3月10日
オヤヂな友人・松田聖子
東南アジアに遊びに出かける「がはは」なオヤジ。松田聖子の報道を見るたびに、私は連想してしまいます。
相手はダンサーだし。国内では紳士でも、ひとたび海外に出るや...という点も似ています。
外国人とビールを飲む機会が多いので、そこに群がる日本人女性を、私は何人も見てきました。
オリンピックの影響で、そういう女性たちも長野市に移動。最近はお会いすることが減りましたが。
シンガポール人のA君から、日本人観光客の実態をうかがったのは、もう5年も前のこと。
褐色でエキゾチックな顔立ちが印象的でした。私が知り合ったのは、彼が日本に来てまだ2週間目。
アドレス帳に書かれた日本人女性の数の多さに、私は驚きました。
「働いていたのはズークという店。俺はバーテンやってたんだ。日本人の女の子たちがよく来るんだけど、
日本に来たら電話してねって教えてくれるんだ。数?200人くらいかなあ。」
A君の財布は空でしたが、日本のあちこちで女の子たちと再会していました。
お金を出してくれる女の子は、何人でもいたのです。名古屋からの銀行員など、松本に来る子も多かった。
共通するのは、比較的マジメなタイプの子が多いこと。(←この話、以前にも書いた気がするけど)
そんな思い出を胸に、今や彼女たちも良き母をやっているのでしょうか。
松田聖子のスキャンダルが繰り返し出てきても、それを咎めるような声は、むしろ男性の方から出ているような感じがします。
留学した元気な女友達の出来事。女性たちからは、そんな風に見られている程度なのかもしれません。
何が彼女たちを外国人へと向かわせるのか?それは外国ではなく、国内の「何か」だと私は考えています。
3月9日
月と仏と おらがそば
今夜は町内の会合で、そば。蕎麦打ちを趣味でやっているという方の実演と解説つき。
「自分は遊びでやってますから」と謙遜なさっていましたが、なかなかどうして。
既に5人のお弟子さんが松本近郊で蕎麦屋を開店というから、たいしたものです。
蕎麦の食べごろは、切ってから1時間以内だとか。そば湯もうっすら緑がかった色でした。
信州大学の先生が開発した新種「バイオそば」というのも試しているそうです。
いわゆる十割そばについては、こんなご意見。
「今まで20年ほど、打った蕎麦を食べていただきました。が、十割そばが好評だったのは、
戦前の貧しい食生活を思い出すというお年寄り相手のときだけでした。
昔は、そばの粉が他の粉よりずっと値段が安かったのです。」
どうやら『そば100%だから高級』というのは、現代人の考えのようです。
ご同席の本屋さんのお話も、興味深いものでした。松本という土地柄、蕎麦に関する文献・資料がないか、
というお問い合わせをよくいただく。しかし、古い文書・資料は非常に少ない。
それは、そばを育て、打ち、食べていた人たちには、字が書けない人が多かったからではないか。
「信濃では 月と仏と おらがそば」と小林一茶は詠んでいます。「おらが」と、方言を織り込んだところに斬新さがあると、よく解説される一句です。
さらに考えると「そば」という題材を入れた点にも、一茶の積極性があるのではないか。本屋さんの話をうかがいながら、そんなことを思いました。
最近は安曇野の休耕田に、白い蕎麦の花を見かけることが多くなりました。
お年寄りの中には、こんな話をする人もいます。昔は、山間部では米が出来なかった。
だから、平野部の豊かな集落の子供たちは弁当に米を、山沿いの方の子は弁当にそばがきを入れて来た。
そして、お互いの異世界に興味を持った子供たちは、学校でよく弁当の中身を交換しては食べたものだ、と。
水によって味が違ってくること。保存には何より、直前に粉にするのがいいこと。
そば打ちのお話をうかがっていると、コーヒーと共通する点が多いなあと感じます。
最近はご自分でコーヒーを焙煎する方が増えてきました。東急ハンズでも生豆が、結構売れているとか。
そばのお話を思い出しながら、生豆販売のページを作ってみました。
「おらがコーヒー」のお手伝いが出来れば幸いです。

3月8日
ブラジル社会の俗語表現
「ジーコ、エドムンドの逃げを見放す」ブラジル紙フォーリャ・デ・サンパウロが報じています。
Coordenador Tecnico に就任って書いてあるけど、調整役、或いは組織担当監督って訳せばいいのかな?
