1. 同じ曲をレコードで繰り返し聞く
    学習している曲をレコードを毎日何回も聴かせて練習する学習法は、鈴木鎮一氏が才能教育のテキストの解説を初めとして、様々な著作の中で才能教育が最も重要な教育法と考えている方法である。しかも、「毎日レコードを聞かせる回数の多いほど、進歩の速度が速いことも事実です」(「テキストの解説」より引用)として、できるだけ何回も繰り返し聞くことを強調している。

    このような方法は、日本語を繰り返し聞かされる環境の中で、子どもは日本語をマスターしているという氏の観察から生まれた方法だ。レコードで曲を繰り返し聴く方法を日本語の学習に置き換えれば、レコードに録音された日本語の文学作品、例えば鈴木氏のよく使う形容語を使えば、立派な詩を何回も繰り返し聞かせることに当たるだろう。そんなことをしている家庭があるのだろうか。少なくとも私は知らない。あったとしてもきわめて少数に違いない。どちらにしても、鈴木氏がびっくりされた「どの子も自由自在に日本語を話している」子どもたちは、そのような学習をしていなかったことだけは確かだろう。

    そんなことをしなくても、子どもの回りでは、種種雑多な日本語の会話が乱れ飛んでいる。そんな中にあっても、幼児は日本語の微妙なニュアンスを身につけ、ある程度の文法的要素も学習している。それが鈴木氏が驚愕を持って観察した母国語学習のプロセスだ。

    この事実を考えると、鈴木氏が母国語の学習の仕方をヒントに考案した「学習曲をレコードで毎日のように何回も繰り返し聴く」という学習システムは、少なくとも日本語学習環境には存在しない方法だということになるが、とにかくこの項では、才能教育が一番重要な学習法としている「毎日レコードを何回も聞かせる」指導法について、検討してみる。
    1. エンドレステープを背負って遊ぶ幼児
      NHKテレビの「生活の知恵」という番組が、かつて才能教育を特集したことがある。「学習曲をレコードで毎日のように何回も繰り返し聴く」という学習システムがいかに効果的であるかということをデモンストレーションするために、エンドレステープを背中にしょって砂遊びをしている幼児の姿を放映した。テープレコーダーをしょって砂遊びなど、子どもにとっては不自由でどうしようもないだろう。いくら効果があるとしても、そんなにまでして聴かせることもないだろうに、と思いながら見たものだ。こんなデモンストレーションについて、当時確か千葉大学の心理学の教授の多湖輝氏が、このような学習方法がいかに効果があるかをゲストとして説明していたことにも、仰天させられたことを覚えている。

      効果があるということで、日本中の子どもたちがテープレコーダーを背中にしょって砂遊びをしていることを想像してみてご覧なさい。それは正にぞっとするような光景ではないだろうか。何か洗脳教育といった趣すら感じるような光景である。このような試みを、何の疑問も感じることなく平気で発想できてしまうのは、そのような指導原理が、この団体の教育理念の根本にあるからだろう。「生まれながらの才能はない。育て方ひとつ」といった、ある意味で教育についての傲慢なまでの自信が、正常な感覚を麻痺させてしまったのではないかと思わせる実験だったと思う。
      1. エンドレステープは実験ではなかった
        砂場で遊ぶ子どもにエンドレステープを背負わせたのは、NHKが才能教育を特集する番組を制作するにあたって、繰り返し聴くことの効果を示すために、その時限りの実験をしたのだと考えていた。しかし、前項を執筆した後別の資料を読んでいたら、これは実験ではなく、それを普段実行している家族があることを知って、たいへんショックを受けた。

        「地域と創造」という季刊雑誌は、1980年のVol.11で「鈴木鎮一の世界」を特集した。その特集の中に、鈴木鎮一氏の近くにいて才能教育をよく知る人たちによる座談会があった。その中で当時松本商工会議所の副会頭を務めるH氏が、質問に答えて次のように言っている。

        N氏「幼児からひかせることについて、Hさんはお子さんに小さなころからテープレコーダーをかつがせて音楽を聴かせて、(笑い)効果はどうですか。」
        H氏「そうですね……。まだ何とも言えませんがね。」(P38)

        NHKの番組で子どもがエンドレステープを背負いながら遊んでいたのは、あそこだけのことではなかったのだ。大人が望むような能力を持っつ子になってほしいという大人の勝手な願いから、子どもにこのようなことをするのは、子どもの自由に遊ぶ権利を無視する行為だと思う。そのように考えるのが、普通の人の考えることだ。それを、ことの重大さに気がつかないで実行してしまうのは、歪められた熱心さのようなものを、この教育団体が持っているのではないか。

