友好短信2023.1~12
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 第27期第2回日中連続市民講座  「中国メディア事情と中国メディアスクール」(12/17)

第27期第2日中関係を考える連続市民講座が12月17日、日中友好センター教室において開かれ、中国伝媒大学教授で長野ラジオ孔子学堂中国側代表の夏丹先生が「中国メディア事情と中国メディアスクール」と題して講演しました。講座には20人が出席し熱心に聴講しました。

夏先生は、中国伝媒大学を卒業し、その後も大学で勤務してきた40年近い経験をもとに話しました。

 ◇大まかな中国のメディア事情----

①最新の統計によると、中国には1,810の新聞と定期刊行物があり、2,500以上のラジオ局とテレビ局があります。ラジオ・テレビは、通常、政府機関と密接に関連しています。多くの中国メディアの中で、最も影響力があるのは、新華社通信、人民日報、中国メディアグループで、ニュースやニュースレター、新聞、ラジオやテレビを代表する、中国で最大かつ最も重要な3つのメディアです。

②中国国内では、中国政府に関する公式情報の多くは新華社通信から得られます。 新華社通信は中国の国営通信社であるため、公式ニュースは新華社通信を通じて発表され、世界中のメディアにおける中国の政治と外交の公式ニュースも新華社通信が発行する通信を使用します。人民日報は中国共産党中央委員会の機関紙です。人民日報は1948年に創刊され、中国最大の新聞で昨年の人民日報の発行部数は250万部です。 2018年3月、中国中央テレビ局、中国国家ラジオ局、中国国際放送局は共同で中国中央広播電視台集団(CMG)を設立しました。記者と編集者が6,629人もおり、スタッフの総数は約40,000人と推定されています。

◇以下、印象に残ったことを3点紹介しますーーー。

①.テレビはかつては広告収入で潤っていましたが、近年、ネットメディアやモバイルメディアの影響により、テレビ局の広告が減少し、苦境を打開するために様々な対策を講じています。 新しいメディアへの移行は、その主な方法の1つです。WeChat、TikTok、Xiaohongshu(小紅書)などの中国で最も有名なソーシャルメディアサイトは現在活況を呈しており、ニューヨークに上場しているサイトもあります。オンラインメディアとモバイルソーシャルメディアは、徐々に従来のメディアの役割と機能に取って代わりつつあり、従来のメディアはますます影響を受けています。

②.1980年代以降、改革開放によって、中国の経済は急速に発展し、テレビを購入する人が増え、テレビ番組の制作はますますエキサイティングになりました。 同時に、多くのアメリカと日本の番組が中国のテレビ画面を占有し始めました。 当時、人々が見たいのは日本のアニメ「鉄腕アトム」、ポケモンでした。ポケモンで、ほとんどの人がピカチュウを知っており、「血の疑惑」や「マンハント」などの日本の映画やテレビシリーズを見る機会があり、その後、アニメ「名探偵コナン」、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」をテレビで放送し、中国の視聴者は高倉健、三浦智一、山口百恵などのスターを知りました。

日本は中国の緊密な隣国でもあるため、中国のメディアは日本に注意を払っています。 国会議員選挙、岸田首相と各国首脳との会談、日本での頻発地震、さらには日本の天候の変化まで、報道があります。 特に、最近の日米合同軍事演習や、この1年間の円相場の継続的な下落や電力・ガス価格の高騰は、中国国民の注目を集めており、中国メディアでも大きく報道されています。 11月17日、岸田総理と習近平国家主席がサンフランシスコで会談し、当時の中国メディアの重要な報道にもなりました。桜の季節に日本人が桜を見に行くこと、日本の有名な相撲などについても報道しています。 これらの報道により、中国人の日本に対する理解が深まりました。多くの中国人は、東京では駐車場が難しく、駐車料金が高いことを知っていますが、東京には便利な公共交通機関、地下鉄、路面電車が四方八方にあり、日本の新幹線が特に便利で時間厳守であることも知っています。 また、日本人はとても礼儀正しく、公共の場で話したり電話で話したりしません。日本はどこもきれいで、路上にゴミがない、誰もが意識的にゴミを分別している、などです。 中国のメディアは、両国民の友情と理解を深める上で非常に重要な役割を果たしてきました。

中日両国のメディアの交流や協力は、特にテレビの分野で非常に緊密で、両国のメディアは長い間、互いに協力してきました。 CCTVは過去にNHKと緊密な連携を取り、影響力のあるテレビ番組を制作してきました。 何年も前に、彼らはテレビドキュメンタリー「シルクロード」を共同制作しました。 2005年、中国のCCTVと日本のNHKが共同で「新シルクロード」を制作しました。

現在、テレビドキュメンタリーシリーズ「世界遺産ウォーク」を共同制作し、さらなる協力関係を築いています。パンダの翔翔(シャンシャン)を紹介する番組「シャンシャン家に帰る」も共同制作しています。 この番組では、ジャイアントパンダの家族による日本での生活や、中国に帰国した翔翔の新たな生活について紹介しています。 2024年1月にCCTVとNHKで同時放送される予定です。日中記者交流も盛んに行われています。 中国メディアの記者の中には、日本のメディアで一定期間働き、研修を受ける人もいます。

③・メディア人材の育成に関しては、北京放送学院(現在は中国伝媒大学)が最も長い歴史と最強の強みを持っています。 1954年、北京に北京放送学院が設立され、当時中国で唯一のメディア専門学校となりました。

ラジオやテレビのタレントの需要が高まるにつれて、ラジオやテレビのタレントの育成に従事する学校の数も増加しています。 かつては北京放送学院がほぼ1つしかありませんでしたが、今は全く違います。 北京放送学院は伝媒大学に発展し、浙江省メディア大学、河北メディア大学、南京メディア大学など、メディア人材を育成する学校が十数校誕生しました。 中国で最も有名な北京大学と清華大学も、それぞれ2001年と2002年にジャーナリズムとコミュニケーションの学校を設立し、放送とホスティングの専攻を開設しました。

現在、中国伝媒大学には博士課程・修士課程5,000人以上を含む18,000人がおり、校舎規模は3倍に増えました。 84の学部専攻と多くの修士号と博士号があり、7つのポスドク研究ステーションがあります。 学校はジャーナリズムとコミュニケーション、情報通信工学を主な分野としており、音楽とダンス、美術、中国と中国の文学、外国の中国文学、電子科学技術、コンピューター科学技術、インターネット情報などの専攻もあります。 また、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、日本語など20の外国語教育も充実しています。

学生が海外で学ぶ機会も増えています。 現在、日本では中国伝媒大学の数十人の学生が学んでいます。 日本やヨーロッパやアメリカに行く人も結構います。伝媒大学のコースの多くは4年制の大学のコースであり、伝媒大学で2年間勉強し、2年間留学するか、中国で3年、海外で1年勉強する必要があります。 このようにして、国際的な人材を育成し、新しい技術を学び、外国語のスキルを向上させることができます。また、教員は、海外の教員と交流する機会が多く、客員研究員として日本、アメリカ、ヨーロッパに行くことも多く、海外の教員との交流を通じて、常に最新の国際水準に即した専門知識を持つことができます。 アメリカ、ヨーロッパ、日本の大学で修士号や博士号を取得した先生もいます。ジャーナリズム、映画、テレビ芸術、放送、広告などに興味のある学生が、中国伝媒大学を訪問し、伝媒大学に留学することを歓迎します。

 長野孔子学堂、年末交流会「迎新晩会」を開催(12/16

 長野ラジオ孔子学堂は1216日、ホテル信濃路において、40名が参加して、4年ぶりとなる年末交流会「迎新晩会」を開きました。「迎新晩会」とは、新年を迎える晩餐会といったところでしょうか。第1部体験発表、第2部交流懇親会が行われ、楽しく有意義な交流会となりました。

 はじめに、長野ラジオ孔子学堂を代表して、西堀正司理事長があいさつし、「コロナが明け、日中間の交流が再開された。激動の世界の中で、中国は存在感を増している。戦争にかかわっていない大国は、中国だけであることに留意したい。11月、日中会談が実現したが、関係改善を期待したい。明年は辰(龍)年、新しい時代の転換が予感される。孔子学堂で中国語を学んでいる皆さんの活躍を期待したい」と述べました。中国側責任者の夏丹老師は「2023年の皆さんの活躍に感謝し、新年のご多幸を祈ります。23年は、中国伝媒大学学生とのオンライン交流会開催、長野県日中友好協会訪中団の伝媒大学訪問、伝媒大学代表団の来県交流など意義ある交流ができた。明年は一層の発展を目指しましょう」とあいさつしました。

 続いて、『漢語橋』高校生日本大会中国語コンテストで入賞した片桐菜々美さんと長野県&河北省青少年交流訪中団に参加した松村まいかさん(短大生)がパワーポイントを使って体験発表しました。新鮮な感動が伝わってきました。続いて夏丹老師(伝媒大学教授)が「旅行は視野を広げる」と題してお話ししました。旅行と読書が大好きという夏老師は大学卒業後、エジプト留学を皮切りに、アメリカやヨーロッパ、南アフリカ、中東など世界各地22カ国を訪れた体験を紹介し、参加者は興味深くお聞きしました。

 第2部交流懇親会では孔子学堂文化講座の二胡教室で学ぶ皆さんによる二胡演奏発表が行われ、拍手が送られていました。ビンゴゲーム、中国語歌曲カラオケ有りとにぎやかで楽しい交流会となりました。

中国伝媒大学学長一行来県、交流を深める(12/1~3)

中国伝媒大学の張樹庭学長一行6名が長野ラジオ孔子学堂と長野県立大学の招きで12月1日から3日長野県を訪問しました。

一行は、滞在中、長野県立大学(金田一真澄学長)との学術協定調印式、長野ラジオ孔子学堂との交流理事会・歓迎会などに出席しました。長野県日中友好協会と伝媒大学は21年孔子学堂の共同運営をスタートさせて以来、コロナ禍の中でも関係を深めてきました。昨年、夏丹さん(教授)が長野に赴任し、県立大学の客員研究員兼孔子学堂の中国語講師などとして活躍しています。双方の語学を学ぶ学生同士のオンライン交流会なども行いました。本年夏には長野県日中友好協会代表団が伝媒大学を友好訪問し、熱烈歓迎を受けました。伝媒大学の代表団が長野県を訪問するのは今回が初めてでしたが、打ち解けた交流を通じて、相互の理解が一層深まったと好評でした。一行は滞在中、小布施町の北斎館、山ノ内町地獄谷のスノーモンキー、長野市の善光寺なども参観し、温泉も体験し、観光立県長野県への理解を深めていただきました。

12月1日の歓迎会には18名が出席し、夏の大学訪問時の思い出を語り合い親睦を深めました。席上、布施正幸副会長は、一行を歓迎した後、「日中平和友好条約締結45周年の記念すべき時に、張学長先生を団長とする伝媒大学の先生方をお迎えできたことは私たち一同の喜びとするところです。7月に長野県日中友好協会代表団が伝媒大学を訪問した際には、張学長先生に親しく熱烈歓迎をいただきました。伝媒大学がメディアと映画演劇方面の人材を養成する大変重要な役割を発揮されていることが理解できました。私たちはこのような素晴らしい伝媒大学と孔子学堂の協定を結ぶことができ大変光栄に思っております。締結以来、双方は交流を通じて相互信頼を深め双方の努力によって成果を上げてきました。特に、優秀な夏丹さんを派遣していただき感謝しております。また、双方の交流を進める過程で伝媒大学と長野県立大学が学術協定を締結されたことは私たちにとっても喜ばしいことです。長野県は、工業・農業・観光の各方面で日本でも高い評価を得ている県です。また日本で1,2位を誇る健康長寿の県であり、教育県としても知られています。双方の長所を生かして、今後とも力を合わせて日中友好のために、中国語の普及と向上、中国文化を知り知らせる活動に取り組んでいきたいと存じます」と述べました。

 
  第27期日中関係を考える連続市民講座スタート(11/25)  

第27期日中関係を考える連続市民講座が11月25日スタートしました。県内の大学や県日中友好協会などで作る県日中学術交流委員会主催で、毎月1回のペースで文化、歴史、経済関係などをテーマに明年4月まで計6回の講座が開かれます。

第1回は長野大学の塚瀬進教授が、「3つの大日向村―佐久穂・吉林舒蘭・軽井沢」と題して講演しました。満蒙開拓団を当時の国策に沿って日本一多く送出した長野県の先鞭をきって大日向村が分村開拓団を送り出した時代背景や村を取り巻く状況などを詳しく解説しました。---財政破たんした大日向村は分村開拓団を吉林に送り出したが、そこは現地の農民が耕作していた水田地帯だった。安く買い上げ入植地とし、順調な滑り出しだったが、日本の敗戦によって多くの犠牲を出しながら帰国した人たちに残された道は、寒冷地軽井沢の山間地での開墾だったーーー。受講者は熱心に聞き入っていました。

 県女性委員会バスツアー、中国大使館を表敬交流(11/17)

 県日中女性委員会は11月17日、秋の日中友好研修バスツアーを行いました。女性委員会メンバーら44名が参加して、中国大使館を訪問し、丁玥大使夫人や、聶佳参事官はじめ大使館の大勢の女性役職員の皆さんからあたたかい歓迎を受けました。

 この日、未明に長野県を出発したバスは小布施・長野・松本と高速道沿いに参加者を加えながら、東京を目指しました。車中では布施正幸県日中副会長から最近の日中関係についてのレクチャーに耳を傾け、大使館での交流に備えて「昴」(星)を日本語中国語で練習し、予定よりかなり遅れて大使館に到着しました。

 席上、丁大使夫人は、「今日11月17日はサンフランシスコで日中首脳会談が行われる記念すべき時に皆さんを迎えることができ熱烈に歓迎します。皆さんは長らく中日民間友好促進に携わってこられた。中日両国は悠久な東方文化を有し数千年来の交流の歴史を持っている。新時代の要求に見合った中日関係を築いていくためにともに努力しましょう」とあいさつされました。

 宮沢信代委員長は、「5月に丁大使夫人が来県された際、大使館訪問を約束し、再会でき、このように盛大な歓迎をいただき心から感謝します。“交流なくして友好なし。友好なくして平和なし”をモットーに、友好を進めてきた。今回の交流を契機に、さらに女性の特徴を生かして友好を促進していきたい」と述べました。

  記念品の交換の後、美味しい中華料理をいただきました。続いて、中国の一般民衆の生活を記録した映画を鑑賞し、熱心な意見交換を行い、最後に感謝の意味を込めて、バスの中で練習してきた「昴」と「ふるさと」を交互に手をつないで合唱し友好を深めました。玄関前にて全員で記念撮影し名残を惜しみながら長野での再会を約して大使館を後にしました。

 一行はその後、東京富士美術館を訪れ、「世界遺産大シルクロード展」を参観しました。帰路のバスの中では、自己紹介と感想発表が行われ初めて参加した方も「大変楽しく勉強になった1日でした」と感想を述べていました。

 第41回中国語スピーチコンテスト長野県大会(10/21)

 10月21日、長野県日中友好協会ラジオ孔子学堂の主催による第41回中国語スピーチコンテスト長野県大会が信濃教育会館講堂で開催され、高校生や大学生・一般社会人18人が出場しました。

朗読部門には高校生の部4人、大学生の部5人と一般の部6人が出場、それぞれ全国統一課題文を発表し発音や表現力、熟練度を競いました。

 スピーチ部門には大学生・一般の部に3人が出場し、自作文で内容や表現力を競いました。自身の体験を通した中国との交流等などのテーマを取り上げ、レベルの高い弁論発表となりました。

スピーチ部門で優勝したのは、根橋佑奈さん。「私から見た中国の価値観」をテーマに取り上げました。交流を通じて中国人の3つの価値観を知ることができたとし、①取り組み課題に優先順位をつける、②面子を大切にする、③家族や友達を大切にするなどをあげ、中国語学習を通じてさらに中国の文化を理解していきたいとスピーチし好評価を得ました。2位の小林美月さんは、日本国内の嫌中意識の蔓延などに疑問を持っていたが、河北大学の日本語を学んでいる学生と交流する中で、「中国人は悪い人」ではなく、仲良くなれた。帰国後、中国での体験を友達に話した。友好に努めていきたいなどと発表しました。


 審査委員長の夏丹さんは講評の中で、「中国語の発音は基本的に正確だった。さらに有気音と無気音のちがいに留意することが大切と思う。スピーチ部門は、自分の体験に基づく素晴らしい内容で感動した。身につけた中国語をどんどん使って中国の友人を作ってください」と、述べ激励しました。

 安芸洋一長野ラジオ孔子学堂長は冒頭の主催者あいさつで「コロナ禍により、学習時間の制約などがある中で、勇気をもってチャレンジされた出場者に感謝したい。中国語の学習を通じて相互理解を深め、日中友好の輪が広がることを期待しています」と述べました。

 西堀正司県日中友好協会副会長は小講演の中で「スピーチコンテストは41回を迎えた。この間中国語の普及向上に貢献してきた。今年は平和友好条約45周年にあたる。中国語は友好の架け橋。国レベルのギクシャクはあるが、中国語を学び、中国の魅力を発見し、中国理解を深め日中友好に貢献してほしい」とあいさつしました。

 入賞者は次のとおりです。
◇スピーチ部門 ①根橋佑奈 ②小林美月 ③太田俊岳

◇朗読部門 高校生の部 ①福田悠夏 ②内山実花 ③土屋陽向  (奨励賞)小林木ノ葉
◇朗読部門 大学生の部 ①檀ノ原美月 ②新海咲歩 ③北井裕子 (奨励賞)松村まいか (敢闘賞)佐藤悠太 
◇朗読部門 一般の部 ①宮沢一三 ②宮坂光子 ③森川敬子 (奨励賞)高橋祐子 (敢闘賞)深井克純・大嶋くに子

 入賞者には賞状と副賞が贈られました。成績優秀者は来年1月の全国大会に推薦されます。

 

河北省との友好40周年記念し長野県&河北省青少年交流訪中団派遣(10/1419

◇河北省人民対外友好協会の招きで27名が河北省・北京を訪問交流

 日中平和友好条約45周年と長野県河北省友好県省締結40周年を記念して長野県&河北省青少年交流訪中団一行は1014日から1019日まで、河北省保定市と石家庄市、北京などを訪れました。この団は、日中友好交流を促進するため、日中両政府が日本と中国の青少年を5年間でそれぞれ3万人を相手国から招聘する計画の一環で、日中の同世代の若者が直接交流し、お互いの文化や歴史、考え方を知り、お互いを理解し、絆を育むことを目的としたものです。大学生9名、高校生14名など27名で編成され、保定、石家庄では、大学や高校(中国では高級中学)を訪問交流し、また名所旧跡なども参観して、友好と親善を深めることができました。長野県日中友好協会から布施正幸副会長、中澤保範事務局長、長野県国際交流課からは松本暁鳳通訳らが同行しました。