韓国では車監督が更迭濃厚とか。そして、日本はといえば...不安です。
世界の強豪同士が当たっているというのに、この日程がねえ。
アウェーの経験が足りないって、最終予選のときにさんざん言われていたのに。
『ブラジル出張記』を書かれているハ神さんから、ブラジルの写真を送っていただいたので、載せてみました。
サントス市の「11月15日通り」も閑散としている様子。カーニヴァル中だからか、コーヒー産業が衰退してしまったからか。
ハ神さんの日記からは、ガザロ監督の不人気ぶりが良く伝わってきますねえ。
ブラジルのポルトガル語は、ヨーロッパの本国のポルトガル語と若干異なります。
その最たるモノが、ジーリャといわれる俗語表現の数々。
「トランビケイロ」は、悪徳商人のこと。「ホッホケイロ」は、他人の噂ばかりしている人。
「マロケイロ」は、街をフラフラ遊びまわっている人。
「マリア・ガソリーナ」は、「ガソリン食いのマリアちゃん」とでも訳したらいいのでしょうか。
クルマに載せてやっても、ヤラせてくれないケチなねえちゃんのこと。アッシー君の反対語だと、私は考えています。
ブラジル人に会う機会があれば、使ってみるのも面白いかも。
日本人が口にすれば、バカウケ間違いなしです。
近年、日本で働く日系人の間では、新たな造語が生まれています。「パチンケイロ」は、パチンコにハマっている連中。
「スナッケイロ」は、夜の街のスナックに通いつめる男のこと。
こうみるとジーリャには、ちょっと下品で辛辣なニュアンスがあるものばかり。しかし、上手いこと言うなあと感心もします。
街の現実を、正確に写しているからです。
私がブラジル人社会を「高度大衆社会」と呼ぶ理由は、こんなところにもあるのです。
3月7日
専門分野と外国語とネットワーク
NHKの番組『BS討論 大倒産時代・どう生き残るか』を、つい見てしまいました。
『朝まで生テレビ』は、最近見なくなりました。日本は!?という大袈裟な大討論より、少数の専門家による議論の方に関心があります。
「膨大な貿易黒字のある日本経済は、決して悪いわけではない。ただ家計に喩えれば、財布を握っているお母さん、
つまり大蔵省のやりくりが下手なので、うまくいってないだけです」とは、紺谷典子の発言。
「いまこそ中小企業には頑張っていただきたい。戦後まだ日本が貧しかった頃、モノが無かった時代には、規格大量生産で
コストを下げてという競争が重要でした。不況とはいえ、個人の多様な嗜好に合った高額商品は売れているのですから」
なるほど、ねえ。
司会の竹中平蔵といい、民間のエコノミストは優秀な人が多いなあと思います。
原稿を読まずに澱みなく喋り、しかも、それがちゃんと文章になってる。
反対に原稿を逐一読みながら、何を言っているのか分からないのが政官の世界です。
先日は、自動車のショウルームで働く都内の女性からメイル。質問は「合コンについてどう思うか?」。
長い返事を書いたあと、これから重要になると思われるコンセプトを、3つ挙げておきました。
転職を考えているというので。
「専門分野」「外国語」「ネットワーク」、そしてこの3つをどう組み合わせていくか。
ネットワークは、別にコンピュータに限ったことではありません。合コンという事に沿って言えば、こんなことでしょうか。
ただ人数あわせをしての飲み食いではつまらないし、「ハズレ」も多い。こういう面白い人が来るから、ちょっと話しを聞いてみよう。
外国人のだれそれが来るから、いろいろ質問しながらワインで。というように、少しでもテーマ性を織り込んだ飲み会にしていったら、お金をドブに捨てるタダの合コンよりはいいかも。
そんな返事を書きました。
とはいえ、勉強会とか異業種交流会とかいうと、大袈裟すぎて苦手です。
オフ会というのは、予めテーマ性が織り込まれているようなので良いかもしれません。私は未だ経験が無いのですが。
3月6日
モロボシダンの名をかりて
ウルトラ・マニアの存在を知ったのは、私が都内のホテルで皿洗いをしていた頃。
同じバイト仲間のサワダ君という浪人生から聞いたのです。
「世の中いろんなマニアがいますけど、ウルトラマン関係は凄いですよ。俺の兄貴なんかビデオ全部
揃えちゃってて。『バルタン星人を背後から写した映像は、幻の逸品』とか、わけわかんないこと言ってるんですよ。」
ウルトラ・シリーズの中でも、ウルトラセブンは最高傑作なんだとか。
