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質問状


平成6年6月15日

『教育心理学研究』編集委員会
  委員長 高橋恵子先生

                             信州大学教育学部
                                    守 一雄

1994年5月の常任編集委員会での審議結果についてのお手紙受け取りました。ご審議下さいましてありがとうございました。まだ、納得できないところがございますので、再々度お手紙差し上げることにしました。


これまでの経過を簡単に振り返りますと、次のようになります。

形式的には、著者(私)と編集委員会と文書を取り交わしていますが、内容的には、私の異議申し立てと貴編集委員会側の対応とがかみ合っていません。私は、審査者それぞれが当該論文を「不採択」と判断してきた根拠となる個々の論点について異議を申し立てているのに対し、委員会側の回答は基本的に「審査者全員が不採択と判断したのだから最終結果は不採択だ」というものです。


この点を、明らかにするために、論点の一つを例にあげてみます。審査委員A氏は、

1) 「ちびくろサンボ」は多くの子どもを楽しませたお話だが、問題点を指摘され、消えてしまった。これの改作を子どもに与える必要はない。オリジナルで子どもの喜ぶお話が沢山あるし、「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話を作るだろう。
という指摘をしています。この点に関して、私が異議を唱えた@事実誤認とA権限の逸脱をのべると、次のようになります。

@ 事実誤認であるところ:「問題点が指摘され、消えてしまった。」
事実:その後も『ブラック・サンボくん』のような形で出版されている。また、原作者のいるイギリスでも出版は続けられている。
A 権限の逸脱であるところ:「改作を子どもに与える必要はない。」
問題点:改作を子どもに与えるべきかどうかを判断する権限を審査委員会はもたない。

各審査委員の「不採択」という評価は、こうした事実誤認と権限の逸脱の積み重ねの結果です。そして、私は、こうした個々の論点に反論しているのですから、編集委員会は、それぞれの論点について審査委員に問い合わせるべきです。(一度目の異議申し立て(B)と二度目の異議申し立ておよび再投稿(D)は、こうした趣旨で行われたものです。)

1994年5月21日に常任編集委員長からいただいた文書(E)によりますと、

「( 審査委員への)ご異議は当編集委員会への異議として受け止め、慎重審議し、事実誤認がなかったことを再確認致しました」

とのことですから、今回の異議申し立てでは、貴編集委員会の個々の論点についての審議結果をお尋ねします。(「個々の論点については慎重審議していない」と言われるとイヤですから、改めて審議していただきたい論点を以下に並べました。)


2. 各審査委員のコメントについての貴編集委員会見解の照会

2. 1 審査委員A先生のコメントに関して

 A先生は、「問題(改話と原作の面白さの比較)の意義について納得できない。」として3つの論点を提示しています。その第一は、「1)」@「ちびくろサンボ」は多くの子どもを楽しませたお話だが、問題点が指摘され、消えてしまった。Aこれの改作を子どもに与える必要はない。Bオリジナルで子どもの喜ぶお話が沢山あるし、C「ちびくろサンボで育った世代がどんどん新しいお話を作るだろう。(丸数字は投稿者が加筆)」というものです。
 ここには、少なくとも4つの問題発言が含まれていると思います。まず、@「ちびくろサンボ」が絶版となった経緯について、現状を無条件に肯定してしまっています。投稿論文は、この絶版となった理由の一つに異議を唱えるために行った研究です。異論が出されている問題に対して、現状を単に肯定されてしまったのでは、科学的な議論ができません。
そこで、貴編集委員会へ質問@:編集委員会も「ちびくろサンボ」が絶版となった経緯について、現状を無条件に肯定するのか?

次に、A「改作を子どもに与える必要はない。」と言い切っています。誰がどんなものを子どもに読んで聞かせようと自由なのではありませんか。
そこで、貴編集委員会へ質問A:「改作を子どもに与える必要はない。」というA先生の独断的な判断に貴編集委員会は賛成ですか?

