1. 過度の期待をあおる
    1. 優れたバイオリニストの例示
      鈴木鎮一氏はしばしば自分が育てた生徒の中で、世界的な活躍をするようになった何人かの生徒を、自分の指導法の成果として列挙する。中でも江藤俊哉氏、豊田耕児氏などは最も頻繁に、最も詳しく語られる成果の事例だ。後ほど詳しく述べるが、ヤマハ音楽振興会の理事長・川上源一氏は、氏が創設したJOC活動を通して、自作の曲を弾いたり、観客からテーマを与えられて見事な即興演奏をするような、とてつもなく才能豊かな子どもたちを多数世に送ってきた。しかし、彼は「これらの才能豊かな子どもたちは、1万人に一人の特別才能に恵まれた人たちだ」と明言する。

      一方、鈴木鎮一氏は「音楽ばかりでなく、他のあらゆる才能も生まれつきでない」(「愛に生きる」)「ベートーベンもモーツァルトも天才ではない。育てられ方が良かったのだ。」(「才能教育 No.13)とまで言明する。そのような鈴木氏のことだから、このような才能ある生徒の例を出すとき、これは特別な才能を生まれつき持った生徒だ、とは決して言及しない。世界トップクラスのバイオリニストが育った生徒の話に多くのページを割くので、誰でもそのレベルかそれに近いレベルになるのでは、という期待を持たせる。

      しかし、江藤俊哉氏について言えば、ずいぶん昔のことになるが氏がNHKテレビのある番組に出演したとき、「才能というものはある」と言及された。鈴木氏のかつての弟子が言うことにしては、かなりショッキングな内容だったので、印象に残ったことを覚えている。氏も長年多くの子どもたちの指導に当たってきたことと思うが、そこで才能のある子とない子の違いがある現実をに、何度も直面したからではないか、と考えた。

      何といっても才能教育では、日本どころか欧米諸国を含めても、それまでのバイオリン教育の世界ではまったく例を見ることができないほど、大変な数の子どもたちが習い始めた。このような運動を通して、史上まれに見るバイオリニスト(専門家であるなしを問わず)を世に送り出したことにおいて、なにがしかの貢献をしたということは認められるかもしれない。

      才能教育はそれほどの数の生徒を抱えた教室だということ。また世界のどの地域のどの歴史の時点においても存在しなかったような、親子を巻き込む早教育を歌い実行し、3歳児にして毎日3時間平気で練習するような子どもも多数いた教室であったこと。そのことを考えれば、言葉は悪いが「下手な鉄砲も数うちゃ当たる」のたとえ通り、中には一流の演奏家になる才能を生まれ持った子どもがいても不思議ではないだろう。鈴木氏は信じないかもしれないが、「天才は自分で自分を教育する」と言うこともある。もし、子どもに才能があれば、それほど間違った指導をしない限り、天才は自分で育っていく面もある。それに、江藤氏にしても、豊田氏にしても、ものごとを自分でしっかりと理解できるようになった年齢からの、肝心要の勉強は、本場の国に行って、そこの実力ある教師について学んだという事実を忘れることはできないだろう。
      1. 他の先生の下でも育った可能性は大いにある
        このように鈴木氏が育てた限られた数の優れたバイオリニストを、あたかも才能教育が故に育ったと報告するのだが、江藤氏がNHKテレビの番組で吐露したように、江藤氏に生まれつきの才能があったのではないかと仮定することは考えられないだろうか。この報告の信憑性に関して一番の欠陥があるとすれば、江藤氏がまったく別の先生に育てられたという事例の報告ができない点だ。私は、もし江藤氏が生まれ変わることができるものなら、今度は是非別の先生についてバイオリンを習ってもらいたいものだと思う。素晴らしい指導力を持った先生につくことができれば、たとえ指導システムに違いがあっても、やはり一流のバイオリニストに育ったのではないだろうか。このような検証がないのでは、科学的で客観的な論拠とはならない。

        どちらにしても、鈴木氏が例に挙げる多くの偉大なバイオリニストたちは、みな才能教育で育った人たちではない、クライスラーにしても、ティボーにしても、オイストラフにしても、全てヨーロッパの才能教育とはまったく違った指導理念を持った先生の下で学んだ人ばかりだ。このようなことについても、冷静になって考えることが必要ではないか。それに、江藤氏にしても、豊田氏にしても、その他の才能教育出身の多くのバイオリニストも、才能教育とは別のシステムで育った偉大なバイオリン教師に学ぶために、外国へ留学しているではないか。