◇保定・石家庄・北京 友好の6日間

 1014早朝、羽田空港で勢ぞろいした一行は、CZ648便に搭乗して、北京大興国際空港へ。大興空港は2019年に開港された新設の空港で規模設備ともNO1と言われ、北京の西南に位置し、保定、天津などとの連絡の上でも地の利を得ています。河北省友好協会の杜海滄秘書処長、董彤さん、石家庄市友好協会の薛洋さん、旅行社の張鉄民さんらに出迎えていただき、さっそく大型バスで保定市に向かいました。高速道路を走り2時間余りで保定華中ホリデイインホテルに到着しました。李行行保定市外事弁公室副主任、張瑜保定市共青団幹部、夏文傑保定市第1中学党書記、張明輝河北大学国際合作処総合科長、呉丹通訳らが出迎えてくれました。歓迎宴を催してくれ、李副主任は一行を心より歓迎しますと述べ、保定市が北京の南の大門で歴史の街であるとともに、河北大学や保定第1中学など優秀な人材を育成していること等を紹介していただきました。布施団長は、保定市易県での6年間の緑化協力事業や河北大学と県立大学との協力協定締結などに触れ、この度の青少年交流を通じて相互理解が深まることを願っていますと述べ、あたたかい歓迎に感謝しました。打ち解けた雰囲気の中で、青少年の教育や活躍について意見交換をしました。

1015日は午前中、直隷総督署と古蓮花池を参観しました。河北省(冀州)は、清朝では、直隷省と呼ばれその省都であった保定は北京を守る極めて重要な役割を果たしていました。直隷総督は行政と軍事の権限を持ち、李鴻章や曽国藩などの実力者が任に着いたと説明を受けました。300年ほどの歴史を持つ総督署の建物は3万平方メートルと規模が大きく立派に保存されていて、人物模型も配置され、往時の役所と奥の生活ぶりがうかがえるようになっていました。古蓮花池は中国10大名園の一つに数えられていて、その面積は35000平方メートル、800年ほどの歴史を有しています。蓮池を囲むように、亭、台、楼、閣など北方と南方の様式を取り入れた優美な建物群が立ち並び、蓮池と槐の古木、柳、数多くの石碑があり、「蓮池書院法帖」は有名です。一行はここで孔子の教えを実践している老師の指導で古代の服をまとって帽子をかぶり、孔子さまの弟子のいでたちで、礼楽の講義を受けることとなりました。壎(ケン:土笛)そして鼓、編鐘拍板、簫(ショウ)、磬(ケイ)、筝(ソウ)、笙(ショウ)。壎(ケン)は土笛に形も音もよく似ていて懐かしい音色でした。

次に河北大学五四路キャンパスに向かいました。大学の責任者に案内され河北大学の歩みの展示館を参観。1921年に天津工商大学として設立され以後幾多の変遷を経て、河北大学となったとのこと。中国教育部と河北省政府が共同で関与していて、28000人の学部生と11000人の大学院生が在籍し、学んでいる重点大学だそうです。哲学、経済学、法学、教育学、文学、歴史学、理学、工学、農学、医学、管理学、芸術学の12の主要な分野をカバーしていて85の学部、17の博士学科、47の修士学科、33の専門修士学科などがあるといいます。参観、昼食後、大学生グループと高校生グループに分かれて行動しました。大学生は、河北大学七一路キャンパスへ、高校生は、保定第1中学へ向かいました。

河北大学七一路キャンパスには、河北大学外国語学院があって、そこで、日本語を学んでいる学生と交流しました。ロの字型に並べた机に座って、中国学生男女の司会者の手際よいリードで日本語での自己紹介の後、しりとりゲーム、カードゲームなどをおこない、最後打ち解けたところで、お互いに聞きたいことを質問し合いました。気が付いてみると2時間近い時間が過ぎていました。校舎の前で一緒にカメラに納まり別れを告げました。

保定第1中学を訪問した皆さんは大勢の生徒さんたちの出迎えを受けびっくり、サッカー交流試合なども行って大いにもりあがったとの感想が聞かれました。中国では中学というと初級中学=中学と高級中学=高校が含まれています。第1中学は北京大学や清華大学などへの合格者も多い名門校で「状元の郷」の名声を獲得しているとともに、生徒の適性に応じて教育し、興味を育み、能力を向上させることにも力を入れ、能動的な探求を目指すことを校風としているとのことです。

2つのグループは保定市民衆芸術館で合流して、市民のサークル活動発表、演劇や踊り、楽器演奏を鑑賞しました。チャルメラ演奏、保定鉄球バランス芸、保定老調(保定の地方劇)、伝統武術、古琴演奏、1人2役「悟空が猪八戒をからかう」、壎(ケン土笛)の演奏、舞踏「長信宮灯」など多様な演目で、レベルの高い芸が披露されました。終演後、団員全員舞台に上がって、市民俳優の皆さんと記念撮影しました。

1016日はバスで正定県に向かいました。城壁に囲まれた正定県は、石家庄が石太線(石家庄から山西省の太原へ通ずる鉄道)の開通に伴い急速な発展を遂げるまでは、この地域の中心でした。また、正定県はかつて若かりし頃の習近平主席が党書記として赴任していたところで、現在発展著しく、全国の注目を集めているところです。まず、太平河都市エリア計画展示センターを見学しました。意欲的な発展計画を巨大な映像で紹介しており、印象的でした。続いてモデル農村の塔元莊村を訪問しました。初めに体験交流館で中国の伝統的万頭づくりを地元の高校生と4人一組で体験しました。パンダや薔薇思い思いのデザインで作った3色の万頭は、蒸かして後ほど届けられおいしくいただきました。村内は農村から都市への移行過程にあるように見受けられました。年間60万人の視察団が訪れるとのこと。昼食を河北賓館別館でおいしくいただき、名所旧跡を参観しました。南城門に上ると4つの塔が見えました。城壁が修復され、歴史ある正定県のイメージが浮かび上がってきました。続いて臨済寺と隆興寺を参観しました。臨済寺は禅宗の臨済宗の本山で、日本からの代表団も訪れるとのことです。隆興寺は1400年余りの歴史を持つ河北省が誇る寺院です。お坊さんはおらず文物管理局が管理しています。極楽浄土を描いた壁画や、北向き観音像、21メートルの巨大な銅製の千手観音像など国宝級文物があまた保管されています。宋の初代皇帝の趙匡胤が寄進した千手観音像の迫力は圧倒的です。文豪魯迅が最も美しいといった北向き観音像のほほえみは印象的でした。余韻を残しながら、石家庄ハイテク経済開発区の以嶺薬業康城を参観しました。「以嶺」はこの巨大製薬企業グループを設立し率いたリーダーの名前で、康城は健康都市といったところでしょうか。漢方の絡病理論をベースにしながら現代漢方薬、科学医薬品、健康産業を3本柱として、15000人の従業員を有する著名な企業で、新型コロナ感染予防、抑制にも貢献しているとのことでした。

視察を終えて、河北中国大酒店へ到着しました。このホテルは河北会堂や迎賓楼を併設している省政府と関係の深い施設と聞きました。河北省人民対外友好協会の呂暁梅執行副会長主催の歓迎晩餐会が行われました。落ち着いた雰囲気でフォーマルな晩餐会、料理も最高でした。呂副会長は歓迎あいさつの中で、青年の船の交流の一環で長野県を訪問しホームステイをした思い出を語り、友好の思いにあふれていました。布施団長も、河北省友好協会のご招待に感謝し、大学生、高校生同士の交流を通じて新たな50年若い世代が友好の担い手となり、末永い友好協力が続いていくことを心より願っていますと感謝の意を表しました。また、7月の河北省の大水害の第2次の義援金50万円が長野県日中友好協会より河北省友好協会に贈られました。これは夏の知事訪中団参加者や日中友好協会の皆様からの義援金です。なお第1次分義援金の感謝状が河北省友好協会より長野県日中友好協会に贈られました。引き続いての記念品の交換に続いて、なごやかな交流が進みました。佳境に入って、訪中団から感謝の思いを込めて「栄光の架け橋」と県歌「信濃の国」を歌いました。中国側と大人グループは「北国の春」を日本語と中国語で披露しました。楽しい友好のひと時の締めを中澤保範事務局長が行い、握手をしながらお暇しました。


 10
17日は、石家庄市での学校訪問と高校生はホームステイ体験の日です。2台のバスに分乗して、河北博物院に向かいました。博物院では、中山国と満城漢墓の出土文物の展示が行われていました。中山国は戦国時代、石家庄近くに存在した異民族の国で、その墓から出土した文物は造形美にあふれた優れて貴重な国家級宝物です。「鹿を食う虎」の像などはすごいの一言です。中山国の象徴山形飾りは長野市にもレプリカが贈られています。満城漢墓は保定郊外の満城県の漢代の墓で、そこから出土した金縷玉衣(きんるぎょくい)は王の遺体を覆っていたもので超一級文物に他ならないでしょう。銀縷玉衣(ぎんるぎょくい)も見事でした。

一行は2つのグループに分かれて、高校生は、石家庄外国語学校を訪問し、大学生は河北師範大学を訪問しました。

石家庄外国語学校では、裴校長らの歓迎を受けました。小、中、高のクラスのほか幼稚園クラスがあり、1万人以上が在籍する有名校です。園児から英語を学び、中学生になると第二外国語として日、ロ、独、仏、スペイン語等を学ぶ仕組みになっています。また22か国、203校と友好関係を結んでいるそうです。日本語を学んでいる高校生の皆さんが通訳しながら校内を案内してくれました。この皆さんはホームステイ受け入れ先の生徒で、だんだん交流を深められるようになっていました。100m競争、書道、日本語授業、昼食そして英語のテストなど珍しい体験もしました。夕方各家庭の親御さんが車で迎えに来てくれました。(翌朝の皆さんの顔は輝いていました。楽しい思い出を紡いだことでしょう。)

 河北師範大学を訪問した大学生グループもあたたかい歓迎を受け交流しました。大学は120年以上の歴史があり、現在、教職員2600人余り、学部生25000人余、大学院生6000人余、成人教育の学生11000人余という巨大な総合大学です。傘下に外国語学院を有し、対外交流も盛んです。書道体験教室では「福」の字を書いて記念にいただいてきました。一行はその後、趙州橋と柏林禅寺を参観しました。趙州橋は隋代に建てられた世界最古のアーチ形の石橋で、芸術的価値も高いといわれています。柏林禅寺は1800年ほど前に建てられた歴史の長い寺で、160人余の僧侶がおり、内部に河北省仏教学院と河北禅楽研究所が設けられています。

  1018日は、早朝、ホームステイした高校生と合流して、北京に向かいました。たくさんの交流の思い出を残してくれた河北省ともお別れです。霧のため高速道路が一時閉鎖された影響で、万里の長城八達嶺に着いたのは午後2時を回っていました。八達嶺ヒルトンホテルで昼食を済ませた後、さっそく万里の長城へ。憧れの万里の長城の雄大な姿に、若者は途中何度も写真を撮りながら、勇んで急ぎ足で登っていきました。万里の長城は大勢の観光客でにぎわっていました。また緑化に徹底的に力を入れた結果、上り口周辺は緑が増え印象が変わってきました。表土が少ない岩山の緑化はさぞ困難があっただろうと思いながら、しかし変わらぬ延々と連なる長城をながめ、その悠久な歴史を回想しました。春秋戦国時代、始皇帝の天下統一、漢武帝の匈奴との対峙、長城は明の3代永楽帝の時に煉瓦や石つくりの頑丈なものに作り替えられたといいます。東の山海関から西の嘉峪関まで延々6千キロ(中国の里で1万2千里)想像を絶する人力を投入して巨大建造物が出来上がり、現在に至っているのです。中国の底力を感じました。

 北京市内に移動し、有名な「東来順」で羊のしゃぶしゃぶ料理をいただきました。中国最後の晩餐には全日程同行案内いただいた、董彤さんや張鉄民さん薛洋さんも同席して大いに交流しました。

  1019日は、早くも、帰国日です。午前中、天安門広場と故宮博物院を参観しました。明代清代の皇帝の居城は金色の瑠璃瓦と朱塗りの門のコントラストよろしく目に飛び込んできました。天安門広場には先日の国慶節の記念の花かごの飾り物が添えられていて、絶好の記念撮影スポットになっていました。観光客の溢れる中、迷子にならないよう心して張さんの説明を聞きながら進んで行きました。故宮博物院の太和殿をバックに全員で記念撮影しました。映画「ラストエンペラー」はここで撮影されたのだと思い起こしながら、人波の中を進みました。

 最後の昼食はおいしい北京ダック料理でした。団員のOさんの誕生日祝いのケーキが出され、皆で「ハッピーバースディ」を歌ってお祝いしました。董さんのご配慮に感謝しながらおすそ分けをいただきました。

 時間が押してきている中、一行は、北京大興国際空港に向かいました。6日間の友好の旅はまもなく終わろうとしています。バスの中でお別れのあいさつを交わし、長野での再会を約束しました。15:15CZ647便は予定通り北京を飛び立ち羽田に向かいました。

 中国河北省洪水被害に対する緊急支援募金を呼びかけ、義捐金65万円を贈る(8/4・10/17)

長野県日中友好協会は、7月下旬の中国河北省洪水被害に対し、緊急支援募金の呼びかけを行い、計65万円の義捐金を河北省人民対外友好協会を通じて、河北省に贈りました。15万円は8月4日、長野県日中友好協会訪中団一行として、50万円は下記呼びかけに応じて集約された分(県日中友好訪中団メンバー及び各地区日中友好協会からの募金)です。10月の長野県&河北省青少年交流訪中団が持参して河北省人民対外友好協会を通じて河北省に贈りました。河北省側からは、鄭重な感謝状が届いています。ご協力に感謝申し上げます。

<中国河北省洪水被害に対する緊急支援募金のお願い>

台風5号は中国北部に豪雨をもたらし友好関係を結んでいる河北省や北京市に50年に1度と言われる大規模な洪水被害をもたらしました。

河北省では7月下旬から豪雨による洪水被害で8月10日までに29人が死亡し、16人が行方不明になっており、約388万人が被災し、4万軒以上の家屋が倒壊し、交通、電力、水道などのインフラ設備に深刻な被害が出ていると伝えられています。【北京共同】

復旧には多額の費用と時間を要すると見られます。

2019年の台風19号の長野県の豪雨被害に際しては、中国河北省の友人から義援金と励ましの言葉をいただきました。長野県日中友好協会では河北省の甚大な被害に対し下記により緊急支援募金に取り組んでいきたいと存じます。皆様のご理解、ご協力を切にお願い申し上げます。

 2023年8月  長野県日中友好協会 会長 高波 謙二

 木曽で強制連行中国殉難烈士の慰霊祭、平和を誓う(10/13)

 太平洋戦争末期に中国から木曽谷に強制連行され、過酷な発電所建設工事で亡くなった中国人182人の慰霊祭が10月13日、木曽町三岳の大島橋脇にある「中国人慰霊碑」の前で行われました。

 中国大使館の郭暁涵参事官はじめ県知事(県木曽地域振興局副局長)、関西電力㈱木曽水力センター所長、木曽郡町村会会長、木曽町町長、木曽郡内の町村や塩尻市の代表、木曽町三岳の皆さん、日中友好協会会員など50余人が出席しました。

 慰霊祭は日中平和友好条約45周年と長野県と河北省との友好県省締結40周年を記念して開催されました。主催者を代表して、県日中友好協会の西堀正司副会長があいさつし「慰霊碑の前で、殉難者の皆様に思いを馳せ、日中不再戦、平和友好のためにともに力を尽くしていくことをお誓いしたい」とのべました。追悼のあいさつに立った郭参事官は「節目の年に戦争の痛ましい教訓を深くくみとり、これまでの両国関係発展・成果を大切に、新時代に相応しい両国関係の構築に努力していきたい」と述べました。県知事の追悼の言葉に続いて木曽仏教会会長の西澤義正池口寺住職や地元の小島宗徳大泉寺住職らによる慰霊法要が行われ、参列者が一人一人菊の花を祭壇に手向け冥福を祈り平和を誓いました。

 第2部の慰霊斉事は三岳交流促進センターに場所を移して行われました。席上、慰霊碑維持管理委員長の原久仁男木曽町長があいさつし、「日中友好平和を願って強制連行殉難中国人慰霊碑を地元として守ってきた。慰霊祭を機に両国の友好が末永く続いていくことを願っている」と述べました。また貴舟豊木曽郡町村会会長(大桑村村長)は来賓として、「戦争体験者が4.3%となり、戦争の悲惨さを知る人がわずかとなっているが、日中不再戦の思いを若い世代に引き継いでいきたい」とあいさつしました。

続いて布施正幸県日中副会長より慰霊碑建立40周年にあたっての経過報告が行われました。「40年前、当時の羽生田源三県日中会長と原山茂夫氏(勤労動員された旧制長野中学同窓会の代表)とともに往復7時間余りの道のりを4度にわたり車を走らせ、三岳の地を訪問し慰霊碑の建立について熱心に話し合ったことが熱く思い起こされる。当時の和形三岳村村長さんはじめ県や木曽郡下の町村、関電や関係企業、石工組合など多くの皆さんのご協力のもと860万円余りの寄付が集まり半年余りで大変立派な慰霊碑が完成した。配布されている資料『霊川の流れは永遠に』に強制連行殉難と慰霊事業の取り組みの経緯が詳細に記されているので参考にしていただきたい。(概略下記参照)」と述べました。また大月良則県日中理事長から慰霊碑周辺の清掃管理を長年にわたり行い守ってき三岳シニアクラブ(横沢淳一会長)に感謝状が贈られました。 塚原道廣王滝村村長の音頭で献杯し、往時を忍び日中の平和の大切さを思いながら懇談交流しました。
 
 慰霊祭に出席した、長野ラジオ孔子学堂責任者の夏丹さんは、「慰霊碑が地域の皆さんに温かく守られ平和の願いを発信していることに感動しました」と語っていました。

(資料)「慰霊碑建立40周年にあたって木曽谷中国人俘虜殉難烈士慰霊事業の歴史を振り返える 」(経過報告)

戦後78年を経過し、日中戦争の悲惨さを身をもって体験した人々が高齢化し、あるいは他界されるなかで、あの侵略戦争の反省を風化させることなく再び戦争の災禍を繰り返さない決意を語りついで行くことの重要性を感じています。

長野県は戦中、国策に沿って全国1の3万3千人の満州開拓団を送り出し、敗戦時その半数の1万5千人が悲惨な最期を遂げた歴史があります。それと共に、中国との間で忘れてはならない不幸な過去がありました。戦争末期労働力が不足する中で日本政府は1942年11月「華人労務者内地移入」を閣議決定し、44年2月には次官会議で「華人労務者内地移入促進に関する件」を決定しました。中国の河北省、山東省、山西省などから、住民・軍事捕虜を連行し、日本国内の水力発電所建設や炭鉱など135事業所に3万8千人余りを配置し、劣悪な環境の中で酷使し、うち6,800名余が亡くなりました。

ここ木曽谷においても御岳発電所、上松発電所建設工事が進められ、そこに河北省出身者をはじめ中国人俘虜1,251人が強制連行されうち182人が激しい労働と粗末な食料、病気、事故により、無念の死を遂げました。

戦後1953年2月、日本赤十字社、日中友好協会、日本平和連絡会など民間14団体によって「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」が発足しました。ここ長野県においても同年8月には日中友好協会、仏教会、華僑総会などにより県実行委員会(半田孝海委員長)が設立されました。10月には現地調査が行われ三岳村共同墓地土葬の2柱、藪塚の36柱など60柱・霊砂が確認されたこと、10月の第3次送還船には鹿島御岳の遺骨36柱が藪塚49柱と共に送還されたことなどが報告されています。

1963年12月には、日中友好協会と県実行委員会の手で「長野県における中国人俘虜殉難の事情と慰霊実行の中間報告書」が発刊されています。1964年4月には、天竜平岡に関係者の手で殉難中国人慰霊碑が建立されました。(平岡ダム建設には、884人の中国人俘虜が連行されうち62人が死亡。)