        同じ座談会の中でS氏が「ぼくは、その原因が内部にもあるような気がするんです。鈴木先生自体を少し神格化するようなところがあるもんだから、それを外から見ると非常に反発を感じる。」(P36)内部の人でさえ認めている鈴木氏の神格化。それが会員各人の判断力を曇らせてしまい、「鈴木先生の言っていることは正しい。鈴木先生の行っていることは、間違いのあるはずがない。」といった信仰に近いものが生じてしまっているのではないかと思う。

        それにしても、せっかくそこまで子どもを拘束しておきながら、効果のほどは「まだ何とも言えません」には、ちょっと拍子抜けした感じだ。それほど効果のはっきりしないものなら、子どもはさぞいい迷惑をしたことだろう。
      2. バックグラウンド・ミュージックにすぎない関わり方
        エンドレステープを背負っているなら、その音楽のリズムが持っている躍動感に突き動かされて、リズムに合わせて踊りだしてしまうのが、この時期の幼児には普通の反応。もし、そんなふうに反応しないとしたら、テキストの音楽が幼児にはつまらない曲なのか、聴くことに慣れっこになってしまった幼児には、繰り返し繰り返し再生される音楽が、いわばイージーリスニングのバックグラウンド・ミュージックになっているにすぎないことを示していると思う。
        1. 子どもの傍らでレコードがなっておればよい
          鈴木鎮一氏は才能教育の機関誌の中で次のように書いている。「特別に「聴きなさい」という必要もないのです。子どもの傍らでレコードがなっておればよいのです。その為には学習中の曲及び、その次の曲の二曲をレコードからカセットテープに録音して、カセットテープの半面にその曲を続けて録音して聴かせるのもよい工夫です。2、30分でも鳴り続けます。」(「才能教育 No.35」P6)

          鈴木氏はこのように、自分が勉強している音楽を子どもが聴こうと聴くまいと、バックグラウンドミュージックとして流しておけばいいと言っているのです。そして、ご丁寧に同じ曲をテープの裏面にも入れて両面自動演奏にすれば、2、30分でも繰り返し演奏を聴かせることができるとのアイディアを提供しています。その後に続けて「ご希望があれば、このようなテープを本部で制作してもよろしい」といったようなことまで書いている。

          でも、才能教育で習う曲は、鈴木氏がその学習を通して人格を高めることまで期待する曲なはず。そうでなくても、もともとクラシック音楽は正面から聴くことを求めるタイプの音楽。そのような曲を学ぶのに、聞き流すような聴き方で勉強する癖を、こんな小さいうちからつけるのはどうなのだろうか。才能教育ではレコードやテープを聴く学習法を徹底してやらせるので、このような学習を通じて得られる習慣は、心底身についてしまうのではないかと心配になる。
      3. セキセイインコはオウム返しをしてるだけ
        鈴木氏の著書「愛に生きる」(P16)に、セキセイインコが人の言葉の真似をする話が出てくる。そこで次のように書いている。

        「やっぱり、生まれてまもないころから始めないといけません。はじめはとても根気がいります。いったんこのおしゃべりをする能力が芽ばえるためには、同じことばのくり返しが必要ですね。これはもうだめかとあきらめたくなるほど、その芽ばえはゆっくり始まるものです。」

        このような観察から、学習曲をレコードで何回の繰り返し聴かせる教育法が生まれたのでしょう。でも、考えてみてください。「能力は生まれつきではない」と言いますが、これはセキセイインコだったからできたことではないですか。この鳥は、生まれつき物真似をすることのできる鳥なのですから。これがスズメやモズだったら、早ければ早い方がいいからということで、卵から孵った直後から何千回何万回同じ言葉を繰り返し聞かせようと、人の言葉を真似するようにはならないでしょう。セキセイインコの例は、能力はやはり生まれながらにある、ということの説明のように思えました。

        それに、もう一つ分からないことは、「立派な人格作り」を主張される鈴木氏が、どうしてこのような例を引用して、人の能力作りの原理を説明しようとしたのかです。私に限らず正常な感覚を持った人なら誰でも、このような例には人を育てる上でのポジティブなイメージを感じることはできないだろう。この話を聞いて思い浮かぶことは、犬やサルに芸を覚えさせるために、調教師が調教している姿です。人間の楽しみのために、動物にとっては喜びでも何でもないことを、教えればできるということで仕込む。人間の勝手にしか思えない。

        もう一つ連想される言葉は「猿真似」という言葉でしょう。猿真似とは「猿が、人間の動作を見て、そのとおりにまねること。転じて、よく考えもしないで他人のまねをすることを軽蔑していう。」(小学館「国語大辞典」)という意味で、軽蔑の対象でこそあれ尊敬の対象では決してない。鈴木氏には能力をつける教育の秘訣を発見した喜びの話であっても、私にはこのインコの話は文字どおり「オウム返し」とか「猿真似」とかのマイナスイメージしか感じられない。

