安藤寿康@慶應義塾大学さんのコメント(1997/3/2)

安藤寿康@慶應義塾大学さんのコメント(1997/3/2)

Date: Sun, 02 Mar 1997 17:47:10 +0900
From: Juko Ando
Reply-To: HDA02306@niftyserve.or.jp
X-Mailer: Mozilla 3.01Gold [ja] (Win95; I)
To: kazmori@gipwc.shinshu-u.ac.jp
Subject: 行動遺伝学−返事3
Content-Transfer-Encoding: 7bit
Content-Type: text/plain; charset=iso-2022-jp
Content-Length: 13637

安藤@慶應大です。

 やっと時間がとれました。前回のコメント(97/2/19)は、突如始まった豊 田・無藤両氏の議論に対して、ともかくも何か発言せねばと思い(特に私がその 前に品性を欠く表現をしたこともあって)、取り急ぎ書き送ったものでした。豊 田先生のご不満(97/2/24)はよくわかりますが、守先生には3月まで待って下さ いとお願いしたつもりでしたので、決して守先生の最初のご質問を無視したので はありません。お約束通り、守先生の疑問点にお答えします(質問内容は私なり に要約・再解釈してあります)。また豊田・無藤両先生のご意見に対しても、後 でいくつかコメントを述べさせていただきます。


【安藤(1996)論文に対して】

(1)倉八論文のサンプルの記述との不一致について

 ご指摘の通り、倉八論文の「男子38人、女子30人」は「男子39人、女子29人」 の間違いで、住所も「主に東京都と川崎市」が正確です(「主に」というのは市 川市、与野市出身などが各1組ずついたので)。共同研究者にもかかわらず、気 がつかなかったことを反省します。

(2)-1「プリント活動」でも一卵性の相関が二卵性をうわまわっているのに、な ぜ「プリント活動」を除外しているか

  -2「プリント活動」と似た相関パターンを示す「発音への関心」で、共分散 構造分析での最適解が異なるのはなぜか

 (2)-1については級内相関の表Table 4とadceの寄与率の表Table 5の両方から 判断しています。確かにTable 4では .29 vs -.11(P(MZ>DZ)=.86)ですが、Table 5の遺伝コンポーネントの寄与分析では a,dの遺伝的寄与は認められず、遺伝的 寄与の証拠を示すほどの上回り方ではないと判断されます。ちなみに「わかる」 では MZ と DZの差は .39 vs .36 (P(MZ>DZ)=.54) とごくわずかですが、Table 5ではaの寄与が大きく出ているので、この差は遺伝的寄与を示すと解釈します。 遺伝分散の大きさは、単純にMZとDZの見かけの級内相関の差だけでなく、それぞ れの分散、共分散、サンプル数の大きさまでも考慮して推定せねばならず、共分 散構造分析はそこまで考慮されていると理解しています。(2)-2のような食い違 いも、同様の理由によると思われます。できればこれらの変数の分散・共分散行 列を示せばいいのかもしれません。(豊田先生、もっと詳しく教えてくださー い!)


【安藤(1992)展望論文に対して】

(1)「人間行動遺伝学による遺伝効果はあくまでも個人差への相対的効果」とい うが、遺伝の絶対的重要度を否定することにはならないのではないか

[論拠1]社会的に重要なのはむしろ相対性(差)である

[論拠2]教育環境が画一的なわが国の場合、遺伝の寄与率はアメリカより高いか もしれない(環境の天井効果)

論拠1、論拠2には、いずれも同意します。論拠1については、私たちのプロ ミンの訳書(『遺伝と環境』1994(培風館))の第1章でも、行動遺伝学が個人 差の遺伝を扱うことの意義の一つとして強調されている点です。論拠2も興味深 い作業仮説として賛意を示します。私もこれまでに、この教心研論文に対する査 読コメントや何人かの外国の研究者から、この考えを聞いています。しかし前回 のコメントでも申し上げましたように、もう一方で私は別の対立仮説ももってい ます。つまり「社会は遺伝の多様性に応じて、適度な社会環境の多様性を自ずと 作り上げるのであり、遺伝と環境の相対的比率は、文化間で大した違いはない (IQや基本的なパーソナリティのようなgeneralな形質の場合)」というもので す。その第1の根拠は、今のところ劇的な遺伝率の文化差を示す実証的証拠がな い。第2の根拠は、俗に「教育環境が画一的」というが、そんな日本でも地域の 違い、学校の違い、先生の個性の違いなどがかなり認められ、どっこい環境は十 分な多様性をもっているのかもしれないとも思える。これは教育社会学者などと いっしょに共同研究をして、検証できるテーマかもしれません。そしてもしそれ ができれば、教育環境の多様性について、遺伝をふまえることでより科学的な知 見が得られるわけで、行動遺伝学の有意義な応用例となるかもしれません。

