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編集委員全員へのダイレクトメール


平成6年8月3日

『教育心理学研究』編集委員会
        編集委員の各先生

                            信州大学教育学部 
                                       守 一雄

  暑中お見舞い申し上げます。

さて、突然このようなお手紙を差し上げましたのは、私の投稿論文に対する審査委員ABC氏への反論をお届けしたかったからです。

私の投稿論文「『ちびくろサンボ』と『チビクロさんぽ』―差別表現をもつ絵本とその改話とのおもしろさの比較―」は、1993年3月18日に投稿しましたが、驚くべき早さで、ほぼ一ヶ月後の1993年4月22日には審査委員すべてが「不採択」という判定により「不採択」となりました。

「不採択」の理由は、以下に詳しく述べますように、審査委員の先生方が、多くの重大な事実誤認をしていたり、学会誌の審査委員の権限を逸脱する判断をしていたり、したためのもので、私には納得がいきません。

そこで、再三にわたって、編集委員長の高橋恵子先生あてに異議申し立てをしてきましたが、その度に、審査委員3人が揃って「不採択」としたのだから「不採択」である、というようなお答えしかいただけませんでした。私が異議を申し立てているのは、個々の審査委員の先生の判断に対してであるのに、編集委員長は、個々の審査委員の判断を再検討することなしに、常任編集委員会での事務的な手続きに間違いがないことを繰り返すのみです。

審査にあたった個々の審査委員の先生に直接反論したいと思っていたのですが、そして実際にそうした文面の手紙も編集委員会に差し上げたのですが、いつも編集委員長の段階で止められてしまっていたようです。
審査委員は「覆面」ですので、どなたがこうした誤った判断をしたのかは、投稿者にはわかりません。そこで、編集委員会への異議申し立てを通してしか、個々の審査委員に反論することはできないと考えてきました。そして、編集委員会のカベを突破することができないでいました。

ところが昨夜、ひょんなことから、もっと簡単な方法があることに気づきました。審査委員の先生は教育心理学研究の編集委員の中から選ばれることになっているのですから、『教育心理学研究』に掲載されている編集委員50数名の中に私の論文の審査にあたった3人も含まれているはずです。つまり、編集委員全員に反論をお送りすれば、必ず当該審査委員にも届くわけです。こうすることにより、直接には審査にあたらなかった他の編集委員の先生方にも、こんなひどい審査がなされたこともわかっていただけるわけで、一石二鳥でもあります。

というわけで、このお手紙をお送りしました。この手紙を読んで、私の判断が間違っていたと気づかれましたら、ぜひ編集委員長にその旨ご連絡をお願いします。私の反論が間違っているようでしたら、ご指摘いただきたいとも思います。審査の結果には責任をもっていただきますので、私の反論を無視することのないようにも、特に記してお願い申し上げる次第です。(なお、直接審査をしたわけではない編集委員の先生で、投稿論文そのものを読んでみたいとお考えの先生は、お手数ですが、ご一報下さい。すぐに、論文をお送りします。私の反論へのコメントも歓迎します。)

以上、どうぞよろしくお願いいたします。


【同封文書】審査委員のコメントとそれに対する反論

0. 投稿論文の要約

ヘレン・バナマン(Helen Bannerman)原作の『ちびくろサンボ』の主人公を黒人の子どもから黒犬に替え、名前も「サンボ」から「チビクロ」に替えて、差別表現を含まないような改話『チビクロさんぽ』作った。54人の就学前児(4―5歳)を2群に分け、原話または改話と別の話『ぐりとぐら』を紙芝居形式で読み聞かせた。2つの話を読んだ後、どちらの話の方がおもしろいかを選択させた。その結果、改話されたものも、原作と同様に子どもたちにおもしろがられていることが分かった。

『ちびくろサンボ』と『チビクロさんぽ』の図版例(ここでは省略)