        このように、「何回も聴かせて真似をする」という思想は、才能教育の学習法の根幹をなしていて、鈴木氏の別の著作によれば、どのくらい進歩したかを測るのも、より優れた演奏をどのくらい真似ができたかの程度で測る、という説明がなされている。
      4. 音楽的センスの優劣は聴かせた回数に比例
        鈴木氏は機関誌「才能教育 No35」で以下のように書かれている。
        「幼い子供達がだんだんに育ってくるその姿を通して、はっきりと現われてくる音楽的センスの優劣の育ちは、その二年、三年の間にどのようにレコードを聴かせて下さったのか、その証拠が毎日の家庭での聴かせた回数に比例してくることを、私は明らかに知ることが出来ます。確かに、毎日の聴かせ方の足りない子供には、音楽的センスがあまり育ってはいないのです。」(P6)

        セキセイインコの例で意を強くした鈴木氏は、インコよろしくレコードを何回も聞かせて能力を育てる教育法の、さらなる強化を意図される。能力が育つことと人格的に高まることを同義に捉えている節のある鈴木先生にしてみれば、能力が育つのだからどこに悪いところがある、といった感じなのかもしれない。

        過日ある方にエンドレステープを背中にしょって砂遊びをしている風景を放送した番組の話をしたら、「まるでオウム真理教のヘッドギアみたいだな」と言った。なるほど、指導者の思い通りに子どもをコントロールするための徹底したシステムという点で、どこか共通するものを感じられたのかもしれない。才能教育の関係者たちは、まさか自分たちのメソッドがオウム真理教のヘッドギアを想像させるなどとは、夢にも思っていないだろう。しかし、普通の感覚を持った人たちには、このように取られる部分もあるということは、知っておいた方がいいのではないか。
      5. クライスラー先生によろしく
        1. 教えているのはあなたですよ
          鈴木先生と生徒のレッスン中のやりとりに、私の常識からは信じられないような会話がある。「才能教育 No.35」(P57)で鈴木鎮一氏自身が書かれた文章の中の次のようなやりとりだ。

          「今、あなたの先生は誰ですか。」
          「クライスラー先生です」
          「立派な先生についていますね。あんな立派な先生についているのだから、あの先生のような音や音楽をしっかり教えてもらいなさい。貴女も、もう少しクライスラー先生のような立派な音や音楽的なよい拍子になって貰いたいですね。毎日忘れないでしっかりよく聴いて下さい。これから貴女もよくなってゆくでしょう。先生がいいから。クライスラー先生にどうぞ宜しくと言って下さい。」

          この文章は鈴木鎮一氏が来日するソ連の世界的バイオリニスト、レオニード・コーガン当てに書かれた古い文章で、当時の日本の洋楽のレベルはまだまだ大変低かったことは認める。しかし、この文章が機関誌「才能教育」に転載されたのは、この文章が才能教育の指導法について、その基本的な要点をよくまとめているという理由からだった。レコードを繰り返し模範として聴くようにということは、この文章が書かれた数十年後になっても、鈴木氏は繰り返し説いている。

          私がこのやり取りを読んだときは、反射的にかなりのショックを受けたことを覚えている。鈴木氏ほどの先生が、自分が生徒の前に生きた教師として立っているのに、「私はこの音楽をこう思う。あなたのここのところは、このようにひいたらもっとよくなりますよ。」と自分の言葉で語りかけなかったのか。

          クライスラー先生は偉大なバイオリニストだったかもしれない。でも、クライスラーとはまったく違う気候風土、歴史、文化のもとに育った日本人であるあなたは、自ずからクライスラーとは違う感性を持っているはずだ。生徒が毎週会いに来ているのは、スイッチを入れれば自動的にぐるぐる回って、いつも同じような音しか出さない円盤ではなく、鈴木先生あなたなのです。会ったこともないクライスラー先生がどうひいたかが問題なのではなく、音楽家としてあなたはどう感じているかが、生徒を目の前にして一番大切なことではないですか。それでこそ、音楽がその人にとってそれほど切実なものであることを、身をもって伝えられるのではないですか。

          教師として自分の能力に自信過剰になることなく、常に謙遜な態度を持つことは大切なことだけれど、このようなやりとりは、私には教師としての自分を卑下しているくらいにすら思えた。生きた教師の言葉。生きた教師の信じる音楽。そしてそれを今生徒の目の前で、生き生きした表情と共に語りかける。それらは円盤の中に封じ込められたかつて録音された音より、教育としての力ははるかに大きいものがあると信じている。「クライスラー先生にどうぞよろしく」という言葉は、教師として一番求められる役目を放棄し、教師としての誇りを失った言葉と、私には映った。
        2. クライスラーのクローン生徒作り
          クライスラー先生のレコードを何回も聞く話は、前項の「クライスラー先生によろしく」で終わりかと思っていたが、さらに資料を調べていくと、それよりすごい続きの話もあることを知ってぞっとした。それは「才能教育 No.54」に載っている「家庭におけるレッスンについて」と題された鈴木鎮一氏の文章である。

