1. 育て方ひとつ
    1. オオカミ少女の話
      鈴木鎮一氏が「人の能力は環境によって育つ」を主張するとき、必ず持ち出すのがオオカミに育てられた二人の女児の話だ。これは1941年デンバー大学とエール大学の2教授によって発表されたもので、インドにおいてオオカミに育てられた二人の子どもが発見されたが、二人ともオオカミそのものに育っていた、というものだ。環境がいかに人間を変えてしまうか。環境の力がいかに大きいかを説明する格好の材料として、鈴木氏が頻繁に引用する物語だ。

      アメリカの有名大学の2教授によって発表されたものだから、普通ならかなりの信憑性がある報告だと考えるところだろう。確かに、人間の子どもは生まれたばかりのときは脳はまったく未熟な状態で、生まれた後になって発達する。そのため人間の世界で育てられれば人としての発達をすることができるが、オオカミに育てられればオオカミの行動パターンの情報にしか接することができない。従って人の言葉を覚えることはなく、オオカミのように行動することを学んで育ってしまうだろう。この点に限っていえば、意義を差し挟むものではない。

      しかし、私には鈴木氏が挙げたほとんどの具体例について、にわかには信じられない多くの疑問がある。ダーウィンの進化論から考えても、おかしいところが多々ある。この報告が本当に信憑性のあるものなのか。また、今日までの科学的な研究成果から見て、このようなことが起きうるのか、研究してみる必要があるように思う。

      鈴木鎮一氏が始められた才能教育運動は、その広がりと影響はかなりの大きさを持っていると思う。在野の音楽教育活動でこれだけの規模を持った事例は、他にないのではないだろうか。それだけの大きさを持つものだけに、もし鈴木氏の研究に何らかの認識不足があったり分析に手落ちがあっとしたら、それを信じて従ってきた多くの子どもたちや親たちに、多大な負の負担を課すことになる。事実私は色々な家族から、そのようなつらいお話を伺っている。

      その見地からいわせていただくと、氏の母国語の学習プロセスの理解とそれの音楽教育への応用に見るように、どこか素人っぽい(本人自身がそういっているが)気楽で短絡的な理解に基づいて、大胆な発想を展開しているような気がしてならない。このオオカミの例についても、素人の私ですらこれだけの疑問を感じるところを、自分の理論の正当性を実証するために、安易に引用されてしまう。私ならこの疑問を解明した後でないと、とても公に示す例としては採用する気になれない。鈴木氏の理論展開の甘さを指摘する例として、取り上げてみたいと思う。
      1. 成長の早い動物と未熟な状態で生まれる人の子
        私がまず疑問に思うのは、人間にとってのこれほどの環境の激変があれば、ダーウィンが進化論によって説明しているように、環境に適したように生まれついたものしか、過酷な自然は生き残ることを許さないのではないかということだ。 園部三郎著「おとなはみな子どもの時を忘れている」の中に脳生理学者の時実利彦氏の次のような発言がある。

        時実「動物は、生まれたときには、もちろん小さいのですけれども、すぐに大人になってしまうのです。エゾシカは、生まれて1時間もすると、ピョンピョン飛んで歩くのです。そして2週間で親と同じになってしまうのです。サルなんかも、だいたい二日ぐらいでヨチヨチ歩きまして、二週間もすると木登り何かします。そして、親と離れるのが、だいたい三ヶ月ぐらいなのです。サルの一生は30年ぐらいと言われておりますから、だいたい人間の半分か、三分の一でしょうけれども、それにしても早いわけです。」(P106)

        このように他の動物の場合は、生まれたときにはすでにある程度厳しい自然の中で生きる能力を持って生まれてくる。それに対して人間の子どもの場合は、独り立ちできるまでにかなりの日数を必要としている。それだけになおのこと、幼児の時には適当な保護のもとにおかれなければ、生きていけないということだろう。はたしてオオカミにそのような保護を与える能力や、またジャングルにそのような環境を提供する可能性があるのだろう。

        他の動物の赤ちゃんの場合は、生まれてすぐに歩けるようになるので、他の子どもを押しのけるようにして母親の乳首に食いついていく姿は、時々テレビの画面でも見ることがある。一方人間の赤ん坊は歩くことすらできない。だから、人間の場合もサルやゴリラのような動物の場合も、母親は赤ちゃんを抱くことができる腕や手を持っている。その手で母親の方から赤ちゃんを抱き上げて、自分の手を使って乳首を赤ちゃんの口に当ててあげる。人間の赤ちゃんは歩けなくても、ちゃんと乳を飲ませてもらえるようにできている。オオカミの手はそのような機能を持っているのであろうか。

