最終夜「シークレット オブ マリオン」
「マリオン‥‥‥!」
呆然と、伸吾はマリオンの消えた空間を見つめていた。さっきまでマリオンの
いた所には破損した食器が散らかり、牛乳がこぼれ、マーマレイドジャムを塗っ
たトーストが食べかけのまま落ちていた。‥‥それはマリオンの好みなのだ。牛
乳もジャムも、彼女が自分で「好きだ」と言って、食べていたのだ。
「くそぉお!!」
伸吾は拳を床に叩きつけた。部屋中が震え、伸吾は床に突っ伏した。全身が怒
りと憤りと、そして自分の無力さに対するやるせなさに震えていた。普通に高校
を卒業し、普通に大学に入り、普通に毎日を過ごしてきた。そんな自分には、多
分どうしようも無い事だった。勝手に自分にマリオンを押しつけ、勝手に連れ去
ることが出来る連中相手に、おそらく伸吾に出来ることなど何も無かった。‥‥
だがそれでも、伸吾は許せなかった。
「あいつら‥‥!!」
絶対にもう一度、奴らと会わねばならない。そして、マリオンを必ず連れ戻す
のだ。そのために何をしようと、どんなものを犠牲にしようとも構わない‥‥。
伸吾の心に浮かんだその決心は、多分18歳の彼が、始めて感じる思いだった。
”転送、終了しました。‥‥Dr.カウラー、大丈夫ですか?”
”‥‥嫌なものね。あの世界を覗くのは何度やっても‥‥”
”精神干渉は認められません‥‥。それにしても、よくあんな世界で生きていら
れますね、彼らは‥‥”
”‥‥そうね。マリオンは?”
”現在は第3転送室です。ですがマリオンのシステムが外部情報を遮断している
ようで、動きません‥‥”
”動かない‥‥か。伸吾君だったら多分、「気を失ってる」って言うわね”
”え?”
”‥‥なんでもない。マインドダイブの用意始めて? すぐに潜るわ”
”分かりました。防護壁展開、深度C以降への侵入をガードします。進入経路は
リンクチップに固定。ルート、開きます”
”防護壁は、深度E以降にして”
”?! そ、それじゃ、ドクター自身のパーソナルへ干渉される危険も‥‥‥?!”
”M-AI043は、私達と同じレベルのI反応を持ったマリオンなのよ。そしてそれ
はB反応から生まれた‥‥。事実は事実として調べないとね。危険だったら私に
構わず接続をカットして、後は全てを処分したあと、事故として評議会には報告
しなさい”
”‥‥分かりました”
「‥‥伸吾の様子は?」
「あんな事があった後だからね‥‥。声の掛けようも無いよ。しばらくは、そっ
としておくしかないな‥‥」
時計は、すでに正午を指していた。部屋から出てこない伸吾の様子に河田がた
め息をつく。扉の鍵はなく、入室は自由。‥‥ではあるが、伸吾のその思い詰め
た視線の鋭さに、河田も慰めの言葉を掛けることは出来なかった。葵の用意して
くれたコーヒーを飲みながら、ついため息が出る。カップの中のコーヒーに、自
分の顔が揺らいでいた。
「‥‥全く、コーヒーがこんなに苦い飲み物だなんて、知らなかったよ」
「優矢さん‥‥」
「自分に呆れてしまうな。あの時何もできないまま彼女を連れて行かれたうえに、
今は伸吾君に掛ける言葉も浮かばない。自分の無力さが悔しいよ。何が帝都大卒
の‥‥‥」
「‥‥まったく、優矢さんていっつもそうね。全部自分のせいにして、全部自分
で抱え込んで‥‥。人を頼るってこと、知らないみたい」
「‥‥え?」
思いがけない葵のその言葉に、優矢はふと葵の顔を見つめた。まっすぐ見つめ
る葵は少し微笑んでいる。いつもの葵だった。河田が好きだと感じた葵が、そこ
にはいた。
「貴方だけの責任で済むことなら、誰も悩んだりはしないわよ。伸吾の事だもの。
私だって何とかしたいって思ってる。でも貴方だけを頼りにするほど、私だって
弱くはないつもりよ?」
「‥‥。そうだね。うん、そうだ‥‥」
河田は照れて‥‥‥、笑っていた。コーヒーに揺らいでいる自分の顔が、随分
幼くなったように見えたのだ。伸吾はマリオンに「俺が守る」とはっきり告げて
いたが、しかし葵を必要とした自分には、多分それは言えない台詞だろう。周囲
から必要とされているが故に、その期待が重荷になる。「何かが出来る自分」を
