坂野新編集委員長への質問状(その2)


平成7年5月23日

『教育心理学研究』編集委員会
      編集委員長 坂野 登殿

信州大学教育学部
守 一雄

拝復

 平成7年5月15日付けのお返事拝見いたしました。


1.坂野委員長の記述内容の問題点について

以下に、坂野委員長の記述とそれに対する●私の反論を述べます。
(わかりやすいように、委員長の記述と私の反論部分は書体を変え ました。)

(0)(かっこと番号は守が付加しています。)おたずねの2点に ついてお答えいたします。まず(1)で述べるような理由から回答 は前回同様、委員長個人からのものとなっていることをご承知下さ い。

●ボランティアでやって下さっているお忙しい編集委員長に難題を ふっかけて大変申し訳なく思っていますが、私が請求しているのは 編集委員会の回答です。後々、「あれは委員長個人の見解にすぎな いから」と責任逃れをされないためです。

(1-1)「(1)審査委員のコメントに対する私のコメントに個々 に回答する必要はない。」
→全くその通りで、審査委員が匿名であることの理由をお考え下さ い。

●審査委員が匿名であることは、不採択になった論文著者の反論に 回答する義務がないことの理由にはなりません。ひどい審査をして 逃げてしまっても投稿者にわからないように匿名にしているわけで はないはずです。私の反論に対する回答も匿名のまま下さって結構 です。私は審査委員を個人的に攻撃しようと思っているわけではあ りません。

(1-2)審査委員の判断に間違いがなかったかどうかを委員会では 審議すればよいわけで、審査委員に代わって回答する立場にはありま せん。

●@「編集委員会が審査委員に代わって回答」しなくても、審査委員 自身から回答が得られれば結構です。Aしかし、編集委員会が審査委 員に私の反論を示してその回答を求めて下さらないので、代わりに編 集委員会に回答を求めているのです。Bましてや、「編集委員会は審 査委員の判断に間違いがなかった」という立場をとっているのですか ら、編集委員会は私の反論に個々に返答すべきです。これまでの経緯 からは、「編集委員会は返答することから逃げている」としか考えら れません。

(2-1)「(2)編集委員会からの回答は「「不採択」の根拠は、研 究方法、並びに、結果の不十分さによるものとの判断が3審査者で一 致しているとの結論を再確認しました」につきる。」
→全くその通りです。ご参考までに小生個人の同様の読みとった根拠を 述べておきたいと思います。要は3委員の疑問に対してコメントはでき るが、疑問を解くような回答を結果のなかから示すことはできないので は科学論文としての価値がないということです。

●@私は「コメント」しているのではなく、「反論」しているのです。 疑問をはらそうにも、あらぬ嫌疑をかけられたのでははらしようがあり ません。A学会誌論文の審査は、論文の評価をめぐっての投稿者と審査 委員と論争の場です。投稿者には審査者から出された疑問について合理 的に説明する義務があります。それが不可能ならば、「採択」とはなら ないでしょう。同じ原則は逆の面からも適用され、審査委員はその判断 結果に対して投稿者から出された疑問について合理的に説明する義務が あります。それが不可能ならば、「不採択」とはできないはずです。委 員長は、投稿者側の義務だけを論じていて、審査する側の義務(=責任) を忘れています。委員長の口調をそのまま借用して述べれば、「「不採 択」の根拠についての疑問(=私からの反論)を解くような回答ができ ないのでは科学論文の審査とはなりえないということです。」

(2-2)3委員ともに研究方法および結果が×とでるはずです。

●「でるはずです」というのは「でるのももっともです」という意味です か?それとも、「でるにちがいありません」という意味ですか?どちらに しても、「×とでています」と言い切れないところが、委員長の弱みです。 こんな苦しい表現を使わなくても、審査委員にもう一度審査をさせて、3 人ともに「研究方法および結果が不十分だ」と明言させればいいのではあ りませんか?(ただし、その際には私からの反論を必ず添えて下さるよう お願いします。)

(3-a)・A委員「表1を見ると、「サンボ」も「さんぽ」も「ぐりとぐ ら」も差がない。つまりこの年齢、このやり方ではどのお話しを聞かせて も同じ様な結果がでるのではないか。」
→「やり方」=研究方法;
「・・ ・差がない。つまりこの年齢、このやり方ではどのお話しを聞かせても同 じ様な結果がでるのではないか」
→研究方法および研究結果