        一方、幼児に比べてはるかに生活力のある動物でも、皆さんがペットとして飼う動物だけでなく、動物飼育の専門家のそろった動物園においても、時々動物の飼育に失敗したというニュースが報道される。動物園で誕生して温かく見守ってあげたものの、その後の飼育に失敗するという例は、数限りなく報告されてきた。動物でさえ環境が違えば、これだけ生きていくことが難しいことを考えると、幼い人間の子どもが生きていけるチャンスは、限りなくゼロに近いと思われる。

        オオカミは人の子を育てる性質があるといわれているらしいが、人間と違って生肉を食べる食肉類だ。幼い子どものまだまだひ弱な胃や腸が、そんな食事で生きていけるのだろうか。また、ジャングルの中には育てているオオカミ以外にも、色々な動物が生存競争を続けているであろう。気候の変化も家の中で生活するのとは比べものにならないほど、赤ちゃんの健康に直接影響したことだろう。そんな中で他の動物と違って未熟の状態で生まれる人の子が、どうやって生きていくことができたのだろう。

        例えば、ジャングル特有の病気に対して、オオカミには長い年月の間に体内に作られた抵抗力があって生きていけるとしても、人の子どもにはそのような免疫力がないという事態が考えられる。以上様々な条件を考えると、オオカミの習性を身につける以前に、環境に適応できずに死んでしまう可能性の方が、非常に高いと思う。そう考える方がダーウィンの進化論の「自然による選択」「自然による淘汰」のシステムに合致するように思う。

        万が一にも、この話に本当のところがあるとしても、果たしてどこまでが本当なのか、再度研究してみることも必要ではないか。例えば、あらゆる状況における幼児の成長の事例をいろいろ研究して、このような境遇におかれた場合の幼児が生き延びれる確率を調べなければいけない。この確率が極端に低いようだと、一部に正しい報告があったにせよ、このレポートのどこかに捏造があったかもしれないと考えることができる。最近日本でも旧石器時代の発見に関して、実はそれが一人研究者の捏造だったことが分かって大問題になった。しかし、ここで注目しておきたいことは、このような捏造が真実のものとして、居並ぶ考古学の専門家の間にも通ってしまったという事実だ。おそらく、学問の世界にはこのような捏造の事例が、時として起きるのではないか。

        もし、この報告の幾つかの部分に、私が指摘したように説得力のない部分があるとすれば、そのような話を自分の理論をサポートする事例として持ち出すことは、止めにしていただきたい。鈴木氏が人間としての一番大切な誠意を重んじるなら、自分の話す内容に関しては、誤りのないようにもっと徹底した検証をしていただきたいと思う。これだけ影響のある人の言葉は、ちょっとした一言が、人の心を惑わすことになるのだから。
        1. ダーウィンの進化論
          参考までに、ダーウィンの進化論についての簡単な解説を、Microsoft の 「Encarta Encyclopedia 2000」から下に引用させていただいた。

          野生のものにせよ、飼育動植物にせよ、その原因はほとんど解らないが、生物は変異する。同一の親からの子もすべて変わっている。それでは自然界で選ぶものは何か。これを彼は激しい生存競争のために、生物のなかでその環境に最も適したように生まれついたもの、すなわち恵まれた形質をもつものが生き残ることが自然が選ぶということとし、自然選択説を唱えるのである。
          生物界の繁殖力は人間とは比べものにならぬほど大きい。その生存競争の激しさが思われる。とすれば、環境によりよく適したものが、ごくわずか生き残るにすぎない。環境には寒暑湿乾、光、熱などの自然環境のほかに、生物的環境がある。動物は他の生物を食べなければ生きていけない。ダーウィンの注目したのは、なかでも同種間の食料の奪い合いである。同一種の分布が広がるとき異なった環境でそれぞれ選ばれて、長い間にはさまざまの変種ができる。その間に地理的にか、生態的にか、または他の原因で雑種となることを妨げる隔離があると、ますます互いの形質の差が開き、ついにはそれぞれが別種になる。「変種は種の若いものである」というダーウィンの言葉がある。ダーウィンはラマルクと同様に漸次的変化が積もり積もって、ついに種の新生があることを言う。("ダーウィン「種の起原」," Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2000)(下線筆者)
      2. 一世代でそこまで環境に適応できるか
        1. 胸や肩に毛が密生/夜目が利く
          鈴木氏によると、この報告では二人は「頭や胸や肩に長い毛が密生していた」とのことである。また、四つ足で歩き、夜目がきき、鼻はきわめて鋭敏になっていた。四つ足で走れば犬のように速く、人間が追いつくことができなかった」とのことである。