評価してくれる女性は大勢いたが、その中で「自分を必要としなかった」葵は、
その中でも一際輝いて見えたものだった。すがりつきたいのだ。自分だって本当
は‥‥。河田は自嘲的に、微笑んだ。
「男ってのは子供だね、いつになっても‥‥」
「え?」
「独り言。葵さんは美人だなって思ってさ」
「もうっ‥‥そんなこと言ってる場合じゃ、ないでしょ?」
「全く。とはいえ、この状況じゃあな。何の手掛かりも無いし‥‥」
「せめてもう一度、向こうから来てくれたらね‥‥。話し合いの余地はあるかし
ら?」
「期待は出来ないよ。まさか本当にあんな事の出来る連中だとは思わなかったか
らね。これ以上僕らに意味を感じるかどうか‥‥」
だがマリオンを「狂っている」と断言していたあの声は、「どうしても調べな
くてはならない事がある」とも言っていた。それがマリオンの意志に関する事な
らば‥‥。
「今は、待つしか無いかも知れないな。マリオン君が人形ではなくなった訳を連
中が求めたら、もしかしたら‥‥‥」
それは、単なる楽観論にすぎないのかも知れない。河田はふと隣室の方に目を
向けた。伸吾の思いが、マリオンを変えたのである。マリオンの思いが運命を変
える事を、葵も優矢も、今は期待するしかなかった。
”信じられないくらいに単純な精神ね。何の秩序もない‥‥”
マリオンの心の中はわがままで乱雑なパルスの固まりで、カウラーには単なる
ノイズのようにしか思えなかった。元はカウラー達が植え付けた、規則正しく無
駄のないシステムなど見る影もなく破壊され、今ではバラバラなジグソーパズル
のように辺りに漂っていた。それぞれが勝手に発する「欲求」は、しかしよくよ
く観察してみれば相互に影響しあい、一応の規則性をもってひとつの流れを形作
っている。それがこの真っ白な世界を作っていることに、カウラーは感心しない
わけには行かなかった。
”Ideal(理想的)反応を、ちゃんとこれが作ってるのか‥‥。思った以上
の収穫なのかも知れないわね。理由が分かれば、わざわざあんな「過去へのダイ
ブ」をする必要も無くなるかも知れない‥‥”
失いつつある人々のI反応を補助するために、カウラー達のチームは作られた
のだ。マリオンを過去に送り込み、人々との交流の中で生まれるその反応をレコ
ードし、患者の精神に投影する。人々のパーソナルにもっとも適する「時代」だ
ったはずだが採取は上手く行かず、やっとレコードの出来たマリオンはB反応と
I反応を内在する、まるで「人間」のような存在になってしまった。評議会にこ
の計画の失敗を報告すれば、喜んで「パーソナル統合計画」を実行に移してしま
うだろう。それだけは、なんとしても避けねばならなかった。ふと自分の手を見
つめてみる。血が通い、ぬくもりを持つそれは、マリオンの精神が投影する「女
性」のイメージだった。
”暖かく好意的なイメージか‥‥。真実は偽りに満ちているのよ?”
それは誰に呟いたのか、自分にも分からなかった。
やがてカウラーは目的のものを見つけた。精神の奥底でひっそりと存在する
「マリオン自身」、I反応だけで構成された、「パーソナル」という不可侵の領
域。マリオンのそれは、淡い光に包まれた、小さな少女の姿だった。触れようと
すると、周囲を包むその光が急に透明な壁に変わる。何かを抱いて丸くなる少女
の姿を壁越しに見つめながら、カウラーは微笑んだ。その壁があまりにも脆弱な
ものだったからだ。

”当たり前よね。I反応を持つとはいえ所詮はマリオン‥‥”
カウラーはその壁に手を当てた。簡単にひびが入り、やがて割れる。再生はす
ぐだったが、侵入はあまりにも容易だった。少女の呟きがその「世界」をふるわ
せる。だが子猫の鳴き声にも似たその声に、何の力もありはしなかった。
”入って、来ないで‥‥‥!”
”心配いらないわ、私は貴方を助けに来たのよ?”
”‥‥聞いたことのある、怖い声、嫌な‥‥!”
不意に、美しいカウラーの姿が変わり始めた。肌は黒ずみ、爪は伸び、頭に角
が突き出ると、背中に羽のような突起物が生まれた。カウラーは笑った。マリオ
ンが持つ自分へのイメージは、こうしたものだったのだ。
”怖いの?”
