夏目先生のエッセイ集
「夏目先生のエッセイ集」と題した新しいページの最初のエッセイとして、「指導の半分を決める選曲」を掲載しました。このようなテーマのエッセイを初めに扱ったのも何かの縁だと思いますので、関連したテーマを論じている第14回ピアノ・サロンに添付した文章を、若干の加筆修正を加えて第2回のエッセイとして載せることにしました。これは1986年12月14日に行われたコンサートですので、もう大変古い話になってしまいました。従って現在の私はこれとはやや違った考えを持っていますが、私の教室の考え方の歴史と変遷を見ていただくという点からも、それなりの意味があるのではないかと考え、掲載することにしました。


【第2回】


子どもの感性に合った選曲

---- 難しいばかりでは表現力は伸びない ----


「ピアノの本」という小冊子に、次のような対談が載っていました。
デビッド(イギリスのピアノ教師):
生徒に難しい曲をわざと与えて、親に“これはすごい先生だ”と思わせるような権威を振りまきたがる教師もいますね。
大村典子:
“難しい曲をやらせる方が偉い先生なんだ”という意識ですね。日本にもありますよ、そういう風潮が。
よそから変わってくる生徒さんをみると、時折そんなタイプの先生に習ってきた例によく出会いますが、こういう指導を受けてきた子どもたちは、たいてい芯のない音で雑に演奏します。曲が難しすぎてタッチの基本、あるいは使い分けといったことに注意を払う余裕がないことは、容易に察しがつきます。またこういう生徒に共通していえることは、それまでに習ってきた曲が、型にはめたように同じということです。バッハのインベンションと、ソナチネ、ソナタを中心にした伝統的教程です。

これらの先生方には楽器店を飾るカラフルで多彩な教材は、生徒の心を惑わす危険な代物に見えるのかもしれません。文化的活動のあらゆる面にわたって、個性と多様性が尊ばれる今の世の中にあって、このタイプの先生方はかたくななまでに禁欲の生活を続ける修道僧のようにも見えます。とはいうものの、使い古された一定の数の曲を教えていればすむこのやり方は、気楽な稼業といえないこともありません。

しかし、このような教材ばかりで、果たして子どもたちの音楽する心を豊かにできるのでしょうか。私は大いに疑問を感じます。子どもの音楽指導にとってまず大切なことは、子どもの柔軟な感性の素晴らしさを知る一方、まだ未発達な客観的構成力の限界も知ることだと思います。その子どもが音楽を感動的に表現できるためには、そのような子ども自身の感性の波長にぴったりくる曲を弾くことから始めるのが、望ましいでしょう。

客観的な形を重んじるソナチネやソナタが、このような子どもの感性に合致するかは、大いに疑問のあるところです。形式を重視する時代の曲だけに、旋律の持つ感性といい、ハーモニーの移り行きあるいは色彩感といい、どこか型にはまった堅苦しさがないとはいえないからです。

子どもはそのような知的で客観的な側面は未発達なものの、反面その感性はもっと柔軟で、より多様なものに反応する能力を持っています。子どもの描く絵をご覧なさい。彼らの絵を見れば、子どもの感性の世界がいかに囚われのないものであり、ファンタジー豊かなものであるか知ることができます。ですから彼らが求めているものは、このような彼らの感性を刺激し、豊かにしてくれる作品でしょう。

絵画の場合ですと、その創作の始めから終わりまで、子ども自身の創造性と感性を満足させることが出来ます。これに対して、作曲家という他人の作品をなぞることしか出来ないピアノの教育の場合は、”模範主義”あるいは”御手本主義”といった、子どもの主体性や創造性を無視しがちな指導のあり方に陥ってしまう危険があります。そんな指導の下で、ソナタやソナチネの勉強をそれこそ修身の教科書を読むように、それほどの感動もなく弾かされるとしたら、その子の子供時代は潤いの乏しいものとなりかねません。

日本人の演奏は表現力に乏しく、色彩感がないとよくいわれますが、それも大方の専門家が子供時代に受けた、このような指導に起因しているのではないでしょうか。一部には音楽大学に合格するためには、ソナタ中心のメニューで勉強しないとだめだといったことが、まことしやかにいわれているようですが、私たちはそろそろこのような短絡的思考から卒業する必要があります。肝心なことは、”子どもは子供の時代を送らなければならない”ということです。そして子どもの音のパレットを多彩にしてあげること。子どものファンタジーをますます豊かにしてあげることです。そのようにして養われた豊かな音のパレットと感性をもって弾けば、型にはまった表情になりがちなソナタも、生き生きとした自分自身の表情を持ち始めるでしょう。

もちろん子どもの感性といっても、一人一人違っております。指や手を始めとする身体的条件も様々です。それらの全てを考慮に入れながら、なおかつ一歩挑戦の技術的課題を含んだ曲を捜し出すのは、並み大抵のことではありません。教師としての力量が大いに問われるところです。『ピアノサロン』を初めとする私たちのコンサートは、正にこのような選曲の苦労の繰り返しといっても過言ではありません。このような経験を通じて、少しでも理想的な選曲が出来るようになりたいものだ、と願うばかりです。

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