木曽谷の御岳、上松の殉難者の慰霊は、木曽仏教会の手で毎年行われてきましたが、1967年には上松の臨川寺に慰霊観音像が建立されました。1972年9月、日中国交正常化実現に際し、日中友好協会木曽地区本部(現木曽楢川日中)の手で三岳村大島に殉難中国人の供養柱が建てられ慰霊祭が行われました。しかしながら、慰霊碑の建立については果たせず、関係者の間でも懸案とされていた折、戦中、勤労動員で発電所工事に従事した旧制長野中学の同窓生有志の積極的な提起がきっかけとなって、慰霊碑建設に向けて動き出しました。1983年4月に発起人会がもたれ、5月に慰霊碑建立実行委員会が設立され、広く募金活動がとりくまれました。日中平和友好条約締結5周年にあたり、しかも中国人殉難者の大多数の出身地である河北省と長野県が友好県省として結ばれるときに、長野県はじめ木曽の関係町村、日中友好協会、仏教会、戦中勤労動員された旧制中等学校同窓生ら関係者の手で多くの県民の協力を得て木曽谷殉難中国烈士慰霊碑が建立されました。

この年、11月8日には吉村午良知事はじめ関係者、中国大使館からは文遅公使が列席され慰霊碑の序幕と慰霊祭が厳かに挙行されました。碑の題字は中国仏教会会長の趙樸初先生に揮毫いただきました。慰霊碑を後世まで守り語り継いで行くために中国人慰霊碑維持管理委員会が設置されました。1993年の建立10周年には、殉難者の墓碑と案内板が設置されました。また1984年11月には河北省友好協会代表団の甄三禄会長もこの地を訪れ、記念植樹されました。1988年以降は5年ごとに慰霊祭を実施してきました。

日中関係は、コロナ禍の3年間の人的往来の中断がようやく解除され交流が再開されています。河北省との友好締結40周年にあたり、8月には阿部知事一行60名が河北省訪問交流の継続と発展を約束しました。日中友好都市中学生卓球交流大会も開催されております。私たちは、激動する国際情勢の中にあっても、歴史の教訓を胸に刻み、不都合な史実に目をつむることなく、アジアと世界と向き合っていかなければなりません。その中から、相互の信頼と友情が育まれていくことと確信しています。今後とも、河北省をはじめとした中国との平和と友好に努めていくことを亡くなられた諸霊に誓い報告とさせていただきます。  (2023年10月13日 長野県日中友好協会 布施) 

 高波謙二会長の逝去を悼む(10/6)

 高波謙二・県日中友好協会第6代会長が10月3日逝去されました。突然のあまりに早い旅立ちに、ご家族・関係者は深い悲しみを禁じ得ませんでした。享年80歳でした。

10月5日通夜、6日、葬儀・告別式が長野市ハクゼンホール安茂里会館で行われ、阿部守一知事、国会議員、経済人、日中友好協会はじめとした関係団体などから400人が参列し別れを惜しみました。

 加藤久雄前長野市長が友人代表として弔辞を読みました。阿部知事、呉江浩中国大使、河北省人民対外友好協会からの弔電が披露され、日中友好に尽力した故人を偲びました。全国本部丹羽会長、呉中国大使からも生花が寄せられました。

先生は、1992年から長野県日中友好協会の副会長、2015年から会長(公社日中友好協会全国本部副会長・名誉副会長も)を務められ、熱心に日中友好運動にご尽力ご指導いただきました。県と連携して信州青年洋上セミナー事業を推進、6000名の青年を河北省などに派遣し交流を深められたことは特筆に値します。官民提携して地方民間交流を進めること、友好の後継世代を育成することにも力を注がれました。日中緑化協力や日中スキー交流、日中学術交流、長野ラジオ孔子学堂運営にも深く関心を寄せリードしていただきました。

また、先生は経済界・メディア分野などで活躍され、県青年会議所理事長、県交通安全協会会長、長野朝日放送役員などを務められるなど幅広い分野で社会貢献をされてこられました。長野県政にとっても無くてはならない方でした。

広い視野に立って組織をリードしていく誠実なお人柄は多くの関係者に忘れがたい印象を残されました。この度の訃報は本当に残念でなりません。生前の日中友好へのご貢献に心より感謝し、慎んでご冥福をお祈りいたします。(合掌)

<河北省人民対外友好協会からの弔電>

長野県日中友好協会様

高波謙二会長が不幸にも逝去されたとの悲しい知らせをお聞きし、河北省人民対外友好協会の全員は深く悲しみにくれています。謹んで高波会長のご逝去に対し深甚なる哀悼の意を表しますとともに、ご家族の皆様に謹んでお悔やみ申し上げます。

 高波会長は中国人民の古くからの友人であり、数多く訪中され、積極的に中日友好交流事業の不断の発展に努められました。同時に高波会長はより以上に河北省人民の古くからの友人であり、河北省の経済社会発展に強い関心を持ち支持してくれました。2018年、河北省と長野県友好締結35周年に際し、当時の許勤河北省長が団を率いて長野を訪問した際、深夜にもかかわらず高波会長は大勢の友好人士を率いて、駅に出迎えてくれました。一行は感動し、両県省の深い友誼を真に理解することができました。高波会長の有力な指導と率先しての行動により、河北省友好協会と長野県日中友好協会の連携は更に緊密となり、交流協力は更に実務的となり、両省県の民間交流は一層発展し、多くの成果を上げています。

高波会長は、私たちの学ぶべき先達であり、目標です。私たちはまさに貴会と道を同じくし、中日友好精神を受け継ぎ発揚させ、中日友好と両省県の友好交流を推し進めるために不断の努力をして参ります。

謹んで、此の書簡をもって、沈痛な哀悼の思いを託し、高波会長のご冥福をお祈り申し上げます。

河北省人民対外友好協会(2023年10月4日) 

  天竜村平岡にて在日中国人殉難烈士慰霊法要(9/30)

太平洋戦争末期、中国から多くの若者を日本に強制連行し、水力発電所工事などの労働を強制した歴史の中で、長野県天龍村には、主に中国河北省から800余名が連行され、飢えや病気、事故などにより62名もの尊い生命が失われました。1964年には、天龍村平岡のダム湖前に「在日殉難中国烈士永垂不朽」の慰霊碑を建立し、ほぼ5年ごとに慰霊法要を行ってきました。今年は日中平和友好条約締結から45周年、長野県と中国河北省との友好県省から40周年にあたり、「伊那谷実行委員会」主催による慰霊法要実施の運びとなりました。

 9月30日天龍村平岡の慰霊碑前に於いて、中国大使館より聶佳参事官のご参列を賜り、管内市町村の首長、議長をはじめ日中友好団体や労働団体の代表ら約100名が参加し、今回で第15回目となる式典がしめやかに執り行われました。初めに、慰霊碑に向かい参列者全員で「黙祷」を捧げ、続いて中国大使館の轟佳参事官をはじめ、各界の代表による「追悼の言葉」があり、最後に地元の自慶院住職の読経の中、全員が焼香を行い日中不再戦、平和友好を誓ました。また今回は、次代を担う地元天龍中学校の生徒による献花も行われました。 (飯田日中友好協会 事務局長 池田真理子)

 36回日中友好太極拳フェスティバル開催(9/24)
 県武術太極拳連盟は、9月24日、第36回県日中友好太極拳フェスティバルを長野市若里のビックハットで開催しました。県下各地から26団体、700人が参加し、日頃の練習の成果を発表しました。

桜井啓司理事長がコロナ禍の平穏化に伴い昨年に比べ参加団体出場者とも増加したことを報告し、武術太極拳にとって「気」を意識することの重要性を強調、全員で実践した後、「今後とも、心を合わせ、研鑽をつんで普及と向上に努めていきたい。日頃の練習の成果を発揮して有意義なフェスティバルにしましょう」とあいさつしました。

 来賓として県日中友好協会の布施正幸副会長、長野ラジオ孔子学堂中国側責任者の夏丹女士が出席しました。

 布施副会長はフェスティバルの開催を祝った後、「太極拳はウイズコロナの時代にあって免疫力アップに役立つスポーツであり、長野県の健康長寿に貢献している。また日中平和友好条約45周年、長野県と河北省の友好40周年にあたり、日中間の交流が再開され、8月には阿部知事一行60名が訪中し、対面で意義深い交流ができた。また日中友好都市から中学生卓球選手団を招き卓球交流大会を開催し青少年スポーツ交流の成果を上げた。中国を源流とする武術太極拳を通じて隣国中国との相互理解と平和友好に貢献している皆さんとともに手を携えて友好を進めていきたい。フェスティバルの成功を祈ります」と述べました。

グループごとにそろいの衣装を着た参加者が、音楽に合わせて技を披露しました。24式太極拳をはじめ、剣や扇子、柔力球を使っての演武、中にはサザエさん一家や白雪姫に扮しての表演等、様々な工夫がここらされていて、会場から大きな拍手が送られていました。

また、特別表演として、ジュニア合同演武(小学生6名:初級長拳や初級棍術)、第40回全日本選手権大会県代表選手の演武、「心を一つに24式太極拳」の集団演武や「華麗に演武32式太極剣」も披露されました。

 長野で2023日中友好都市中学生卓球大会、河北省などから選手団招き卓球交流 (8/17~20)

 日中平和友好条約45周年、長野県河北省友好県省40周年を記念して、2023長野県日中友好都市中学生卓球交流大会が8月20日に、長野市南長野運動公園体育館でおこなわれました。 日中の友好都市が合同チームを結成し、他の日中友好都市チームと卓球の団体戦を行うという方式で、5年に一度北京市で開催されてきた 「日中友好都市中学生卓球交歓大会」の長野県版です。

チームは、日中双方の都市の中学生の選手と役員によって構成。選手は中国選手男女各1名、日本選手男女各1名の4名で、他の友好都市チームと対戦する団体戦です。長野県・河北省チームA、同B、長野市・石家荘市チーム、松本市・廊坊市チーム、上田市・寧波市チーム、飯山市・深圳市福田区チームの5友好都市から6チームが参加しました。

8月19日には、各地から6チームのメンバーが長野市の犀北館ホテルに集合しました。監督会議で、試合の組み合わせ抽選会が行われ、その後開会式が行われました。武井冨美男県卓球連盟副会長は、「卓球王国中国から選手団を迎えて、中学生卓球交流大会が開催できることに感謝したい。日ごろの練習成果と友好都市同士の合同の力を発揮して「友好第一試合第二」の精神で頑張ってもらいたい」と激励しました。沼津由憲県スポーツ課課長が歓迎のあいさつを述べ、選手の皆さんの活躍に期待しました。中国側選手団を代表して劉昆河北省選手団団長は、「長野県との友好40周年にあたり、長野県を訪問でき光栄。卓球を通じて青少年の友好交流を深めたい。互いに学び向上したい」と述べました。

続いて、70余名が出席して歓迎祝賀会が行われました。西堀正司県日中友好協会副会長は「河北省との友好40周年、日中平和友好条約45周年にあたり、河北省はじめ中国各友好都市から卓球選手団を迎えて、日中関係を開いた卓球交流大会を開催できることは素晴らしいこと。青少年の友好交流を通じて、相互理解を深めていただきたい。選手の皆さんの活躍を願う」とあいさつしました。稲玉稔県国際交流課長が、河北省との友好40周年にあたり、阿部知事が先ごろ北京河北省を友好訪問し、交流を深めてきたことを紹介し、中国選手団一行を熱烈に歓迎し活躍に期待しました。

歓迎会の雰囲気は大変和やかで、各チームの選手はすっかり打ち解けた様子でした。

 8月20日試合当日早朝から、南長野運動公園体育館では県卓球連盟から委任された長野市卓球協会のメンバーが会場設定にあったていました。8:30には各選手団も勢ぞろいし、いよいよ本番スタートです。3コートに2台ずつ卓球台が並べられ、対戦チームごとに陣取って練習が始まります。2階の観覧席には、家族友人、卓球協会、日中友好協会関係者らも応援に駆け付けました。

小原秀元県卓球連盟理事長によると、団体戦の個々の試合は、中国選手と日本選手が対戦する4シングルスと、日中の男女で構成される混合ダブルスの5試合が行われました。ダブルスの試合をするにあたり、ローテーションを決めたり、サービスのサインを決めたり、打つコースを決めたりなど、数多くのコミュニケーションが必要となってきます。

言葉は通じなくても、卓球のルールは両国とも共通です。身振り手振りで、コミュニケ―ションを取って熱心な試合が展開されました。午前中9時から午後4時20分まで昼食をはさんで、予定の時間を大幅に超過しての熱戦が繰り広げられました。松本市・廊坊市チームが長野県・河北省チームA,同Bが4勝1敗で並ぶという接戦でした。最終的に松本市・廊坊市チームが競り勝ち優勝杯を手にしました。優秀な選手団を派遣してくれた廊坊市、河北省はじめ中国側に感謝したいと思います。

 また、この試合に先立ち、中国の選手は、長野県内の長野・松本・上田・飯山の各友好都市を訪問し、地元の中学生と交流試合など行い、友好都市間の友好を深めました。この大会を通して、さらに日中友好の輪が広がっていくことを大いに期待しています。

 河北省との友好40周年記念し知事を団長に県日中友好訪中団派遣(7/31~8/4)

 ◇北京市と河北省を訪問、友好協力継続を確認

 
 日中平和友好条約45周年と長野県河北省友好県省締結40周年を記念して阿部守一知事を団長に西堀正司県日中友好協会副会長を副団長とする長野県日中友好訪中団一行60名は7月31日から8月4日まで、北京市と河北省石家庄市などを訪れました。台風5号の影響による洪水被害が広がる中でしたが、中国側の適切な対応により友好と親善を深めることができました。

北京市では、北京市長や中国スキー協会、中国人民対外友好協会、中日友好協会を表敬し、懇談しました。またウインタースポーツ愛好者を対象に観光プロモーションを行いました。中国人民対外友好協会、中日友好協会主催の歓迎宴では、林松添会長、程永華常務副会長から親しく歓迎を受けました。また協会団メンバーは長野ラジオ孔子学堂の協定先中国伝媒大学を訪問し熱烈歓迎されました。

河北省では、王正譜省長との会談は豪雨災害の対応のため電話会談となりましたが、両者は、友好提携40周年にあたり青少年を中心とした冬季スポーツの交流促進などで一致。対面で会談した金喗副省長からは、製造業や農業、ハイテク技術の交流・連携が呼び掛けられました。40周年祝賀歓迎宴に先立って交流座談会が行われ両県省のPRビデオや両県省代表のあいさつに引き続いて、友好協会、経済界や大学、行政、スキー分野の代表からの今後の交流推進の提案などがなされ有意義なものとなりました。歓迎宴も心のこもった温かい雰囲気の中で行われました。

 今回の訪中団には、阿部知事と佐々木祥二県会議長、知事部局(清水裕之県企画振興部長、田中達也県産業労働部長他)はじめ、丸山俊郎白馬村村長、平澤岳山ノ内町町長、碓井稔県経営者協会会長、金田一真澄長野県立大学学長、米倉真一信州大学副学長、藍葉弘之県スキー連盟副会長、県日中友好協会からは、西堀副会長ほか布施正幸・金子繁三・足立正則の各副会長、大月良則理事長ら役員会員らが参加しました。

◇ちょっと詳しく5日間友好の旅◇

 長野県日中友好協会グループは20名で編成され、4年ぶりの対面交流の喜びを胸に訪中し、友好親善に努めるとともに、コロナ禍明けの中国の今を直に体験することができました。

7月31日早朝、羽田空港で勢ぞろいした一行は、CZ648便に搭乗して、北京大興国際空港に向かいました。旅行社の趙強さんや中国伝媒大学の夏丹さんに出迎えられ、さっそく中国伝媒大学に案内されました。降り続く雨にもかかわらず、張樹庭学長や焦彧童北京市人民対外友好協会副会長らがあたたかく歓迎してくれました。張学長は、一行を熱烈に歓迎し、伝媒大学の概況を紹介しました。「1957年に設立されメディア部門の人材育成を行ってきており、メディア学部、映画演劇学部を有し18,000名の学生職員を擁する。日本とはテレ朝、日大芸術学部、電通、TBSなどと連携協力している。長野県日中友好協会との間で長野ラジオ孔子学堂の協定を結ぶとともに長野県立大学と交流協定を結んだ。ともに友好発展に努力していきたい」とあいさつ。北京市友好協会の焦副会長は「朋有り遠方より来る。また楽しからずや」「国の交わりは民の親しむにあり」などの言を引用しながら日中平和友好条約45周年にあたり、日中青少年交流を引き続き進めたいと述べました。西堀友好協会訪中団団長は熱烈歓迎に感謝の意を表した後「伝媒大学との交流は双方の努力によって成果を上げてきた。日中関係は国交正常化から50年を経過し、両国人民に益をもたらした。世界は激動しているが、人類は運命共同体であり戦争を防ぎアジアと世界の平和と繁栄のために貢献していきたい。青年交流等協力して取り組んでいきたい」とあいさつしました。プレゼントの交換の後、会場を移して歓迎宴が行われました。

8月1日は雨天のため、予定していた故宮が閉館のため、一行は天安門広場をバスの中から眺めながら、書画骨董で有名な瑠璃廠(ルリチャン)を訪れ、栄宝斉で文房四宝と有名書家の展示を参観しました。北京の銀座と言われる王府井(ワンフウチン)へ移動し、昼食は名物のしゃぶしゃぶ料理をいただきました。王府井の6階建てのショッピングモールは華やかで大勢の買い物客でにぎわっていました。日本料理店や有名ブランドの店が沢山営業していました。外に出ると両サイドの街も人であふれていました。

中国関係機関や日本大使館を訪問していた知事さんたち一行と合流して、中国人民対外友好協会・中日友好協会を表敬訪問しました。友好協会のオフィスや外国友人接待の会見室、宴会場などが庭を挟んで点在しています。歴史を感じさせる建物に入っていくと、中国人民対外友好協会名で日本国長野県阿部守一知事訪中歓迎レセプションと大書きされた鮮やかな映像看板に迎えられました。対外友好協会の林松添会長、中日友好協会の程永華常務副会長(元駐日中国大使)との会見を終えて両者に導かれて阿部知事ら団役員が入場すると大きな拍手が起こりました。

林中国対外友好協会会長は熱烈歓迎を表した後「長野県は友好の先頭を走り、長野冬季五輪の成果を活かして北京冬季五輪を支持いただいた。心より感謝したい。中国は改革開放以来数百年分の発展を遂げてきた。20回党大会の方針に沿って中国の国情に合った中国式現代化を進め、世界人類運命共同体の観点からより良い世界を目指して歩んできた。双循環、質の高い発展を目指している。中日両国はは2000年来の文化交流の歴史を持ち、世界の発展にも貢献してきた。友好的隣邦として東アジアを共通のプラットフォームしている。世界は100年に一度の大変革期を迎え、アジアの時代が訪れている。中日平和友好条約45周年にあたり共通のパートナーとして友好協力を進めていきたい。民を以て官を促し、共同発展を促していきたい。中国対外友好協会は中日青少年交流等をサポートしていく」とあいさつし乾杯しました。

阿部知事は熱烈歓迎に感謝した後「久しぶりに友人の皆様とお会いでき感動している。長野県の友好協力の成果は中国対外友好協会と中日友好協会の協力の賜物。日中両国は最も大切な友好関係であり今後も関係発展に努力していきたい。困難もあったが、知恵を出し合って乗り越えてきた。今後とも協力努力してして友好発展に尽くしていきたい。力強いご協力、ご支援を願いたい」とあいさつ。