1.審査委員のコメント

1.1.審査委員Aのコメント(原文のまま)
 1.問題(改話と原作の面白さの比較)の意義について納得できない。
 2.納得がいかなくても充分な証拠が得られていれば、資料として採択に賛成するが、充分な証拠が出ていると思えない。

 1.問題について
 1)「ちびくろサンボ」は多くの子どもを楽しませたお話しだが、問題点が指摘され、消えてしまった。これの改作を子どもに与える必要はない。オリジナルで子どもの喜ぶお話しが沢山あるし、「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話しを作るだろう。
 2)子どもたちは差別的な要素に基づいて面白がっているわけではないことを実証するというのが目的となっている。差別的な要素にもとづいて面白がっているのではないが、知らず知らずのうちに差別観を植え付けるものである(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。たとえば、ダッコちゃん人形も差別を面白がって持って歩いていたわけではないが、差別的な扱いであると気づいた人からそのような指摘がなされ、多くの人がそれに気づくに至った。
 3)口調の良さは大切な要素の一つであることは認めるが、だからと言って、タイトルを語感のよく似た「チビクロさんぽ」とするのは反対。語感だけは似ているが、タイトルの具えるべき条件を満たしていない。この話しのタイトルとして、「チビクロさんぽ」が適しているとはいえないし、そうするとしても「チビクロのさんぽ」というのが、日本語での自然な表現であろう。

 2.証拠について
 1)表1を見ると、「サンボ」も「さんぽ」も「ぐりとぐら」も差がない。つまりこの年齢、このやり方ではどのお話しを聞かせても同じ様な結果がでるのではないか。
 2)おもしろさのとらえ方もおおざっぱに過ぎる。(村瀬孝雄氏は「ちびくろサンボ」の面白さを幾つか挙げて分析している。)少なくとも、繰り返し読んで欲しいとリクエストがあるかどうかなどは調べる必要があろう。

1.2.審査委員Bのコメント(原文のまま)
  斬新なテーマを取り上げた論文であり、教育心理学研究誌に新たな領域の内容を示すという意味での意義を認めます。ただし、研究の背景、実験そのものはあまりにも単純で、納得させる手続きで実施されたものとは思えません。以下の点をご検討下さい。
*「問題」部分で「ちびくろサンボ」をめぐる論争のみを取り上げているが、その背景として、言葉と差別・偏見などについての言語社会学的な研究、「おもしろさ」について取り上げた秋田喜代美氏の教育心理学研究誌論文など、参照すべき論文はあるにもかかわらず、それらを全く取り上げていない。少なくとも研究のキー概念である「面白さ」をどう定義づけるのかは明示すべきです。
*面白さを検討するのに「どちらが面白いか」のみを聞いただけというのは、あまりにもお粗末な研究と言わざるをえません。これでよいのなら、意欲を検討するのに「意欲がありますか?」、理解を検討するのに「理解してますか?」で済んでしまうことになります。そんな研究が認められないのはおわかりと思いますが。 *どちらが面白いかを比較する際に「ぐりとぐら」との比較で、双方とも大差ないから同程度の面白さだとしていますが、乱暴な議論ではないでしょうか。他の話と比較するのと、「サンボ」と「さんぽ」を直接比較した場合とで同じような結果が出る保証があるでしょうか?とてもそうとは思えないのですが。

1.3.審査委員Cのコメント(原文のまま)
 本研究の意義は十分に認めますが、以下の二つの理由により、内容的に教育心理学研究に掲載するのは不適当であると判断いたします。
(1)理論的にも方法論的にも、教育心理学ならではの切り口(専門性)が認められない。例えば「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけて研究が計画され、それ相応の専門的な分析と論議がなされていれば話は別ですが、この程度の素朴でシンプルな研究なら、教育心理学者でなくても(例えば短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない)行なえるのではないでしょうか。
(2)とは言え、社会問題にもなったシリアスな問題にも関心を持ち、それについて教育心理学の立場からも発言しようとする積極的な姿勢には共感を覚えます。しかし、その場合のメッセージは、教育心理学会の外側に向けて発せられるべきではないでしょうか。だとすれば、「教育心理学研究」のような同業者の専門誌よりも、例えば「読書科学」のような学際的雑誌に発表されるほうが適切ではないかと考えます(本研究の一部は日本読書学会で報告されている、とのことでもあるし)。

