- 母親に課せられた大きな責任
- まず母親が習わなければならない
才能教育では、我が子に対する母親責任を大変重要視する。それは我々普通の市民の感覚から見ると、異常なくらいだ。例えば鈴木鎮一氏は「音楽教育研究
No.9」で次のように述べている。
「子どもの運命は親の手にあり」
ということを思います。従って私共は、バイオリンを指導するとしても、第一に大切なのは親であると思います。
我が子に対して、新しい目覚め、わが子の人間としての教育の可能性のすばらしさ、育て方ひとつで、どの子もみんな立派に育ってゆく可能性を持っているのだ、ということをわかってもらうことが、第一の私共の仕事なのです。
(略)
さておけいこに入るのですが、私共は初めの一ヶ月二ヶ月はきらきら星変奏曲の最初の曲一つが弾けるようになるように、お母様へバイオリンの指導をします。
それは正しい姿勢、正しい弓の持ち方、そしておけいこの仕方をお母様にわかってもらうためです。(P98)
お母さんが、子どものバイオリンの学習ができるだけスムーズに行ってほしい、と願うのは分かる。しかし、お母さんがバイオリンを好きかどうか分からないのに、そんなことお構いなしにお母さんに習わせるのは、音楽を習うということの意味を無視した行為だと思う。お母さんがバイオリンが好きなら、お母さん自身の趣味として習うのが、音楽を習う本来の道だ。もし、お母さんがそれほどバイオリンに興味がないなら、習うべき道理はどこにもない。
どうも、鈴木氏の考え方の中には、バイオリンを習うことは人格形成実現においてアプリオリに正しいことという前提があって、その大目標のために母親が犠牲的精神を発揮するのは崇高な行為だ、といったような精神論があるような気がしてならない。しかし、このように音楽を習う本来の道に外れたことを平気で行って、はたして本当の意味での人間形成ができるのかどうか。私はこの杓子定規な言葉の使い方にも大変抵抗を覚えるが、母親にバイオリンを学ばせることで、鈴木氏が頻用する言葉を使えば「立派な」子どもを育てる母親の心構えを育むことができるのかどうか、大変疑問に思っている。
- 辛抱の足りない母親を叱咤
途中で退会していく生徒が多いと嘆いた記事に、続いて次のような母親への訴えが書かれている。「親が辛抱できなくて止めさせるというケースが案外に多いようだ。”やりかけたら、やり抜く”という強い信念で、子どもさんの人間形成のため、辛抱強く頑張っていただきたいと思うのである。」(「才能教育 No.35 P68)
止めた生徒の多くは、おそらく凡才を非凡にしてくれると期待して入ったが、非凡は高望みだったとしても、期待したほどには伸びてくれなかった、ということではなかったかと思う。思ったほど能力がつかなかった事実は、お母さんの辛抱が足りないことを嘆いていることでも、想像がつく。お母さんさえもっと辛抱してくれていたら、伸びたはずなのにというわけだ。
しかし「学習しているという自覚もないままに、どの子もりっぱな日本語をしゃべれるようになっている」という日本語学習のシステムを取り入れたはずなのだから、それほどまでに母親の助けを要求するのはおかしいのではないか。それでは、才能教育の指導システムが拠って立つ原理に、反することになりはすまいか。それほど母親に大きな部分を担ってもらわなければならないのであれば、日本語学習に基づいた理念ではやっていけないということを、自ら認めていることにはならないか。
それにしても、またまた「人間形成」である。私にはこの美名がどうも気になる。こんな大それたことを音楽教室の指導目標の一つに掲げなければならないとしたら、私などとても音楽を教える自信がなくなる。
- バイオリンを習うより歌ってあげて
お母さんが音楽がお好きで、お子さんにも音楽が好きになってほしいとお考えなら、幼児に扱いにくい楽器を習わせることを考えるより先に、お母さんが子どもと一緒になってもっと歌をたくさん歌ってあげることを考えてほしいと思う。鈴木先生がそれを発見して驚愕したほど、幼児が苦労することなく日本語の微妙なニュアンスを捉えて、上手に言葉を話せるようになるのは、言葉を話すには本能的に動かすことができる自分の体の器官・口を動かせばいいからだ。母国語学習のこのプロセスに学んでそれを音楽の学習に適用するならば、それは言葉と同じように自分の口や喉を使って歌うことだからだ。
楽器は自分の身体の器官と比べれば、扱いにくい異物のようなもの。しかも、それがバイオリンとなると、この楽器は数ある楽器の中でも、最も技術の習得が難しいとされている楽器だ。母国語の学習プロセスにヒントを見いだした鈴木先生が、どうしてそんな難しい楽器を最初から幼児に与えて、苦労させることをお考えになったのだろう。たまたまご自分がバイオリンを勉強したからこれを選んだというのでは、その教育法の開発の経緯は、ずいぶん手前勝手な開発だったなといわれても仕方がない。それはともかく、バイオリンはいずれ習いたい子が習うにしても、母国語学習の音楽への適用は、まずは自分の喉を使って自由にのびのびと音楽を体験することだ、ということを改めて強調しておきたい。
お母さんにしても、大人になって習うバイオリンより、歌を歌う方がもっと上手にもっと心を込めて音楽をすることができる。それだけ子どもと音楽を通じてのスキンシップをはかることができる。このようにしてダイレクトに気持ちを伝えることができれば、楽器よりはるかに豊かで暖かい親子の心の交流ができる。楽しく子どもと歌を歌うことには、策を弄して好きかどうかも分からないレコードを、大人が勝手に立派になる音楽だからと毎日日課にして聞かせたりすることで、どこか子どもに後ろめたくなってしまうようなことはない。まことに自然で感情豊かである。このようにして母の心の真の暖かみの中で育てられれば、鈴木氏が常に標榜する人格形成にしても、こちらの方がもっと無理なく実現できるであろう。
目次へ戻る
[ホームページ][エッセイ集][夏目先生のテキスト][ピアノテキスト研究][コース案内]