闘病記
癌という凄まじい病との闘い。昨年の8月からの闘病記録をまとめて見ました。
[◆]この印がついた所に、さらに詳しいその時の状況や写真などを載せました。(8月30日)
闘病生活はつらく厳しいものでした。真実をそのまま紹介しています。
8月1日- 健康チェックの結果、貧血(鉄欠乏症)の所見
- 8月3日
- ニュージーランド合宿へ出発
- 8月27日
- 帰国・帰宅
SAJ登録用写真の撮影(遺影)(ホームの写真)- 9月2〜3日
- 人間ドック。健康の全体バランスを確認するため。(長野朝日病院)
◆ガン告知前(9/4)兄弟3人で温泉旅行に行く- 9月6日(土)
- 癌告知。「スキルスと思われる」
オリンピックの夢、断念。手術を決意。
「オレのどこが悪い!4年後のオリンピックには復活できるのか!」- 9月11日
- 慈恵医大 柏病院(千葉県)入院
- 9月20日
- 術前説明 □病名 アディノカルノーマ(低分化腺癌)
□末期癌(ステージ」=5)の所見- 9月22日
- 開腹手術 腹膜播種、確認(P3)
執刀医 平井勝也教授 古川良幸講師(主治医)
◆手術時の詳しい状況(父の手紙より)- 10月13日
- 柏病院退院
その後、3兄弟で九州・湯布院旅行、散歩、魚釣りなどゆっくり過ごす。
◆退院時の状況- 10月29日
- 抗ガン剤治療のため入院(長野朝日病院 山田康裕副院長・主治医)
□投薬抗ガン剤 ・CPTー11(カンプトテシン)・シスプラチンの併用決定
◆抗ガン剤治療時の状況- 11月8日
- 第1クール・第1回投与
- 12月2日
- 第2回投与
副作用の嘔吐、下痢なし- 12月19日
- 退院(第1クール終了)再発の兆候なし。
- 12月21日
- ザウススキー場で滑る。(長野〜千葉間一人で運転)
暮れ、正月はスキー三昧・筋力トレーニングなど、トレーニング再開
◆治療やその後の様子- ’98年1月5日
- 抗ガン剤治療のため再入院(第2クール)
見舞い拒否「悔しいから」- 1月13日
- 第3回目投与
- 1月27日
- 第4回目投与
「オリンピック本番、予戦と決勝の前走をやってもらいたい」と打診あり。本人は意欲を示す。- 2月5日
- 前走を断念。
「悔しいから・・・。森徹らしく、完璧な滑りを見せたいから・・・」
選手村入村直後、スティーブ・ファーレンコーチが見舞いに来る- 2月8日
- オリンピックモーグル予戦観戦(主治医同行)
「決勝をどう戦うか、君の意見を聞きたい」(スティーブコーチ)- 2月10日
- 退院
- 2月11日
- オリンピックモーグル ゴール付近で決勝戦観戦
里谷多英優勝 →マスコミに応えるスティーブコーチの通訳を務める。
「ヤッター。次はオレの番だ。4年後、4年後・・・。」- 2月12日
- 里谷選手を除くナショナルチーム全メンバーが徹を訪ね、さかや旅館の風呂に入浴。深夜選手村に帰る。
- 2月13日
- 兄・敏のノルディック複合個人戦ジャンプを会場で観戦
翌14日後半クロスカントリーは、悪天候のため会場近くの父の実家でテレビ応援
その後、スキーのトレーニング再開
◆1月からオリンピック時までの様子- 2月19日
- 兄・敏のノルディック複合団体戦ジャンプを会場で観戦
翌20日は悪天候の為、テレビ応援
その後、食後の下痢症状や下腹部の痛みを訴え、度々病院を訪ねる- 2月23日
- 上越国際スキー場 モーグル大会(A級)の前走をつとめ、いきなりヘリコプターの大技を決める。
- 2月27日
- 定期検診。腹水500cc。転移を疑わせる腹部の固まり発見。
「再発!」恐れていた不安が現実化する。
本人「目標にしていた全日本選手権大会には、どうしても出場したい」
○点滴で蛋白、痛み止め投与
○利尿剤注射で、腹水を小水に抜く治療
その後、車で福島県猪苗代町に向かう
◆全日本選手権に向けての様子- 2月28日
- 大会に備えて練習を重ねる。得意技のヘリコプターにこだわるが転倒。悔しがる。