2.各審査委員のコメントへの反論

2.1.審査委員Aのコメントの問題点
 審査委員A氏は、「問題(改話と原作の面白さの比較)の意義について納得できない。」として、3つの論点を提示している。その第一は、「1)@「ちびくろサンボ」は多くの子どもを楽しませたお話しだが、問題点が指摘され、消えてしまった。Aこれの改作を子どもに与える必要はない。Bオリジナルで子どもの喜ぶお話しが沢山あるし、C「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話しを作るだろう。(丸数字は引用者が加筆)」というものである。
 ここには、少なくとも4つの問題発言が含まれている。まず、@「ちびくろサンボ」が絶版となった経緯について、現状を無条件に肯定してしまっている。投稿論文は、この絶版となった理由の一つに異議を唱えるために行なった研究である。異論が出されている問題に対して、現状を単に肯定する態度は科学者足り得ないものである。
 次に、A「改作を子どもに与える必要はない。」と言い切っている。誰がどんなものを子どもに読んで聞かせようと自由なはずである。『教育心理学研究』の審査委員は、何を子どもに与えるべきかの絶対的な判断力を持っていると自認しているのだろうか。
 第Bに、他に良い話があることは、特定の話の存在意義を認めないことの理由にはならない。この論理に従うと、新しい童話や絵本を創作する意義はまったく認められないことになる。
 第4に、C「「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話しを作るだろう。」とのことであるが、それでは「ちびくろサンボ」が与えられなかった世代は、次の世代にどんなお話を作り出せるのだろう。また、「ちびくろサンボ」で育った世代は、「ちびくろサンボ」が「知らず知らずのうちに差別観を植え付けるものである」から、差別観いっぱいの話を作ってしまうのではないだろうか。(「そんな心配はない」というのが投稿論文の研究結果であり、審査委員Aは、まさにそのコメントで「差別的な要素にもとづいて面白がっているのではないが、知らず知らずのうちに差別観を植え付けるものである(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。」と述べて、「ちびくろサンボ」の差別性を消極的ながら肯定しているのであるから、自己矛盾である。)
 この「差別的な要素にもとづいて・・・(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。」という第二の論点も、上述と同じ理由で問題である。「(かもしれぬ)」とか「懸念されているのだろう」とか、確定されていない部分こそを実証的に研究しようとしているにもかかわらず、根拠もなしに、「ちびくろサンボ」が悪書であるという立場を取り続けている。
 第三の論点は、研究の意義を評価する上でまったく的外れである。「タイトルを語感のよく似た「チビクロさんぽ」とするのは反対」と言われても、そういうタイトルで現に実験が行なわれているのである。出版社で市販する絵本のタイトルを決めるための会議に出席しているのとはわけが違う。審査委員の好みを押しつけられても困るのである。
 A氏は、「「チビクロのさんぽ」というのが、日本語での自然な表現であろう」と述べているが、そんなことは「百も承知」である。投稿者は、あえて『ちびくろサンボ』との類似性の方を重視したというだけのことである。投稿者の日本語能力を疑われているようで不愉快でもある。
 審査委員A氏は、また、「[問題の意義について]納得がいかなくても充分な証拠が得られていれば、資料として採択に賛成するが、充分な証拠が出ていると思えない。」として、新たな2点を論点として挙げている。その第1は、「この年齢、このやり方ではどのお話しを聞かせても同じ様な結果がでるのではないか。」というものである。確かに、こうした疑問が残される余地がある。しかし、4・5歳児を用いた研究において、こうした疑問がまったくないような実験を行なうことはほとんど不可能である。(疑問の余地が残らないような実験データは、そもそも実験するまでもなく分かりきったことを「形だけ厳密に」調べてみたに過ぎない。)
 この点に関して、審査委員A氏は、第2に、「おもしろさのとらえ方もおおざっぱに過ぎる。少なくとも、繰り返し読んで欲しいとリクエストがあるかどうかなどは調べる必要があろう。」とも述べている。この点は、表現こそ違え、他の審査委員からも共通して指摘されている点である。(他の審査委員は、「素朴でシンプル」「あまりに単純」と表現している。)しかし、審査委員は、誰も、この研究が先駆的な研究であることを忘れている。改話された童話が、原話と同程度の面白さを持っているかどうかを調べるという研究目的そのものが「素朴でシンプル」であるために、「あまりに単純」に見えたり、「おおざっぱ過ぎる」ように見えたりするのである。研究目的が単純な研究をあえて複雑にしなければならない必然性はない。(あるとすれば、いかにもスゴイ研究をしましたヨという「体裁づけ」のためだけである。)
 審査委員A氏は、この研究の背景となる社会現象について、あまりに無頓着で、現状を無批判に肯定してしまうなど、およそ物事の審査に向いていないように思われる。