 とはいえこのように私が基本的に論拠1、2は支持しているにも関わらず、守 先生との食い違いがあるとすれば、それは単純に「絶対的重要度」という言葉の 意味の違いだと思います。遺伝的個人差は確かに社会の中で、一定ののっぴきな らない意味をもつという点での「絶対的」な重要性を否定するものではありませ ん。だからこそ私は、わざわざ眠った赤子を起こすような遺伝研究を始めたわけ です。そしてそれは豊田先生のコメントにもたびたびあるように、タブー視する ことからくる弊害を取り除くこと、つまり「幽霊の正体見たり枯れ尾花(枯れて いるどころか実は美しい花だった、となればもっといい)」と言えるようになる ことが一つの大きな願いです。私はあくまでも、「遺伝」という言葉が日常の中 で直感的に連想を引き起こすような「固定性」「決定性」「生まれつきはどうし ようもない」「遺伝なら教育してもしょーがない」式の素朴遺伝観を否定したか ったのであり、それを「絶対的」でない、といったのです。これはおそらく守先 生はじめ、多くの方が同意して下さる点だと思います(私は論文やエッセイの中 で「遺伝によって決まる」という表現は意図的に避けるようにしています。その かわり「遺伝の影響を受けている」といいます)。

(2)非共有環境とは誤差ではないか

 これについては私の前のコメントでも豊田先生のコメントでも触れてあるよう に、「誤差=1-信頼性」であり、誤差と非共有環境とは異なります。非共有環 境の重要性は、Plomin & Daniels(1987)の論文(「同じ家の子でもどうしてこん なに違うの」)に始まる、近年の行動遺伝学の大きなセールスポイントです。こ れは操作的には「家族を類似させないように効く環境要因」として定義されます が、たとえば三木・天羽(1954)の一卵性双生児の兄的・弟的性格の違いなどはそ の好例です。その他にも、クラスが違うこと、一方が病気やけがをしたこと、親 のちょっとした態度の違い、さらにそうしたものから派生するであろう因果を特 定できない「ゆらぎ」など、想像すればわかるように、同居する一卵性双生児す ら、その多くの面で受ける環境からの経験は異なります。そしてそれは個人差に 対して大きな影響力を持っているという、おそらく常識的にも合点の行くことを 言っているわけです。しかもそれが「あの親に育てられたから」「あんなうちで 育ったので」というような共有環境の効果なんかより、はるかに大きい場合が多 い、というところがミソです。ただそうは言っても、その非共有環境の影響が遺 伝の影響をかき消すほど強いとはいえない場合があるということも、行動遺伝学 は主張します。

 非共有環境については、私の『発達心理学研究』論文(安藤(1996)「子どもの 読書行動に家庭環境が及ぼす影響に関する行動遺伝学的検討」)でも論じていま すが、そこでも紹介したように、非共有環境の重要性の指摘は、従来の1対の親 子相関から家庭環境を検討するという方法論に大きな疑問を投げかけます。同じ 家庭にすむ2人以上の子どもを対象としなければ、家庭環境の重要な側面は見え てこないからです。プロミンらの最近の著書は、彼らのこの問題に関する実証研 究をまとめています。

(3)遺伝要因には直接的(=主効果的)、交互作用的、相関的の3つがあるにも 関わらず、遺伝の主効果を全体からさっ引いたものだけを環境効果として扱うこ とに、環境を不当に大きく見せる意図がある

