第2巻第8号             1997/4/1
KRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKR

KR

Kyoshinken Review, or Knowledge of Results

学問の発展は
互いに批判しあうことで
なされるものである。

KRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKRKR
不定期発行・発行責任者:信州大学教育学部・ 守 一雄
kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp
http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/kr/krhp-j.html


目次


【『教心研』第44巻第4号掲載論文批評】

(その2)

●三浦・坂野論文:
(前号掲載)
麻柄論文
日常生活では「真空は物を吸い寄せる」と考えられている。しかし、物理学的にはこれは誤っている。大気圧が「押している」のであって、真空が「吸い寄せて」いるのではない。こうした事実は学校で教わっているはずであるが、誤った知識はなかなか修正されない。本論文では、その原因について、4つの調査によって推論している。それぞれの調査は小問の組み合わせを15分ほどで解かせる簡単なものであるが、条件を少しずつ変えた調査を繰り返すことによって「誤った知識が修正されない原因」をあぶり出すことに成功している。どうやらそのポイントは「日常的な知識(これが誤りであることが多い)」と「学校で習うような知識」とが認知的葛藤を引き起こさないまま併存してしまうということのようである。読みながら自分でも論理的に問題を突き詰めていくことが楽しめる面白い論文である。(些細なことであるが、Table1/3/4はFigureとすべきではないだろうか?)麻柄さんの補足説明(1997.4.15)
◎中谷論文:
(前号掲載)
浦上論文
女子短大生の進路指導を「就職活動を通しての自己成長」と捉え、「進路選択自己効力感」と就職活動が自己成長力にどう影響するかを共分散構造分析によって明らかにしようとした研究。「なるほどパス解析はこのように使うのか」ということがわかる模範的論文だと思う。(p.408の文字抜けは印刷所のミスか?)
○西村論文:
(前号掲載)
杉山・神田論文
「一般的統制感」尺度と「時間展望体験」尺度と「アパシー傾向」測定尺度の関連を、「統制感→未来展望→アパシー傾向」という因果関係を仮定してパス解析で分析しようとした研究であるが、図がないので読みにくく、結果もわかりにくい。この研究だけを特に批判するわけではないが、たくさんの尺度間の相関を調べる研究には正直言ってもうウンザリである。「考察」にあるような、「現在の統制感を上昇させる技法が有効な援助の手段となるかどうかを実験的に試す研究」をぜひ実施してもらいたい。
○土屋論文:
(前号掲載)
本郷論文
保育所の2歳児クラスをほぼ1年間にわたって計1080分間ビデオ記録し、対人トラブルを分析した研究であるが、「異議」という用語が標題にいきなり登場するほか、本文中でもきちんとした定義なしに使われている。子ども間のトラブルにおいてトラブルが生じたきっかけに対する「なんらかの反撃」が「異議」らしいとわかるまでに何ページも読み進めなければならない。つまり、この研究では「異議」は言語的なことに限らないのである。「2歳児集団における対人トラブルに関する研究:反撃の有無と年齢差の関係」という標題にしたほうがずっとわかりやすく、内容にもあっている。こんな独りよがりの用語法にこそ異議を唱えたい。
◎舛田・工藤論文:
(前号掲載)
大野木・宮川論文
教育実習に対する不安は「授業がちゃんとできるか」「生徒とうまくやれるか」「体調を維持できるか」「どんな服装にすればよいか」の4つにまとめられること、こうした不安は教育実習が終われば低減すること、を2つの質問紙調査で明らかにした研究。教育実習に対する不安感という重要なテーマがあまり研究されてこなかった中で貴重な研究だとは思うが、特に何も新しいことが見いだされていないのが残念である。大野木さんからのお返事(1997.4.7)
○尾崎論文:
(前号掲載)
丹藤論文
農村地域における知能検査得点の時代的変化を、1951年から1985年までの小中学校入学生の指導要録を丹念に調べることによって分析した研究。農漁村地域では1960年代から80年代にかけて急激に知能検査得点が上昇し、比較的変化のなかった都市部の結果に追いついた。図の使い方も適切でわかりやすい。こうした急激な変化がどんな原因で生じたのか今後の研究が期待される。個人的には、著者も指摘しているように1960年代以前でも「知能偏差値は低かったが、知能は低くなかった」という可能性が最も高いように思う。

【「学校心理士」資格認定に思う】(「広報」欄へのコメント)

 日本教育心理学会は新たに「学校心理士」という資格を認定しようとしている。先行する「臨床心理士」に遅れまいと無理に資格を作り上げようとしているように思えるのだがどうだろうか。私はあまり賛成できない。
 臨床心理士資格の場合と同様に、どういった知識や技術が資格の背景となるのか、そのための養成カリキュラムはどうすべきか、がきわめて曖昧である。それは根本的な問題点から生じている。日本の大学では、カリキュラムを構成する個々の授業の内容そのものが授業担当者の裁量に任されるため「○○心理学概論2単位修得」といっても何がどの程度修得されているのかがまったくわからないからである。もし、日本教育心理学会が本気で資格を考えるのであれば、まず学会が責任を持って、「標準的な教科書作り」から始めるべきである。
 「学校心理士」資格を作ろうとする背景には、そうした「期待がある」ということもあるらしい。しかし、その期待に応えるための地道な努力なしに、安易に資格作りだけに奔走するのは問題である。地学を勉強して理科教員になる場合には、「理科(地学)を教えること」が期待されるだけで、地学の知識の現実社会への応用(たとえば「地震予知」)は期待されない。修士課程を修了したくらいで地震予知などできないし、そもそも第一線の地震学研究者でも予知などできないのだから、誰も期待しないのだろう。それに対し、教育心理学の場合には「心理学(教育心理学)を教えること」は期待されず、現実社会への応用(たとえば「いじめ問題の解決」)だけが期待される。しかし、地学の場合と同様に教育心理学だって修士課程を修了したぐらいで現実社会への応用が可能になる知識が身につくわけではない。しかも、地震学と同様に第一線の研究者だっていじめ問題の解決方法を知らないのが実状である。一方的に「期待される」のは仕方ないとしても、積極的に「期待を持たせる」ことをしてしまって、その結果「期待に充分そえない」ことがわかって顰蹙を買うということになったらどうするのだろう。