下痢の症状が激しく、練習1本ごとにトイレに駆け込む。
父合流。
「明日は、ゴール出来ないかも知れない」徹
「ヘリにこだわって足でも折ったらどうする。簡単な技にしたらどうか・・・」(父)
「じゃ、決勝でヘリを使おうかな。足を折ってもどうせ病院生活なんだから、ヤルッ!!」徹- 3月1日
- 全日本フリースタイル選手権大会
下痢を警戒して朝から食事を抜く。水も飲まず、本番に備える。それでも、本番前3,4回トイレに駆け込む。
本番。完走。笑顔。
「楽しかった。第1エアーまでは、嬉しくてニコニコして滑っていた」
「本能が反応したみたい・・・」
夜、帰宅。- 3月3日
- 再入院。抗ガン剤治療第3クールのため
腹痛を訴え、下痢や嘔吐が激しくなる。食べ物がノドが通らず、日に日に痩せてくる。- 3月19日
- 抗ガン剤 第5回目投与
激痛。下痢。嘔吐。壮絶な闘いがはじまる。
死への恐怖。「僕の体はどうなっているのか」ベットを叩いたり、枕をかきむしったり、体を前後にゆすって激痛に耐える。
治療拒否、診療の不信が芽生える。精神的苦痛、不安発作も併発。
幻覚症状が現れる。「体がとける・・・」
「本当のボクはこんなものじゃない。何か別のもう一人のボクがいるようだ」
6回目の抗ガン剤投与は拒否。
◆末期ガンとの闘い- 4月14日
- 癌性腸閉塞。「この種の患者としては、驚異的な生命力だ」
◆治療の進み- 4月15日
- 心療内科の治療開始。
- 4月20日
- CT所見。癌性腹膜炎。生命の維持は極めて厳しい状態を告げられる。
打つ手なし。絶望感強まる。ホスピスの転院の検討はじまる。
主治医と激突。
「転院するのであれば、治療はない。治療中止」主治医
「先生はボクを見捨てるのですか。転院の判断は、今のボクには出来ないのに・・・」徹
◆転院へ、その時の状況- 4月30日
- 転院を認めましょう。(主治医)
- 5月1日
- ◆長野県小布施町 新生病院ホスピス病棟へ転院
家族、交代で看護はじまる。- 5月3日
- ◆飯山北高校の同級会。徹の為に企画された。
気分爽快。1時間20分。ビール一口飲んだ。- 5月4日
- 外出。近くの小布施温泉へ父と
「転院してよかった。天国のように気分もいい」
しかし、体の全体バランスは急激にレベルダウンを繰り返す。すっかりやせる。
◆転院後、体調は悪くても、精神的に立ち直った- 5月10日
- 死への現実を受け入れる
心の緩和ケアの主治医(女性)に、体の具合を聞く。
「あとどれくらい生きられる?」徹
「あとに残された時間は少ないの。闘いをやめてゆっくり生きようね」女医
◆夜、父とベランダで会話。
「あと1年生きたかった。オリンピックまで・・・。オリンピックまでってやってきたから、何も思い出をつくってないんだ。いっぱい思い出を作って、そして・・・」- 5月中旬
- さらにレベルダウン
歩けない。体がだるい。食べられない。
ウィダーインゼリーが主食
胃に管を入れる。
◆最後の闘いへ- 5月30日
- 「奇跡が起きないかしら」母
「今生きていることが奇跡なんですよ。私たちが知っている症例にも、医学のデータにも、森君の場合はすべての予測を越えてしまっている。すごいことなんですよ」主治医
◆奇跡を信じて- 6月9日
- 気功治療と自然食(玄米ミルク)開始
便秘の便、カラーンと落ちる3〜4cm- 6月10日
- 朝、思うぞんぶんと思われるくらい、大量の便をした。
鼻の管をはずす。- 6月18日
- 徐々に回復。しかし、自分の力では、ベットから起きあがれない。
- 6月29日
- ◆25才誕生日。PM2:00病院でパーティー。
祖母も同席。フェリッサもカナダから来る。
「体調は最悪なのに、これまでで最高の誕生日だ」- 7月3日
- 兄、晃に。
「いろいろ悪かったな、ありがと」7月4日午前2時20分 永眠・・・・
このページは、父(行成)の記事です。