「不当」かどうかは別として、おっしゃることはわかります。この問題のあつ かいのあいまいさには、以下のような背景があります。

 [1]遺伝と環境の相関と交互作用は、文字通り遺伝と環境の「両方の」影響な のであって、どちらか一方からの「所有権」を主張することそのものがそもそも ナンセンスであること。豊田氏の(2/19)コメントにもあるとおり、「「遺伝の相 関的影響」は「責任のない傍観者」にとっては遺伝要因だし、「教育者」にとっ ては環境要因」といえます。とりわけ、もし遺伝と相関したり交互作用を示すよ うな環境が、人間によって操作可能な環境の中にあるとすれば、それは「遺伝を うまく生かした環境効果」ということになりうるでしょう。たとえばオープンス クールで個性を伸ばせるような学習環境を選択できるようにすること(相関) や、ATI的な教育処遇の切り替え(交互作用)などはそれにあたります。

[2]しかしながら、相関も交互作用も、その研究はあまり蓄積されていません。 それを示すには別々に育った一卵性双生児のデータが不可欠で、ミネソタのブシ ャード(Bouchard、日本語訳でボーチャードとかブシャールなどと表記されてい ることがありますが、より原語に近いのは「ブシャード」で「シャー」にアクセ ントがあります。ズボン吊りの似合うひょうきんなおじさんです)やスウェーデ ンのNancy Pedersenのところぐらいしか、そういうデータをもってません。研究 はこれからです。ちなみに私の研究は交互作用の教育場面での存在可能性を実証 することを、その最大の目標にしていました。それからこれまでの研究では残念 ながらこれらの効果は、遺伝や環境の主効果に比して、とても小さいのが現状で す。

[3]とはいえ、環境の主効果として算出される部分の中に、遺伝と環境の高次交 互作用が多く含まれていると私は考えています。つまり多くの個性(個人差)は 遺伝的な独自性(差異)から派生しているのではないか。ただあまり高次な交互 作用は研究の対象にはできない。

 以上が守先生からの疑問点に対する回答です。


 さて、守先生のKRコメントを拝見していたときからうすうす感じていたこと が、無藤・豊田両先生のコメントのやりとりの中でよりはっきりしてきました。 それは行動遺伝学の研究動機と社会的implicationについてです。続いて、この ことについて、無藤・豊田両氏の発言をふまえて、現在の私の見解を、前回と重 複するかもしれませんが、簡単に述べさせていただきます。

[1]教育研究には、Cronbachも言うように、実践への意志決定を志向した decision-oriented 路線と、確固とした科学的結論を得ることを志向した conclusion-oriented路線があると思います。行動遺伝学的な教育研究は、基本 的に後者の志向性が強いものであると考えています。後者は、直接の教育処遇、 教育政策を導きませんが、広い意味で教育への理解の仕方に影響します。「いか に教育するか」という問いと「教育とは何か」という問いは、性質が異なりま す。もちろん境界は明確ではありませんが、この違いには敏感であるべきです。 無藤先生との初めの食い違いは、ここにあったのではないかと思います。

[2]私の当面の、しかしややdistalな研究動機は、「新しい遺伝観を築くこと」 にあります(できれば教育学や心理学だけに限られない、より普遍的な展望の中 で)。豊田・無藤両先生のコメントを見ていると、やはり古典的な素朴遺伝観に 縛られているような気がします。つまり「遺伝=環境によってどうにもならない もの=教育的・社会的働きかけのおよばないもの」という遺伝観です。私が問題 視しているのは、教育の問題とは「遺伝・環境」の枠組みの中での「環境」の問 題だと単純に決めつけていいのか、また教育における遺伝とは、「教育によって 変わらないもの」と等価だと単純に考えてしまってよいのか、という点です。豊 田先生の発言の中で、行動遺伝学によってより明確に環境の影響が分離できるこ とこそが教育研究への寄与だという意味のコメントがありますが、それをもちろ ん否定するものではないものの、それだけじゃないのでは、といつも思うので す。私はむしろ(1993の)教心シンポのレジメにもレトリカルな意味で書いたよう に「理想的教育環境とは、遺伝率100%であることすら前提として許容できる 教育環境だ」と考えています。