          「頭や胸や肩に毛が密生していた」という報告であるが、頭は別として、胸や肩に毛が密生していたというのは、本当だろうか。欧米人の男性には胸毛の多い人が多いが、別にオオカミに育てられなくても、そのような遺伝情報を持っていれば胸毛が育つ。反対に多くの日本人男性のように、そのような遺伝情報を持っていなければ、たとえ大人になっても胸毛は生えてこない。このような生理的な体質は、一番遺伝子に支配されている部分ではないか。

          もちろん、人間の生理的な反応には、かなり環境に反応する能力があって、冬でも裸で遊ばせる方針の幼稚園の話題をたまに聞くが、そのような環境にある子は寒さに強い体質になる。厚着をさせて育てられた子が、突然寒風のもとにおかれたら、たちまち風邪をひいたりして寒さに負ける。しかし、裸で遊ばせているからといって、防寒のために毛が生えてくるところまでの生理的変化を起したという話は聞いたことがない。これほどの生物的特質の変化は、進化論によれば何世代にもわたって環境に適応したものが残るというプロセスを経て起きることだ。オオカミに育てられた子どもの場合は、一世代の間にしかも2歳と7歳という幼女に、そのような現象が起きたという。環境に適応したのでなく、もともと遺伝的に持っていなければ、そこまでの体質変化は起きそうにないと思うが。

          こんなことが起きうるとすれば、太陽からの赤外線に対抗するために、途方もない年月の間に皮膚にメラミン色素を多く持つようになった黒人が、自分の子どもを紫外線の弱い地域で育てたら、白人のようになってしまった、といった話になってしまう。そんなことが考えられるだろうか。

          「夜目がきく」についても同様だ。生まれつき盲目に生まれた子どもが、外界の出来事を感知するために、聴覚や触覚に頼らざるを得ないことから、いつも聞くという行動に集中する。そのことから聴覚が他の人より鋭くなる、ということはあると思う。同じことは目についても言えるかもしれない。部屋の照明を消した直後は、人間の目には何も見えなくなるが、しばらくすると暗くなった明るさに目の方が慣れてきて、ものが見えるようになるということは、皆さんも経験したことがあるだろう。それだけ人間の目は環境に適応する能力を持ってはいる。

          しかし、オオカミと数年共に行動したからといって、本来そのような機能は持っていない人の目が、オオカミのように夜目が利く目になるのかどうかは、はなはだ疑わしいと思う。例えば猫は夜の狩りに適した目を持っているといわれる。これは網膜の辺縁視野が発達していて夜目が利くからだそうだ。猫がこのような目の機能を持つようになったのは、何十万年、何百万年もの進化の歴史の中で、環境に適応したものだけが淘汰され、さらに数知れない世代の交代の中で種特有の機能を磨き上げてきたものだと思う。新たに生まれる種の子どもたちは、そのような生物的機能の遺伝子情報を持って生まれてくる。そのような遺伝子情報を持たない人の子が、一世代の間にまったく別の種の生物的特質を持つことなど不可能であろう。突然変異でも起きたのかもしれないが、突然変異だとしたら一般的に適用できる原理とは言えなくなる。当然、鈴木氏の能力理論の論拠にはならなくなる。
        2. 四つ足で歩く/犬のようにあえぐ
          鈴木氏の説明によると「四つ足で走れば犬のように速く、人間が追いつくことができなかった」そうだ。四つ足で人間が追いつけないほど速く走れたとすれば、走るための骨格構造が四つ足歩行に合致した構造になっていたとしか考えられない。試みてみればすぐ分かることだが、二足歩行に適したように発達した人間の足の構造では、四つんばいになって走ろうとしても、足の長さや、足の構造がまったくそれ向きになっていないので、かえって転びそうになるのが落ちだ。人間が何百万年にわたる長い進化の歴史を通して発達を遂げた、直立歩行するための骨格の遺伝子情報が、たった一世代、しかも生まれた後になって、四つ足で歩くに適した骨格に作り変えられるなどということは、とても私には想像できない。犬のようにあえぐことも、同じようなこととして考えることができると思う。