 第3に、他に良い話があることは、特定の話の存在異義を認めないことの理由にはならないと思います。この論理に従うと、新しい童話や絵本を創作する意義はまったく認められないことになります。
そこで、貴編集委員会へ質問B:「他に良い話があるから、特定の話の存在異義を認めない」というA先生の独断的な判断に貴編集委員会は賛成ですか?

第4に、C「「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話を作るだろう。」とのことですが、それでは「ちびくろサンボ」が与えられなかった世代は、次の世代にどんなお話をつくりだせるのでしょう。また、「ちびくろサンボ」で育った世代は、「ちびくろサンボ」が「知らず知らずのうちに差別感を植え付けるものである」から、差別感いっぱいの話を作ってしまうのではないでしょうか。(「そんな心配はない」というのが投稿論文の研究結果であり、A先生はまさにそのコメントで「差別的な要素にもとづいておもしろがっているのではないが、知らず知らずのうちに差別感を植え付けるものである(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。」と述べて、「ちびくろサンボ」の差別性を消極的ながら肯定しているのですから、自己矛盾ではありませんか。)
そこで、貴編集委員会へ質問C:A先生の自己矛盾的な発言と、それを正した私の指摘と貴編集委員会はどちらに賛成ですか?

この「差別的な要素にもとづいて・・・(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。」という第二の論点も、上述と同じ理由で問題です。「(かもしれぬ)」とか「懸念されているのだろう」とか、確定されていない部分こそを実証的に研究しようとしているにもかかわらず、根拠もなしに、「ちびくろサンボ」が悪書であるという立場を取り続けています。
そこで、貴編集委員会へ質問D:貴委員会も、根拠もなしに「ちびくろサンボ」が悪書であるという立場を取るのですか?

第三の論点は、研究の意義を評価する上でまったく的外れです。「タイトルを語感のよく似た「チビクロさんぽ」とするのは反対」と言われても、そういうタイトルで現に実験を行ったのですからしかたありません。審査委員の先生の好みを押しつけられても困ります。
A先生は「「チビクロのさんぽ」というのが、日本語での自然な表現であろう」と述べていらっしゃいますが、ここでは、あえて少し不自然になっても『ちびくろサンボ』との類似性の方を重視したというだけのことです。
そこで、貴編集委員会へ質問E:貴委員会も、「タイトルを語感のよく似た「チビクロさんぽ」とするのは反対」ですか?その理由は何ですか?

A先生はまた、「〔問題の意義について〕納得がいかなくても充分な証拠が得られていれば、資料として採択に賛成するが、充分な証拠が出ていると思えない。」として、新たな2点を論点として挙げています。その第1は、「この年齢、このやり方ではどのお話を聞かせても同じ様な結果が出るのではないか。」というものです。確かにこうした疑問が残される余地はあります。しかし、4・5歳児を用いた研究において、こうした疑問がまったくないような実験を行うことはほとんど不可能なのではないでしょうか。(疑問の余地が残らないような実験データは、そもそも実験するまでもなく分かりきったことを「形だけ厳密に」調べてみたに過ぎないとさえ言えます。)
そこで、貴編集委員会へ質問F:「この年齢、このやり方ではどのお話を聞かせても同じ様な結果が出るのではないか。」という疑問が残される余地があることは、投稿論文を「不採択」とするような決定的な欠陥であると貴委員会も判断なさいますか?