●この点については、平成6年1月27日付けの最初の異議申し立ての際 に「確かに、こうした疑問が残される余地がある。しかし、4・5歳児を 用いた研究において、こうした疑問がまったくないような実験を行なうこ とはほとんど不可能である。(疑問の余地が残らないような実験データは、 そもそも実験するまでもなく分かりきったことを「形だけ厳密に」調べて みたに過ぎない。)」と反論しています。

 さらに、平成6年6月15日付けの編集委員会宛照会文書で、「貴編集委 員会へ質問F:「この年齢、このやり方ではどのお話しを聞かせても同じ様 な結果がでるのではないか。」という疑問が残される余地があることは、投 稿論文を「不採択」とするような決定的な欠陥であると貴委員会も判断なさ いますか?」と質問しています。この質問には直接にはまだ回答していただ いていませんが、坂野委員長(個人)は「こうした疑問が残される余地があ ることは、投稿論文を「不採択」とするような決定的な欠陥であると判断す る」ということですね。だったら、どうして今までそう回答して下さらなか ったのでしょう?(ここのように回答できるところもあるが、回答できない ところもあるからですよね。)

(3-b1)・B委員「面白さを検討するのに「どちらが面白いか」のみを聞い ただけというのは、あまりにもお粗末な研究と言わざるをえません」
→研究方法および研究結果;

●この点に関しても、最初の異議申し立ての際に「これは、まさしく事実誤認 である。投稿論文では、どちらが面白いかのみを聞いたわけではない。@どち らがおもしろかったかAおもしろかった紙芝居で、一番おもしろかった場面は どこか、の少なくとも2点を、幼児一人一人に聞いているのである。」と審査 委員の事実誤認を指摘しています。

 さらに、研究が「お粗末」だとするB氏の以下のようなコメント
B氏>「これでよいのなら、意欲を検討するのに「意欲がありますか?」、理解を
   検討するのに「理解してますか?」で済んでしまうことになります。そんな
   研究が認められないのはおわかりと思いますが。」
に対しても、以下のように論理的に反論しています。
守>一読するともっともなようにも思えるが、意欲や理解とおもしろさとが安易に
  同列に並べて論じられていることや、被験者の年齢が考慮されていないことが
  この主張の難点である。幼児に「意欲がありますか」と聞いても、幼児の意欲
  を調べることはできない。しかし、幼児に「どちらがおもしろかったか」を尋
  ねることは可能であり、しかも、4・5歳の幼児ならば、この直接的な質問が
  いちばん効果的である。(有名なピアジェの保存の実験でも、幼児に「どちら
  が長いか」「どちらが重いか」を聞いているが、「あまりにもお粗末な研究と
  言わ」れたりしていないではないか。長さの判断は言語的な質問でよくて、面
  白さの判断はいけないと言うのであろうか。)
 さらに、編集委員会に対しても、「貴編集委員会へ質問J:投稿論文で「どちら が面白いか」のみを聞いただけとする審査者B氏の指摘は事実誤認ではありません か?」と「貴編集委員会へ質問K:幼児に「どちらがおもしろかったか」を尋ねる ことは、教育心理学の研究方法として決定的に間違っているでしょうか?」という 2つの質問をしています。

 ご承知のように、これらの質問にもまだ回答していただいていません。しかし、 坂野委員長は「「どちらが面白いか」のみを聞いただけとする審査者B氏の指摘は 事実誤認ではない。」また、「幼児に「どちらがおもしろかったか」を尋ねること は、教育心理学の研究方法として決定的に間違っている」とお考えだということで すね。この回答には後々まで責任をもっていただきますよ。

(3-b2)「どちらが面白いかを比較する際に「ぐりとぐら」との比較で、双方とも 大差ないから同程度の面白さだとしていますが、乱暴な議論ではないでしょうか」
→研究方法および研究結果