 私見では「遺伝」概念がそのようなスタティックな「身も蓋もない」ニュアン スを帯びたのは、近代遺伝学の成立以後のことであって、たとえばアリストテレ スでは「生まれ(physis)」とは、自然物に内在する運動の元(はじめ)となるも のとして描かれています(『形而上学』)し、ゲーテのメタモルフォーゼも、要 するに遺伝による生成的変化のことです。ちゃんと語源を調べていないのでいい 加減ですが、遺伝子geneと生成"gene"rateとは同源なのではないでしょうか(こ の辺はそれこそ佐藤達哉さんあたりに本格的に研究して欲しいところなのです が、彼の最新著『知能指数』(講談社現代新書)でも、せいぜい「知能遺伝説の 虚構」程度の指摘にとどまっているのが不満です)。つまり遺伝とは生命の変化 の元となる情報源であり、生命のスタイルを与えるものであるはずです。行動遺 伝学の方法論がこうした遺伝観を築くのにどの程度寄与するかわかりませんが、 すくなくとも発達的変化に及ぼす遺伝的影響の可変性などは、そうした意味で読 み解くこともできると思います。またまだ論文としてまとめられる段階ではない のですが、私は一卵性双生児の行動観察から、ふたりの特異的類似行動を通し て、遺伝的スタイルの動的な側面を描きたいと試みている最中です。

  [3]豊田氏の教育への3提言(97/2/21)についてコメントします。1.の客観性の 欠如に関する考察は、考え方については基本的に同感です。行動遺伝学では、創 造性や政治的態度、宗教的態度にも遺伝的影響がほとんどないことが示されてい ます。ただし豊田研究の具体的内容と結論について言えば、YG尺度の妥当性や東 大附属のデータの特殊性を考えて、まだまださらなる追試・検証が必要だと思わ れます。

 気になるのは2と3です。豊田氏は、研究者の社会的責任問題まで射程に入れ て2、3のような行動遺伝学の「積極的」応用例を示していらっしゃると思うの ですが、こうした具体的意志決定問題に研究者が直接発言するのは、前述[1]と 絡めて、逆の危険性があります。たとえば行動遺伝学的知見を根拠に(たとえば 殺人傾向の家庭内伝達はもっぱら共有環境によるからといって)、家裁調査官が 子どもを実親から引き離すことを提言する、さらに裁判所が親子離ればなれにな るよう命令することを正当化できるのでしょうか。ここにはかつての優生政策に 似たロジックが生まれる危険性があります。豊田氏は「判断上な有効な知識」と しか言っておられませんので、やや揚げ足取りになるかもしれませんので、あく までも問題提起という意味で述べれば、誰が誰に対してどのような権利と影響力 を持って発言するかという文脈を無視して、科学的知見を個人問題の意志決定に 適用できるかのような発言をすることは、研究者は慎重であるべきであるという 事です。たとえば寅さんが殺人を犯してしまった子どもに対して「オレは難しい ことはよくわかんないが、なんでも行動遺伝学者さんのいうには、これこれこう いうことだから、つらいだろうが、しばらく親と別れて生活した方がおまえのた めだ」と諭すのと、裁判所が国家家力の元で「科学的見解も考慮して親子別居を 命ずる」のとでは、結果が同じになったとしても、全然意味が違うことは明らか です。奇しくも今日(3/2)の朝日新聞の書評欄で森岡正博氏も触れていた事です が、ナチの優生政策を支えていたのはヒトラーやゲシュタポというより、むしろ 「善良な」医師や看護婦が良かれと思った意志決定だったわけで、同じように教 育的によいと思って発言したことが、文脈がズレたりゆがむと、どのようなおぞ ましい結果を引き起こすか予測することは容易ではありません。科学と社会との 関係は、現在、ヒトゲノム計画など生命倫理の領域で活発ですが、心理学と社会 的意志決定との関係や倫理問題についても、個人的信条のレベルを超えて、しっ かり整理された議論をしなければならないと痛感しています。

 私の「象牙の塔の中でしかできない研究を」発言を豊田氏は、至極危険視して いらっしゃいますが、ニュアンスを変えて「象牙の塔の中"だからこそ"できる研 究を」といった方がよかったのかもしれません。いずれにしてもあまりうまいレ トリックではなかったようですね。


 簡単なつもりが、長くなり失礼しました。こういう発言の場を与えて下さった 守先生に敬意と感謝を申し上げます。またいろいろな反論・批判をいただければ 幸いです。

P.S. 今年の広島の学会で、このテーマで小講演をすることになりそうです。