この点に関して、A先生は、第2に、「おもしろさのとらえ方も、おおざっぱ過ぎる。少なくとも、繰り返し読んでほしいとリクエストがあるかどうかなどは調べる必要があろう。」とも述べています。この点は、表現こそ違え、他の審査委員の先生方からも共通して指摘されている点です。(他の審査委員は、「素朴でシンプル」「あまりにも単純」と表現しています。)しかし、審査委員の先生方は、誰も、この研究が先駆的な研究であることを忘れていると思います。改話された童話が、原話と同程度の面白さを持っているかどうかを調べるという研究目的そのものが「素朴でシンプル」であるために、「あまりに単純」に見えたり、「おおざっぱ過ぎる」ように見えたりするのではないでしょうか。研究目的をあえて複雑にしなければならない必然性はないはずです。(あるとすれば、いかにもスゴイ研究をしましたヨという「体裁付け」のためだけでしょう。)
そこで、貴編集委員会へ質問G:あたらしいアイディアに基づく先駆的な研究も「素朴でシンプル」であるという理由で「不採択」にするべきであるというのが貴編集委員会の意見と考えていいのですか?


2.2 審査委員B先生のコメントに関して

B先生は、本研究の意義を基本的には認めて下さっているようで嬉しく思います。(もっとも、審査者が審査結果のコメントの枕詞とする「外交辞令」である可能性も否定できませんが。)B先生は、もっぱら、研究の内容の方に難点を見つけ、3つの論点を挙げています。
その第一は、@「参照すべき論文が全く」引用されていないこととA「研究のキー概念である「面白さ」をどう定義づけるのか[が明示されていない]」ことです。@に関して言えば、全く引用されていないというのは、事実誤認です。「言葉と差別・偏見などについての言語社会学的な研究」に関しては、そのまとめとなっている杉尾・棚橋(1990)を引用しています。B先生は、この本を読んでいらっしゃらないのかも知れませんが、この分野の概観とまとめが適切に行われています。(なお、再投稿にあたって、同じ著者による続刊(1992)も引用しました。)また、『教育心理学研究』に掲載された秋田論文(1991)が引用されていないことも批判されていますが、投稿者としては秋田論文は引用に値しないと判断して引用しませんでした。秋田論文と投稿論文とは、被験者も題材も研究目的も異なる論文であり、参考までに引用しても構わないかもしれませんが、引用することが不可欠な論文ではないと思います。
そこで、貴編集委員会へ質問H:投稿論文に「参照すべき論文が全く引用されていない」という審査者B氏の判断は事実誤認ではありませんか?

「面白さが明示的に定義されていない」という第2のご批判に関して言えば、まさにB先生が参照すべきであると推奨しているこの秋田論文にもおもしろさの定義は明示されていません。そもそも、「おもしろさ」といった基本的な感情を定義することは簡単ではないし、定義したところでその定義が適切であることの保証は何もないと思います。
そこで、貴編集委員会へ質問I:投稿論文には、「面白さが明示的に定義されていない」という理由で批判がなされているのに、その批判者が引用する秋田論文にはおもしろさが定義されていないのは、審査者の判断の自己矛盾ではありませんか?貴編集委員会は、この矛盾に(慎重審議しても)気が付かないのですか?

B先生が指摘する第二の論点は、「面白さを検討するのに「どちらが面白いか」のみを聞いただけというのは、あまりにもお粗末な研究と言わざるをえません。」というものです。これは、まさしく事実誤認です。投稿論文では、どちらが面白いかのみを聞いたわけではなく、@どちらがおもしろかったかAおもしろかった紙芝居で、一番おもしろかった場面はどこか、の少なくとも2点を、幼児一人一人に聞いています。
そこで、貴編集委員会へ質問J:投稿論文で「どちらが面白いか」のみを聞いただけとする審査者B氏の指摘は事実誤認ではありませんか?

B先生はまた、「これでよいなら、意欲を検討するのに「意欲がありますか?」、理解を検討するのに「理解していますか?」で済んでしまうことになります。そんな研究が認められないのはおわかりと思いますが。」とも述べています。一読するともっともなようですが、意欲や理解とおもしろさが安易に同列に並べられて論じられていることや、被験者の年齢が考慮されていないことがこの主張の難点だと思います。幼児に「意欲がありますか」と聞いても、幼児の意欲を調べることはできないでしょう。しかし、幼児に「どちらがおもしろかったか」を尋ねることは可能であり、しかも、4・5歳の幼児ならば、この直接的な質問がいちばん効果的であると思います。(有名なピアジェの保存の実験でも、幼児に「どちらが長いか」「どちらが重いか」を聞いていますが、「あまりにもお粗末な研究と言わ」れたりしていません。)
そこで、貴編集委員会へ質問K:幼児に「どちらがおもしろかったか」を尋ねることは、教育心理学の研究方法として決定的に間違っているでしょうか?