●これについても、最初の異議申し立てのときから「B氏は、心理学的測定法の初歩 も知らないらしい。書斎に置いてある机を寝室に移したいが、机が寝室のスペースに 入るかどうかを知りたいという場合に、私たちはどうやって調べるだろうか。机を寝 室まで運んで直接に長さを比較しなくとも、手近の紐と机の長さを比べて、その紐を 寝室のスペースと比べてみれば、目的が達せられることは自明のことである。もちろ ん、単純な物理的な概念である長さと、心理的な概念である面白さとを同列に論じる ことは慎むべきであろう。あるいは、第3者を介した比較と直接の比較とに差が生じ る場合もあるかも知れない。しかし、登場人物以外は、まったく同じ話を直接に比較 することは幼児には無理であり、だからこそ、こうした測定方法が取られたのである。 こうした測定方法の工夫は、肯定的に評価されることはあっても、B氏のように否定 的に評価する理由にはならないと思う。」と批判的に反論しています。この点に関し てB氏にはまったく勝ち目がないと思います。

 そこで、編集委員会にも、「貴編集委員会へ質問L:αとβとを比較したいが、直 接に比較することができないというとき、第3のγとα・βをそれぞれ比較し、直接 の比較に代えるという研究方法は教育心理学では認められないのでしょうか?

」と確認の質問しています。しつこいようですが、この質問にもまだ編集委員会は回 答してくれていません。(こういう質問があるから、編集委員会は回答できないんで すよね。だから、「逃げの一手」でダンマリを決め込むことになるのでしょう。)

 ところが、今回の坂野委員長はご回答を下さいました。当該論文の研究方法に問題が あることの証拠として、この部分を敢えて引用してきたということは、委員長自身が、 「αとβとを比較したいが、直接に比較することができないというとき、第3のγとα ・βをそれぞれ比較し、直接の比較に代えるという研究方法は教育心理学では認められ ない」と考えているということですね。そして、それを根拠に私の論文を不採択にした のですね。

(3-c)・C委員「・・・この程度の素朴でシンプルな研究なら、教育心理学者でなく ても(例えば短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議では ない)行なえるのではないでしょうか」
→研究方法および研究結果についての素朴な疑問

●これは「素朴な疑問」では済まされない重大な中傷です。素朴な疑問をもつことは結 構ですが、審査委員として公式にコメントするからには発言には責任をとってもらいた いものです。これについても、最初の異議申し立ての際に「この指摘に関しては、怒り を覚えたが、ここでは笑って「それはコロンブスの卵です」とお答えしたい。「こんな 研究なら私にもできるさ」と思わせるような研究も、それを初めにやるのは、それなり の苦労と工夫が必要なのである。バカにしないでもらいたい。「短大か高校の児童文化 研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない」とのことであるが、全国どこ ででもそうした発表はなされていないはずであると、投稿者は確信している。」と強く 抗議しています。

 そして、編集委員会にも「貴編集委員会へ質問O:審査者が投稿論文に対して、証拠 も無しにこのような侮辱的な決め付けをすることを黙認するのですか?」と問いただし ています。名誉毀損で訴えたいくらいです。もちろん、この質問にも編集委員会はお答 え下さっていません。無理もありません。私から見ても一番答えにくい質問だと思いま す。もっとも、この質問は巧妙で、「〜を黙認するのですか?」と聞いていて、回答し ないことそのものが黙認を意味しています。

 ところが、今回、坂野委員長がまたこの発言を引用したということは、委員長自身が こうした発言をしたことと同様です。もし、委員長のこの発言が、どこかの「短大か高 校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表して」いたという事実に基づいてのものでな い単なる中傷だとすれば、改めて強く抗議します。是非、発言を撤回して謝罪していた だきたく存じます。

2.編集委員会への質問への回答の督促

 以上のように、委員長の個人的見解をいくら並べられても、そちらの失点が増えるだけ です。後わずかで、私の質問状をお送りしてから丸一年になります。今度こそ、個々の質 問にご回答下さいますようお願いいたします。ご回答は平成7年7月20日までにお願い します。

                         敬具

追伸:今回の文書は、コピーを編集委員の先生方にもお送りします。

なお、議論の展開がわかるように、編集委員の先生方には、以下の2つの文書のコピーも 同封します。

@平成7年3月18日付けの坂野編集委員長書簡
A平成7年3月24日付けの守書簡
B平成7年5月15日付けの坂野編集委員長書簡

   


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