”怖い‥‥”
”大丈夫よ。危害を加えるつもりはないの。ほら‥‥”
マリオンの外部接続はすでに掌握している。そっと、カウラーはそれの一部に
アクセスすると、指先でそれらをなぞってやった。同時に世界が震え、壁が弱く
なる。マリオンには何が起こったのか分からなかった。「外」が、急にカウラー
を受け入れだしてしまったのだ。
”ほら‥‥気持ちいいでしょ? もっと心を解き放って、そしたらもっと気持ち
よくなれるわ‥‥。私なら出来るの。伸吾君よりも、もっとずっと気持ちのいい
ことを‥‥”
”伸吾、さん‥‥‥”
外の世界が薄く赤く彩られ、マリオン自身のパーソナルに干渉を始めていた。
身を堅くして何かを守るその少女を見つめながら、カウラーの指先がマリオンの
世界を弄ぶ。少女は涙を浮かべていた。自分の世界なのに、さっきまで自分を守
っていた世界なのに、それが自分を、怖い存在の元へと引きずり出そうとしてい
るのだ!
”いや‥‥あ‥‥!”
”さあ見せて? 貴方の心にあるものを。伸吾君との間に生まれたそれを私に見
せて? 私なら、それ以上のものを与えることが出来るから‥‥”
その一言は、蛇足だった。
それはカウラーのささやきと同時だった。それまで薄赤く照らされていた空間
が、不意に闇に包まれる。カウラーが手を伸ばしたその場所で、「それ」は突然、
目を開けた。小さなその目がカウラーを見つめた瞬間、カウラーの意識が落ちて
ゆく。奈落の底を見つめたその先に、それは大きく口を開いていた。
その悲鳴は多分、カウラーのものだった。
「‥‥聞こえる」
「え?」
「聞こえるんだ、マリオンの声なんだよ?! 俺を呼んでる‥‥!!」
「し、伸吾君、落ち着け! そんなの聞こえない‥‥‥?」
すぐに河田は葵と顔を見合わせた。‥‥彼らにも聞こえたのだ、今。
マリオンが消えたままのダイニングで、伸吾は突然立ち上がった。静かで味気
のない夕食を取っていた彼らの目の前で、その空間が突然光を放ち始める。それ
は伸吾の名を呼んでいた。どこか遠くの、まるでやまびこのようなその声に向か
って、伸吾は叫んでいた。
「俺はここに居るよ! マリオン、帰って来るんだ、君の望むところに!」
彼女はただ、暗闇の中を走っていた。後ろに浮かぶ、ちぎれた手首になど振り
返りもせずに、彼女は聞こえたその声に向かって走り続けていた。手首が動き、
やがて再生を始める。小さな少女が暗闇の中に見えなくなった頃、それはようや
く人の形を取り戻した。サポーターのレミが意識を接続する。
”Dr.カウラー、大丈夫ですか?”
”‥‥あ、有り難う‥‥。助かったわ”
”パーソナルの断片が残っていたからですよ。全部食べられなくて良かった‥‥。
それよりも大変なんです。彼女、リンクチップを自分でアクセスし始めて‥‥‥!”
”取り込んだ私の記憶から、伸吾君の所に戻る方法を探してるのね‥‥。大した
ものだわ。あんなものがこれだけの事をするなんて‥‥”
”何を見たんですか? 彼女の心の中に”
”私達には無いものよ”
そう言ってから、カウラーは身を翻した。レミがパーソナルを転送し、マリオ
ンの心の中で実体化する。カウラーを追いかけたレミの姿はおとなしそうなショ
ートヘアの少女だった。振り向いたカウラーがふと微笑む。自分の姿はまだ、怪
物のままだった。
”似合ってるわよ、その姿?”
”やめて下さい‥‥。それより、私達には無いものって‥‥”
心の中は、イメージだけが全てを構成する夢の世界だ。空間を飛びながら呟い
たカウラーの口調は静かだった。
”私達が捨てたもの‥‥、滅ぼしてしまったものよ”
”それって‥‥”
前方に、不意に光が射し込み始めていた。走り続ける小さな女の子、マリオン
のパーソナルはカウラーを食べてしまった「それ」を大事そうに抱きながら、そ
の光に向かって走り続けた。聞こえたその声に少女の顔が明るく輝く。それはカ
ウラー達もよく知っている、1人の男性の呼び声だった。
「マリオン‥‥」
部屋の中で、光は強さを増していった。時折弱くなり、再び強くなる。伸吾は
その光に手を差し伸べた。ふれた瞬間、世界が伸吾の心に流れ込み、彼は真っ暗
な空間の中に放り出されていた。伸吾からはとても遠い所に、その光は輝いてい
る。伸吾はそこに目を向けた。足は地に着かない。だが走ることは出来た。ここ
がどこであるか、今は重要なことではなかった。
”マリオン!”