程永華中日友好協会常務副会長は「コロナ禍を乗り越えて、懐かしい皆様とお会いできてうれしく思う。9年半の大使在任中に幾度も長野を訪れ、親密な関係と成った。中日関係は平たんではなかったが、ぶれることなく友好を進めていただいた。心から感謝したい。私も帰国後中日友好協会の常務副会長として友好に意を尽くしてきた。この2年間中日関係は困難を抱えているが、中日両国は引越しのできない間柄であり、またアジアの文化的価値観を共有している。経済的な相互依存関係も深い。明るい未来を信じて、努力していきたい」と述べました。

なごやかな懇談交流が進む中で、友好協会メンバーは感謝の意を込めて「北国の春」と「ふるさと」を歌いました。林会長、程副会長も手拍子で応じていただき、会場は大いに盛り上がりました。

8月2日、一行は北京西駅発10:05の高速鉄道G95にのって石家庄に向かいました。前日から北京に迎えに来ていただいていた河北省外事弁公室の紀竑さんと省人民対外友好協会の董彤さんに同行いただいているので、乗車待ちの人々であふれかえる駅構内も安心です。時速350km近いハイスピードで列車は1時間ほどで石家庄に到着しました。駅には省幹部の皆さんが出迎えていただきました。呂暁梅省友協執行副会長や梁国輝さんの懐かしい顔を見てしっかり握手。河北賓館に到着して小休止の後、省友好協会主催の歓迎昼食会に出席しました。

午後は河北博物院を案内され、河北省が誇る中山国の出土文物展示を参観しました。中山国は戦国時代石家庄付近を支配していた異民族の王国です。国宝級の文物が並ぶその造形美のすばらしさには目を見張るものがありました。

ホテルに戻って、長野県で研修や留学した代表15名の皆さんと知事の対面交流会が持たれました。崔慧先河北医科大学元校長は信大医学部で学び医学博士号を取得しました。劉暁軍省外事弁公室参事は信州大学人文学部に留学し、省外事弁公室主任、名古屋総領事などを務められた方ですが、長野は第2の故郷ですとあいさつされました。孫風国さんは省農林科学院対外合作処処長として活躍されてきました。阿部知事は「40周年にあたり皆さんとお会いできて大変嬉しい。未来志向で、青少年交流を進め人材を育てていきたい。皆さんはその橋渡し役」と述べ今後の活躍に期待しました。最後に全員で記念撮影しました。

全団員正装して省政府に向かいました。

当初予定されていた、王正譜省長との会談は豪雨災害の対応のため電話会談となりました。阿部知事と王省長は、両県省友好提携40周年にあたり、青少年を中心とした冬季スポーツの交流を促進することで一致。続いて対面で会談した金喗副省長からは、製造業や農業、ハイテク技術の交流・連携が呼び掛けられました。40周年祝賀歓迎宴に先立って交流座談会が行われ両県省の相互のPRビデオや両県省代表のあいさつに引き続いて、友好協会、経済界や大学、行政、スキー分野の代表からの今後の交流推進の提案などもあり有意義なものとなりました。歓迎宴も心のこもった温かい雰囲気の中で行われました。

  8月3日、阿部知事一行は早朝、石家庄国際空港から上海に向かいました。友好協会グループは、洪水のため視察参観できなくなった雄安新区の替わりに石家庄市ハイテク開発区を視察し、河北製薬などの製薬企業展示館などを参観しました。広大な規模の企業立地に感心するとともに、新型コロナ等疫病治療薬開発に掛ける意欲が感じられました。

 国際大厦の豪華版バイキング昼食会でご案内いただいた呂副会長さんや石家庄市の皆様とお別れして、石家庄駅から北京に向かいました。

北京最後の夜の晩餐会は紀竑さん、許強さん、董彤さんを交え大いに盛り上がりました。席上、小林敏さんから、「長野県でも2019年千曲川が氾濫する水害を体験しているが、河北省、北京の洪水被害もかなり甚大であると思われる。義援金を贈りたい」との提案があり、全員の賛同をいただき、15万円を集約し、紀竑さんらに省の関係部門に届けていただくよう託しました。ホテルに戻っても、友好の思い冷めやらず、滝沢・栗岩両氏の部屋に10数名が集合して“2次会”となり、大いに語り合いました。孔子学堂の縁で国際放送局の謝宏宇さんとも友情を温めました。

8月4日最終日、午前中天壇公園を参観しました。天気は晴れ、夏休みで人々があふれかえっていました。天壇は皇帝が天を祭り五穀豊穣を祈ったところで、祈年殿、皇穹宇、圓丘壇よりなっています。大理石が敷き詰められた天を祭る圓丘壇、そして濃紺の瑠璃瓦で葺かれた3層の丸屋根の祈年殿は印象的な建造物です。洪水を鎮め穏やかな天気をと心の中で祈りながら、全員で記念撮影に納まりました。

天壇を後に北京大興国際空港に向かいました。2日がかりで準備した健康チェックスマートホンを確認しながら、搭乗手続きを済ませ、CZ647便で羽田へ飛び立ちました。

 石家庄から友人を迎え交流復活 (7/20)     

今年は5月30日、4年ぶりに対面で定期総会を開催することができました。

中国のゼロコロナ政策が終了し、対面での交流が始まりました。4月には石家庄市外事弁公室の皆さん4名が友好視察団として来長し、20日に市日中主催で歓迎会を開催しました。お土産の白酒をいただきながら大いに盛り上がりました。

 7月には石家庄市中学生友好訪日団16名(生徒12名、引率4名)が来長しました。11日には市日中主催で歓迎会を開催しました。全校生徒5千人という大きな学校から選ばれた生徒で大変優秀だという感じがしました。皆の前で書、踊り、歌などが披露され、その見事さに驚かされました。

 7月2日には石家庄市からの語学研修生が2名来長しました。12月まで、日本語、日本文化等を研修する計画です。会員との交流も予定されており日本をよく理解してほしいと思います。7月20日に歓迎会を開催しました。( 長野市日中友好協会事務局長 米山達雄 )

 河北省から経済友好代表団が来県(7/6~7)

河北省外事弁公室亜非処の梁国輝2級巡視員、何傑処長ら一行6名がコロナ禍平穏化後のトップを切って7月6日長野県を訪問しました。一行は県企画振興部や国際交流課、県日中友好協会関係者から暖かい歓迎を受けました。

7月6日午後県日中友好協会を訪れた際には、協会役員や古くからの友人から堅い握手で出迎えられました。

西堀正司副会長は「河北省との友好40周年、日中平和友好条約45周年、コロナ禍明けに河北省の友人を迎えることができて大変喜ばしい。4月に河北省を大月理事長とともに訪問し大変お世話になった。8月には知事とともに県協会訪中団が大勢で河北省を訪問する予定だ。この度の皆さんの訪問が、両県省の友好交流、経済交流促進に貢献されることを期待したい」と述べました。

梁国輝氏は「コロナ明け、両県省の交流が再開され、最初の団となったことは光栄。知事訪中も熱烈歓迎したい。両省県は40年来様々な分野で交流を進めてきた。青年の船受け入れ、農業や語学の研修生派遣、緑化協力、スキー用具の贈呈、これは冬季五輪の成功へと繋がった。今回は石家庄市、唐山市、滄州市の経済交流担当者とともに伺った。経済交流も深めていきたい。」とあいさつしました。また梁氏の後任として亜非処処長に就任した何傑女士は「以前はヨーロッパ関係担当でしたが、皆様の名前は存じておりました。2021年に就任。長野県と河北省の関係は最も深い。友好交流活動が盛んにおこなわれてきた。本年は両県省友好40周年、阿部知事一行の来訪歓迎準備を熱心に進めている。皆さんを迎えて省幹部の会見、40周年祝賀宴を予定している。さらに、中学生卓球交流、大学生・高校生同士の交流を準備している」などと述べました。

梁氏が、我々の共通の友人ある李国方、劉梅海、紀こうさんも石家庄で待ってますというと、拍手が起こりました。懇談の続きは歓迎宴会の席でと場所をJALシティホテル16階展望会場に移してなごやかな歓迎レセプションとなりました。翌日は、県工業技術総合センターにおいて河北省企業誘致プロモーションが40名余り出席して開催されました。

   日中経済交流促進協議会4年ぶりに対面総会(6/29
  長野県日中経済交流促進協議会は、6月29日、長野市内の犀北館ホテルで第47回定期総会を開き新年度の事業方針などを決めました。
 総会で、夏目潔会長は、「コロナ禍が平穏化する中で4年ぶりの対面による総会を開催でき感謝したい。社会も急に動き出した感がある。国際情勢はウクライナ戦争によって激動している。米中対立の激化によって日中関係も大きな影響を受けているが、民間交流・経済交流を基礎に相互信頼関係をはぐくんでいきたい。本年は日中平和友好条約45周年、河北省との40周年にあたり、阿部知事も訪中し記念式典が開催されることになっている。本総会には日本河北総商会の代表も出席いただいているが、これを機に交流を深めていきたい。今後とも民間交流、経済交流の促進に努めていきたい」とあいさつしました。

 滝沢倫弘・県産業労働部産業政策課長は来賓祝辞の中で、呉江浩中国大使が5月25日来県されたこと、7月31日から阿部知事が北京・河北省を訪問することを紹介し、コロナ禍の平穏化のなかで、日中間の交流が再開され河北省との交流が盛んになることを願うと述べ、協議会の活躍に期待しました。金子繁三・県日中友好協会副会長は日ごろの協力に感謝し、「日中国交正常化から50年を経過し、河北省との友好40周年を迎えている。5月には呉大使が当協会定期大会に出席され、懇談の機会を持つことができたが、コロナ禍明けを機に様々な分野の交流を再開したいと語っておられた。経済交流や地方民間交流が両国の平和友好関係を持続発展させていく役割を果たしてきた。協議会の一層の活躍を願う」とあいさつしました。日本河北総商会の魏紫峰会長は「長野県と河北省は親戚のように親しい間柄。私たちも協力して両県省の発展に貢献していきたい。」と述べ、記念に持参した「和為貴(和を以て貴しと為す)」の意味をあらわす、蓮の花と桂魚が描かれた掛け軸を夏目会長に贈りました。

 2022年度の事業報告と決算を承認した後、河北省はじめとした中国との経済交流の促進、講演会やセミナーの開催、条約45周年・河北省との友好40周年記念事業への協力、観光客誘致協力などの23年度の事業計画・予算・役員補充などを決めました。

 総会終了後、公益社団法人日本中国友好協会の西堀正司専務理事が「日中関係と日中経済交流の課題」と題して記念講演しました。

 最後に、祝賀パーティーがおこなわれ交流懇親を深めました。経済交流や友好交流談議に花が咲きました。、
 日中スキー交流委員会総会開催--相互交流再開に向けて (6/26)        

長野県日中スキー交流委員会(北野貴裕会長)は、6月26日、犀北館ホテルにおいて23年度総会を開き、22年度の活動報告・決算報告を承認し23年度の活動方針などを決定しました。総会には県(スポーツ課・国際交流課)をはじめ県スキー連盟、県日中友好協会、飯山・白馬・野沢温泉・山ノ内・小谷・長野の行政・スキークラブ関係者が出席しました。

藍葉裕之県スキー連盟副会長は、「コロナ禍が平穏化し、対面交流ができるようになった。日中スキー交流も44年目を迎えたが、両国スキーの発展に重要な役割を果たしてきた。7月31日から知事の訪中に参加して北京や河北省を訪問することになっている。スキー交流発展に努めてきたい。長野五輪と北京冬季五輪の成果を踏まえて今後のスキー交流を進めていきたい。交流再開の年にあたりしっかり議論いただきたい」とあいさつしました。

 松澤孝明県スポーツ課振興係長、稲玉稔国際交流課長、西堀正司県日中友好協会副会長、平沢岳山ノ内町長が「コロナ禍による中断はあったが、44年にわたる日中スキー交流は貴重な財産だ。日中平和友好条約45周年、河北省との友好40周年を迎えた。阿部知事訪中で成果が期待されている。今後北京や河北省とのスキー交流等も再開し交流発展とインバウンドの拡大などにも期待したい」などと述べました。

本年度の計画として、中国、河北省、北京市のジュニアスキー選手訓練隊の受け入れ、北京冬季オリンピック施設を利用した県スノーボード強化合宿訓練隊派遣、アルペンやクロスカントリーチームの吉林省への強化合宿訓練隊派遣などをあげています。

 議事終了後の懇談会では、1980年のレークプラシッド冬季五輪に初参加となった中国スキーナショナルチームメンバーが野沢温泉スキー場で用具を整え訓練したことが長野県と中国とのスキー交流のスタートだった。その後中国スキー協会からの要請で、半日労働半日訓練のスキー研修生の受け入れが継続され、総勢142名に達した。1982年からはスキー用具を送る運動も開始され、累計13万台余りに達した。1990年代以降は訓練集中型の訓練隊受入れとなった。1998年の長野冬季五輪招致に中国側も大いに協力してくれた。それから24年にして2022年の北京冬季五輪が成功裡に開催された。関係者一同にとっても共通の喜びであった。中国の新華社通信などが長野県を訪れ、北京冬季五輪成功は長野県の支援協力の賜物と大々的に紹介したことも銘記しておきたい。日中スキー交流の開拓者、片桐匡元県スキー連盟会長の愛弟子であった河野博明さんの回想に皆さん頷きながら、それぞれの立場で日中スキー交流に携わってきたことや、今後の抱負を語り合い有意義なひと時となりました。

 中国の端午節に<(ちまき)と餃子の手作り昼食会>(6/24)

長野ラジオ孔子学堂は6月24日、中国の伝統行事端午節(旧暦5月5日:今年は6月22日)に合わせて『粽(ちまき)と餃子の手作り昼食会』を開催しました。32名が参加して、粽と餃子作りに挑戦しました。当日は日ごろ中国語の老師として活躍されている先生方が、粽や餃子づくりのリーダーとなって、参加者を丁寧に指導いただき、30余名分6百個の餃子と一人2個の粽を作りました。 

餃子づくりは大分ポピュラーになってきましたが、粽づくりは初体験の人が多く、笹の葉で三角錐を作りもち米と具を入れてイグサでしっかり縛って、最後過熱して出来上がりとなります。苦労して完成させた「作品」は美味しさもひとしおでした。

昼食交流会ではメンバーによる二胡の演奏や中国語カラオケを楽しみ、楽しい一時となりました。

 王衆一『人民中国』総編集長招き、講演と歓迎交流会(6/17)

 長野県「人民中国」読者会は6月17日、ホテル信濃路において、『人民中国』の王衆一総編集長を招き講演と歓迎交流会を開催しました。茂木博会長はじめ読書会メンバーが参加し、日ごろ愛読している『人民中国』にまつわる様々なエピソードを興味深く聞くことができ有意義な講演交流会となりました。

 王衆一総編集長は「私と『人民中国』―中日交流をライフワークに迎えた還暦」と題して講演されました。以下その概略です。

ーー私は34年前に『人民中国』に入社し、25年にわたって雑誌の編集統括を担当してきましたので、文字通り中日交流をライフワークにし、今年の還暦を迎えたわけです。

『人民中国』の源流は、1950年に発足した英語版と1953年に創刊した日本語版です。

1963年に、その後の日本語版『人民中国』の性質を決める二つの決定的な出来事がありました。一つは、2月に廖承志さんから、『人民中国』はより柔軟でバランスよく、読者の好感を呼ぶような総合誌に調整すべきとの指示が下されたこと、もう一つは、読者の声に耳を傾けるために、創刊10周年を機に訪日団を派遣し、日本中で45日間にわたって活動し、全国津々浦々の読者との交流をしたことです。以降、読者との交流は『人民中国』独自の伝統として受け継がれてきました。

1972年、9歳の私はふるさとの瀋陽で初めて両親が購読していた『人民中国』を見ました。レイアウトも写真もきれいで、漢字と仮名が混じった活字は、9歳の少年の好奇心をかきたてるのに充分でした。

中日平和友好条約が締結した78年に、私は中学校で日本語を習い始めました。学習に拍車をかけたのは、毎月郵便局で買ってくる『人民中国』でした。

大学と大学院時代には、印象深いことが二つありました。一つは『戦後日語新探(戦後日本語の再発見)』を読み込んだことです。この本は、当時日本に駐在していた劉徳有先生が、日本の社会や流行語を観察して記録した、貴重な手記です。

もう一つは、大学院一年目の87年の夏休みに、日本から来た名門校の学生たちと、サマーキャンプで一ヶ月の合宿生活を送ったことです。キャンプの最終日、別れを惜しむことばをお互いの記念写真アルバムに書きましたが、野嶋という学生が私に贈ってくれた「人生山あり谷ありです」の一言が、特に印象に残っています。これが私にとって本格的な青年交流の始まりとなりました。

34年前の89年の夏、私は中日交流への憧れに駆られて、就職活動を経て人民中国雑誌社に入社しました。翻訳を担当するとともに「中国留学最新情報」などの連載記事の担当を経ることで、さまざまな人と出会い、編集意識も高まりました。

91年、私は中国青年記者代表団のメンバーとして初めて日本を訪れました。

94年には訪問学者として日本に渡り、東大の駒場キャンパスで教養学部に籍を置き、一年をかけて表象文化論の研究をしました。帰国後、その方法論を『人民中国』の記事に生かすことができたのは、最大の収穫でした。

帰国から二年後、私は編集統括担当の役員になり、新規連載やコラムを次々と始めました。有識者が文化論を語る場として設けたコラムの「放談ざっくばらん」には、多くの方々が寄稿してくださいました。かつて日本社会の観察や流行語研究などで、私に日本を見る方法を教えてくださった劉徳有先生の、「目黒の秋刀魚と西太后の窝窝頭」という文章は、文化交流で両国関係の改善をすすめる智恵が満載で、東大時代の指導教官だった刈間文俊先生がそれに応えるかのように「黄色い大地と蘭の花」を寄稿し、映画交流の大事さを唱えました。私に深く影響を与えたお二人が、はからずもこんな形で『人民中国』での出会いを果たしたのは、とても嬉しいことでした。

2001年には『人民中国』のオールカラーリニューアルを行いました。レイアウトの強化はもちろん、内容の充実(じゅうじつ)が要(かなめ)だと認識した私は、社会、経済、文化の新しい企画に力を入れ始めました。

CRI北京放送の副編集長李順然先生のエッセー「あの人、あの頃、あの話」、阿南惟茂(これしげ)元大使夫人の阿南・バージニア・史代(ふみよ)さんの、連載「北京の水と木と石」、本誌のベテランカメラマンによるグラビア連載「中国の世界遺産」や、「お祭り賛歌」は、民俗学的に捉えた自然状態の各地の民間の祭りをリアルに記録し、雑誌にさらなる深みや重みを加えてくれました。原口純子さんと佐渡多真子さんによる1ページの小さなコラム「中国雑貨店」(「生活を愛する目で中国を見れば、愛すべきものはたくさんある」とは、原口さんの口癖でした。)この発想からヒントを得て、「13億の生活革命」「私の一日」など、社会生活の細部に目を配る企画が生まれたのです。