        ほかの多くの先生の指導で、たくさんの世界最高のバイオリニストが育ってきた。この事実を考えると、江藤俊哉氏を初めとしたバイオリニスト達は、もともと才能に恵まれていて(江藤俊哉氏はかつてテレビ番組の中で、「才能はある」ということを言明していて、やっぱりと合点したものだ)、別に才能教育でなくてもそれだけのバイオリニストに育った可能性はあったのではないか。
      2. テストなしに受け取って育てた子どもばかり
        鈴木氏はこれら一流のバイオリニストになった子どもたちを、全てテストなしで受け取って育てたと書いている。(「愛に生きる」P50/P65)そして、この事実が「”どの子も育つ。育て方ひとつ”こうしたわたしの主張のもとに育ったあのころのにぎやかな子どもたちが、みごとにこの主張を実証してくれているのです。」(「愛に生きる」P50)と主張される。また、別のところでは「このすばらしいこと、たくましい能力を、特別なひとにだけ可能なこととは考えていませんし、事実そうではないのです。そのように育てられたものはそのように育つ。-耕児君と健次君のばあいも、こういうことの一つの例証であるにすぎないのです。」(P65)まで言い切っている。

        鈴木氏は「全てテストなしで受け入れた」ということで、いかにも普通の能力の子どもばかりを集めたと言わんばかりの説明をしている。しかし、よく考えてみると、「テストなしで全て受けれいた」ということは、すべて断らないで受け入れるのだから、もともと才能のある子もそこに混じって確実に受け入れることができることになる。このように鈴木氏の表現は、その文章の定義の仕方にとても曖昧なところがある。問題なのは、論理の体系が曖昧な表現を多用するだけに、鈴木氏の論理の筋道がよく見えずに、うっかりその話術の術中にはまってしまうということだ。自分の子どもが少しでも能力のある子になってほしいと願う母親は、冷静に見る目を持たずにこのような書物を読むと、話の齟齬を見破れずに、表面にちりばめられた麗しい約束ばかりに目がいってしまうことをおそれる。
      3. 才能ある子は1万人にひとり(ヤマハ:川上源一)
        才能教育の「生まれつきはない。育て方ひとつ。」という才能の安売りのようなキャッチフレーズに対し、才能ある生徒は1万人にひとりくらいしかいないという現実を、正直に伝えている例を紹介しよう。財団法人ヤマハ音楽振興会の川上源一理事長がヤマハのJOC(JUNIOR ORIGINAL CONCERT)の活動について「ヤマハ音楽通信第149号(8月号)」の巻頭の文章の中で次のように述べている。

        「ご承知のようにJOCに出演する子どもは特別優等生で、全国の教室で学んでいる子ども数十万人の中の数十名ですから才能的にも知能的にも1万人にひとりくらいの才能の子どもが到達できるわけです。(略)優等生だけを捜し出して教育するのがヤマハの目的ではない。大部分の普通の能力を持った子どもたちが、長い人生の過程の中で、かつて自分はヤマハの先生やお友達と一緒に音楽に触れたということが、才能のいかんにかかわらず、その生活を豊かにし、人間的な豊かさを身につけることができれば、私としては大変喜んでいただけることができたに違いない、という満足感を持つことができるわけでございます。」

        ヤマハ音楽教室を全国的に展開した川上氏は、ヤマハの教室で学んだ子どもたちが自分で作った曲を作った本人がひいて、そのでき具合を競うコンテストを始めた。それがジュニア・オリジナル・コンサート、略してJOCだ。それは、毎日日本語をしゃべる子どもたちのしゃべりは、ほとんどはクラシック音楽を習うように人の作った作品をしゃべっているのではなく、その時その時自分の思っていることや感じたことをしゃべっているように、音楽の学習でも自分の気持ちを音楽に表してそれを演奏するようになることが、一番その子自身になれると考えたからであろう。本当の生き甲斐とは、人の書いたもの、言い換えれば他人の感情を表現することではなく、自分自身を表現することだと考えたのだと思う。それができたら、自分に一番正直になれるだろう。

        JOCの企画を、このように母国語の学習プロセスから発想したかどうかは知るよしもないが、母国語を使う状況をつぶさに見ると、川上氏の音楽へのアプローチの方が、はるかに母国語を使う現状に合致しているのを見ることができるのは、大変示唆に富むところがあると考える。

