夏目音楽教室 夏目芳徳
アルバート・ロトー氏は、今は亡きジュリアード音楽院のゴロドゥニツキ教授が輩出した、きら星のごとく輝くピアニストの中のお一人です。ゴロドゥニツキ教授は、アメリカのピアノ専門誌「クラヴィーア」が「究極のピアノ教師」と題して特集したほどの名教師ですが、氏が紡ぎだす甘美なまでに歌う音については、誰もが驚嘆を持って語っています。ロトー氏が教授の持つこの音の美質の継承者であることは、世界各地で行われた彼のコンサートの批評が、異口同音にロトー氏の艶のある豊かな音色と、ピアノを歌わせる特別な能力を絶賛しているのを見ても分かります。

ただ、そのような師の美質を受け継ぎつつも、その演奏はとなると、正に対照的です。師ゴロドゥニツキの演奏は、豪腕ともいえる超人的な技巧を武器に、冷徹なまでに正確無比な演奏で、一気呵成にひき切るようなところがあります。当時それまでのロマンティックで思い入れたっぷりな演奏への反動として、過度な感情移入を避け、出来るだけ楽譜に忠実に客観的な演奏をしようとする潮流がありましたが、ゴロドゥニツキ教授の演奏は、そのような時代の精神を反映しているのかもしれません。

一方ロトー氏の演奏は、とても柔軟性に富み、力がみなぎる演奏の中にも豊かな叙情味にあふれ、ロマンティックな雰囲気に満ちています。それで思い出されるのは、前述の特集記事の次の個所です。「驚愕的な事実は、どの生徒たちも違って聞こえるということだ。これこそゴロドゥニツキ教授の特別な才能、個々の生徒が固有に持っているものを、最高度に高める能力の証しである。」小なりといえども同じピアノ教師として、ずしんと胸にこたえる記事です。

ところで、数年前NHKテレビが、突然聴覚を失って楽界を去った後、見事に再起を果たしたピアニスト、フジ子・ヘミングの特集を放送してから、一躍彼女は時の人になり、彼女の演奏会は常に音楽を渇望する人たちで埋め尽くされるようになりました。もちろん、NHKが彼女の衝撃的な半生をドラマチックな番組に仕立てたこともあるかもしれません。しかし、彼女の人間味あふれた演奏、人の心に染み渡る叙情性に富んだ演奏が、今という時代に生きる人々の心を捕らえるからではないか、と私は思います。

ロトー氏の演奏も、人の温かみの感じられる演奏という点で、フジ子・ヘミングさんに通じるところがあります。実際、ロトー氏のあるコンサートの批評に「彼は、どの作品に対しても、暖かくやさしさに満ちた関係を作り出す。」と書かれていました。現代のピアニストの中には、必要以上に個性的であろうとして、エキセントリックな演奏をするピアニストがたくさんいます。また、より高度なテクニックを目指すことが自己目的化して、やたらに技術をひけらかすようなピアニストもけっこう多い現代の音楽界です。このような時代の風潮にあって、ロトー氏の自然でファンタジーあふれる演奏は、聴く人の心の奥深くに染み込んで、深い感動を残すに違いないと、確信しています。

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