B先生は、第三の論点として、「どちらが面白いかを比較する際に「ぐりとぐら」との比較で、双方とも大差ないから同程度の面白さだとしていますが、乱暴な議論ではないでしょうか。他の話と比較するのと、「サンボ」と「さんぽ」を直接比較した場合とで同じような結果が出る保証があるでしょうか?とてもそうとは思えないのですが。」とも言っています。これには、正直言ってビックリです。先生は、心理学的測定法の初歩を御存知ないのですか。書斎に置いてある机を寝室に移したいが、机が寝室のスペースに入るかどうかを知りたいという場合に、私たちはどうやって調べるでしょう。机を寝室まで運んで直接に長さを比較しなくとも、手近の紐と机の長さを比べて、その寝室のスペースと比べてみれば、目的が達せられることは自明のことです。もちろん、単純な物理的な概念である長さと、心理的な概念である面白さとを同列に論じることは慎むべきでしょう。あるいは、第3者を介した比較と直接の比較とに差が生じる場合もあるかもしれません。しかし、登場人物以外は、まったく同じ話を直接に比較することは幼児には無理であり、だからこそ、こうした測定方法が取られたのです。こうした測定方法の工夫は、肯定的に評価されることはあっても、否定的に評価される理由にはならないと思います。
そこで、貴編集委員会へ質問L:αとβとを比較したいが、直接に比較することができないというとき、第3のγとα・βをそれぞれ比較し、直接の比較に代えるという研究方法は教育心理学では認められないのでしょうか?


2.3 審査委員C先生のコメントに関して

C先生が、この論文を『教育心理学研究』に掲載不適当と判断する理由は2点であると読みとりました。その第一は、「@理論的にも方法論的にも教育心理学ならではの切り口(専門性)が認められない。A例えば「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけて研究が計画され、それ相応の専門的な分析と論議がなされていれば話は別ですが、Bこの程度の素朴でシンプルな研究なら、教育心理学者でなくても(例えば短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない)を行えるのではないでしょうか。@に関して言えば、「教育心理学ならではの切り口(専門性)がみとめられない」と先生が判断されたことはきわめて残念だと思います。「差別だ」「差別でない」という不毛な水掛け論だけが横行している中で、「実証性」を基礎に実験的にその差別性を検証しようとしたこの研究は、まさに「教育心理学ならでは」のものではないでしょうか。先生は、あまりに狭い観点から教育心理学を見ていらっしゃらないでしょうか?「ちびくろサンボ」問題は、言語社会学、児童文学、人権教育、道徳論など広い領域にわたる問題です。そうした問題に、国語教育者や児童文学者にはない「実証性なデータを論じる」という視点を持ち込んだことこそが、「教育心理学ならではの切り口」であるとは言えませんか。こうした研究を教育心理学者以外の誰がするでしょう。
そこで、貴編集委員会へ質問M:「実証性なデータを出して論じる」という視点を持ち込んだことは「教育心理学ならではの切り口」であるとは言えないでしょうか?

Aに関しては、「研究の目的が違う」としか答えようがありません。確かに、本研究を「「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけ」たならば、素晴らしい研究となるに違いありません。いずれ筆者自身や他の研究者がそうした研究に発展させていくことが望まれます。しかし、この研究の目的は、「『ちびくろサンボ』における差別性の無さの検証」であって、「「ユーモア感覚の発達」や「愛他行動(人権意識)の発達」ではないのです。
そこで、貴編集委員会へ質問N:研究の目的を読み違え、判断を押しつけている審査者C氏は審査委員の権限を逸脱していないでしょうか?

