- どの子も日本語をしゃべっている
- 日本語学習プロセスの観察
「日本中の子どもが日本語をしゃべっている!」鈴木鎮一氏がご自分の理論を展開するときに、必ず真っ先に引用するフレーズがこのきわめて当たり前の事実だ。この事実は事実で、誰も否定するものではない。しかし、ここで鈴木鎮一氏が誤ったことは、幼児の日本語学習プロセスを素人レベルの思いつきで解釈し、それによって得られた日本語能力を、色々な条件で育った多くの子どもたちの能力の違いについて、徹底した研究をすることのないままに、「みんなすごい」といった学問としてはいささか曖昧で過大な評価してしまったことにあるのではないか。そして、その現象と解釈に自分の音楽教育に対する期待をオーバーラップさせて、強引に音楽学習のプロセスに適用してしまったところにあると思う。
- 言葉を学ぶ強烈なモチベーション
幼児にとっても言葉は生きていくためになくてはならないものだ。親の呼びかけを理解し、自分の欲求を伝える媒体が言葉だからだ。また言葉を通して家族の間でコミュニケーションできることで、幼児の心は満たされ、精神的バランスの安定が得られる。だから、言葉を習おう覚えようとするのは、いわば幼児の本能的欲求であり、幼児はすでに強力な言語学習のモチベーションを持っているといってよいだろう。このようなモチベーションに支えられ、毎日のように日本語に接し、使う必要に迫られれば、使っている言葉が自然と身につくようになるのは、きわめて当たり前のことだと思う。問題は、このような母国語の学習条件とバイオリンの学習過程に、類似した状況があるかどうかだ。
- その場その場のやりとりとして学習される言葉
幼児を持つ母親に、自分の子どもがどのようにして日本語を覚えていったかを尋ねてみた。どの母親に聞いても、あるフレーズを覚えさせるために、そのフレーズを意図的に何回も繰り返し聞かせたり言わせたりすることは、ほとんどないと言う。このように幼児が言葉をしゃべるようになる状況は、多くの場合その場その場で即興的に生まれる言葉として、お母さんや他の家族と幼児の間で行われる言葉のやりとりを通してである。鈴木氏が母国語の学習に見た「完全な教育法」(「愛に生きる」P12)として音楽教育に応用したように、同じ曲を毎日のように聞かせ、それの再生を練習するといったようなことは、言葉の学習課程ではほとんど行われていない。
- 種種雑多な日本語が飛び交う環境
さらに私が注目したいのは、幼児を取り巻く日本語環境である。幼児の回りには驚くほど種種雑多な日本語が飛び交っている。テレビから流れる様々な番組の日本語。両親の間で交わされる会話。とにかく周りの大人の話は、幼児には訳の分からない難しい話ばかりだ。
こんな話を耳にしながら、その内容を理解しているわけではないものの、幼児はそこから日本語の微妙なリズムや抑揚を感じ取っているようだ。母親や父親が教育的意図をもって、一定のフレーズを繰り返し覚え込ませようとすることもなく、こんな種種雑多な日本語環境の中から幼児は日本語を習得していく。
もちろん、文法的に時々おかしなことを言うこともある。でも、そんなとき回りの者が間違いを指摘して直すこともあるが、大抵は子どもらしい間違えを楽しんで終わる場合の方が多い。それでも、子どもは自分の判断力で正誤を類推し、次第に文法的に正しい言い方ができるようになるようだ。初めのうちは「ジャスコ、行く」などと単語を並べるだけだったのが、親が教えたのでもないのに、いつの間にか「ジャスコへ行く」といったように、正しく「へ」という助詞をつけられるようになっている。どちらにしても、正しい日本語だけを精選して子どもに聞かせるような環境ではないのに、子どもはいつの間にか正しい日本語をしゃべることができるようになるようだ。
- 大きな違いがある言語能力
鈴木鎮一氏は「日本中の子どもがみんな自由自在に日本語をしゃべっている。」という事実に気がついて、飛び上がるほど驚いたという。「母国語の教育においては、学校の成績が悪く、生まれつき頭がよくないといわれている子どもたちが、日本語を話すことにおいては、りっぱにすぐれた能力を身につけている。」とも言う。このようにして、全ての子どもたちが立派な日本語をしゃべれるレベルにまで、能力を高めていると観察したようだ。しかし、私は鈴木氏の理論のこの大前提に、すでに大きな誤りがあると思う。