        ヤマハ音楽教室は大規模に全国展開している教室という点で才能教育と同様とは言うものの、その規模ははるかに才能教育を凌ぐ。その事実は、ヤマハ音楽教室はそれだけ多くの子どもたちを指導してきた経験を持っていることを意味している。その教室をリードしてきた川上氏が、才能というものに言及したとき、「才能は厳然として存在し、JOCで活躍できる子どもたちは1万人に一人くらいしかいない才能ある子どもたちだ」と明言している。

        そして、その他大勢の普通の才能しかない子どもたちには、「長い人生の過程の中で、かつて自分はヤマハの先生やお友達と一緒に音楽に触れたということが、才能のいかんにかかわらず、その生活を豊かにし、人間的な豊かさを身につけることができれば、とても満足である。」と言っている。ヤマハは利益追求が第一の企業である。企業というものは往々にして、あることないこと買い手の心をくすぐるようなことばかりを並べ立てて、購買意欲をそそろうとするところがあるが、この言葉は何十万人の子どもたちを教育してきた実績の上での、まことに正直な感想の吐露だと思う。
    2. 過度に期待を持たせることの悲劇
      1. 幼児期にはあまりに過剰な教育意識
        「どの子も才能豊かな子に育つ」という宣伝文句は、教育意識が異様に高い我が国においては、自分の子に過剰な期待を寄せる母親の夢を煽り立てる。そのような期待が大きいばかりに、親の期待通りにはいかないときは、子どもは劣等感に悩まされ、親は必要以上に落胆する。平均よりはるかに高いレベルに達している場合でも、親の期待がそれ以上であるときは、落胆のあまりに途中で音楽の勉強を止めてしまうということすらある。

        これは今日の日本においては、何も才能教育に限ったことではない。その意味では才能教育ばかりを責めるわけではない。普通に遊んで、歌って、踊って、けんかをして、しかられてといった、基本的には幼児の生活そのものが教育であるような時期に、日本ではあまりに親の教育意識がぴりぴりとしてしまっていて、このことは日本社会そのものの問題と考えることもできる。

        ただ、そのような中にあって才能教育の問題点は、鈴木鎮一氏が色々な場面で述べている「どの子も苦労することなく日本語を上手にしゃべっている」というスローガンと現実の間の大きなギャップだ。才能教育では教育を意識しない無理のない環境を作ることを標榜しているようでいながら、実は幼児期から過度に教育意識過敏な親を作っている。3歳で毎日3時間も練習する子の例を挙げて、あたかも「才能教育で学習した当然の結果だ」といった形の紹介の仕方も、子どもに過剰な練習を強いる結果を招くだろう。

        しかし、これまで縷々述べてきたように、才能は厳然として存在するので、「どの子も知らぬ間に日本語をしゃべるようになる」ほど簡単に能力が育つような甘い話はあるわけがない。もちろん、その点に関しては「能力はくり返しくり返しやっている間に身につくものだ」といって、3歳児の3時間の練習の例と共に、いかに努力が必要かも説いている。しかし、そのような努力が絶対条件であるのなら、これまた幼い幼児には過重な負担になるのは目に見えている。また、そんな練習ができる子であったとしても、今度はそのような生活自体が幼児としての生活全般の活動のバランスに欠け、どこか性格上の欠陥を生む可能性すらあるだろう。このように、表看板の一見高邁な理想主義とは裏腹に、現実の幼児の生活を見れば、どの母親も一歩下がって冷静に考えていただきたい問題が多分に生じやすい点も、知っておく必要があるように思う。
      2. 幼児が毎日3時間練習
        1. お人形を与えればいいものを
          「愛に生きる」の中に、毎日3時間バイオリンの練習をしている3歳の幼児の話がある。

          「粕谷ひとみちゃん-この子は三歳で、毎日三時間ヴァイオリンをひいて育ちました。三つの子に? どうしてそんなことができるだろうか、と思う方が多いでしょう。
           ひとみちゃんのおかあさんは、お人形の変わりにヴァイオリンを与え、いわゆるムードミュージックのように、何度でも、けいこ中の曲のレコードを聴かせた。ひとみちゃんはおもちゃのようにして一日じゅう遊び、ひとりでひいた。おかあさんがわたしたちの指示どおりに、ちょいちょいと正しく教える。おかあさんもいっしょに遊ぶ。これは教育の名人芸です。」(P194)

