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5月6日
時代のスケッチ
ほんとうに無党派の時代なのだろうか?新聞は、そう書いているし、自分自身も無党派だと考えてきたけれど。
なんだか違和感を感じてしまう。そもそも「無党派」という表現が「党派」の側から見た呼び名だと思うし、
それは世論調査チックな言い方だ。アンケートをしました。支持政党は、ありません。じゃあ、無党派に分類。
そうなのかな。
ダウンサイジング化と、ネットワーク化。それが、政治の世界でも、いま、
遅れ馳せながら起きているのだと思う。小泉内閣の誕生は、確かに無党派的な力に支えられたが、
それは政党のど真ん中で起きた事件だ。「無党派」にかわる説明をメディアは迫られている。
ダウンサイジングとネットワーク。現時点では、こう説明するより他ないだろう。
消費の主役は、都心に聳える百貨店からスーパーへ、さらにはコンビニや通販に変わった。
プロが運営するお店なんかよりも、よほど売っているフリマの達人もいる時代だ。
コンクリートの巨大な店舗だけが、流通ではない。ひとつひとつは小さな単位に、
しかし、それらを繋ぐネットワークが重要になっている。
かつて隆盛を誇ったディスコという大きな箱は、小さなクラブのネットワークに席を譲った。
入り口に置かれた数々のフライヤーは、他の小さなハコを繋いでいる。
カウンターに寄りかかる女の子たち。彼女たちの手に握られたケータイの画面は、時刻を刻んでいる。そこに浮かび上がる「2001」の数字。
どんな年末の特別番組よりも、それは新しい時代の訪れを示しているように僕には思えた。
その画像が滑らかに動く時代が、もう近い。
情報通信の主役は、大型のスーパー・コンピュータから、パソコンやケータイに移った。
有機EL、青色発光ダイオード。窒化ガリウムに代って街に光るのは、何なのだろう。
より少ない消費量の電力で、ますます鮮やかな光が輝いている。
それらは何を伝え、何を照らすことになるのだろう。
エネルギーの主役は、ダムや火力、それに原子力を使った発電から、
風力発電やソーラーパネル、さらに燃料電池へと移りつつある。
カーボン・ナノ・チューブの登場は、水素エネルギーの可能性を暗示している。
電気通信の株価は低迷し、かわって素材を開発する化学・繊維のメーカーの株価が上昇している。
より小ささを目指すテクノロジーは、限りなく分子生物学に近接してゆくだろう。
大量に集めて捨てるゴミの処理が、より小さな地域で循環型の解決を求められている。
「夢の島」という高度成長の墓場も満杯だ。人々はゴミとの共存を試されているのだと思う。
知らないうちに何かが建って、知らないうちに何かが処分される事は許されなくなった。
自治体は、地元住民との対話の力を試されている。
大きな大学病院に頼る姿勢ではなく、自分を把握してくれる身近な医療を選ぶ姿勢が大切になってきている。
薬師如来にお参りするように、大学病院に並ぶことは、社会の負担となっている。
権威ある大学名が印刷されたクスリの袋は、神社のお守りではない。
政党だとか国政よりも、地方自治の変化が興味深い。
後援会や政党に代る何かが求められている。それは何なのだろう。
出入りが自由で、年功序列が問われない。そうした仕組みが求められていると思う。
それは、サッカーのクラブ運営にも似た何かだと予感するが、まだ名前は付けられていない。
「スポーツの如きもの」。今から100年前、ロンドンの留学生・夏目漱石は、英国の議会政治を手紙で説明した。
人づきあいが苦手だった漱石は、街のカフェで人々の会話に耳を傾けていたに違いない。
新聞や雑誌を手にしながら、「あっちが、正しい」「いや、こっちの方が正論だ」と語りあう人々を目撃したのだ。
長野県で起きている変化は、これに近い。農作業をしているオバチャンが、辞めていく土木部長の名前を知っている。
商店街のオジサンが、新しい教育長の名前を知っている。市町村長や県会議員の言い分と、県知事の言い分を聞き比べている。
自分たちの村は、どうなるのか。自分たちの街は、どう変るのか。興味を持たないわけにはいかないのだ。
「都会の人は、よくジャイアンツの話をするよね。野球の話。長野県では、それが政治なんだ」。
私は都会から帰ってくる若い人たちに、そう説明している。
NHKでは『北条時宗』という大河ドラマが放映されているが、長野県では『田中康夫』というドラマが毎晩放映されているようなものだ。