鈴木氏が多弁する「りっぱなすぐれた日本語能力」も、鈴木鎮一氏の言い回しを借りれば、子どもによって「飛び上がらんばかりの違いがある」というのが事実ではないだろうか。さらに前述の鈴木氏の文章を使わせていただくと、「学校の成績の良い悪いと同じくらいに、しゃべる能力にも良い悪いがある」というのが事実だと私は思う。
「それは、日本語を話す環境が違うからだ」と、例の環境説でもって反論されそうなので、まったく身近な例でもって、この考えを説明させていただく。私事になるが、私の家には3歳と5歳の孫がいる。この二人の同じ3歳時の言語能力を比べてみると、文字どおり飛び上がるほど違っていたし、その違いは今でもそれほど変わっていない。それでは、言語能力の劣る方が、全般的に劣っているのかというと、そうではなくて数字を理解する能力、漢字を認識する能力に関しては、しゃべりの下手な方が圧倒的に優れていた。「雲」「雪」「雨」といった字の違いも、苦もなく覚えてしまった。
親はそれほど教育熱心な方ではなく、3歳の頃これといって教えた記憶もないのに、100から99、98とすらすら数字を逆に数えてみせられたのには、これまた驚かされた。もちろん、90の次を間違いなく89というふうに位を下げて読んでいくのだ。それも結構早い早さで。時計の見方もすぐに覚えた。それも3時43分といったように1分単位で言える。どうやら、言葉を自由自在にしゃべれないからといって、頭が悪いと決めつけてはいけないようだ。
言葉の早い方の兄弟は、4歳になった今でもそれほど数字に関心を示さないし、漢字はまったく覚えていない。ひらがなを読み始めた程度だ。このようにまったく同じ環境に育ちながら、能力の出方は子どもによって大きく違うというのが、現実だと思う。そして、このような現実は、私の家に限らず日々皆さんが経験したり観察していることではないだろうか。
- 文学作品を繰り返し聞かされ暗唱することはない
鈴木氏は「日本中の子どもが日本語をしゃべっている」という事実の中に、氏の言葉を借りると「完全な教育法」を見て、それの音楽教育への応用を試みた。それは学習している曲を、レコードで何回も何回も繰り返し聞くことだ。母国語の学習プロセスの応用なのだから、今度は逆に幼児が日本語を学ぶ過程に、このような学習の仕方があるのだろうかと、音楽の学習方法から日本語の学習方法へ戻って考えると、どうもそれに当たるものが見あたらない。
曲のようないわゆる作品に当たるものを言葉の世界で考えると、それは童話のような物語や、もう少し短い作品になると詩になるだろうか。それでは一体どれだけの子どもが、毎日のようにこのような文学作品を聞かされているだろうか。寝る前に(時には昼間に)童話を読んで聞かせたりすることはあっても、親にはそれを学習させて覚えさせようという意図はない。もっとも、そんな意図がないからこそ、母親の我が子に対する愛情が、自然な形で子どもに伝わるということが言えると思うが。
このように日本語の学習プロセスにない方法を鈴木氏が採用したということは、日本語の学習と鈴木氏が対象にしている音楽の学習(クラシック音楽の指導)との間には違いがある、ということを示していると言えないだろうか。換言すれば、日本語学習プロセスに「完全な教育法」を見たとして、それの音楽への徹底した応用を試みたとのことだが、鈴木氏は日本語学習プロセスに一部従いながらも、実はかなり違った方法を展開したと言えるのではないかと思う。
興味深い試みになると思うが、鈴木氏が音楽で試みた方法を逆に日本語学習へ取り入れてみるというのはどうだろう。鈴木氏の言葉づかいを借りて説明すると、音楽で「人格形成に役に立つ立派な曲」を聴かせるように、幼い子どもたちに「良い人になるような詩」をレコードで何回も繰り返し聞かせて覚えさせ、それを暗唱して表現豊かに語らせるのだ。