Bの指摘に関しては、はっきり言って怒りを覚えましたが、ここでは笑って「それはコロンブスの卵です」とお答えしておきます。「こんな研究なら私にもできるさ」と思わせるような研究も、それを初めにやるのは、それなりの苦労と工夫が必要なのです。あまりバカにしないで下さい。「短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない」とのことですが、全国どこででもそうした発表はなされていないと、投稿者は確信しています。
そこで貴編集委員会へ質問O:審査者が投稿論文に対して、証拠もなしにこのような屈辱的な決め付けをすることを黙認するのですか?

先生がこの投稿論文を「不採択」と判断するもう一つの理由は、「@しかし、その場合のメッセージは、教育心理学会の外側に向けて発せられるべきではないでしょうか。Aだとすれば、「教育心理学研究」のような同業者の専門誌よりも、例えば「読書科学」のような学際雑誌に発表される方が適切ではないかと考えます(本研究の一部は日本読書学会で報告されている、とのことでもあるし)。(丸数字は引用者が加筆)」というものでした。
ここでは、基本的に投稿論文が公刊に値するものであるとの肯定的な評価が与えられていて嬉しく思いました。しかし、ここにも2つの大きな問題点があります。第1に、@に関して、なぜこうしたメッセージが「教育心理学会の外側に向けて発せられるべき」なのでしょうか。外側にも内側にも発せられてしかるべきではないでしょうか。第2に、Aにおける『教育心理学研究』の性格づけは、あまりに内輪主義すぎないでしょうか。先生の主張には、『教育心理学研究』は同業者だけに読まれていればよいといった響きが感じられます。『教育心理学研究』はもっと広く教育に関係する人々に読まれるべきであるし(ちなみに、投稿者の所属する大学では、『教育心理学研究』は『科学』や『文芸春秋』といっしょに附属図書館の雑誌閲覧室に置かれ、教官・学生誰もが自由に読むことができるようになっています)、そのためにも本論文のような論文を「同業者」向きでないと言う理由だけで拒絶しないでいただきたいと思います。
そこで、貴編集委員会へ質問P:「こうしたメッセージは教育心理学会の外側に向けて発せられるべき」というこの審査者C氏の見解は、貴編集委員会の見解と受け取っていいのですか?もしそうだとすれば、どういう理由でそう考えるのですか?また、これは日本教育心理学会の機関誌の性格を決める重大な発言でもありますので、そうした合意がいつ得られたのかについても照会いたしたく存じます。


 以上、17点に関して貴編集委員会のご見解を承りたく存じます。これらの17点に関して、貴委員会の見解が審査者ABC氏と同じであるということであれば、私が「審査者に事実誤認や権限の逸脱がある」と意義を申し立てたことは、まったくの間違いであったと納得いたします。しかし、上記17点の一点にでも、貴委員会と審査委員との見解に相違があるようでしたら、私の異議申し立ては正しかったことになります。(前回のお返事では、「事実誤認はなかったことを再確認いたしました」と明言されているのですから…)


最後に、もう一点、貴編集委員会に質問Q:「一度「不採択」になった論文をそのまま再投稿はできない」という5月21日のお手紙は事実に反します。今回の再投稿に際して、審査委員B先生のご指摘を尊重して、杉尾・棚橋(1992)の引用を追加しています。と、いってもこれは揚げ足をとるようなことですので、もっと本質的な疑問をぶつけます。審査者のコメントにたいして、逐一反論をして再投稿した論文を、「一度「不採択」になった論文をそのまま再投稿」と考える編集委員会の見解は、あまりに形式主義すぎると思います。再審査論文や修正論文には、審査者への反論が許されるのに、不採択論文にはそれが許されないという理由をお示しいただきたいと思います。


なお、蛇足ながら、『読書科学』編集委員会のようにダンマリを決め込んで、会員からの照会を無視することのないよう、特に記してお願い申しあげます。

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