          「弾ける曲を毎日レコードやテープと一緒に弾かせる、これがスズキ・メソードの根本です。(略)私はそういうふうに育った子どもさんたちを教えいるのですが、ベートーベンのコンチェルトの一つの楽章が1週間ずつです。一年経ってもできないものがね、1週間でクライスラーのレコせて来週持っていらっしゃいというと、ちゃんと合わせて持ってきます。そういうふうに初めからやっていると育つのです。私のレッスンの仕上げのときは必ずクライスラーと一緒にレコードで弾かせます。音の比較それから歌い方……クライスラーが聞こえたらだめです。」(P16 下線筆者)

          恐ろしい話ではありませんか。個人の自覚を促し、個性を尊重し、自己の確立をはかるヨーロッパの文化を土壌に育ったクラシック音楽を、かくも徹底的に人の真似で学習させる。日本中、世界中の子どもたちが、みな同じレコードを聞いて一分のずれもないそっくりな演奏をする。これでは家庭も教室も、まるでクライスラーのクローン人間を大量に生産する工場と化した感がある。私にはたとえ真似の対象がクライスラーであろうと、学ぶ子どもや指導する先生の人格が無視されたこの思想は、とても受け入れることはできない。思わず、規格品をベルトコンベアに乗せて大量に生産する、現代の機械文明の人間性を喪失していく姿を描いた、チャップリンの「モダンタイムズ」を思い出してしまった。

          さらに、このような教育を受けた生徒たちが、コンクールに参加したらどうなるのだろうか、とも考えてみた。みんなクローン人間のように同じ演奏を完璧なまでにやってのけるわけだから、比較のしようがない。別の項で鈴木先生の薦める中学校や高校の合唱指導の記事についても言及するが、そこで鈴木氏は「上手な模範演奏を聴いて勉強しなさい」と教える。もし、どの学校も同じレコードを参考に練習したとするなら、やはり皆同じ演奏になる。これらの生徒達が合唱コンクールに出たらどうなるだろう。審査員の方達のショックが見て取れるようだ。このようなことを考えても、この指導の方法には、あるいは指導の根底にある思想には、鈴木先生が多用する「人格形成」の面から見ても、問題があることが分かる。
        3. テレビの中の語り部より、目の前で話す語り部
          目の前にいる生きた教師がいかに大切かを物語る実験がある。数年前のことだと思うが、あるテレビ番組で幼児に昔話を聞かせる実験が放送された。実験というのは、初めは数十人の幼児の前にテレビを置いて、あらかじめ語り部が民話を話しているのを録画したビデオを見せる。次にその語り部自身が幼児達の前に現れて、同じ民話を聴かせる実験だ。

          昔話だから、今の子どもには分からないことがたくさんあって、そのことが原因ですぐに飽きてしまうのではないかと思ったら、話し手が上手なのか、しばらくは体をテレビに向けておとなしく聞いていた。しかし、案の定時間が経つにつれて、一人二人と体を動かし始めて、そのうちに大半の子どもたちは勝手なことをするようになってしまった。

          次は、同じ語り部が子どもたちの前に実際に現れて、いすに座って同じ話を聞かせる実験だ。昔々の話なのに、どの子目も真剣だ。体を語り部の方へしっかり向けて、集中した顔つきで最後まで聞いていた。

          この実験で分かったことは、生きた人が目の前で表情豊かに語りかけることが、いかに子どもの心に入っていくことができるか、子どもの心を捉えるかという事実だ。クライスラー先生がどんなに立派な演奏家であっても、目の前に立って、直接弾いて見せているわけではない。実際の指導に当たっている鈴木先生の方が、よほど生徒にとって大切な人であり、教師としての責任の重さを担っている人だ。それを考えると「立派な先生についていますね。あんな立派な先生についているのだから、あの先生のような音や音楽をしっかり教えてもらいなさい。」という言い方はないだろう、と言いたい。
        4. クライスラー先生が気に入らなかったら
          子どもの先生が「僕、クライスラー先生はあまり好きじゃないんだな。演奏は古っぽいし、妙なビブラートをかけるし。習い始めの生徒にはあまりいい模範には思えないんだ。」などと言おうものなら、たちまち才能教育が最も大切にしている部分の権威がなくなってしまう。このように、子どもを直接指導する先生が自分自身の考えに忠実であろうとして、その限りにおいて人間的に誠実で信頼のおける先生ほど、才能教育の指導の基本原則との矛盾を引き起こしやすくなる。

          しかし、考えてみればこのようなことは、起こることの方が自然ではないか。クライスラーのセンスは、氏の生まれ育った土地柄や家庭環境、バイオリンの学習の色々な背景、クライスラー独特の肉体的特性の上にあるもの。年齢ということも関係しているかもしれない。