ジェトロ北京事務所所長の江原規由さんや水俣シリーズで知られるドキュメンタリー映画の巨匠、土本典昭監督との付き合い、そして多くの読者とのつながりは『人民中国』の伝統で、東京支局に来るたびに、必ず各地の読者の会の皆さんと交流しています。東京、静岡、長野、横浜、鹿児島、岡山、飯能、大阪、富山、岩手、山梨、青森など各地を訪れ、愛読者との懇親会を開いて雑誌の感想などを聞きまわりますが、そのたびに愛読者向けの講座をお願いされます。一番人気は、中国の最新事情に関する講座で、最も歓迎されるテーマは、中国の流行語、中国の若者文化、中国の映画です。

そうした読者のニーズにこたえ、コラム「中国の流行歌」「新語・ネット語」を始めました。

漫画を生かした企画として「漫画キャラ 中国の諸民族」の連載を始めたり、地方を紹介する「美しい中国」にもイラストを入れ、誌面に活気を与えました。

2016年4月14日に発生した熊本地震のニュースが伝わった夜、中国の漫画家にパンダがクマモンに筍(たけのこ)を贈るという内容のイラストを創作してもらいました。

パンダのイラストをロゴにした「Panda杯 全日本青年作文コンクール」も、大人気で、開催9年目の応募者がのべ4200名に達しています。

言論NPOとの提携で催す北京――東京フォーラムも、9年にわたってさまざまな問題を直視し、各分科会で中日両国の有識者の意見をまとめたコンセンサスを毎年発表し、交流の輪を広げてまいりました。

また、2016年に24節気が世界文化遺産に登録されたのを機に、17年には24節気を深く楽しむ俳句と漢俳のコラムの連載を始めました。20年上半期、新型コロナウィルス流行のさなかには、日本から中国への支援物資の箱に貼られた激励の漢詩に対し、中国から日本への支援物資にも慰問を表す俳句や漢俳が貼られ、日本の皆さんの心をなごませました。

映画とメディアをつなげたいという長年の悲願も、22年に実現することができました。数奇な生涯を送った日本人の元解放軍兵士の砂原恵さんが健在の頃にインタビューを企画し、その後『血と心』という漫画の出版を実現しました。アニメとメディアの融合は私が近年取り組んだ、最も意義のあるクロスオーバー的なもので、私にとっては有終の美を飾るものとなりました。

 新世紀に入ってからの『人民中国』は、変革と革新の中で初心を守り、真に血の通った読者とのつながりを保ってきました。また、定期刊行物としての質と奥深さを維持し、公正な言論やバランスの取れたコンテンツで、歴史と時代の試練に耐えてきたのです。『人民中国』と運命を共にし、一緒に成長できたことは、私の生涯の誇りであり、栄光そのものです。アジア太平洋広報センターの枠組のもとで『人民中国』は、これから新しい時代の要求に合致する中日関係を構築する中で必ずや新たな使命を担っていくことでしょう。

 皆さんの『人民中国』への、そして私への愛と友情に厚く御礼申し上げます。--

 須坂市日中定期総会開催(5/28)

須坂市日中好協会2023年度定期総会が、5月28日対面形式で、旭ヶ丘ふれあいプラザにおいて開催されました。

 総会の冒頭会長挨拶で、三木正夫会長は、今年は日中平和条約締結45周年、長野県河北省友好県省40周年の節目の年に当たる。8月には友好都市四平市から卓球選手団を迎え、日中友好都市中学生卓球交流大会が開催される。しっかり対応していきたい。今年も草の根の友好活動で日中友好に取り組んでまいりたい、と挨拶しました。また、来賓として初めて総会に出席された長野県日中友好協会の大月良則理事長は、今後の事業への協力を要請し、県の定期大会へ出席された呉江浩大使のエピソードを紹介されました。呉大使は定期大会に参加された後、野沢温泉スキー場の視察に行かれた。それは中国のスキー文化のために野沢温泉の方々が尽力された。その方々にまず大使として挨拶をしたいということで、野沢温泉へ行かれたということです。さらに交流が回復しつつある現在、日中友好協会の体制をしっかり立て直していくことが私の仕事ではないかと思っていると話されました。

 すべての議事について提案どおり可決成立し、新年度のスタートを切りました。

第二部として(公社)日中友好協会西堀正司専務理事の「最新中国事情―日本はどうするべきか」と題する講演を行っていただきました。

  県日中友好協会定期大会に呉江浩中国大使、知事臨席激励

平和友好条約45周年、河北省友好40周年、友好訪中団派遣や卓球交流大会など決定(5/25)

  長野県日中友好協会は5月25日、第61回2023年度定期大会を長野市内の犀北館ホテルで開きました。4年ぶりの対面の定期大会には県内各地から110人が出席しました。

本年は、日中平和友好条約45周年、長野県と河北省友好県省40周年の年に当たり、コロナ禍が平穏化に向かう中、友好訪中団の派遣、中学生卓球交流大会開催、戦中中国から強制連行殉難者慰霊祭の開催などに官民連携して取り組み、日中交流を再開し友好関係の発展、相互信頼関係の回復を図るなどの新年度の活動方針を決定しました。来賓として、呉江浩中国大使、阿部守一知事らが出席され激励をいただきました。

 金子繁三副会長の司会で大会がスタート。冒頭、物故された先輩の皆様に黙祷を捧げました。
 
 高波謙二会長体調の関係で、代わって布施正幸副会長があいさつし呉大使、阿部知事ら来賓のご臨席や日ごろの支援に感謝を表した後、「国際情勢が激動している中、日中関係は米中対立の激化を背景に重大な試練の時を迎えている。日本は自主的立場に立って外交努力を重ね、日中間の不安定要因を克服し、建設的な協力関係構築に努めてほしい。本年は日中平和友好条約45周年、河北省との友好県省40周年にあたり、夏には、知事さんとともに県日中友好訪中団を派遣し、河北省で友好40周年祝賀会に参加、8月下旬には各友好都市から中学生卓球選手団を招いて日中友好都市中学生卓球交流大会を開催し、秋には戦中中国から強制連行された中国殉難者の慰霊祭の開催を計画している。 14億の人々が住む隣国中国との、相互理解・相互信頼増進に力を入れ、民間の立場から日中不再戦・平和友好の原点に立ちかえって交流に取り組んでいきたい。改めて「日中友好は最大の安全保障」という宇都宮徳馬先生の教えを銘記し、友好協会の社会的使命を自覚し、この思いを県民の皆さんに呼びかけ、若い世代につないでいきましょう」と述べました。

 続いて、阿部知事は、定期大会の盛会と、特に呉中国大使を迎えて有意義な交流機会となったことに祝意を表した後、「長野県は中国と、スキーをはじめとしたスポーツ、経済産業、観光面の交流などを進めてきた。コロナ禍も落ち着きを見つつある中、交流を再開していきたい。本年河北省との友好40周年にあたり、記念の訪中団派遣などが計画されている。人と人との顔の見える関係が友好の基礎であり、友好協会の皆様の長年にわたる交流成果を大切にして友好関係を深めていきたい。友好協会の一層のご協力をお願いするとともに活躍を期待している」とあたたかい激励をいただきました。

着任間もない超多忙の中、長野県を訪問された呉江浩中国大使は長野県日中友好協会の活躍に期待を寄せ、総会の成功を祝した後、「長野県には10数年ぶりの訪問となり大変懐かしい。長野県は中国と深い関係があり、特に河北省と各分野の交流を進めてきた。友好の伝統を発揚し、熱心に努力され、中日関係の発展と両国の福祉増進に貢献されてこられた。皆様に感謝申し上げたい。中日間にはチャンスとともに、複雑な国際環境の下で試練にも直面している。中日両国、2つの民族はそれぞれの基軸をもっているが、日中平和友好条約をはじめとした4つの基本文書を基礎にして関係を発展させてきた。新しい情勢の下で、民間交流は両国関係の基礎であり、平和友好の方向性を変えてはならない。午前中、阿部知事、佐々木議長と懇談し相互利益、友好の未来について意見が一致した。日中関係発展にとって大事なことが3つある。①友好の信念を持って各界の友好の力を結集し付き合いを発展させていく。②交流と友好を増進し、国民同士の相互信頼を発展させる。北京冬季オリンピックは昨年成功裡に開催できたが、長野県の皆さんの協力に心より感謝したい。③ウインウインの関係を築いていく。中国は改革開放45周年で、日中間の貿易額も更新している。大使館としても各分野の交流増進の流れをサポートしていく。知事の訪中を支持する。知事や議長、高波会長はじめ皆様を大使館にお招きしたい。長野県の観光プロモーションを応援したい。ビザ手続きの便宜を図っていきたい。大使館は様々な両国の交流事業を支持していく」と述べました。大使の友好に対する熱意に大きな拍手が送られました。

 また、若林健太(代)・井出庸生(代)・中川宏昌(代)衆議院議員、杉尾秀哉参議院議員(代)、埋橋茂人県議会副議長並びに、荒井武志・清水純子・加藤康治・川上信彦県議、西堀正司(公社)日中友好協会専務理事から祝辞をいただきました。続いて、来賓の紹介と祝電の披露(米山事務局次長)が行われました。

 議長に清水清利(小諸市)・牛山好子(松本)の両氏、大会運営委員に宮崎常夫(長)・小林隆利・小林勝人・小原秀元の各氏、大会書記に佐野修一・山崎始の両氏、議事録署名人に峰村洋・吉岡尋子の両氏を選出し、宮崎運営委員長の大会成立報告を受けて議事に入りました。

2022年度の活動報告(中澤保範事務局長)、決算報告(吉岡弘海会計理事)、会計監査報告(田近勝之監事)を承認した後、2023年度の活動方針(大月良則理事長)、予算(土屋博財政委員長)を採択しました。役員補充では、布施副会長が、理事会の論議を踏まえ、新副会長に足立正則(飯山日中会長)、新理事に荒木武貴(軽井沢日中会長)、小原茂幸(伊那日中会長)の各氏の選任を提案し承認されました。

 本年度の活動方針では、平和友好条約45周年・河北省との友好県省40周年記念事業(友好訪中団の派遣、中学生卓球交流大会開催、戦中中国から強制連行殉難者慰霊祭の開催)を実施していくとともに、新たな時代を拓く取り組み、組織の再構築、財政基盤の強化に取り組み、平和のセイフティネットである日中友好交流の輪を広げアジアと世界の平和繁栄に貢献していくことを決定しました。

 続いて、大会宣言(山崎美代子・県女性委員会副委員長)と大会スローガン(松本華恵・県青年委員会委員長)が提案され採択されました。

 議事終了後、軽井沢在住のバリトン歌手崔宗宝さんが「荒城の月」「オーソレミヨ」を素晴らしい歌声で披露し、会場は拍手に包まれました。最後に、女性委員会のリードで、全員で「永遠の友情を」を斉唱し友好を誓いました。清水可晴・副会長の閉会あいさつで終了しました。

 来賓として前記各氏のほか丁玥大使夫人、張漪波公使参事官、陳浩三等書記官、王菁アタッシュエ、夏丹中国伝媒大学長野孔子学堂責任者、稲玉稔県国際交流課長、王昌勝県華僑総会会長、良川健太山ノ内町移住交流推進課主事、古畑元大松川村教育長、梶田能孝県経営者協会総務部次長、鈴木幸一県中小企業団体中央会総務部長、山下佐代県商工会連合会農業共済課長、井出英治県信用保証協会常務、武重正史県農協中央会専務理事、藍葉弘之県スキー連盟副会長・河野政己同専務理事、中本栄部落解放同盟県連書記長、花岡徹県国際化協会常務理事、葛欣(一社)日本河北商会副会長らが出席しました。 また祝電が多数寄せられました。
第26期日中連続市民講座⑥「コロナ禍によって変わる日中ビジネス」 (4/22)

 第26期第6回日中関係を考える連続市民講座が4月22日、日中友好センター教室において開かれ、松本大学大学院教授で中国経済や地域中小企業の研究が専門の兼村智也先生が「米中対立の中での日中ビジネスの現状」(コロナ禍の中での日系進出企業)と題して講演しました。講座には18人が出席し熱心に聴講しました。

 兼村先生は、次のように述べました。

①長野県の中国進出企業数の推移は、2022年6月で180社(香港除く)でピーク時2012年に比べ32.1%減となっている。その理由は、人件費の高騰、競合する中国企業の台頭があり、中国政府も競争力のない企業の撤退は歓迎している。

②コロナ禍による中国ビジネスの懸念材料(ゼロコロナ政策による影響)として、現地駐在員の帰国困難(日本から支援者が出向けない)、操業停止命令、日本に部品・材料が届かない→中国依存リスク軽減の必要性などがある。

③人の現地化をはかるメリットとして、意思疎通が図りやすくなる、現地従業員の労働インセンティブが高まり定着も進み業績向上につながる、駐在員コストを削減できる。現地化が進まない理由として、本社との意思疎通が図りにくい、優秀な人材が給与・処遇面で優位にある非日系企業に流れてしまいその結果人材育成が進まないなどがある。

④現地化について以下4つのパターンを紹介。
(イ)完全現地化が進んだ企業として、ミクロ発條(本社諏訪)を紹介し、日本留学・就業経験をもつ中国人を登用、現地で日本社長との共働経験があり意思疎通も良好である。
(ロ)一部現地化の企業の例として、南信精機製作所(本社飯島町)、ダイヤ精機(岡谷市)を紹介。財務管理は日本人、顧客管理などは日本留学経験のある者、現場管理は中国人などとしている。
(ハ)駐在員を減員した企業として、ミスズ工業(諏訪)を紹介。新事業立ち上げ製造担当スタッフを亡くし、社長と工機担当のみを残す。
(二)不変の企業も、先行き見通しに変化がみられる。日本留学・本社就業経験をもつ中国人を現地登用する、関連中国企業に資本を一部売却し技術系を派遣するが経営は現地に移譲する、完全売却などを近日中に考えているなど。

⑤中国ビジネスの新たな懸念材料。
(イ)米中対立による影響として、デカップリングにより輸出入はリスクが大きくなり、中国での受発注を中国国内で完結させる必要性が高まり現地営業が重要となる。
(ロ)政治的リスクをどうマネジメントしていくか。
(ハ)中国が欲しがる技術(半導体、液晶パネル、などの産業チェーンの脆弱な部分を重点的に補強するとの中国政府の方針)と日本政府の経済安全保障政策との板挟みで今後について難しい判断を迫られる。該当する企業が全国で4000社ほど。

 講演終了後、デカップリングなどにより経済交流がさまたげられることについて質問や意見が活発にだされました。

 第26期講座はこれで終了し、来期は11月からスタートする予定です。ご協力ありがとうございました。

 
 石家庄市視察団一行が来長、4年ぶりの対面交流(4/20)

 石家庄市外事弁公室副主任王秋生団長以下4名の皆様が、4月20・21日長野市を訪問し、市長との会見や長野市日中友好協会との交流のほか、エムウェーブ、戸隠スキー場などを視察しました。新型コロナの影響で4年ぶりの公式訪問となりました。

 20日、一行は荻原健司長野市長を表敬。市長が「友好関係がさらに深まることを期待しています」と述べると王団長も「40年間の友情を大切にして交流、協力を一層発展させていきましょう」と応じました。さらに人口減少など共通課題について意見交換しました。

 夕方から、長野市日中友好協会主催の歓迎会が長野市内のメトロポリタンホテルで開かれ、山根敏郎会長以下18名の市協会メンバーがあたたかく歓迎しました。山根会長から「石家庄市との堅い友好の誓いを称賛し、再会の祝杯を重ねましょう」との力強い歓迎あいさつの後、おみやげにいただいた白酒を味わいながら、懇談交流しました。

 その中で、4年前に発刊した『長野市日中創立40周年記念誌・友好の歩み』の文中に、今回同行された梁永さんのお嬢さんが2018年7月に石家庄市中学生友好代表団の一員として来長された際、たまたま金子繁三理事長宅にホームステイされたと掲載されていたのを発見し、奇遇に驚嘆。このハプニングもあり、次回の訪中の際の再会を約したところでした。一段と盛り上がった宴席で「北国の春」を合唱し、フィナーレとなりました。翌日、再会を約束して、18:19発の新幹線にて一行を見送りました。(吉岡弘海記)

   2023年度長野ラジオ孔子学堂中国語講座がスタート(4/5・6・7)

 
 23年度長野ラジオ孔子学堂中国語講座がスタートしました。4月5日、6日、7日の3回に分けて開講式が開かれました。

 入門、初級、中級、上級のそれぞれ昼の部・夜の部が開設され、中国語を学び始めた人が参加しやすいカリキュラムになっています。コロナ禍も落ち着いた中で、対面授業を主として一部オンラインで進めていくことになります。

 開講式では、安芸洋一学堂長、布施正幸・夏丹執行理事が「中国語を学び中国の文化を理解し、友好交流の手段として活用していってください。HSK中国語検定も長野で受けられるので、レベルアップを目指して頑張ってください」とあいさつ。受け持ちの範為為、顧淑鳳、呉劭昱、姚海玲老師(先生)から一緒に楽しく、真剣に学んでいきましょうと激励されました。

 戸井田靜男事務局長から、講座運営や孔子学堂の実施事業の紹介などが行われ、受講生の皆さんはそれぞれの教室に分かれて早速授業が行われました。
  第26期日中連続市民講座⑤「中国古典詩に見る自然へのまなざしー陶淵明、王維、李白、杜甫を中心に」(3/25)

 第26期第5回日中関係を考える連続市民講座が3月25日、日中友好センター教室において開かれ、中国文学専門で長野県立大学教授の谷口真由実先生が「中国古典詩にみる自然へのまなざしー陶淵明、王維、李白、杜甫を中心に」と題して講演しました。講座には24人が出席し熱心に聴講しました。

 谷口先生は、中国六朝時代から唐に至る古典詩の代表詩人の作品を取り上げ、「自然に対するまなざしには、詩人の生きた時代により、また境遇の違いにより差違があるが、自然への憧れ、畏怖など読み取ることができる」と述べ、各時代の代表的詩人の作品を紹介解説しました。

◇詩における「自然」とは、中国最古の詩集『詩経』や戦国時代の『楚辞』にも自然は描かれているが、その自然は人間にとって有用な存在として取り上げられていて、自然そのものをテーマとして詠じることはあまりなかった。晋末、北西の異民族の侵攻により、漢民族が南下し東晋王朝(都は健康=南京)をたてた。人々は江南の美しい「風景」に出会い自然を詠じるようになった。

◇六朝時代の陶淵明と謝霊運・謝朓の「自然」詠

◎陶淵明「帰園田居(園田の居に帰る)」、「飲酒二十首」
 軍閥政権下、官吏となるが自ら辞めて郷里に帰る。後半生を田園で生きた。田園詩人と呼ばれる。「桃花源」(桃源郷)のユートピアを記した文人でもある。「長い間、鳥かごの中でのような窮屈な生活をしていたが、またのびのびとした自由な境地に帰ることができた」。「山気 日夕に佳し、飛鳥 相ひともに還る、此の中に真意有り、弁ぜんと欲して已に言を忘る」と詠う。

◎謝霊運「過始寧墅」(始寧の墅=別荘を過る)
 上流貴族の家に生まれたが、権力闘争に巻き込まれ左遷された。後に謀反の嫌疑を受けて流謫、処刑された。この詩は故郷の別荘に立ち寄った時の自然を詠っている。アウトドア―派で山水詩人と呼ばれる。

◎謝朓「游東田」(東田に游ぶ)
 声律を重視した詩を創始し、繊細な風景描写にすぐれ、唐・李白が敬慕した南斉の詩人。自然の中に入って自分を取り戻す喜びを詠う。

◇唐詩における自然へのまなざし

◎王維「辛夷塢」(こぶしの植わっている土手)
 盛唐の詩人。9歳で詩を作り、宮廷の寵児となった。自然観照に優れ、自然詩人として知られる。「こずえの芙蓉の花 山中紅萼を発く 澗戸は寂として人無し 紛々として開き且つ落つ」