2.2.審査委員Bのコメントの問題点
 審査委員B氏は、A氏と違い、本研究の意義を基本的には認めているようである。B氏は、もっぱら、研究の内容の方に難点を見つけ、3つの論点を挙げている。
 その第一は、@「参照すべき論文が全く」引用されていないこととA「研究のキー概念である「面白さ」をどう定義づけるのか[が明示されていない]」ことである。@に関して言えば、全く引用されていないというのは、事実誤認である。「言葉と差別・偏見などについての言語社会学的な研究」に関しては、そのまとめとなっている杉尾・棚橋(1990)を引用している。B氏は、この本を読んでいないのではないだろうか?また、『教育心理学研究』に掲載された秋田論文(1991)が引用されていないことも批判しているが、秋田論文は引用に値しないと投稿者が判断したからこそ引用しなかったものである。秋田論文と投稿論文とは、被験者も題材も研究目的も異なる論文であり、参考までに引用しても構わないが、引用することが不可欠な論文ではない。「面白さが明示的に定義されていない」とB氏が批判するAに関して言えば、まさにB氏が参照すべきであると推奨している秋田論文にもおもしろさの定義は明示されていない。そもそも、「おもしろさ」といった基本的な感情を定義することは簡単ではないし、定義したところでその定義が適切であることの保証は何もない。
 B氏が指摘する第二の論点は、「面白さを検討するのに「どちらが面白いか」のみを聞いただけというのは、あまりにもお粗末な研究と言わざるをえません。」というものである。これは、まさしく事実誤認である。投稿論文では、どちらが面白いかのみを聞いたわけではない。@どちらがおもしろかったかAおもしろかった紙芝居で、一番おもしろかった場面はどこか、の少なくとも2点を、幼児一人一人に聞いているのである。B氏はまた、「これでよいのなら、意欲を検討するのに「意欲がありますか?」、理解を検討するのに「理解してますか?」で済んでしまうことになります。そんな研究が認められないのはおわかりと思いますが。」とも書いている。一読するともっともなようにも思えるが、意欲や理解とおもしろさとが安易に同列に並べて論じられていることや、被験者の年齢が考慮されていないことがこの主張の難点である。幼児に「意欲がありますか」と聞いても、幼児の意欲を調べることはできない。しかし、幼児に「どちらがおもしろかったか」を尋ねることは可能であり、しかも、4・5歳の幼児ならば、この直接的な質問がいちばん効果的である。(有名なピアジェの保存の実験でも、幼児に「どちらが長いか」「どちらが重いか」を聞いているが、「あまりにもお粗末な研究と言わ」れたりしていないではないか。長さの判断は言語的な質問でよくて、面白さの判断はいけないと言うのであろうか。)
 B氏は、第三の論点として、「どちらが面白いかを比較する際に「ぐりとぐら」との比較で、双方とも大差ないから同程度の面白さだとしていますが、乱暴な議論ではないでしょうか。他の話と比較するのと、「サンボ」と「さんぽ」を直接比較した場合とで同じような結果が出る保証があるでしょうか?とてもそうとは思えないのですが。」とも言っている。B氏は、心理学的測定法の初歩も知らないらしい。登場人物以外は、まったく同じ話を直接に比較することは幼児には無理であり、だからこそ、こうした測定方法が取られたのである。こうした測定方法の工夫は、肯定的に評価されることはあっても、B氏のように否定的に評価する理由にはならないと思う。