          このような環境への変化が起きうるとすれば、アカシアの木の高いところの葉を食べるのに都合がいいように長い首を持ったキリンも、高いアカシアの木のないところで育てられれば、一世代で首の短いキリンに適応する能力があるといったような話になってしまう。あるいは、小さな手に生まれた子どもも、ピアノが何よりも好きで毎日たくさん練習していたら、鈴木氏のいう「環境に適応して生きる自然の法則」によって、どの子も手の大きさが大きくなり肉も厚くなり、10度を楽に取れるほど長い指になってくれるのだろうか。そうだとすればこちらの方は、ピアノを習うものには朗報なのだが。
      3. 学習して獲得した行動と遺伝的に持つ機能
        1. 帰国子女の問題を例に
          親の勤務の関係で幼稚園や小学校の時から外国の学校へ何年も通ったり、中学や高校の若い時代に外国へ留学した後帰国した子どもたちが、文化の違いから色々な問題に直面していることが、新聞、テレビで大きく報じられた。外国での長い生活を通して、自分の考えをしっかり持って、それを行動に移す態度が身についた帰国子女は、自分自身をできるだけ表に出さず、回りのみんなと同じ行動を取ろうとする日本に育った学生や教師との間で、事あるごとに摩擦を起こし、それがストレスになって悩んでいるといったというような問題だ。

          このように、まったく違う言葉や文化の中で育てば、同じ日本人であっても違う言葉を母国語として話し、その国の文化を身につけた日本人が育つ。その意味で、人間は環境によって育てられるという事実を、よく物語っていると思う。

          しかし、その人の生物的な特徴は、あくまでも日本人である。外から見た肉体的特徴は、着るものの趣味とか化粧の仕方とかは文化的影響を受けて違っていても、やはり日本人そのまま。例えば発音についても、民族特有の顔かたちや口の構造が関係しているという話を聞いたことがある。その関係で、アメリカに生まれてアメリカに育っても、日本人の発音はどこか微妙に違っているようだ。そういわれてみれば、顔かたちのそっくりな人が同じような声を出すということは、しばしば経験することだ。声帯模写をする芸人も、真似する人の顔や口格好を似せることによって、そっくりな声を作ろうとしている。

          この事実をオオカミに育てられた女児に適用すれば、行動様式がオオカミにかなり近くなったとしても、生物的体質や骨格といった点で、例えば直立歩行の人の骨格が、オオカミの環境で育てられたために、四つ足歩行の動物たちのような構造に変化する、といったことは考えられないことだと思う。
    2. 音痴は環境の産物?
      鈴木氏は「音痴の子は親の歌うのを聞いて育ったから音痴になったのだ」と言って、音痴は決して生まれつきではなく、幼児の回りの環境が音痴を生んだのだと説明してる。(「愛に生きる」P23)しかし、音痴が生まれる状況は本当にそんなものだろうか。

      音痴の母親は歌うたびに人に笑われたり言われたりして、自分が音痴であるということを知っているものだ。自分が音痴であることを知っていれば、歌うことに自信がなく、自分の子どもを含めて人前で歌うことはあまりしないだろう。それに、今では家庭を含めて幼児を取り巻く環境は、母親の歌う歌よりテレビやCDプレーヤーなどから聞こえてくる音楽の方が圧倒的に多い。そして、当然ながら、これらの音楽は、音痴の母親の歌う歌はもちろんとして、もともと歌の上手な母親と比べても、はるかに音程は正確で音楽的にも豊かだ。(この場合の音楽は、大抵は歌謡曲やポップスの類の低俗な音楽だ、というのはなしにしよう。日本を代表する指揮者岩城宏之氏は美空ひばりだ大ファンそうだし、世界的指揮者小沢征爾氏も、コンサートの旅のホテルの一室で日本の歌謡曲や演歌を聴いて泣いていたりするそうだ。)

