皆川さん@筑波大学の反論(1998/2/12)

皆川さん@筑波大学の反論(1998/2/12)

前略

 『KR』をお送りいただき、ありがとうございました。さっそく、私なりの意見を述べさせていただきます。なお、意見はコメントをくださった方と同様な文体で書かせていただきます。

 教心研に投稿したのははじめてですので、いろいろわからないことがあります。これからも宜しくお願いいたします。

                            早々

                 筑波大学心理学研究科 皆川 順


平成10年2月10日

守 一雄先生

「KR第3巻第7号のコメントについて」

 このコメントの著者は、筆者の研究は「習作」だという。そして自前の紀要論文の方に載せろという。何を根拠に「習作」だというのか。根拠が文中に見られない。それどころか、この分野に於ける「本質がしっかりとわかる実験」というのがどういう論文を意味しているのか、なんら明示していない。

 さらに、筆者が「被験者に与えられる作業時間が少ないために効果が出ない」ことが繰り返し述べられているのには苦言を呈したくなる、とあるが、それは査読者のなかに、そう書かなければ納得しないという意見があったからであって、筆者の意見ではない。

 またコメントの筆者は、筆者の実験を称して「短い時間でできるお手がるな実験」と評しているが、先行研究の長時間にわたる研究法のなかに潜むいくつかの重大な問題点には何ら触れていない。

 コメントの筆者は、小・中・高校での教育実験を、非常に甘く(あるいは低く)みているというのが筆者の印象である。そのように甘くみるのなら、今からでも教育現場に就職して体験してみるべきだ。筆者の論文はその体験にも基づいており、今回の研究においても小学校から高校までの、研究課題に関する教育内容を、系列的に検討した上で行っており、多くの教科書を比較検討し、また、実践経験のない小学校には筆者自身が複数の学校に十数回赴いて授業参観をさせていただいている。

 Novakら(1984)は「正しい概念地図」という考え方を批判しているが、実際は個別指導と長期にわたる訓練とで、被験者を特定の方向に導いている。それは「教育」である。

 しかし、筆者はこの研究には実践的な方向性が必要であると思っている。論文の中で教育実践にも十分には役立たないように書いたのも(残念ではあったが)、私の意志ではない。学会誌が、必ずしも自分の意志を通すことができないのは、コメントの著者は十分わかっているはずだ。

 そもそも、とうていそのまま移植することのできないほどの長期間の教育実践研究を、わが国の定められた授業時間の範囲内で終了するように計画を立てて実験するのがなぜいけないのか。むしろ、それこそが本来のあるべき一つの姿ではないのか。定められた時間内に、様々な条件で多くの実験を行う、というのは、重要な方向性の一つではないのか。

 教育現場における制度の大きな枠組みは、急激には変えることができない。それは教育行政の問題であり、政治の問題である。

 「お手軽な実験」「論文公刊の練習」とさんざん中傷しておきながら、「自前(筑波大学)の紀要かなんかで」と言うのは、筑波大学心理学研究科に対して失礼ではないか。自分で名前を名乗らずに批判するのは何もしても良いというのか。

 この様な中傷的な言い分こそ、読者の前で行われるのはいい迷惑である。それこそ「自前のゼミで」行って欲しい。

 このコメントの著者からは、これからはより建設的な意見をいただきたい。


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