺瞞」ではないでしょうか。それが端的に現れているのが、教育心理学 での遺伝の扱い方のように、教育学にふれた初めのころから感じていました。だ から、教育心理学に対しては遺伝の機能を明らかにし、あえて教育や環境に還元 できない側面に直面することで、「鏡の背面」から教育が何をしているのかをと らえることができるのではないか。

 また一方で(これはまだ密かな野心なのですが)遺伝を重視する人(遺伝学者 や精神医学者など)には、これからますます遺伝の機能とその重要性にスポット ライトが当てられていく時代になる中で、逆に見過ごされがちになるであろう教 育や環境の独自の機能とスバラシサを、しっかり表現できるになりたい。こうし ていわば「逆コウモリ」的研究者になりたいと思っています。

 教育学はどうも二流の学問視されているきらいがあるようですが、教育のパラ ダイムには、他の科学や思想に決定的に欠けている新しいモーメント−「善さ」 を実現しようと不断に働きかけるためのロジックの探求−があると信じていま す。これは欺瞞でも偽善でもなく、「教育の論理」です。そして学問のパラダイ ムは、他領域の研究者が利用できるようになってこそ初めて自立できるものだと 思うのです。その意味で教育学や教育心理学が本当の意味で学問的価値を持つた めには、それがたとえば遺伝学畑・生物学畑の人にもインパクトをもてるぐらい の水準にすることが必要だ、などと不遜なことを考えています。

 私の論文が、先生から環境を過大評価するもののように映るとすれば、以上の ようなスタンスが背後にあって、やはり「教育心理学研究」なので、後者(環 境・教育を重視する視点)の論点が結局強くでてしまったのかもしれないと思い ます。

前置きが長くなってしまいました。(ここまで12日)


 ……と、ここまで書いて時間切れが近くなりましたので、疑問のいくつかに手 短にお答えしておきます。非共有環境は誤差とはいえません。プロミンの訳書の 図中の誤差は、基本的にそのテストのもつ誤差、つまり〔1−テストの信頼性〕 に当たる部分です。私はむしろ非共有環境の多くは高次の遺伝×環境交互作用だ と考えています。また「わが国の環境の均質性からくる高遺伝率」仮説はとても チャレンジングであり、そういうご指摘は以前にもいただいたことがあって、い ずれ代表性の高いサンプルを得て、検証したいと思っています。ただ、私のもう 一つの対立仮説は、自然は遺伝のバリエーションに応じて、適度な環境のバリエ ーションをもつようになっており、喘息としてどの社会や文化の中でも遺伝と環 境の散らばりの相対的大きさは一定かもしれない。(ここまで14日)


 ‥‥などと書いているうちに、入試に突入しまして、今日大学の近くに缶詰の ホテルで久々やっとインターネットにつなげたと思ったら、無藤先生のコメント を知り、日本の教育心理学・発達心理学のおそらくは代表的、典型的とも言うべ き牧歌的な遺伝観を拝見しました。教育は基本的にイデオロギーの表現ですか ら、「遺伝と教育は無関係」という立場に立てば、その路線でどうにでも論を立 てることができます。実際、こういうコメントは一見学問的なようでいて、実は 学問的批判でも何でもないように思います。もっとも世の中、当面、このような 見解の人が多いことが、全体のバランス感覚を育ててくれているのだとはいえる かもしれませんが(教育関係者の多くが遺伝に目くじらを立てだしたとしたら、 これは困りものです。これが教育心理学において動機づけなどをテーマにするの と、遺伝を問題にするのとの大きな違いだと、同僚の鹿毛君の仕事ぶりなどをわ きで見ていて、常日頃感じることであります)。

 しかし、それでは「教育にとって遺伝はどのような機能を果たしているのか」 「教育活動と遺伝とはどのような関係にあるのか」という(おそらく歴史的に由 緒正しい)問いに対して、学問的にはどう答えたらいいのでしょう?無藤先生の ような「関係ありません」という答えは、その答えでないことは明らかです。そ してそれは、もっと正確に言えば「関係ないことにしましょう」という科学的問 い以前の態度表明に過ぎません。私たちが知りたいのは「どのような機能か」 「どのような関係か」という問いへの、少しはましな答えの方です。そういう問 いを発している人間に対して、無藤先生のようなコメントには、どのような価値 を見いだせばいいのでしょうか。結局、そんな研究は無駄だからおやめになった 方がよろしいのでは、という、なんとも覇気のない老人の繰り言のように感じま す(失礼!)もうこの問題をこうしてはぐらかす時ではないのではないでしょう か。

 遺伝と教育を結びつけた議論が可能になったときの遺伝学と教育学の双方に対 する学問的影響力の大きさに気づく人が、なぜこんなに少ないのでしょう。人間 観の根幹を揺るがすような科学の転換期の一つの大きな柱である「遺伝」という 現象に、さらに発達と教育を結びつけるという、知的スリルに富んだ問題領域へ の、身近な入り口である行動遺伝学、もちろん問題点も多々あるにせよそれなり に基盤のしっかりした行動遺伝学に、なぜ人々は無関心なのでしょう。それはお そらく古くからのスタティックな遺伝観に縛られているからなのだと思います。 常識的でつまらない遺伝観は捨てましょう。


 ……などと書いてきて、やはりいまは落ち着いて考えをまとめられる時期では ないことに気づきました。これまで書いてきたことが私の本音であることは確か ですが、もうちょっと整理して書くべき内容です。ですから、守先生同様、もう 少し時間を下さい。

 以上、はなはだ支離滅裂ではございますが、取り急ぎご返事まで。

                                  敬具

追伸:もしこのままでもよろしければKRにお載せ下さってかまいません。しか しいずれにせよ時間が出来次第、改めて無藤コメントと併せて、ご返事申し上げ ます。