側近の離反。重臣との確執。大物女優が演じる大臣との対峙。そこには、大河な要素がふんだんに盛り込まれており、
その背景には、馴染みの山や河。ローカル・ニュースを、まるで連続ドラマのように眺めている人たちが多いのだ。
「権威は、いらないんです」。田中康夫は言っている。それは「脱ダム宣言」ならぬ「脱・権威宣言」のように思える。
彼は「すべては等価である」とも書いている。一着のアルマーニに袖を通したときの満足感と、一冊の岩波文庫を読み終えたときの満足感と・・・
それらは等価である、というわけだ。権威や形式に依存している人には、知事室に並んだ縫いぐるみの数々が不愉快に、そして挑発的に見えるのだろう。
権威や形式の嘘っぽさが、剥がれてゆく。若い世代と女性の支持率が、重要になっている。高度成長的なオヤジ社会が、時代にそぐわなくなってきている。
総理はバツイチ、知事はぺログリという時代である。
市町村や企業の財政を、退職金が直撃している。団塊の世代に支払われる退職金の負担が重いのだ。
希望退職者がアッという間に集まるのは、踏み絵のせいでもある。
退職金を貰って、いま辞めるのが良いのか。或いは、退職金が無いことを前提に、雇用が続いた方が良いのか。
そんな企業が増えている。存在の意味を表現できない公務員には、厳しい風が当たることだろう。
「変える」。「同じ目線で」。「地方の声を」。「公僕として」。「タウン・ミーティング」。
「しがらみを断って」。
半年前には信州の山間で語られていた台詞が、いまでは全国の至る所で響いている。
密着取材と記者クラブ制度に依存してきたマスコミも、「はじめに定義ありき」「まず政治用語ありき」な学者も、事態の変化を上手く説明できていない。
STREET WISE。街的な賢さと経済に対する嗅覚を備えたリーダーが求められている。
小泉内閣は、通貨の堕落を食い止めることができるだろうか。
所得も、地価も上がらず、物価だけが上がるインフレの足音。
マーケット参加者は、新発10年物国債の利回りに耳をそばだてている。
それは、危機を感じ取る「カナリアのさえずり」に似ているかもしれない。
市場は、巨大なチャットのようだ。言葉の代わりに通貨を用いて人々が日々語り合っている。
少数意見が多数意見に、多数意見が少数意見に変化してゆく。
政治も、またしかり。昨年の夏、「田中康夫知事」は極めて少数の意見だったが、それが多数意見に変貌した。
「小泉内閣」が少数意見だったのは、つい先日のことである。
あらゆる分野で変化が速まっている。従来型の知識人は、変化に言及しないことで、その命脈とプライドを保とうとするかもしれない。
リスクを取らない八方美人より、リスクをとった一方美人。その傾向が強まると思う。
県庁と県議会は、長野市の幅下という一角にある。そこでは、古い日本と新しい日本がせめぎ合っているように見える。
古い日本の輪郭は、あぶり出された。では、新しい日本の輪郭は何なのだろう。
浜崎あゆみは、自分と同じファッションが街を席捲したとき、こう歌った。「あなたらしく、私らしく」。
自治体にも「らしさ」が求められているのだと思う。長野県は、長野県らしく。千葉県は、千葉県らしく。
そんな「らしさ」が求められている。山口百恵も松田聖子も歌わなかったことを、浜崎あゆみは歌っている。それは「リスク」だ。
どこまでリスクが取れるのか。個人が、組織が、そして自治体が考えなくてはならない時代に入ったのだと思う。
「考えることが、最も重要だ」。工藤公康も中田英寿も同じ事を繰り返し語っている。
「その街らしさ」「その県らしさ」。それぞれの「らしさ」が共存している社会。
10年後の日本の未来予想図を、私は"The UNITED STATES of JAPAN"と呼んでおきたいと思う。
それぞれの地域に、それぞれの「らしさ」。そんな多様性こそに、日本の強みを求めざるを得ない時代が来ると思う。
変化に対応しつつ、かつ、一定の「らしさ」をキープしてゆくことは至難の技なのだけれど。
もちろん前提として「自分らしく」あることが大切なのは言うまでもないが、それは或る意味で寂しいことでもある。
自立することは、寂しいことだからだ。いや、寂しいがゆえに、人は共存を求めるとも言えるだけれど。
ともあれ、そんな新しい日本のイメージに数センチでも近づくために、私は何かを少しだけお手伝いすることになると思います。
これまでの10ヶ月が、そうであったように。
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