大泉学園駅近くのサワダ君の家で見せてもらいました。私が驚いたのは、サワダ君がウルトラセブンのセリフを全部暗記していたことです。
「わけわかんないのは、オメーだよ」と思いながらも、サワダ君の解説は面白いものでした。
その頃は、オタクという言葉もなかった時代。いい年こいて怪獣モノに入れ込んでいることを、カミング・アウトする。
それが少し憚られる雰囲気もあったのでしょうか。
扶桑社の新刊『ダン モロボシダンの名をかりて』を読んで、そんなことを思い出しました。
ダンを演じていた森次晃嗣が書いた本。セブンの時代も、爽やかなタッチで描かれています。
「セブンはSF色を少し強めて、視聴者の対象年齢層を少し上げました」に、なるほど。
全体に陰影の濃い映像が多く、中でも実相寺昭雄の監督作品は、現在の私が見てもホウと感じます。
たった一個の煙草の箱を撮るために、レールを敷いてしまう凝りよう。
ジャイアンツ戦の実況中継を、それとなく音声に織り込んでいたり。
あの独特のナメる映像と立体感には、ファンも多いと思います。他のアダルト作品をも含めて。
『星の林に月の船』は、実相寺昭雄がセブンの時代を振り返って書いた本。
こちらは、同様にセブンの時代を描いていますが、屈折感が滲んでいます。怪獣モノがまだ一段低く見られていた時代。
例の♪ワン、ツー、スリー、フォー♪というBGMも、フォードを改造したポインターもカッコイイと思います。
あー、あの子供向け番組ね。そんな風におっしゃる方も、改めてご覧になれば「ホウ」と思われるのではないでしょうか。
3月5日
大和撫子はムグンファの花か
第4回 玄界灘のこちら側
もはや現実の日本女性に大和撫子の姿は無い。だからフィリピンや韓国の女性に、それを求めてしまうのでしょう。
とりわけ夜の繁華街や海外では、浮世の義理から離れた感覚が得られます。日本人と別れ、若い韓国女性と結婚する人も出てきました。
私が松本に帰った頃に驚いたのは、若者たちの車中の光景です。
助手席のシートを倒してふんぞり返るようにして座って(寝て)いる女の子が多いこと。
バブル期の渋谷を毎日歩いていた私も、あまり目にしなかった光景です。
ヤンキー系の方の車がまるで所帯じみた部屋の様にになっているのは、予想どうりだったのですが。
アッシー君は、むしろ地方都市でハッキリと目に見えた現象でした。
「やっぱ、イイ車に乗ってないとモテないよ。俺なんか言われたもの。『こんな車なら送ってくれなくてもいい。恥ずかしい』って。」
フィリピン・パブが隆盛を極めたのは、そんな時代でした。
いまは女の子の方がイイ車に乗ってるケースも目立ちます。
「最近は女もバカじゃないから、クルマなんかじゃ釣れないっすよ」なんだそうです。
女は男を立ててくれて、身の回りの世話を細かくやってくれて。そんな時代も以前はあったのかも。
現実的には「私も働き続けたい、身の回りのことぐらい自分でやってほしい」という女性が増えていると思うのですが。
やはり、それは甘い蜜月の後で表面化することなのでしょうか。
「デートに行く場所も、女の子が決めてくれた方が楽じゃん」「自分は女の子に付いて行く」「料理はオレのほうが上手い」
そんな風に話す若い世代に、むしろきっぱりした「男らしさ」を私は感じてしまいます。
逆に今は、こんな時代なのかもしれません。「あたし的に言うとお、彼は大和撫子なんだ」「いいねー、それって」
落合信彦は怒るかもしれませんが。
昔からムグンファは、韓国人の心の花だと言われてきました。
韓国女性を愛する日本人の男たちは、今や失われた大和撫子の幻を、ムグンファの花に求めているように見えます。
そしてその背景を考えるたびに、玄界灘のこちら側の変化は大きいなあ、と私は思うのです。
3月4日
大和撫子はムグンファの花か
第3回 パロパロの時代
「マニラからずーっと離れた田舎なんだ。女の子の実家も貧乏でさあ。ひとつの土間みたいな中で、
オレは家族と一緒に寝たんだよ。外の雨音を聴きながら。遠くまで追いかけてきたんだなあって、そのとき初めて思ったんだ。
そのくらい夢中だったんだよ。」
C君は松本市内のパブで、フィリピン女性に一目ぼれ。日本人の妻と離婚後、マニラまで追いかけた過去を、
そんな風に振り返ります。
マニラの街で、知り合いの中年男性を見かけることもよくあるとか。同じ目的をもった日本人が行く場所は、だいたい決まっているからだと言います。