◎李白「山中答俗人」(山中で俗人に答う)
 盛唐の代表的詩人。西域(現在のキルギス共和国)に生まれ、5歳の時に裕福な商人であった父とともに青蓮郷(四川省)に移住した。科挙を受けた形跡がなく、遊侠を好み、道士となる修業をした。玄宗の時、翰林供奉(詩歌を作ったり詔勅を起草)となり、「詩仙」と称された。「桃花流水 窅然として去る 別に天地の人間に非ざる有り」(桃の花びらが川の水にのってはるか遠くに流れていく。世俗と異なる別世界がここにはある。)

◎杜甫「絶句二首其二」、「登高」
 20歳のころから天下を周遊し、李白とも親交を結んだ。30代半ば長安に出て士官を求めたがかなわず、苦節10年玄宗に認められて官職につくも、まもなく安禄山の乱が勃発、波乱の人生を歩む。後、官を辞し成都などを旅する。当時の社会事情をリアルに描き、社会詩人と称され、またその詩は“詩によって描かれた歴史”として「詩史」と称される。ダイナミックな自然のエネルギーを感じ、自然と人生を対比し思いめぐらして詠っている。自然からエネルギーをもらい悲しみを乗り越えようとしている。

 中国帰国者援護市町村担当者研修会を満蒙開拓平和記念館で開く(3/23)

 長野県健康福祉部地域福祉課と長野県日中友好協会中国帰国者交流センターは3月23日、満蒙開拓平和記念館並びに阿智村コミュニティ館で中国帰国者援護に係る市町村担当者研修会を開きました。県・市町村・友好協会の帰国者支援に携わる25人の担当者が参加しました

 はじめに、満蒙開拓記念館で三沢亜紀事務局長さんから、開拓団と中国残留孤児の歴史背景について展示資料に基づき説明を受けました。

また記念館のセミナールームで3月21~26日に行われていた特別企画“王希奇画伯の「一九四六」展”(主催:記念館・飯田日中友好協会)を鑑賞しました。この絵画は旧満州葫蘆島からの日本人の引き揚げを描いた縦3メートル、横20メートルという大作で、その圧倒的な迫力に強い印象を受けました。王画伯は、1960年葫蘆島の隣の錦州市の生まれ、「魯迅美術学院油絵学科の教授で、東洋的墨絵の伝統的要素を油絵に融合させた画風は高い評価を受けています。

 会場をコミュニティ館に移して講演会が行われました。オンラインで参加した県地域福祉課の伊東笑子課長補佐兼自立支援・援護係長に代わって、宮坂祥真主事と県日中友好協会の布施正幸副会長があいさつし県内の各市町村で帰国者援護の第一線で活躍されている担当者の日ごろの活動に感謝しました。

布施副会長は、帰国者日本語教室の運営協力に感謝した後、「“前事不忘、後事之師”と刻まれた「平和」の記念碑が記念館の一角に建てられているが、日中不再戦・平和友好は帰国者の皆さんの心からの願いだ。1世の皆さんが高齢化し介護が課題となり、2世の皆さんも定年を迎える年代に入っている。幸せな老後を送れるよう協会も担当者の皆さんとともに力を尽くしていきたい。また3世4世の皆さんがかかえているいじめなどの問題にも目をむけ、歴史を知って親に誇りをもって生きていける環境を作っていきたい。帰国者の皆さんが日中友好の架け橋として活躍させることを願っている」などとあいさつしました。

 満蒙開拓平和記念館の三沢亜紀事務局長が「満蒙開拓と中国残留邦人について」と題して講演しました。三沢事務局長は広島出身で記念館の立ち上げ準備から運営に情熱を傾けて携わってきました。広島の平和教育の体験をベースに国策の被害者であると同時に侵略の加害者でもあった満蒙開拓団の歴史に真摯に取り組んできた自らの体験に基づく有意義な内容は感動を与えました。講演の概略は下記の通りです。(文責編集部)

――満蒙開拓平和記念館は2013年4月開館以来10周年を迎えた。これを記念し「一九四六」展を開催し、3月21日には王希奇画伯を迎えてオープニングセレモニーと講演会が行われた。加藤登紀子さんも会場に見え、「当時私は2歳だった。母と一緒の幼子が描かれているがきっと自分だと思う。生き抜こうという力、生命の輝きを感じた」とかたっていた。王画伯によると描かれている人物は500人を下らないとのこと。点々は蛍を表しているという。

私は広島生まれ、広島原爆の地にあって平和学習の中で育った。飯田の人とご縁がありこちらにやって来た。当初、飯田下伊那には戦争の傷跡が残っていないように見えた。満蒙開拓団の歴史は知らなかった。開拓団を長野県が全国で最も多く送り出し、中でも飯田下伊那地域が県内で最も多く、悲惨な逃避行で大勢が犠牲になったことを知って自分も何かしなければと思うようになった。

この歴史を長野県でも知らない人が増えている。開拓団は当事者にとって向き合いにくい不都合な歴史でもある。当事者が語れない「満州」。送り出された側、送り出した側にとって語りたくない不都合な事情がある。しかし、不都合な歴史、加害の歴史に向き合っていく必要があると思う。原爆や大空襲など被害の歴史を語り継ぐだけでなく、加害の歴史も語り継いでいくことが、平和にとって大切と思う。

1931年の満州事変から「満州国」建国・開拓団送出と続いていくが、政府は500万人満州への移民計画を策定し、「20町歩の地主になれる」と宣伝し、開拓団を送り出した村には国の補助金を出すなどの方策を講じ、国策を推し進めた。結果として開拓団は27万人だったが、長野県は全国ダントツ1位の3.3万人を送り出した。青少年義勇軍として子供たちも大勢送り出した。教育会もこれに協力した。

昭和20年8月9日、ソ連の侵攻が始まった。働き手の男たちは現地徴兵されていて、開拓団には老人と女子供しか残されていなかった。悲惨な逃避行で大勢がなくなった。引き続いての厳冬の収容所で死亡者が相次いだ。長野県関係者も半数がなくなっている。三石忠勇さんの絵が記念館に飾られているが極限状態が象徴的に描かれていて胸に響く。

1946年から53年に「満州」からの引き揚げが行われたが、この時諸事情で帰国できなかった人々が残留孤児・残留婦人と言われる。

山本慈照・長岳寺住職は自らも開拓団の教師として家族とともに渡満し、その後シベリア抑留され家族が行方知れずとなった体験者で、「日中友好手をつなぐ会」を立ち上げ、残留孤児の肉親捜しに全力を傾けた方だ。映画「望郷の鐘」の主人公で「中国残留孤児の父」とよばれる。

歴史を学ぶことによってふたたび悲惨な戦争を繰り返さない、平和のメッセージを発信し続けていきたい。――

 講演終了後、宮坂主事から「中国残留邦人等の概況及び支援策について」などの報告が行われました。

 日中友好新春講演会・座談会を開催(2/28)
--平和友好条約45周年・河北省との友好提携40周年の交流再開に向けた取り組みなど語り合う

長野県日中友好協会は2月28日、52人が出席して日中友好新春講演会・座談会を長野市生涯学習センターで開きました。コロナ禍や尖閣問題、米中対立の激化など日中関係が困難を抱えている中でしたが、日中平和友好条約45周年と長野県河北省友好県省40周年の節目の年を迎え、友好交流の再開と相互信頼回復に努めていくことなどを語り合いました。座談会に先立って問題提起も兼ねた講演会が行われ有意義な会となりました。

◇会は大月良則理事長の司会で進行されました。
冒頭、高波謙二会長に代わって布施正幸副会長があいさつし、「コロナ禍で中止が続いていた新春座談会が3年ぶりに開催でき、対面で交流できることに感謝したい。 日中関係は新型コロナ禍によって、3年にわたり、人的交流が大きな制約を受け、さらに尖閣問題や激しい米中対立の影響を受け、国交正常化以来最大の危機を迎えていると危惧されている。一方で、困難な中にも、昨年11月、3年ぶりに首脳会談が開催され建設的な関係構築を確認し合った。また中国のゼロコロナ政策が転換され、交流再開の見通しが立ってきたなどの明るい兆しもある。激動する国際情勢の中で、日本は自主的立場に立って外交努力を重ね、日中間の不安定要因を克服し、「戦略的互恵関係」を前進させるため努めてほしい。日中平和友好条約45周年、河北省との友好提携40周年にあたり地方民間交流の再活性化に努めていきたい。県日中友好都市中学生卓球交流大会、知事訪中に合わせての友好訪中団の派遣、強制連行された中国人殉難者の慰霊祭開催などに取り組んでいきたい。座談会に先立って日中友好協会全国本部の専務理事として活躍されている西堀正司副会長に日中関係の課題について、また著名な書道家で驥山館館長の川村龍洲先生に中国文化と日本との縁(えにし)についてお話いただき、抱負を膨らませて有意義な座談会にしていただきたい」と述べました。

◇西堀副会長には「日中平和友好条約45周年を迎えての日中関係」と題してお話しいただきました。--平和友好条約の批准書交換のために鄧小平が1978年、来日してから45周年を迎える。中国はこの年から改革開放に舵を切り、以後驚異的な発展を遂げていく。昨年は国交正常化50周年の年であり、また明治維新から日本の敗戦までの77年、敗戦から昨年までの77年という2つ目の77年の年であった。第3の77年はどうなるのか?現在第3次世界大戦前夜という人もいる。日中戦争は中国側に3500万人の死傷者を出し、日本も310万人の死者を出した。日中友好は日本の未来にとって必要不可欠だ。米中は鋭く対立しているように見えるが、両国間の昨年の貿易額は6900億ドルで史上最高となった。日中貿易も43.8兆円で史上最高をを記録している。冷静に見れば運命共同体である。世界の人口は増え続け80億人を突破した。世界が抱えている貧困、環境、食糧問題を考えると、ウクライナ戦争に端を発した第3次世界大戦はどうしても防がなくてはならない。日中友好はそうした課題とも関連している。民間交流を再開し、相互信頼を回復し、日中不再戦のために努力を傾けていきたい。

◇川村氏には「中国の歴史文化と日本」と題してお話しいただきました。--(明治の元勲、西園寺公望の書=辛亥の年号が記されている=を披露しつつ)辛亥革命は1911年だが、孫文の辛亥革命に共鳴し支援した日本人は多い。日本ではこの年2・26事件が起きている。過去の歴史は現在とつながっていることを自覚したい。「温故知新」(古きを尋ねて新しきを知る)と言われるが、温には復習するという意味がある。中国は日本にとって明治まで師であり尊敬の対象であった。日清・日露の戦争に勝って、中国人、韓国人に対する偏見を持つようになり、満州事変、日中戦争へと進んで行ってしまった。現在の日本語は英語が氾濫し、漢字の力が衰えているように思う。日本語の7割は漢字と漢字を用いた熟語で構成されており、漢字かな交じり文の利点によって、1秒で15文字を判読できる。正しく日本語を習得していくことは重要だ。中国語、筆、書を心得ている政治家、財界人が少なくなっていることは嘆かわしい。「戦争と平和」と言われるが、「外交と平和」こそが大切と思う。外交に力を入れ、平和を守っていく。そのためにも言葉を鍛え、漢字を大切にし文化的素養を高めていくことが必要と思う。

◇続いて、中澤保範事務局長が昨年の事業実施状況と、第2回理事会(11/26)で決定された今年の主な事業計画を報告し、「県協会は、この1年、コロナ禍のもとでも、オンラインの活用、可能なところから対面交流を進める方針の下、努力した。2月の北京冬季五輪は現地での応援はできなかったが、新華社取材を通じて長野県と中国との40年余りにわたるスキー交流の歴史が紹介され、大きな反響を呼んだ。5月の定期大会は、書面決議で行った。10月には、日中国交正常化50周年記念講演会を西園寺一晃先生を講師に民間交流が友好の基礎であることを再確認した。また中国帰国者日本語教室、中国語講座と中国語スピーチコンテスト、日中連続市民講座等を実施した。各地区協会や女性委員会も、対策を講じながら定期総会や交流事業を実施した。本年は日中平和友好条約45周年、長野県と河北省友好県省40周年の節目の年にあたる。長野県日中友好都市中学生卓球交流大会や知事訪中に合わせての県友好訪中団、強制連行殉難中国人慰霊祭などに取り組んでいきたい」と述べました。また戸井田靜男長野ラジオ孔子学堂事務局長から中国語講座と中国語スピーチコンテスト、中国文化講座の取り組みなどが報告されました。

◇続いて地区活動報告や今後の取り組み・抱負が語られました。

◇最後に福島信行副会長が「皆さんのご協力で、有意義で熱心な座談会となった。難しい状況の中で皆さんが友好に努力されていることが共有できた。先ごろ、パンダのシャンシャンや永明が中国に返還され別れを惜しんだが、国交正常化の記念で上野動物園にカンカンとランランが贈られてきたとき、そのお返しに大町市の山岳博物館から天然記念物のニホンカモシカのつがいが北京動物園に贈られたことが地元の新聞に紹介された。忘れてはならない身近な日中友好のエピソードだ。語り継いでいきたい」と述べ座談会を終了しました。

 ありがとうシャンシャン、永明!深い思い出を残して中国へ(2/21・22)

 上野動物園のジャイアントパンダのシャンシャン(5歳♀)が2月21日、大勢の皆さんの見送りを受けながら、中国に旅立ちました。中国で良いパートナーとめぐり合い、元気な赤ちゃんが誕生するといいですね。
 
 ◇ シャンシャンの  旅立つ春の  涙かな  送る手待つ手  熱く繋いで (F)

 続いて、2月22日には和歌山県白浜町「アドベンチャーワールド」のパンダ・永明(30歳♂)とその子供の桜浜、桃浜(いずれも8歳♀)も中国に向かいました。永明は16頭もの子供を誕生させたスーパーぱぱです。中国でゆっくりと余生を過ごしてほしいですね。

 ◇永明や  16頭の  父となり  春の佳き日に   故郷(ふるさと)へ発つ (M)    



◎このイラストは、河北省の友人の紀こうさんのお嬢さんの作品です。大使館に採用されたそうです。

◎左の記事は信濃毎日新聞2/22より。

 第26期第4回日中連続市民講座、「清朝の海賊問題」(2/18)

 第26期第4回日中関係を考える連続市民講座が2月18日、日中友好センター教室において開かれ、信州大学人文学部准教授の豊岡康史先生が「清朝の海賊問題」と題して講演しました。講座には17人が出席し熱心に聴講しました。

 豊岡先生は、「国際関係と国内問題はどちらが優先されるのか?清朝政府のホンネとタテマエ、公式発表をどこまで信じるか?」と問題提起し、「清朝と海賊問題」の事例を紹介しながら解説しました。

1.1819世紀の海賊はどのような人々か。

アヘン戦争前夜の18-19世紀の清朝、浙江・福建・広東の各沿海域や南シナ海では海賊行為が急増し、大きな被害をもたらした。海賊は過剰人口による好調な国際・国内交易に寄生していた。海賊集団の収入源は打単=みかじめ料を柱としていた。清朝の貿易管理に禁輸は無く、明代(官が認めた交易以外は禁止)の”武装貿易集団”倭寇とは違った。海賊になる理由は自発的参加者40%、脅迫されての参加者60%で連鎖する人集め請負構造となっていた。越境しない海賊(浙江・福建・広東の各沿海域、方言話者内でおおむね完結する)と越境する海賊集団(南シナ海で活動、上中下の階層に別れ、上は安南=ベトナムの海軍に無理やり編入されていた)とに分かれる。

2.ベトナムから来る海賊

 1819世紀の南シナ海で海賊が横行する中で、清朝とベトナム関係における「海賊」の扱いは興味深い。清朝・安南(ベトナム)関係の中の「海賊」問題=1771年 西山(タイソン)阮氏が蜂起し、1788年 ハノイの安南国王が清へ亡命。1789年 清朝はベトナムへ軍事介入するが失敗し、西山阮氏の安南国成立。まもなく清朝と関係正常化。1789年にタイソン王朝が朝貢の地位を与えられた後、安南と海賊の関係は中国によって問題と見なされたが、緊張を高めないように、注意を引くことを避けた。1790年~1801年ベトナム国内の対立。広南(カンナム)阮氏サイゴンに建国。この間、清朝は軍事介入せず。(「西山阮氏の安南国は海賊問題の元凶だが、まもなく滅びるから介入しないでおこうと武力行使をしない(できない)ことを正当化する。)しかし1801年に西山阮氏の王朝が崩壊し広南(カンナム)阮氏を認めたときは、清朝政府はこれを正当化するために西山阮氏の王朝が海賊行為を扇動したと非難した。その後、1802年に新しい阮(グエン)王朝が朝貢の地位を申請したとき、中国は西山阮氏の安南が海賊との取引に協力していたという理由で新王朝を認めた。安南と海賊の間に存在した親密な関係に関する宣言は、清の朝廷内の外交政策を正当化する試みに他ならなかった。ここに清朝政府のホンネとタテマエを見て取ることができる。

 終了後現在の南シナ海の領有権をめぐる中国と周辺諸国の争いなどについて質問が出され、歴史的経緯や現状について解説された。

 第28回県日中友好都市交流会議、オンラインで開催(2/9)
「日中平和友好条約45周年、河北省との友好40周年、記念交流事業に向けて」


 第28回県日中友好都市交流会議が2月9日、オンラインで開かれました。県、県協会及び関係自治体の国際交流担当者と日中友好協会役員19名が参加してそれぞれの友好都市交流の現状を報告し、意見交換を行いました。

 冒頭のあいさつで、小林一洋・県国際交流課課長は「コロナ禍にあっても、リモートで国際交流に取り組んできた。本年は日中平和友好条約45周年、河北省との友好40周年にあたる。コロナ禍も段々落ち着いてきた中で、河北省との交流を柱に友好都市交流を進めていきたい」と述べました。

 また布施正幸・県日中友好協会副会長は、日頃の日中友好のご尽力に敬意を表し、県内では県及び6市3町1村が中国と友好都市或いは友好交流都市関係を締結していることに触れたのち、「コロナ禍や尖閣問題、米中対立激化など困難はあるが、3年ぶりの両国首脳会談の実現、中国のゼロコロナ政策の転換など交流再開へのステップとなると期待している。8月に関係友好都市から中学生卓球選手を招いての友好都市卓球交流大会開催、秋の友好訪中団の派遣などを柱に、地方民間交流を進めていきたい」とあいさつしました。

 大月良則県日中友好協会理事長の司会で進められ、参加者の自己紹介の後、担当者から報告が行われました。

◇県では、2022年度事業として国際交流員による活動、河北省の中高生と伊那北高生とのオンライン囲碁交流、河北大学と県立大学の学生同士のオンライン交流、ホストタウンAGANO大学生交流リーダー育成オンライン講座・研修ツアー、河北省日韓友好都市ポスト五輪経済発展フォーラムへの参加等を実施した。23年度は、国際交流員による学校や地域の国際交流イベントなどへの協力、河北省友好提携40周年を記念事業として10月知事訪中を計画、ホストタウンNAGANO大学生交流リーダー育成事業、長野県・河北省大学連携交流(河北省の大学生受け入れ、河北大学へ研修員派遣、河北大学インターンシップ生受入れ)を予定している。