このような立派な人になるための勉強を、幼児は楽しいと思ってくれるだろうか。私にははなはだ自信が持てない。また、無理を承知でこのような試みをしてみれば、記憶力、表現力に関して、子どもによる能力の差が歴然と現れるのではないかと思う。「能力は育て方ひとつ」の鈴木氏の方法を使ったものの、結果は子どもたちには飛び上がらんばかりの能力の差がある、ということの証明になってしまうのではないかと想像する。
- 本能的に学習する「言葉」と「歌」
幼児が「アーアー」とか「ウーウー」とかいわゆる喃語を話すようになると、今度はお母さんの真似をして「ワンワン」とか「ブーブー」といったものを表す言葉が言えるようになる。この学習の過程で注意すべきことは、ただ繰り返してあげているうちに、幼児はその音を発するようになるということだ。決して、「ワンワンの「ワ」は、口の形をこんなふうに開けて言うのよ」とか、それがうまくできないときは、母親が幼児の口に手を当てて、無理矢理その形を作って発音させているわけではない。幼児の方がかってにその音に近い音を、だんだん上手に作ることができるようになるだけだ。
同じようなことは、幼児が歌を覚える場合にも言える。お母さんが簡単な曲を歌ってあげると、音程やリズムを感じ取りながら、自然に少しずつ正しいメロディーが歌えるようになっていく。テレビから流れてくる音楽も、自分の好きな曲の一節をいつの間にか歌っている。正しい音程で正しいリズムでうまく歌えるように、お母さんが教育的配慮をするなどということはない。
このように、日本語を覚えるようになる過程と歌が歌えるようになる過程は、お互いにとても似通っている。どちらの場合も、聞いた音のつながりを自分の方から発するようになる過程で、その為の技術を教科的に指導されることなく、いつの間にか自然にできるようになっているということだ。
そのことが可能になるのは、両方に共通した事情があるからではないかと考える。それは両方とも、自分以外の道具を扱うのではなく、自分の体の一部である発声器官を使っているというだ。自分の体の器官だから、本能的にその器官を動かして、耳で聞いた音との違いを少しずつ修正しながら、正しいものに近づけていく能力が、生得のものとして子どもたちに備わっているのではないか。
ここに見るように、言葉の学習プロセスがそのまま音楽に適用されているのは、歌を歌うプロセスだということができると思う。鈴木氏はそれを一足飛びに器楽の学習へ応用しようとしたところに、かなりの飛躍してしまったのではないか。バイオリンを弾くということは、自分の声帯や舌や唇を使ってしゃべったり歌ったりすることと違い、幼児にとっていわば異物を扱うことになる。しかも、それを持つ姿勢は決して自然で無理のない姿勢とは言えない。その上、この楽器は一つの音を出すだけでも大変な作業である。ピアノにしても同様なことが言えるだろう。もともと大人の手のサイズに合わせて作られているピアノは、幼児にとっては化け物みたいに大きなもの。そう簡単に操れる代物ではない。
ややこの項のテーマからはずれることになるが、言葉や歌とは別の幼児の本能的な表現の形として、もう一つ付け加えておきたい。幼児はテレビやCDから流れてくる音楽を聴いているうちに、自然と手足を動かして踊り出すことがある。このようにして自分の情動を刺激する音楽が流れると、思わず体を使って感じたリズムを表現する。幼児が共感する音楽とはどんな音楽かを知るには、このような幼児の反応を見ることも一つの方法だろう。音楽的センスを養う立派な曲として、鈴木先生が才能教育のテキストに載せられた多くの曲には、幼児はこのような形ではあまり反応しないのではないかと思う。
このような幼児と音楽の関わりについては、園部三郎氏が「幼児の段階での喜びは、肉体を中心とした情動的な活動そのものの中にある。」(園部三郎著「幼児と音楽」P70)として、最も重視しているものである。才能教育に限ったことではないが、幼児の音楽使っての情動的活動をどう満たしてあげて、それと音楽教室での授業がどういった関わり方をしたらいいのか、これは一つの大きなテーマになるように思う。
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