「××さんなんか、子供買ってんだ。あれは許せねえな。」
サンダル履きに手提げの紙袋。フィリピンに通いなれた人は、こんな格好で国際線の飛行機にも乗ってしまうとか。
まるで近所のサウナにでも行くような気軽さ。同好の士を募り、飛行機やホテルの手配をして、ちょっとした旅行代理店のような小遣い稼ぎをする人もいたようです。
「おれに任せてくりや。だいたいの事は分かってるで」
80年代には「松本で外国人女性のエイズ患者発見」のニュースが、ワイドショーを賑わしたことがありました。
私は東京でテレビを見ていましたが、恥ずかしいと思ったのは街でインタヴューを受けたオッサンの答え。
「おら、大丈夫せ。自分で検査したから」って、どんな検査なんだよ!この時期は、「松本ナンバーの車お断り」
という看板の出たラブ・ホテルもあったといいます。
ピークだったのは90年ころでしょうか。近郊で農業を営む友人は、こう語っていました。
「消防団なんかの集まりで、松本の街に繰り出すよね。すると10人のうち2人くらいは、タガログ語がペラペラなんだ。
俺には分からないギャグを繰り出してんだよね。」
パロパロ。そんな時代から10年が経とうとしています。市内のファミレスでは、日本名を名札を付けて働くフィリピン系女性を見かけます。
私の知人は、フィリピン出身の奥さんと共にフィリピン料理の店をオープン。今は地域のフィリピン系女性の、語らいの場になっているとか。
健気、やさしい、大和撫子。当時フィリピン女性に魅せられた男性の口から、幾度となく聞かれた言葉です。
それが韓国人女性に向けられているのが今。次回は簡潔に、とりあえずのまとめを書いてみる予定です。
3月3日
大和撫子はムグンファの花か
第2回 商業にかけるバイタリティの違い
「しょっちゅう電話がかかってくるんだよ、韓国から。また来てね、って。
俺はもう感心してるんだ。女がどうのってことより、1人の商業者として凄いなあと思うよ。」
昨年、韓国に遊びに出かけた、ある自営業者はこう語ります。たしかにバイタリティも、ひとつの魅力なのでしょう。
倒産した松本市のパチンコ・M社の負債は100億円。うち10億は使途不明金なのだそうです。
経営者の息子の車道楽に消えたのでは?福岡へしばしば出かけていた会長が、韓国に隠しているのでは?
そんな風にも囁かれました。
この会社には、いろんなことがありました。脱税、裏ロムの摘発、そして敷地内の景品交換所を狙った殺人事件。
私が驚いたのは、殺害の当日も営業が続けられていたことです。その日には、友人のAから電話がありました。
「そんなことあったら、普通は店休むと思うんだけどねえ。やってんだよね。客もいつもどうり入ってんだ。」
「打ってる客も客だが、それを見に行く君も凄いね」と答えながら、改めて感じました。
うーん。パチンコ業界はバイタリティが凄いなあ、と。
今日は、野村進の著書『コリアン世界の旅』(講談社)を買ってみました。
景品交換所で働く女性は、半島出身者からも差別された済州島出身者が大半、と書かれています。
「景品やる人間は、パチンコ屋からも『人間じゃない』と思われたのよ。(中略)
むかしはいまみたいな交換所がないから、パチンコ屋の前でぶらぶらしながら、出てくるお客を待ってたの。
客の奪い合いときたら、すごかったよ。『私のお客さんだ、私のお客さんだ』って、朝鮮人のおばさん同士が殴り合いするの。
それで子供を流産しちゃった人もいましたよ。」
この種のバイタリティは、フィリピン人のお話をうかがったときには感じられなかったものです。
「年に6回はマニラ空港に行くなあ」。フィリピン女性を追った男性の体験談は、次回に。(予定変更、ごめんなさい。)
3月2日
大和撫子はムグンファの花か
第1回 「ヨボセヨ」 「マシソヨ」
松本で、またしても韓国人の殺害事件がありました。ナイフで刺されたままの遺体が車中で発見されたとか。
韓国系の飲食店は増え続け、市内のクラブ(女の子が隣に座るほうのクラブ)は50店とも70店とも言われています。
昨年の殺害事件は客の取り合いが、きっかけだったといいます。
韓国の経済不安を反映して、働きに来る女の子も増える一方。そんな店で働いた経験のある日本人女性は、こう言います。
「私たちは完全に韓国人の引き立て役なのよ」。いったい何が日本人男性をひき付けているのでしょうか?