◇県日中友好協会では、22年度北京冬季五輪記念イベント、日中国交正常化50周年記念講演会、日中友好春節コンサート、中国語講座とスピーチコンテスト、第26期日中関係を考える連続市民講座、中国帰国者日本語教室と帰国者援護に係る市町村担当者研修会などに取り組んだ。23年度日中平和友好条約45、河北省との友好40周年に当たり、関係友好都市から卓球選手を招いて日中友好都市中学生卓球交流大会開催、知事訪中に同行しての県日中友好訪中団派遣、強制連行殉難中国人慰霊祭、記念講演と祝賀のつどいの開催、北京冬季五輪の成果を踏まえ日中スキー交流の継続実施(県日中スキー交流委員会事業として実施)、連続市民講座、中国語講座とスピーチコンテスト、帰国者支援交流などに取り組む。

◇長野市では22年度石家庄市との友好都市締結40周年オンライン記念交流会議(4,7月)、市立長野高校と石家庄外国語学校とのオンライン交流会などを実施。23年度は石家庄市中学生友好代表団受け入れ、長野市中学生友好代表団派遣、世滑走し語学研修生受け入れ、長野市語学研修生派遣、日中友好都市中学生卓球交流大会を予定。長野市日中友好協会としては、日中友好マレット交流大会、ワールドフェスタin長野22、日中友好春節コンサートなどを実施した。

◇須坂市では、22年度、日中国交正常化0周年記念事業として須坂市・四平市高校生大学生オンライン交流会を持ち、コロナ禍の生活実態の紹介や学校での特色ある取り組み、学校生活・サークル活動の紹介を行った。四平市との市長メッセージ交換、「日本と中国」須坂市版に「四平市の今」や新年メッセージを四平市から寄稿。23年度は日中友好都市中学生卓球交流大会実施予定。

◇松本市では、22年度新年あいさつ交換。22年度は日中友好都市中学生卓球交流大会、選手団受入れ、交流大会実施。

◇上田市では、22年度、寧波市新市長就任祝賀メッセージ、担当者間オンライン交流、国交正常化50周年記念して寧波市と友好都市との友好交流写真展に上田市長のビデオメッセージと上田市のプロモーションビデオを送り参加。新年あいさつ市長メッセージ交換を実施。23年度は日中友好都市中学生卓球交流大会実施。

◇飯山市では、22年度はコロナのため交流は特になかった。23年度は、日中友好都市中学生卓球交流大会に参加。

◇伊那市では、長らく北京市通州区の交流が途絶えているが、民間交流等を通じて関係を修復していきたい。(伊那日中友好協会)

◇山ノ内町では22年度、密雲区との図書の交換、「一帯一路」文化観光プロモーション参加。23年度は代表団受入れは未定、図書の交換。

◇泰阜村では5年前に20周年記念事業を行って以来交流がとどこおってているが、方正県との関係を大切にして、帰国者支援などに取り組んでいきたい。

 コロナ禍の影響で、困難な中、各市町村ともオンライン交流等工夫して取り組まれていました。新年度は、日中双方に交流再開への期待が大きく、受入れや派遣計画を立てているところが見受けられました。特に県と5市は日中友好都市中学生卓球交流大会を予定しています。

 最後に西堀副会長(日中友好協会全国本部専務理事)から日中関係の現状と課題についてお話しいただきました。

 --コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻、米中対立の激化など世界的分断が危惧されているが、米中貿易額は昨年6900億ドルに達し史上最高額を記録している。グローバルな視点から平和と相互依存関係を大切にし分断を阻止していきたい。東京・北京と連続して開催された夏と冬の五輪は平和の祭典だった。世界平和を追求していく上でも日中友好の必要性を強く感じている。コロナ禍も峠を越えつつあり、中国もゼロコロナ政策を転換したので交流再開の条件が生まれてきた。地方民間交流が平和に大きく貢献することを自覚してお互いに頑張っていきましょう。--
 軽井沢日中設立10周年記念春節交流会にぎやかに開催(2/5)

  軽井沢日中友好協会の設立10周年記念春節交流会が2月5日40名が参加して新軽井沢会館において開かれました。

 第1部で、荒木武貴会長は、「2011年設立以来、10年余り、佐藤敬治初代会長はじめ役員会員の努力によって訪中団派遣や中国大使館との交流、アイスホッケーチームの受け入れ応援、餃子交流会など多彩な事業に取り組んできた。本年は日中平和友好条約45周年を迎えている。日中関係は困難を抱えているが民間交流が友好の基礎であるあることを確認し今後とも皆様のご協力のもと歩んでまいりたい」とあいさつしました。

 来賓として県日中友好協会の布施正幸副会長、軽井沢高校の下井一志校長、小諸市日中友好協会の清水清利副会長が祝辞を述べました。

 布施副会長は、10周年を祝った後、「佐藤初代会長、荒井会長はじめ皆様の熱意に敬意を表します。国交正常化から50年を経過して、日中関係は厳しい状況におかれているが、民間友好ボランティア団体である友好協会は両国の有意の皆さんと協力して、日中不再戦、平和友好の道を歩んでいきたい。平和友好条約45周年、長野県と河北省友好県省40周年の本年、知事の訪中や友好都市中学生卓球交流大会等も計画されている。交流再開の年にし友好増進に努めましょう」と呼びかけました。

 続いて佐藤敬治前会長へ感謝状と記念品が贈られました。

 第2部の交流会では、華やかな日本舞踊(竹本流舞鶴会の皆さん)、中国舞踊とベリーダンス(Yuana教室の皆さん)、歌唱(バリトン歌手崔宗宝さん夫妻)が次々と披露され、会場は華やかな雰囲気で大いに盛り上がりました。

 コロナ禍対策のため餃子作り交流会の代わりに、餃子入りお弁当がお土産に配られました。

第26期第3回日中連続市民講座、「米中のはざまにおける日本の立場と選択肢」(1/29)

 日中関係を考える連続市民講座第26期第3回は、上田女子短期大学学長の小池明先生が「米中のはざまにおける日本の立場と選択肢」と題して講演しました。20年間の商社マン勤務うち約半分を、イギリス、フランス、アメリカで過ごし、中国にも深い関心を寄せ留学生の受け入れなど行ってきた体験も踏まえ、米中対立が激化する中で両国と深いかかわりを持つ日本はどうあるべきかについて話し、26名が熱心に聴講しました。

 小池先生は中国、アメリカの現状と近未来、世界の今を解説した後、日本の選択肢について語りました。

――中国は1977年文化大革命終了時点では世界的プレゼンスがわずかなものであったが、改革開放への転換以来大きく発展し世界の重要なプレイヤーとなっている。「国家資本主義」的発展を遂げ、同じチームではなく1つの極を作った。中国は高度経済成長期を過ぎ、安定成長期に入っている。世界の工場(共通のルール)、巨大市場、一帯一路、大国志向、権力集中などに国際社会から今後の行方を注視されている。多民族国家で高齢化などかかえている問題も多い。経済発展が共産党統治の正当性だったがダウンした時、民族主義を掻き立てて乗り切ろうとしないか。

 一方のアメリカは格差と分断が深刻で大変な世になってきている。妥協なき分断、深刻な人種差別が存在し、産軍複合体で外国に過剰介入してきた。「遠くの戦争は蜜の味がする」。しかし、自由主義のチャンピオンとして創造エネルギーを持っている。米は、覇権国の一方の極としてあり続けるだろう。

 米から見て中国の成長はいいが価値観の違う対極を作ってもらっては困る。2020年以降、米の作った世界秩序を壊そうとしているとの疑念を深め中国の体質(体制)に批判が向けられるようになった。中国から見ると、米は旧体制維持のため価値観を押し付けていると反発している。米中対立、覇権争いの激化の中で日本の立ち位置は難しくなっている。日本は、対米関係を基軸としつつも、最大の貿易相手国である中国ともうまく付き合っていくべきであり、いろいろな分野のいろいろな人々との交流を深めていくべきだ。国と国の関係は一時的な対立、緊張はあるのが当然であり、それを永続させない努力が双方に不可欠。――

 講演終了後受講者からデカップリングや金融資本主義などについての質問が出されました。

 日中友好春節コンサート感動のひと時を過ごす、中国民族楽器演奏に大きな拍手(1/28)

日中友好春節コンサートが1月14日、長野市若里市民文化ホールで開催され、600人の市民が二胡や古筝演奏、バリトンとソプラノ歌唱、ピアノや金管アンサンブル演奏を楽しみました。2時間余りの演奏に観客の皆さんから盛んな拍手が送られました。

 出演者は、二胡奏者で日本二胡振興会会長の武楽群さん、古筝奏者の王敏さんと渡邊美姫さん母子、バリトン歌手の崔宗宝さんとソプラノ歌手の徐泙さん夫妻(軽井沢在住)、ピアノ伴奏の村上藍さんらとともに、地元から二胡奏者の久保里子さんと久保さんが主宰する長野二胡学友会の皆さんや長野ラジオ孔子学堂二胡教室の長谷川宗利さん(中阮)、鈴木正彦さん(笛子)、金管アンサンブルのシュムックの皆さんも加わりにぎやかな舞台となりました。

 武楽群さんは1988年に来日、音楽、美術、演劇、著作など、多方面で活躍。現在、NPO日本二胡振興会の会長として、日本における中国楽器二胡の普及振興に努めています。あいさつの中で、「30年ほど前来日した時は二胡を知っている方も少なかったが今や多くの方が二胡を愛好している。こんなにうれしいことはない」と語りました。また東日本大震災被災地に何度も足を運んだことやつなみで押し流された流木で二胡を作って演奏していること等も紹介されました。武さんに師事した久保里子さんとシュムックメンバーで元SBCアナウンサーの久保正彰さんの名司会で気持ちよく進行していきました。

 大月良則県日中友好協会理事長が、主催者を代表してあいさつし、「日中平和友好条約45周年の春節にあたり、素晴らしい中国民族楽器のしらべを味わってほしい。本日は中国帰国者の皆さんも大勢参加いただいている。日本と中国は、争えばともに傷つき、和すればともに益となる。末永い平和友好を願う」とあいさつしました。

  オープニングの合奏では春節にちなんで「喜洋洋」そして「紫竹調」、さらに美空ひばりの代表作「川の流れのように」が演奏されました。続いて古筝奏者の王敏さんが「嘎達梅林」(ガダ・メイリン)を、渡邊美姫さんも加わり古筝二重奏で「黄山流水」を披露しました。崔宗宝さんは宮沢賢治の「雨にも負けず」の歌を会場全体に響かせ、徐さんとともに石川啄木の「初恋」を歌って拍手を浴びました。武楽群さんと王敏さんの二胡と古筝の合奏「二泉映月」では”津波二胡”での演奏となり、不屈の精神、未来への憧れを表現していると言われ、聴衆に感動を与えました。シュムックの皆さんによる金管九重奏「トランペットチューン」「沖縄メドレー」は華やかな金管アンサンブルが鳴り響きました。「長相思」は武楽群さんと久保里子さんの二胡とシュムックの皆さんの金管九重奏の合奏という珍しい試みで披露されました。村上藍さんの「茉莉花」のピアノ演奏、武さんの「黄土恋歌」も深い感動を与えました。最後に、春節の大みそかに放送されたCCTVの番組「春節晩会」のエンディングテーマ曲「同一首歌」が二胡と古筝の演奏をバックに崔・徐さんカップルによって歌い上げられました。拍手が鳴りやまない中、アンコールに応えて出演者が勢ぞろいして、「ふるさと」が会場と一体となって演奏されました。2時間余りがあっという間に過ぎ、長野市日中友好協会から花束の贈呈が行われ終演となりました。

  「二胡や古筝をはじめ中国民族楽器の素晴らしい演奏、金管楽器演奏も加わりを楽しく聞かせていただきました。心に響き至福のひと時でした」と語りながら帰って行く観客の皆さんを、コロナ禍の中で、無事コンサートが実施できたことに感謝しながら、日中友好協会のスタッフも嬉しく見送りました。

 

年頭祝辞
--平和友好条約45周年、河北省との友好40周年、相互信頼を回復し平和友好の歩を進めよう!
                 
          長野県日中友好協会  会長 高波謙二



 明けましておめでとうございます。日ごろの日中友好のご尽力に敬意を表し、県協会の諸活動へのご支援、ご協力に厚く感謝申し上げます。

 昨年は日中国交正常化50周年の年に当たりました。改めて国交正常化の意義とこの50年間の日中関係の巨大な変化を認識した次第です。

 日中関係は新型コロナ禍によって、3年にわたり、人的交流が大きな制約を受け、経済・文化・スポーツ交流等も深刻な影響を受けました。さらに尖閣問題や激しい米中対立の影響を受け、日中関係は国交正常化以来最大の危機を迎えているとの指摘もあります。

こうした中、昨秋11月、3年ぶりの日中首脳会談が開催されたことは両国関係を正常な軌道に戻す上で、重要なステップであると期待されております。国際情勢が激動している中、日本は自主的立場に立って外交努力を重ね、日中間の不安定要因を克服し、「戦略的互恵関係」を前進させるため努めてほしいと存じます。

県協会は、コロナ禍の影響を受け、予定した活動の多くを、中止せざるを得なったことは残念ですが、オンラインの活用、可能なところから対面交流も進める方針の下、努力しました。

2月の北京冬季五輪応援と新華社取材を通じての長野県と中国との40年余りにわたるスキー交流の歴史紹介は大きな反響を呼びました。5月の定期大会はやむを得ず書面表決で行いましたが、新理事長選出など組織の若返りに一歩をしるすことができました。9月には日中友好交流会議にオンラインで参加し県協会の友好活動を発表しました。10月には、西園寺一晃先生を講師に日中国交正常化50周年記念講演会を開催し、民間交流が友好の基礎であることを再確認することができました。また中国帰国者日本語教室(オンライン)、中国語講座(オンライン併用)・中国語スピーチコンテスト、日中連続市民講座等を実施しました。各地区協会や女性委員会も、困難な中、対策を講じながら対面での定期総会や身近な交流事業を実施しました。

本年は日中平和友好条約45周年、長野県と河北省友好県省40周年の節目の年を迎えます。日中友好都市中学生卓球交流大会や知事訪中に合わせての県友好訪中団、強制連行殉難中国人慰霊祭などを計画しています。引き続き厳しい状況の中ですが、日中共同声明と平和友好条約の原点と精神に立ち返って、日中不再戦、平和友好を守り、交流の再開をはかっていきたいと存じます。両国の有意の人々とともに民間の立場から相互信頼の回復に努めていきましょう。引き続き組織の若返りを図り、日本の前途にとって大切な使命を負っている友好協会の活性化をはかっていきたいと思います。変わらぬご支援ご協力をお願い申し上げます。

 

初春を迎えて            

            長野県知事 阿部守一

 
 明けましておめでとうございます。皆様には、健やかに新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。

 昨年は、日中国交正常化50周年を迎え、日中両国にとって大きな節目の年となりました。2月には、本県が長野冬季五輪の知識とノウハウにより協力してきた北京冬季五輪が開催され、世界中のアスリートが河北省と北京市に集い、成功裏に大会が開催されたことは、大変喜ばしいことでした。

 そして、11月には、実に約3年ぶりとなる日中首脳会談が実現し、3期目を迎えた習主席と岸田首相が対面で会談し、関係安定化に向け協力する方針で一致したことで、今後、明るく良好な関係で両国の対話が行われていくことが期待されます。

 本年は、いよいよ長野県と河北省の友好提携40周年を迎えます。北京冬季五輪を開催した中国では、ウィンタースポーツ人口が飛躍的に拡大しており、日本の水際対策の緩和によるインバウンド再開とともに、中国人旅行者の訪日が、本格的に再開されることが期待されています。今年こそ、パウダースノーをはじめとする冬の魅力あふれるスキーリゾートや、アルプスをはじめとした雄大で自然豊かな山岳高原リゾートがある長野県を楽しみにお越しいただけることを期待しています。

 また、東京・北京五輪で培ったホストタウン事業の青少年交流の実績を深化させ、今後は長野県立大学を拠点とした中国河北大学との交流など、本県と河北省の次代を担う若者の交流促進が図られるよう取り組んでまいります。

 両県省の大きな節目を、中国朋友と喜びを共に分かちあえるよう精一杯取り組んでまいりますので、皆様の変わらぬご支援ご協力をお願い申し上げ、新年のご挨拶とさせていただきます。

 
新年のあいさつ

                中華人民共和国駐日本国特命全権大使  孔鉉佑

新年にあたり、中国駐日本大使館を代表しまして、貴協会及び会員の方々にお祝い申し上げ、そして長期にわたって中日友好の信念を堅持し、対中交流と協力を根気よく展開し、両国関係の改善と発展をたゆまず推進してきた各界のご友人の皆様に心から敬意と感謝を表します。

過ぎ去った2022年を振り返り、中日両国は国交正常化50周年という重要なマイルストーンを迎え、双方は各レベルの対話・意思疎通と各分野の交流を積極的に展開し、多種多彩な記念行事を開催し、中日関係全体的な安定と好転を推進してきました。先般、習近平国家主席は岸田総理と対面での初会談を実現しました。両国の指導者は、新時代の要請に相応しい建設的かつ安定的な中日関係の構築において重要な共通認識を達成し、両国関係の発展に方向性を示しました。今年は『中日平和友好条約』締結45周年というもう一つの歴史的節目であり、両国各界がこれを機に、条約の政治的意義、法的義務及び現在における価値を共に再確認し、平和友好の初心と使命を堅持していくことが大事であります。われわれは日本側と共に、中日の4つの政治文書の各原則を厳守し、両国指導者の共通認識の精神を指針として、積極的な要素を引き続き拡大し、矛盾と意見の相違をマネージし、リスクや妨害要因を排除し、中日関係が正しい方向に沿って安定的な改善・発展させていきたい所存であります。

 新たな一年を展望し、中国国民は習近平同志を核心とする党中央のリーダーシップのもと、中国共産党第20回全国代表大会が打ち出した戦略に従い、社会主義現代化強国の全面的建設という新たな道のりにおいて練磨奮進し、中国式現代化によって中華民族の偉大な復興を全面的に推進すると同時に、自らの平和的発展で変革と混乱が絡み合う世界に力強いプラスエネルギーを注ぎ、より多くの新たなチャンスを提供してまいります。中日両国が手を携えて協力し、国際責任を果たし、世界の平和と安定を守り、世界経済の回復と発展を推し進め、連携してグローバルな課題に取り組むために建設的な役割を果たし、新たな、より大きな貢献をすることを期待申し上げます。

 中日友好の基盤は民間にあります。民間友好は一貫して中日関係の独特な強みとして、いつになっても手放してはならない宝物でもあります。「疾風に勁草を知る、烈火に真金を見る」と言われるように、両国関係も風雨にさらされてこそ、民間友好の価値と力が際立つ。両国の友人が積極的な行動で、友好と協力の旗を高く掲げ、プラスエネルギーを広げ、人的文化交流と民間地方往来を力強く推進し、両国民とりわけ青少年同士の交流を強化し、心のふれあい、通じ合いを促し、友情の絆を深め、民間友好の新ブームを盛り上げていただくことを心から願うところであります。

 末筆ながら、友人の皆様のご健勝ご多幸を心からお祈り申し上げ、新たな一年において中日関係のさらなる大きな改善と発展、中日平和友好、協力ウィンウィンの新たな一章が開かれることを祈念申し上げます。

 第26期第2回日中連続市民講座、中国残留孤児3世がかかえる課題を考える(12/18)