          鈴木氏の見方では、三歳の子が毎日三時間もヴァイオリンを練習していることが、何かとても素晴らしいこととして受け止めておられるようだ。親の欲目で、自分の子どもに少しでもよその子どもより上手になってほしい、人も驚くような才能を発揮してほしいと願っている親から見れば、何とうらやましい話だろうと思うかもしれない。うちの子も何とかしてそうなってもらいたいものだと、垂涎の的としてこの話を聞くかもしれない。

          でも、親が一方的に方向づけした世界でなく、もっと色々な経験をして自然にのびのびと育っていく姿を、暖かく見てあげたいと考えている親から見れば、3時間という時間が幼児にとって異常に長い時間に思えるだけだろう。幼児の未来の可能性は親だからといって分かるものではないのだから、少なくとも一つの限られた世界に時間という限られた資源を注ぎ込むことだけはすまい。賢明な母親なら、子どもは親の専有物ではないのだから、それは最低限やってあげなければと考えるだろう。

          子どもは何も分からないことをいいことに、子どもが自分の意志を持つ前に、自分の子どもが親の望むような子になるように、親が深謀遠慮の計画を立て、それを日々実行していった結果、子どもが毎日3時間も練習するようになったとして、それがどれだけ教育者として誇らしいことになるのか、私には分からない。ただただかわいそうな子ども、といった感慨しか湧いてこない。

          バイオリンをお人形の変わりに与えたというが、私にはお人形を与えればいいのに、との思いしか浮かばない。素敵なお人形を与えれば、幼い頃のいい思い出になるだけでなく、美しいものを愛でることを知るだろうし、ものを大事にすることも覚えるだろう。

          バイオリンを自分にいつもいい音楽を与えてくれる大好きなものとして、ぎゅっと抱きしめるなんてことはできない。お人形なら、思い切り抱きたいと思えば、抱きしめることができる。反対にむしゃくしゃしてお人形を投げつけたり、叩いたりすることもあるかもしれない。そんなときは、お母さんが「お人形が痛い痛いって言ってるよ。お人形さん、ごめんねって言って、よしよししてあげなさい。」と諭して、温かい心を持ってものを大事にすることの大切さを教えることができる。

          もしこれがバイオリンなら、あなたの子どもがバイオリンを投げつけたり、叩いたりすることを、お母さんは放って見ていられますか。もし、そんなことをしたら、お人形の時に優しく言ってあげられたことも、頭ごなしに「大事なバイオリンをなんてことするの!」と思わず反射的に怒ってしまうかもしれない。そう何台もバイオリンを壊してもらうわけにはいかないから。こんな不自由な状態で一日中ひとりで遊んでいたとは、幼児の生活としては何とさびしい生活であることか。

          天才は自分の才能のある分野に異常なまでに集中するために、生活の他の分野とのバランスを欠いて、性格的に偏った人格になることがある、ということはよく聞く話である。姉妹とけんかをしたり、時に母親に反抗したり、自然の中で思い切り遊んだり、とにかく様々な体験を通して幼児は成長していく。親の方から、偏ったバランスの生活を送るようなことをお膳立てするようなことだけは、ないようにしたいものだ。
      3. 中途退会者が多い現実
        現実は鈴木氏の話ほど甘くはないということは、「中途脱会者が多い」という機関誌「才能教育」の次の記事を見ても分かる。

        鈴木先生が「せめて高等科だけは卒業させてください」と言われている所以である。この高等科に行くまでに途中で退会されていく人もかなりある。(「才能教育 No35」P68)

        入門から初級の終わりくらいまでなら、誰でも進める。(もちろんこの段階でも、進む速度は子どもにより大きな差がある)中級に入ったあたりから、力のない子はなかなか先へ進むのが難しくなる、というどこにでもある現実が、才能教育でも例外なく起きているということではないか。

        そのような普通の能力の子どもたちもあるのだという前提に立って、というより大多数は普通の能力の子どもたちだという現実認識をせずに、例外的に高いレベルを普通の目標に設定して教育すれば、多くの子どもたちはただ挫折感を味わうだけだ。「高い人格を育てる」とまで言いながら、挫折感を持たせて送り出すとすれば、いかにも悲しい。ヤマハ音楽振興会の川上源一氏が言うように(氏も産業界に身を置く人。その点から私とは自ずと意見の異なるところはあるが)、まず大多数は普通の能力しか持たない子だという現実を認識して、その子達のためのシステムを考えてあげるというのでなければ、全ての子どものための教育活動にはならない、と私は考える。

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