          一方、日本に生まれ育った若い先生は、このようなクライスラー氏とはまったく違った感性を持っていても、一向に不思議はないであろう。また、前述したように、幼児が習う対象として、クライスラーの演奏がいいのかどうか。もっと適当な演奏を考えて生徒に薦める先生があるとすれば、教師として大変に誠実な努力家だと、私には思える。

          ここで、ピアノの場合も考えてみよう。例えば、クライスラー(1875〜1962)と同年代の大ピアニストにアルフレッド・コルトー(1877〜1962)がいる。いわばピアノ界のクライスラーといってもよい人物だが、彼は極端にテンポやリズムを崩して弾くタイプだ。いくら歴史に残る大ピアニストだといっても、安定したテンポ感やリズム感を身につけてほしい子どもたちに、洗脳的にこれを聴かせるなどということは、私には決して教育的に好ましいとは思えない。コルトーは私自身好きな演奏家だが、それはコルトーだからこその強烈な個性として受け入れられることだ。そのような際だって個性的な演奏が、レコードを通して汎用的にどの子どもにも適用されるということは、それ自体自己矛盾ではないかと、私は考える。

          レコードを聞かせることについて言えば、時にはクライスラーやオイストラフ、あるいは他の演奏家のCDを聴かせて、演奏には色々な可能性があることを教えたり、生徒にどちらの演奏が好きか聞いてみるというのも、子どもの自主性を促したり、演奏することの意味を理解させるいいきっかけにもなるだろう。このように、一人の演奏家の演奏だけを聴かせるのでなく、それぞれの教師の考えに基づいて、色々な演奏を聴かせることの方が、多分に創造的であり、指導者の教師としての生き甲斐を高めると思う。教育は人である。そのことを考えると、これは重要な問題を含んでいると思う。
        5. 日本の家元制度や学校教育の特質を反映
          明治以来日本の学校教育では、創造性は無視されてきたかあまり重きを置かれてこなかった。礼節をを重んじ上のものには従うことを教える儒教の伝統があったことも、この傾向を強くした背景にあると思うが、開国して西洋に大きな後れを取っていたことに気づかされた日本が、西洋列強に追いつくには、創造性を育むための時間を浪費するより、進んだ西洋の知識を取り入れる方が、手っ取り早く日本を西欧並みの水準に持っていく方法だと考えたからかもしれない。

          そのため、日本のこれまでの教育は、教科書の内容を暗記することにすべてのエネルギーを使い、その記憶の量で頭の良し悪しを測る教育であった。日本の大学受験は、このような学習の仕方で成功したものが、成績優秀者として合格できるシステムであった。あらかじめセットされた指導内容を、徹底して反復記憶させる才能教育のシステムは、このような日本の学校教育を、そのまま反映しているように思える。

          また、日本には古来かなり強固な家元制度があって、そこでは各家元に伝わる芸能の伝承のみが教育の全てであるような指導が行われていた。日本文化の中で育まれた鈴木先生の指導法に、師の芸を徹底して学び取らせるという「家元制度」の思想が見て取れるように思うのは、間違いであろうか。

          個々の先生の創造性や指導法についての自主性ということに、あまり期待をおかず、西洋のえら〜い先生のレコードを耳にたこができるほど聴かせる。それも学習している曲だけをレコードに編集して(他の曲を聴くなということではないと思うが)、時間の無駄なく能率に学習させるといった発想は、日本の学習塾の勉強をも想像させ、またまた日本的文化の土壌を思い浮かばせる。クラシック音楽はもともとヨーロッパに生まれた音楽であるが、個性の尊重、創造性の涵養といったことにいっそうの価値をおく、クラシック音楽の本場西洋の土壌では、思いつくことの難しい指導方法だったろう。
      6. お手本主義の学校音楽指導の提案
        実は、鈴木先生は小中学校の音楽教育に対して、ご自分の指導理念をもとにした指導法の提案を行っている(「音楽教育研究 No.39」P82)。この提案を読むと、この指導システムの持っている問題点が、かなり鮮明になるように思うので、ここに紹介させていただく。

        「学校の音楽教育では、今学習している、あるいは学習しつつある曲を、その最も優れた演奏なり、レコードなり、テープなりを毎日聴かせる、ということを実行することは大切なことだと思います。それは毎日でなければなりません。(略)
         また、第二の問題としては、レコードなどの立派な演奏と比較して磨きあげ、そこへ到達すべく努力をすることです。
         音楽教育においては、そのクラス全体が、非常によくできた、わかったというまで一つの曲をマスターしたとするならば、今度は、その曲と、日本で一番いい演奏といわれているレコードなりテープなりと比較して、それと負けないくらい、いやそれ以上立派にといねらいのもとに、一つのものを仕上げていくのです。この教育のやり方のくり返しによって非常に優れた結果が生まれてくると信じます。」