 日中関係を考える連続市民講座第26期第2回は、元中学校教諭の飯島春光さんが「中国残留孤児3世がかかえる課題」と題して講演しました。学校教育の現場での経験や取り組みを踏まえ、残留孤児の歴史的背景を学ぶ大切さを訴えました。

 飯島さんは勤務先の長野市内の中学校で、中国人への偏見から帰国者3世や4世の生徒へのいじめが深刻化したことを紹介。生徒の祖父母らから、戦時中に旧満州(中国東北部)で苦労した経験を聞き取り、授業で他の生徒と共有することで帰国者への理解を深めたとしました。「周囲だけでなく、当事者の3世ですら自分のルーツを知らないのが問題だった」と話しました。

 帰国者の問題が世代をまたいで続いている背景として、「学校教育で満蒙開拓の歴史が十分に教えられていない」と指摘しました。 講演終了後受講者から次々と質問や感想が出されました。

 第26期日中関係を考える連続市民講座スタート(11/26)

第26期日中関係を考える連続市民講座が11月27日からスタートしました。県内の大学と県日中友好協会などで作る県日中学術交流委員会主催で、毎月1回のペースで文化、歴史、経済関係などをテーマに計6回の講座が開かれます。

 第1回は長野大学の塚瀬進教授が「中国における満州族の歴史」と題して講演しました。当日は24名が熱心に受講しました

―中国の人口統計によると約1000万人の満族(満州族)がいるととされる。共通の宗教や言語は存在しない。マンチュリア(満州)における満州人の軌跡を見ると、①ヌルハチ・ホンタイジがジュシェン(女真)人(その後マンジュ=満州と呼ぶ)の各部族を統合し、八旗に編成して軍事力の動員を効率的にし、周辺のモンゴル人、漢人を取り込み勢力を拡大。②山海関から入関後は、漢人移住者を取り込み、旗人の人数は増加。旗人は、マンチュリア、北京、各地の駐防拠点に配置された。③20世紀以降、旗人の特権は廃止、さらには打倒の対象となる。④中華人民共和国により少数民族に指定され、民族として存在が認められる、などと―と語りました。講演終了後、出席者から活発な質問や意見が出されました。

 連続市民講座の開催趣旨は次の通りです。

 日中国交正常化から50年を経過しました。日中関係は新型コロナによる人的交流のストップ、米中対立の激化によって、経済、文化学術、スポーツなどの分野の交流においても困難が続いています。日中共同声明の原点に返って日中関係を破たんさせないため英知を集め、両国国民の相互信頼関係を醸成していくことが望まれます。歴史的に深いかかわりを持ち、日本の最大 の貿易相手国である中国はGDP第2位の経済大国となり巨大な変化を遂げています。14億人が住む隣国中国に対する理解を深めることは日本にとって一層重要となっています。長野県日中学術交流委員会では、中国を多面的に理解するために県内で活躍している大学・短大等の先生を講師に迎え、第26期連続市民講座を計画しました。多数ご参加ください。

 県日中女性委員会、田中角栄記念館を訪問(11/8)  

県日中友好協会女性委員会は11月8日、日中国交正常化50周年記念バスツアーで、柏崎市の田中角栄記念館を訪ねた。美しい紅葉を眺めながら、車中では西堀正司さん(県日中副会長)による恒例のレクチャーを受けた。第64代内閣総理大臣に任命された時は54歳の最年少で、就任直前の「日本列島改造論」で、大都市と地方の格差をなくすために高速道路や新幹線網の壮大な構想を発表。明晰な知識と実行力は「コンピューター付ブルドーザー」と呼ばれ、様々なエピソードを興味深々で伺った。

北陸高速道西山インターを降りて、すぐの記念館では、ビデオ鑑賞後、遺墨・遺品などの展示を見学。目白御殿と言われた東京の自宅応接間も再現されていた。等身大の角栄パネル前では各自、スマホでの記念撮影が人気だった。

昼食は「角さんの台所」で角さんが愛した具たくさんの郷土食・のっぺい汁と西山産コシヒカリのおにぎりをいただいた。帰路は門の表札に「田中」と記した生家をバスから確認。新井の鮮魚センターで買い物を楽しみ無事帰宅した。

新潟の寒村に生まれで、小学卒から総理まで上り詰めた角栄に賛否両論あるが、“人間・田中角栄”の魅力を感じた一日だった。( 事務局長 松原京子)

女性委員会研修旅行に感謝して!
          県日中友好協会理事長 大月良則

私の手元に一枚の写真があります。宮澤女性委員長、西堀さんを中心に30数名余の晴れやかな表情の写真、日中国交正常化50周年を記念した女性委員会主催の研修旅行の写真です。

 田中角栄記念館へ向かう車中では、全国日中西堀専務理事を講師に、日中国交正常化の講演をいただきました。豪雪地帯の新潟からお嫁さんを迎えた長野県の家は、忍耐強いお嫁さんのお陰で家が栄えた話からスタート、田中総理を支えた女性のお話しへと進み、クライマックスは、田中総理の訪中秘話。当時、田中総理が、信念をもって、米国より先に国交正常化をなしえたこと、1972年の国交正常化へ向けての訪中は、戦後賠償、台湾問題、日米安保の3つの重要案件が未解決の状態で、国交正常化が実現するかどうかは、大きなかけであったこと等々、改めて先人の皆さんの英知と勇気に感銘を受けての田中角栄記念館、生家訪問となりました。

日中友好交流の取組みは、新型コロナの感染拡大により、ここ3年、中国の友人の皆さんとの対面での交流が途絶えています。また、各支部におかれても制約が多い中での活動となっています。

いただいた記念写真を見て、参加者の笑顔に、改めて、友好交流が人と人との温もりのある交流が原点であることを感じたところです。来年の日中平和友好条約締結45周年、河北省との友好交流提携40周年へ向けて、友好交流推進への思いを強くした1日となりました。女性委員会の皆様、吉岡さんありがとうございました。 

 第40回中国語スピーチコンテスト長野県大会、20人が出場(10/29)

 1029日、長野県日中友好協会ラジオ孔子学堂の主催による第40回中国語スピーチコンテスト長野県大会が信濃教育会館講堂で開催され、高校生や大学生・一般社会人20人が出場しました。

朗読部門には高校生の部3人、大学生の部5人と一般の部5人が出場、それぞれ全国統一課題文を発表し発音や表現力、熟練度を競いました。

 スピーチ部門には高校生・大学生の部に3人、一般の部に4人が出場し、自作文で内容や表現力を競いました。多様なテーマを取り上げ、レベルの高い弁論発表となりました。

--「キングダム」に魅せられ、中国語を学び始めたが中国の歴史文化に興味を持った。中国語を学んできたが就職内定企業が中国と取引のある会社で中国語が活かせることになり新たな目標ができた。高校の教師時代漢詩を中国語で朗詠したいと思ったが未達成、いま中国語のレベルアップを日常生活の中で工夫し学んでいる。中国人画家が描く日本の祭りの水墨画に感動した。大学でグローバル化の部門を担当しているが中国語を通じて出会いがあり交流が始まった、等々。

スピーチ部門の学生の部で優勝したのは、小林美月さん。英語は高校まで学んできたが通り一遍なものだった。大学に入って中国語を学び始めてからたくさんの出会いがあった。今後の人生に活かしていきたい、と流暢な中国語で発表しました。一般の部で優勝したのは清水岳美さん。技能実習生の外国人に日本語を教える中で有意義な体験をしたことを力強い中国語で発表しました。

 審査委員長の夏丹さんは講評の中で、熱のこもった発表で日ごろの努力の成果が見られ素晴らしかったと述べるとともに、「自分も日本語を特訓中だが、正確な発音や流暢さ、イントネーションを意識することが大切と思う。スピーチ部門では中国人との交流や、中国語を学ぶ中での発見、今後の希望や夢・新たな決意も表明され、多くの方に共感と元気を与えた」と、評価しました。

 安芸洋一長野ラジオ孔子学堂長は冒頭の主催者あいさつで「今回は40回目であり、また国交正常化50周年にあたる。コロナ禍により、学習機会がリモートになるなど、困難な中、勇気をもってチャレンジした出場者に敬意を表いたい。日ごろの学習の成果を発揮してほしい。中国語の学習を通じて相互理解を深め、日中友好の輪が広がることを期待しています」と述べました。

 西堀正司県日中友好協会副会長は来賓あいさつの中で「日中国交正常化50周年、スピーチコンテストも40回を迎えたがこの間中国語の普及向上に貢献してきた。中国語を通じて現在の中国を理解し日中友好に貢献してほしい」とあいさつしました。

 入賞者は次のとおりです。
◇スピーチ部門 高校生・大学生の部 ①小林美月 ②根橋佑奈 ③宮澤 開

◇スピーチ部門 一般の部 ①清水岳美 ②依田光枝 ③原田健司 (奨励賞)千村美恵子
◇朗読部門 高校生の部 ①飯島健介 ②田中来愛 ③水澤優羽
◇朗読部門 大学生の部 ①長澤日向花 ②藤巻美新 ③中坪香菜 (奨励賞)松尾優風 (敢闘賞)太田侑月 
◇朗読部門 一般の部 ①宮坂光子 ②老月秀光 ③木下佐和子  (奨励賞)宮沢一三 (敢闘賞)深井克純

 入賞者にはトロフィーや楯が贈られました。成績優秀者は来年1月の全国大会に推薦されます。

日中国交正常化50周年記念し講演会、西園寺一晃氏を講師に開催(10/18)

 長野県日中友好協会・県日中経済交流促進協議会・県日中学術交流委員会は10月18日、日中国交正常化50周年記念講演会を長野市内のホテル犀北館で開きました。講演会には、各界来賓や県内各地から120名が出席。西園寺一晃先生(元朝日新聞総合研究センター主任研究員)を講師に迎え「米中対立激化の中での日中関係・その現状と展望」と題して記念講演が行われました。終了後、先生を囲んでパネルディスカッションがおこなわれました。中国研究、日中関係の第一線で活躍されている先生ならではのお話で、グローバルな視点から日中関係のおかれている現状と課題を考える有意義な機会となりました。

 布施正幸・県日中友好協会副会長が主催者を代表して、「日中国交正常化50周年を迎えたが、日中関係は経済交流が史上最高を記録している一方、コロナ禍や、尖閣問題、米中対立の激化など多くの困難にぶつかっている。とりわけ米中対立の激化の波に巻き込まれて両国関係が破たんするようなことの無いよう英知を集めて進んで行くことが大切と思う。先生を講師に迎え、グローバルな視点から日中関係のおかれている現状と課題を考えていきたい」とあいさつしました。

 阿部守一県知事の祝賀メッセージが小林一洋県国際交流課長から披露されました。知事は「日本と中国は一衣帯水の隣国同士であり、文化的、歴史的ばかりでなく、経済的にもお互いなくてはならない深い関係にある。来年は長野県と河北省との友好提携40周年の節目を迎える。これまで積み重ねてきた両県省の交流の更なる深化を図っていきたい。講演会が日中関係の理解を深める場となることを期待申し上げます」と述べています。

西園寺先生は、米中対立の現状を分かりやすく解説し、今後もこの対立は長く続くが米中戦争は起こらないと述べました。また1972年の日中国交正常化に至った経過を振り返り、他の国とは違って民間交流の積み重ねがありLT貿易など経済界の期待が大きかったと指摘しました。米中対立が激化する中、「日本は米中のはざまでどのようなスタンスをとるか。双方とバランスの取れた、いい関係を構築しないといけない」と述べました。

講演後、西園寺先生を囲んで西堀正司・県日中副会長がコーディネーター役をつとめ、土屋龍一郎氏(元日本青年会議所会頭)と大月良則氏(県日中理事長・元県国際担当部長)をパネラーに、パネルディスカッションが行われました。(概略下記参照)

≪西園寺先生の講演「米中対立激化の中での日中関係・その現状と展望」 ≫

この数年世界はコロナ禍と米中対立に翻弄されてきた。コロナ禍は終息しつつあるが、米中対立は長く続くだろう。しかし核の時代にあって大国同士の大きな戦争は核戦争となり、人類の滅亡につながる。ウクライナを見ても米ロ戦争にはならない。ポストコロナは米中対立で回っていく。対立は続いても、米中戦争は起こらないだろう。人類史上ローマ帝国など大国強国が表れたが永遠に続くことはない。近代に入って世界の覇権を握っていた大英帝国も2度の大戦を経てアメリカにとってかわられた。米国の覇権もいつまでも続くわけではない。

世界はポスト冷戦の大変革期にある。米ソ冷戦がおわり世界はかえって無秩序になって紛争が多発している。米中対立を軸に動いている。対立は主として経済、貿易、ハイテク分野で激化している。トランプ時代は一国主義で貿易赤字問題が中心だった。バイデン時代になると、親米国家をまとめて中国に対抗しようとしている。仲間を作って中国を封じ込める戦略。「自由と民主主義」の価値観を同じくする国、「自由で開かれたインド太平洋」を標榜しアメリカを中心とした旧秩序を守る。一方どの国も経済グローバル化が進む中で、GDPの1位と2位の国が争ってもなんの益もなく、「三方一両損」の状態。日中貿易ばかりでなく、米中貿易、EUの対中貿易はどんなに制限しようとしても昨年史上最高を記録している。グローバル化した世界経済では部品も国境を越えている。産業のコメと言われる半導体6割は中国が買っていた。中国産は1割。組み立て分業。米のデカップリング政策でハーウェイやテンセントなどが攻撃されたが、半導体の原料のリン酸は中国が世界の70%を産出している。またレアアースも中国が90%を産出しており、これがなければハイテク産業も成り立たないし、兵器も作れない。半導体が外部からの輸入がストップしたら中国は自国で開発する。短期的に見れば中国は困るが、長期的に見れば自国で作り米国からの輸入が減ることになる。かつての、日米経済摩擦を振り返ってみると、紡績から車そしてコンピューター、半導体へと分野は変化していったが、アメリカを追い越すことは許さない。三菱が国産の次期戦闘機を開発することも許さなかった。

 米中対立は貿易摩擦からハイテク分野の競争に移行してきている。米が中国を意識し始めたのは、中国製造2025戦略を打ち出したとき。産業のハイテク化(ハイテク化は軍事とも連動している)建国100周年の2049年には世界の先頭に立つとの目標をかかげた。「一帯一路」巨大経済圏構想、中国の宇宙開発計画(月面着陸)、中国版GPS(米のGPS覇権がくずれる)等々。イギリスの研究所の見込みでは2030年~33年に中国はアメリカを追い抜くと予測している。

 日本の報道を見ると中国は孤立していると思われがちだが、アフリカ、中南米、アジア諸国など幅広い関係を持っている。これからは、日本はアメリカ一辺倒でなく頭を柔らかくして付き合っていく必要がある。国力は貿易だけで推し量れないが、世界の主要国は中国との貿易がトップを占めている国が多い。オーストラリアを見ても輸出の35%が中国向けで、対米輸出は6.3%というのが現実だ。

 では中国は世界覇権を握ることができるのか?できないと思う。特定の強国が世界を牛耳ることはできない。核戦争に勝者はいない。露6.2千発、米5.5千発、中3.5百発--の核を持っているがこれを使ったら世界は破滅する。人類滅亡の可能性は、①核戦争、②強力なウイルス、③極端な気候変動、④環境と生態系の破壊の4つしかないだろう。

 日中関係発展の上でODAによる対中借款は3兆円を超え、これは日本のODAの69%を占めるが、中国の発展に貢献した。主として円借款で中国はこれで日本の製品を購入した。中国の発展に伴い日中貿易も増えた。50年間で350倍になった。米中が仲良くしてもらうのが日本にとって最も好ましい。日本は国益を考えれば米中対立は望まない。

日本の戦後の対中政策を見ると岸内閣は経済交流を露骨に妨害した。池田内閣は経済民生重視政策で有名だが、対中政策も政経分離政策をとり、LT貿易など民間取り決めが結ばれ、民間の経済交流は盛んになった。佐藤内閣はこの流れを抑えるために日中貿易に輸出入銀行の融資を使わせない措置をとった。(吉田書簡)安倍内閣の政策は新政経分離政策と言われ、外交安保は日米同盟強化を基礎に価値観を同じくする国と連合し、中国封じ込めをおこない、経済的には対中協力を促進するというものだ。

「台湾有事」問題。安倍氏は「台湾有事は日本有事」と言った。台湾を巡る歴史を振り返ってみると、第2次大戦終了→米ソ冷戦スタート→国共内戦が始まるがこの時の国民党は430万の軍隊と米国の支援する豊富で優秀な武器を有し、一方の共産党は130万の粟を食べぼろをまとった軍隊で、ゲリラ戦を展開。米国は蒋介石を支援したが敗れた。朝鮮戦争をきっかけに対ソ防波堤としての役割を日本に求め、日本の民主化政策を反転させ、再軍備化に進んで行った。

台湾で戦争は起きるのか?台湾が独立宣言をすれば戦争になる。あるいは偶発的な衝突が引き金になる可能性はあるが、中国はアメリカと戦争をしたくない。米中台いずれも戦争を望まない。ウクライナになぜ米は直接介入しないのか。核戦争になることを恐れている。日本は米中のはざまでどのようなスタンスをとるべきか。中国包囲網の先頭に立つのではなく、外交的努力を傾けるべきと思う。双方とバランスの取れた、いい関係を構築しないといけない。
(文責編集部)

≪西園寺先生を囲むパネルディスカッション≫

◎西堀正司コーディネーター:それぞれの立場から中国との関わり、友好の思いなどを語っていただきたい。

◎土屋龍一郎氏は日本青年会議所会頭を務めていた時の経験を振り返り、「教科書問題の最中に訪中したが、街頭で中国の人々と心通う交流ができた。政治的なギクシャクがあっても国民同士交流を深めていくことが大切と思う」と語りました。

◎大月良則氏は「“飲水思源”の言葉を大切に、友好の先達の思いを継いで県日中友好協会理事長の役割を果たしていきたい。2010年の阿部知事の訪中に秘書課長として同行したが、当時尖閣問題直後で難しい時期であったが、全国の知事に先駆けて訪中したことは、良かったと思っている」と語りました。

◎西堀氏は「官民挙げての日中交流が大切と思う。コロナ禍や様々な障害があるが、平和友好の継続は、政府の意志の問題でもあり、民間の意志の問題でもある」と述べました。

◎西園寺先生は、「日中関係は世界的に見ても特異なものがある。民間交流が先行し、その後、国交正常化が実現した。ニクソン大統領の訪中前後の動き、中国の国連復帰など外的要因も大きかったが、国交正常化には、内的要因があった。石橋湛山、松村謙三、高碕達之助氏ら多くの先達が民間交流の積み上げ方式で努力してきた。また財界の期待も大変大きかった。当時と現在の困難をと比べると当時の方がもっと厳しかった」と述べました。

◎土屋:両国関係発展のためには、地方民間交流の柱になるものが必要と思う。

◎大月:交流の柱の一つとして、長野県は中国と40年にわたるスキー交流をおこなってきた。本年2月の北京冬季五輪のスキー競技は河北省の張家口市で開催された。新華社が40年間の交流を詳しく紹介した。今後も交流を続けていきたいし、インバウンド事業にもつながっていくと思う。

◎西堀:明治維新から敗戦まで77年、敗戦から本年まで77年になる。未来に向けての77年は2099年で21世紀末となる。日本と中国の付き合いの過去・現在・未来を顧みて、今を生きる我々は日中両国の平和友好のために努力していきたい。(文責編集部)


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