「ヨボセヨ」は、韓国語で「もしもし」。日本人の携帯に電話をマメにするのも、彼女たちの仕事です。
年齢は、みな20才前後。「恋人はいるけど徴兵で軍隊にいる。日本には語学の勉強の為に来ているって話してあるから、秘密。」
徴兵制ゆえに別れてしまうカップルも多いんだとか。
「マシソヨ」は「美味しい」。ビール(メッチュウ)をついでくれるのは当然という感じ。
カニも、丁寧に殻を剥いて男性の口元まで運ぶようなサーヴィス。それに日本人男性は感激するんだそうです。
(余談:私は隅々までつくしてくれるタイプの女性が、ちょっと苦手です。
それは、「相手の男性を好きなのかな?つくしている自分が好きなんじゃないかな」と、余計なことを考えてしまうからです。)
最近、この分野に何故か詳しいのが私の従兄弟。
「たどたどしい日本語を話す女の子と、たどたどしい韓国語を話す日本人。
カラオケでハングルを見ながら歌う人も多いしね。
なぜか閉店前の最後の曲は、『チェジュ・エアポート(済州空港)』が流れるって決まってんだよ。どこの店でも。
で、それに合わせて女の子たちが踊るんだ。踊りの形は店によって少しづつ違うんだけどね。」
彼女たちの数ヶ月の滞在を惜しむかのように、今夜も韓国パブのネオンに通う日本人。
常連客の中には、本国まで彼女たちを追いかける人も珍しくないとか。
以前、この現象については、国立大学の先生の分析を交えて書きました。(10月18日)
街に広がる、もうひとつの日韓関係。そんな地方都市の日常は、やはり新聞に載りにくいのでしょうか。
次回は、フィリピン女性の場合と比較しつつ、さらに背景を探ってみたいと思います。
3月1日
あやしうこそ ものぐるほしけれ
昨夜は、成城大博士過程のニシムラ君、NTTのM君とビール。ニシムラ君は徒然草の研究が評価され、
ドナルド・キーン賞を取ったとか。文学研究の分野でも、通史や概論を書ける人が少なくなっているそうです。
細分化が進んだから。この分野でそれが出来るドナルド・キーンは、貴重な存在でしょう。
私はかねてから不思議に思っていました。徒然草の初段、「あやしうこそ ものぐるほしけれ」。
何だか気が触れるような気持ちがしてきた、という訳を教わったように思います。
徒然なるままに...毎日いろんなことを綴るだけで、そんな気持ちになるのかなあ。
怪談を書いている訳でもあるまいに。ずーっと違和感を感じていたのです。
私は、こんな風に考えてみました。これは、一種の舞台装置なのではないか。文章を読み進めること
は、いわば別世界に入ることです。例えば『大鏡』の冒頭では、現実には有り得ない高齢の老人が2人登場。
2人の思い出語りという、全体の枠組みをこしらえています。あやしゅうこそ、ものぐるほしけれ。
これは、「吉田兼好の庵」という異世界に読者を運ぶための仕掛けではないか。
ニシムラ君の答えは、こうです。平家物語の冒頭は言わばお経のようなもの。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す」。
沙羅双樹という植物が実際に日本に入ってきたのは、明治になってから。
中世の人々は見たことの無い世界の不思議さを、ここに感じただろう。琵琶法師たちはエキゾチックな雰囲気を漂わせ、
聴く人たちを異世界へと運んだに違いない。
だから吉田兼好が、そんな語りの技術を徒然草に持ち込んだと考えても、違和感はない。
ある私立高校で教師もやっているニシムラ君の話は、なかなか興味深いものがありました。
「なんかあー」「っていうか、ウチらはー」「先生的には、そうかもしんないけどおー」「生理、始まちゃってえ」。
授業でも、そんな風に話す女子高生たち。その中で古文を教えるのは大変そうです。
私たちが読み書きしているのは、もう古文なのかもしれないな。そう言うとニシムラ君は、答えました。
「だから僕、橋本治にならないように気をつけてるんですよ、最近。」
なるほど。