        そして、学習の結果をどう評価するのかに言及して、次のように言っている。

        「これは、指導に当たる先生の能力の高さに比例して、より立派にという細かい指導の中で、手本となるレコードなりテープなりの、その優れた演奏へ、どれほど近寄ったかということを見ることです。それを一曲ごとに繰り返していくことによって、全体の音楽的成果というものは、非常に高いものに育っていくことと思います。」(下線筆者)

        鈴木氏はどの子も立派日本語がしゃべれるようになる母国語の学習プロセスを見て、これは「完全な教育法」だ表現された。その言葉を使わせていただければ、これは正に「完全なお手本主義」と言えるだろう。もっとも前記の文章の中で、鈴木氏自身が「手本となるレコードにどれほど近寄ったかを見ることで、非常に高いものに育っていく。」とお認めになっていることだが。

        この完全なるお手本主義、言い換えれば模倣主義を実行するために、鈴木氏は「最も優れた演奏を聴かせろ」という。また、その演奏に到達したなら今度は「日本で一番いい演奏」を聴かせなさいという。このように鈴木氏はしばしばいとも簡単に「最も」だとか「日本で一番」だとかの最上級をお使いになる。しかし、一体何を基準に誰がその「最も」優れた演奏を判断し決めるのだろう。私には、このような「最も優れた」とか「立派」とかいったとても杓子定規な価値判断は、芸術(やや言葉が重すぎるが)のように個性豊かな表現を重んじる分野には、最も相応しくない評価の言葉だと思う。

        百歩譲ってそのような最も優れた演奏があったとしよう。そして、その演奏を子どもたちが座って聞いたとしよう。さて、それで生徒達はその演奏を心から聞き入るだろうか。

        音楽はもともと好きだから聞くもの。嫌いなら聞かなくても一向にかまわないもの。嫌いだから人格的に欠陥がある、などとは決していえないもの。それを「これは日本で一番立派な演奏だから、皆さん毎日何回もよく聞くのですよ。」と押しつけられれば、中学生の子どもならまずそれだけで聞く気にならないだろう。鈴木氏は「日本一の演奏」なのだから、みんな素直に聞いてくれるよい子を期待しているかもしれない。だが、このような大人からの一方的なお膳立てを素直に受け入れる子どもは、私から見れば思春期を迎えてまだ自分というものが出来てこない証拠だとしか思えない。大人が大人の目で見たお手本を、そのとおりに真似なさいと言われれば、反抗する方が正常に成長している証拠と見る視点が、私は大切だと考える。

        それに、お手本を真似てみんな同じような演奏になるより、子どもには子どもに相応しい演奏があってもよいではないか。都会の学校と田舎の学校で感じ方の違いがあっても、不思議ではない。指導する先生の感性の違いが子どもたちに反映することもあるだろう。とにかく、色々な演奏が生まれてくるから楽しいのだ。お手本なんかを持ち出すことは、そこにいる生徒達や、そこにいる音楽の先生の主体性や感受性をまったく無視している。私にはお手本をそっくり真似ることが出来たクラスより、たとえ少し下手でも自分たちの演奏が出来たクラスの方が、よほど人間の血の通ったクラスに思える。

        お手本を模倣させる発想は、このように生徒不在、教師不在のまことにお寒い教育者としての発想としか思えない。
    2. 3000人の大合奏
      機関誌「才能教育」の写真のページは、そこに載っている写真がどれもみな何十人もの子ども達が舞台にあがって一斉にひく姿の写真である。これを見ると、高度経済成長の真っ最中に、顔の見えない日本人が集団で先進西欧諸国に経済的殴り込みをかけた、あの欧米諸国の人々に気味の悪い日本人に映った自分たちの姿を見る思いがする。個人の自覚と発現を中心に据えるクラシック音楽が、個性を滅却した集団主義の土壌に咲いた花のように見える。

      才能教育では、しばしば(毎年かもしれない)東京の大きな体育館を使って全国大会を開催してきた。これは前述の写真とは比べものにならないほど規模の大きな大きなコンサートである。百や二百のレベルではなく、優に千人を越える子どもたちがいっせいに同じ曲を弾くコンサートのことである。資料が古くて恐縮だが、手元にある「才能教育 No.35」の第22回全国大会の案内記事には、次のようなお知らせが出ている。

      「3000人以上の出場生徒が一同に合奏できるように、無窮動以下はフロアと二階生徒席に分けて演奏されます。」と書かれていて、会場は「日本武道館大ホール」になっていた。

      この史上空前の大合奏について、クラシック音楽を代表する二人の演奏家が次のようにコメントしている。
      1. レディメードの洋服の陳列(シゲティ)
        かの大バイオリニスト、シゲティまでがこの大合奏を見学したのは驚きだが、そのときのシゲティの感想が園部三郎の「大人はみな子どもの時を忘れている」P209)に出ている。