2.3.審査委員Cのコメントの問題点
 審査委員C氏が、この論文を『教育心理学研究』に掲載不適当と判断する理由は2点である。
 その第一は、「@理論的にも方法論的にも、教育心理学ならではの切り口(専門性)が認められない。A例えば「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけて研究が計画され、それ相応の専門的な分析と論議がなされていれば話は別ですが、Bこの程度の素朴でシンプルな研究なら、教育心理学者でなくても(例えば短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない)行なえるのではないでしょうか。(丸数字は引用者が加筆)」というもので、辛辣なコメントである。
 @に関して言えば、「教育心理学ならではの切り口(専門性)が認められない」という判断はきわめて残念である。「差別だ」「差別でない」という不毛な水掛論だけが横行している中で、「実証性」を基礎に実験的にその差別性を検証しようとしたこの研究は、まさに「教育心理学ならでは」のものではないだろうか。C氏は、あまりに狭い観点からものを見ていないだろうか?「ちびくろサンボ」問題は、言語社会学、児童文学、人権教育、道徳論など広い領域にわたる問題である。そうした問題に、国語教育者や児童文学者にはない「実証性なデータを出して論じる」という視点を持ち込んだことこそが、「教育心理学ならではの切り口」であることに気づかなかったようである。
 Aに関しては、「研究の目的が違う」としか答えようがない。確かに、本研究を「「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけ」たならば、素晴らしい研究となるに違いない。いずれ投稿者自身や他の研究者がそうした研究に発展させていくことが望まれる。しかし、この研究の目的は、「『ちびくろサンボ』における差別性の無さの検証」であって、「ユーモア感覚の発達」や「愛他行動(人権意識)の発達」ではない。
 Bの指摘に関しては、怒りを覚えたが、ここでは笑って「それはコロンブスの卵です」とお答えしたい。「こんな研究なら私にもできるさ」と思わせるような研究も、それを初めにやるのは、それなりの苦労と工夫が必要なのである。バカにしないでもらいたい。「短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない」とのことであるが、全国どこででもそうした発表はなされていないはずであると、投稿者は確信している。
 C氏がこの投稿論文を「不採択」と判断するもう一つの理由は、「@しかし、その場合のメッセージは、教育心理学会の外側に向けて発せられるべきではないでしょうか。Aだとすれば、「教育心理学研究」のような同業者の専門誌よりも、例えば「読書科学」のような学際的雑誌に発表されるほうが適切ではないかと考えます。(丸数字は引用者が加筆)」である。
 ここでは、基本的に投稿論文が公刊に値するものであるとの肯定的な評価が与えられている(これはウレシイ)。しかし、ここにも、2つの大きな問題点がある。第1に、@に関して、なぜこうしたメッセージが「教育心理学会の外側に向けて発せられるべき」なのであろうか。外側にも内側にも発せられてしかるべきではないか。第2に、Aにおける『教育心理学研究』の性格づけは、あまりに内輪主義すぎないか。C氏の主張には、『教育心理学研究』は同業者だけに読まれていればよいといった響きが感じられる。『教育心理学研究』がもっと広く教育に関係する人々に読まれるよう努力すべきであるし(ちなみに、投稿者の所属する大学では、『教育心理学研究』は『科学』や『文芸春秋』といっしょに附属図書館の雑誌閲覧室に置かれ、教官・学生誰もが自由に読むことができるようになっている。)、そのためにも当該投稿論文のような論文を「同業者」向きでないという理由だけで拒絶しない編集方針が取られることを強く希望するものである。


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