      また、同じ家庭に育った兄弟でも、一方は音痴だが別の兄弟は正しい音程で歌える、という現象もよく見られることだが、これはどう説明するのか。鈴木氏のように環境説だけでは説明できない事例が、けっこう普通にあるではないか。
      それと、音痴としゃべりの関係で言うと、音痴であってもしゃべる日本語の抑揚にはあまり問題のない場合が多い。ということは、じゃべるときの音域と抑揚についてはコントロールが利く子でも、しゃべること以上に広い音域で、しゃべること以上に細かい音程関係を含むメロディーを聞き分けたり、歌い分けたりする能力が不足している子どもがいるということだ。このことは、生まれつき聴覚に問題があって、しゃべること以上に広い音域を聞くことに困難を生じたり、声帯のコントロールを司るどこかに制約を持って生まれてくる子供がいるということかもしれない。

      これらの事情を考慮すると、鈴木氏の唱えるようにこの問題を簡単に環境の問題、母親が音痴で音痴の歌を繰り返し幼児に聞かせたことが悪い、などと結論づけるのはどうだろうか。もっと医学の専門家を含めて研究する必要がある問題のように思う。
    3. 音楽の生まれつきの才能はない?
      鈴木氏は音痴の観察から「つまり、しようと思えば、世界中の子どもを音痴にすることができるのですから、音楽の生まれつきの才能などというものはあるはずがない。」(「愛に生きる」P25)と、これまたかなり短絡的で乱暴な結論をしている。

      それはそうだろう。例えばどんなに美しいバラになるはずの木を育てても、もしバラが水を必要としているときに水をやらなかったり、反対に水をどんどん与えれば、どんなに美しい花をつける遺伝子を持ったバラを育てても、バラは水切れで枯れてしまったり、水がたまりすぎて根が腐ったりして、蕾をつけることすらない。だからといって、このバラには美しい花をつける才能は、もともとなかったのだと言えるだろうか?そんなことのないことはない。このバラには、すばらしい花を咲かせる才能はあったのだ。

      園芸の本やテレビの番組などを見ていると、バラの苗木の選び方とか、チューリップなどの球根類の選び方などを特集していることがよくある。そこではどうやってきれいな花をいっぱいつける苗木や、元気な花をつけてくれる球根を見分けるかを教えている。すなわち、生まれつきいい花をつける才能のあるのとないのとがあるわけだ。才能のない苗木は、どんな名人が育てようとも、なかなかいい花をつけてくれない。

      それから、同じチューリップの種類でも、赤の花をつける球根は、赤の花を咲かせる才能はあっても、白の花を咲かせる才能はない。でも、肥料の与え方や、日向に育てたり日陰で育てたりすることで、多少色が変わる場合もある。これは鈴木氏のいう環境の影響と言えるかもしれない。しかし、そのような環境も、生まれ持ったもともとの才能を、まったく無視できるものではない。

      人間とて生物だから、このような生物のあり方と同じところがあっても不思議はない。このように人間を含めて生物の成長は、生まれながらに持っているものと環境の関わりの中で見る必要があるだろう。その関係の中で、実は生まれながらに持っているものの力というものは、とてつもなく大きいということを理解する必要があると、私は考える。
      1. ベートーベンも天才ではない?
        「音楽の生まれつきの才能などというものはあるはずがない。」と結論づける鈴木氏の論理はとどまるところを知らない。「才能教育 No.13」では「”能力の法則”について知れば、ベートーベンもモーツァルトも天才ではなく、彼らは最も優れた条件に依って、幼児から優れた能力の人間に育てられた人々であり、またその能力を活かし、当人の大きな努力によって、すばらしい文化的な、高く尊い仕事をやり抜いた尊敬すべき人類の恩人であったと思います。」(P4 下線筆者)

        ベートーヴェンの音楽的環境はそんなによかったのだろうか。飲んだくれの父をもって、理想的な家庭環境のもとに育ったかどうかは、疑わしい。日本を代表する数学者・岡潔の著作に、才能を伸ばす条件の一つに愛情に囲まれて育つことをあげておられた。その説に従うとすれば、ベートーヴェンの環境は最悪ということになってしまう。

        鈴木氏の話はこれに限らず、十分な検証もせずに一方的に結論づけてしまうことが多い。ベートーヴェンの音楽的環境に関して言えば、いい環境であったかどうかは別にして、これまでの長い歴史を考えれば、ことに科学文明が進歩し教育技術が発展を遂げた近年においては、ベートーヴェンよりはるかに優れた音楽的環境に育った子どもたちは、たくさんいたのではないかと想像できる。ということはこの論理でいくと、ベートーヴェンより優れた大作曲家がその数だけ出たということになるが、そのような事実は確認できるのだろうか。

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