        園部「シゲティという、例のバイオリニストが来て、才能教育の大円総会を見たいっていうので行ったんだ。やっぱり数百名の子どもが弾くんだよ。私は、さすがに大芸術家と思ったのは、帰りの車で、シゲティさん、今日の感想を率直に言ってくださいと言ったら、子どもを一律にああいうふうにするのは大変なことですよ、と言うんだね。大変なことというのは、同じようなものを一個所に集めるのは大変だと言う意味なんだ。あれはデパートメントストアのレディメードの洋服をズラーッと一個所に集めたようなものだ、とこう言ったよ。」(筆者:話し言葉で冗長な部分があるので、問題がないように一部を省略した)

        実は園部氏は前の言葉に続けて、次のように言っている

        園部「私は、そういうとらえ方をする鋭い見方があったら、信仰化しなかったと思うね。神がかりかりにならなかったと思うんだ。」
        波多野「本当だね。」

        園部氏の目にも、この団体が宗教色を帯びていて、そのリーダーが神がかりになっていると映っていたようだ。このように見えるのは、どうやら私だけではないのだなと思った。
      2. ブロイラーの演奏会(岩城宏之)
        表現は違うが日本を代表する指揮者、岩城宏之氏も、このような演奏会の持ち方に大きな疑問を持っていたようだ。氏の著書「岩城音楽教室」(光文社)の中で次のように書いている。

        「そういう教室の「全国大会」などと称して、何千人もの子どもが大講堂に集まって、いっせいにひとつの曲を弾き出す光景を見ると、ブロイラーがオートメ式に餌を与えられているのを見るようで、とてももの悲しくさえなったものです。だいいち、何千人もの子が同じメロディーを奏でながら、アンサンブルの喜びを分かち合うなんてことはできません。まったくナンセンスも、はなはだしいと思ったわけです。」

        この「ブロイラー」という言葉をある百科事典で調べてみると、初めのところにこんな解説が出ていた。「養鶏は生産目的によって採卵養鶏とブロイラー養鶏に大別される。ニワトリは環境への適応能力がすぐれ、集約的な飼育が容易なためである。また鶏肉、鶏卵が比較的短期間でえられ、食品としてほとんど宗教的制約がないため、広く全世界で飼育されている。」
        鈴木氏の考えでは、人の子も環境への適応能力が優れているから、何百人、何千人という子どもがレコードに納められた一人の模範演奏を、全員でいっせいに大量生産のように吐き出すことができると考えたのだろうか。そのような思想に立てば、こんな計画を立てても何らの疑問を持たなかったどころか、逆に一つの偉大なる成果として、積極的な評価しかできなかったのかもしれない。
      3. 個性を殺して可能な大合奏
        大合奏のことで思い出すのは、私が何年も前のある日電車に乗っていたときのことである。隣の座席に座っていた女性がたまたま才能教育の生徒で、近いうちに行われる発表会のプログラムを見ていた。それを見せていただくと、ほとんどが合奏の形での発表であった。もともと合奏を想定しての曲ならともかく、ソロを想定していると思われる曲まで合奏してしまう神経には、ついていけないところがあった。日頃ピアノの指導で、ソロとしての演奏をとても微妙な表現にまで踏み込んで指導している私には、そのような演奏の機微が分かる才能のある生徒ほど、画一的にならざるを得ない大合奏の中では、自分の思いと全体の演奏のずれを感じて、大変なストレスを感じるのではないかと思った。

        このような大合奏が可能だとすれば、正に自分なりの感性を全て殺して始めて成り立つ演奏形態だろう。個性の表出をことのほか尊ぶクラシック音楽を、個性を殺して初めて可能な大合奏で行う。鈴木鎮一先生が立派な音楽を通して高い精神性の涵養を何ものにもまして強調しているだけに、尊敬すべきクラシック音楽を、このように規格品の工場での大量生産のように作ることとの大きな隔たりに、戸惑いを覚えないわけにはいかない。

        しかし、このような大合奏の善し悪しは別にして、これが可能であったとすれば、逆説的ではあるが才能教育だったからこそと言えるかもしれない。才能教育で習う全ての子どもは、直接習っている先生の音楽でもない、自分なりの音楽でもない、才能教育のテキストに添付されてくるレコードのたった一つの模範演奏を、繰り返し繰り返し聞いて真似をすることで育てられているのだから。

        園部三郎氏は、シゲティがこの現象を「デパートのレディメードの洋服がずらっと陳列されているようなものだ」といって「さすがに大芸術家だと思った」と言っているが、別に大芸術家でなくとも、私のような一介の町のピアノ教師でも、この現象を見ると直感的に、何か本質を踏み外したことが行われているような感じを受けてしまう。高度経済成長時代「顔のない日本人」として気味悪がられた、集団としての顔しか持たない日本人の姿を見るように思うのは、私だけだろうか。集団としての連帯感を高めることには、大いに役に立ったのかもしれないが。それにしても、当の作曲家自身がこの光景を見せられたら、どう思うのだろうか。見せたくない、と思わず考えてしまう。
    3. レコードのない時代に偉大な音楽家が育った
      現代はよく英雄がいなくなったといわれる。それと同じ事情によるのかどうかは知らないが、音楽の世界でも偉大な音楽家は過去の人であり、現代に偉大な音楽家は不在といわれる。大作曲家といえば、私たちは普通数百年も昔のモーツァルトやベートーヴェンのことを考える。人によってはブラームスやワーグナーも数に入れるかもしれない。いずれにしても、現代に英雄がいないように、現代に偉大な芸術家を捜すことはあまりないのではないか。

      鈴木鎮一氏によれば、大作曲家ベートーヴェンはもともと天才ではなかったそうだ。彼が大作曲家になれたのは、ひとえにベートーヴェンが素晴らしい音楽的環境に恵まれていたからだそうだ。その素晴らしい音楽的環境で、さぞかしベートーヴェンは学習中の曲を、毎日のようにレコードで繰り返し繰り返し聴かされていたのであろうか。もちろん、レコードなどという装置が発明されたのは、ずっとずっと先のこと。大変不運なことにベートーヴェンはレコードを聴くことが出来なかった。

      そんな不運な環境であるとすれば、鈴木氏の理論によれば偉大な音楽家・ベートーヴェンなど生まれるはずもないのだが、実はわたしの考えでは、その不運こそが幸いしたのではないかと考える。もちろん、一つにはベートーヴェンには生まれながらにして、尋常ではない音楽的才能があった。こう信じるのは、私と鈴木氏の根本的に考えが違うところだ。

      そして肝心の不運な環境についてであるが、当時レコードのような便利な再生装置がなかったために、当時音楽を聴くといえば、生身の音楽家が目の前でひいてくれる音楽を聴くしかなかったのである。生きた人間の息吹を感じながら聴く生の音楽の醍醐味は、レコードに缶詰にされた音楽とは比べものにならないほど、表情に富み生き生きしたものだったろう。

      それから、もう一つ大事なことは、演奏は原則的に1回限りのものであったということだ。だから、音楽を聴くときは、いつも1回限りの音楽として真剣に受け止めて体ごと楽しむ聴き方をしたのではないだろうか。1回限りの音楽に対しては、レコードで聴く場合のように、「また後で聴けるさ」なんていう安易な気持ちにはなることができない。1回の演奏はもう永遠に戻ってこない時間として、その時その時をとても大切に聴いたに違いないと思う。そして、そのことが音楽というものを、それだけその人にとってかけがえのないものにしたのではないかと考える。

      また、演奏家は二度と同じ音楽を同じようには音楽をすることはできない。たとえ同じ曲をひく場合でも、演奏はいつもその場限りのものとしてひかれた。まったく同じものを繰り返し聴いて、それをそっくり真似しようなどということそれ自体が、まったく不可能な時代だった。

      一方レコードで聴く音楽は、一般家庭で聴く程度のものでは、音楽の本当の味わいを伝えてくれるほど高品位な音で鳴ってはくれない。しかも、聞き漏らしてもまたかければいいさという安易な気持ちで聴きがちだ。また、勉強の対象として際限なく繰り返し聴かなければならないとしたら、それは音楽を聴く本来のあるべき姿とは、とてもいうことができないだろう。本来あるべきではない方法で音楽を聴いて、音楽の本当の息吹を、演奏のたびごとに味わうことができるのだろうか。

      クラシック音楽は、もともとイージーリスニングのタイプの音楽ではない。もっと真っ正面から聴くことを求めるタイプの音楽だ。そのような音楽を、幼児の頃から繰り返し繰り返し自動的作業のように聴く習慣を身につけさせることが、いかに音楽の本道からはずれているかを、かえって大作曲家のレコードのない時代が教えてくれているのではないかと思う。
    4. 自分の意見をしっかり言える外国の子どもたち
      日本の子どもたちに比べると、外国の子どもたちの方が自分の意見を論理立ててはっきり発表できるはるかに優れた能力(鈴木氏のよく使う用語を借りると)を持っているといわれる。それは小さいときから自分で考え自分で行動することを促すような文化に育つからだろう。

      同じ文化を土台として発展してきた西洋音楽も、本来はこのように他の人間とは違うこの自分というものを、一番大切に考える芸術だ。このような文化的基盤を持った西洋音楽を、徹底したお手本主義によって学習しようという姿勢は、いかにも日本的と言えるかもしれないが、それではまるで「仏造って魂入れず」になりはすまいか。そのような取り入れ方で、外国の子どもたちが自らの意見を堂々と述べるように、自分の音楽をのびのびと表現できるような子どもになれるのかどうか、大変疑問に思う。

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