気がついたその小さな女の子が自分の方に走ってくると、泣きじゃくりながら
自分の胸に飛び込んできた。受け止めたマリオンの心は震えながら自分の名前を
呟き続ける。伸吾はその子を抱き上げた。背中をぽんぽんと叩きながら、伸吾は
優しい声で語りかけた。
”大丈夫、もう大丈夫だよ‥‥。さ、帰ろ? みんな待ってるから”
こくんとうなずいたその少女に微笑んでから、伸吾は後ろを振り返った。自分
の帰るべき世界の扉はまだ開いている。彼はマリオンを抱えて走り出した。呼び
止めたその声を無視しようとしたが、声は近づいてくる。伸吾は我慢できなくな
って振り返った。
”貴様らは来るな!!”
その声と共に、カウラーとレミは堅い何かの壁に弾かれてしまう。伸吾のパー
ソナルが形成するその「壁」は伸吾とマリオンを守り、カウラーらの侵入を完全
に防いでいた。立ち上がったその有翼の怪物に、伸吾はつい、顔をしかめた。

”随分おっかない姿をしてるんだな。あんた‥‥”
”この姿はその子のイメージなのよ。随分嫌われちゃったみたいね”
”当然だろ? あんな事をしといて‥‥。マリオンは返してもらうよ。この子は
もう、あんたらの玩具じゃないんだ”
”‥‥その子の事、好きなの?”
数秒の沈黙が流れ、小さなマリオンを不安がらせる。気がついて、伸吾は微笑
んだ。
”‥‥「好き」になったんだ。昨日始めて‥‥”
”B反応に犯されているマリオンなのよ? 彼女が抱いているものを見てご覧な
さい”
マリオンは、伸吾が顔を向けると嬉しそうに、すぐにそれを差し出した。手の
ひらに載せられていたそれは小さな‥‥、本当に小さな獣だった。真っ白な毛並
みはふさふさとしていて、大きさはハムスターと同じくらい、尾は大きな毛だま
のようで、角を持つ小さな頭にウサギのような耳がたれている。鼻を鳴らしなが
ら、その獣は伸吾の匂いをかいでいた。マリオンの手のひらから出ようとはしな
いが、それでもじっと見つめて鼻を鳴らしているその仕草で、伸吾に好意を持っ
ている事はすぐに分かった。
”それがその子の本当の心なのよ‥‥。思いのままに生きている、獣の形”
”だから?”
”今のそれは小さく無力かも知れないけど、いずれ心の中で成長するわ。それが
時には世界を滅ぼすことになる‥‥。貴方はそれでも許せるの? 今のそれは、
貴方をただ利用しているだけなのよ?”
”構わないよ。意志を持たない人形よりは、ずっといい”
伸吾はそのまま走り出した。取り残された二人の女性は消えてゆく伸吾をただ
見つめることしか出来なかった。世界が次第に薄れてゆく。リンクチップの内部
バッテリーも、もう限界に近づいていた。
”計画は失敗ね。帰りましょう”
”報告は‥‥”
”嫌は事は、戻ってから考えましょ?”
そうして、その二人の姿も消えてゆく。伸吾はその扉に向かって走っていた。
扉の光が伸吾を包み込む。身を踊らせた瞬間、伸吾の体は何かの加重を感じてバ
ランスを崩してしまった。葵や河田の声と同時に背中が床に当たって胸が詰まる。
懐かしい匂いに目を開けた伸吾の胸の中で、マリオンはじっと、伸吾を見つめて
いた。彼らは帰ってきたのだ。葵や河田の待つ、自分の部屋の中に。
「‥‥お帰り、マリオン」
「伸吾さん!!」
その嬉しそうな声と共に、マリオンは伸吾の胸に顔を埋めた。嬉しそうな葵や
河田の視線に顔を赤らめながら、伸吾はマリオンと一緒に半身を起こす。マリオ
ンは顔を上げた。周りの存在を確認してにこりと笑ったその瞬間、額の金属片に
ひびが入る。そのまま割れて地面に落ちたそれは、一度淡く発光してから、その
場でしゅっと、燃え尽きてしまった。
「‥‥あの声の主と、出会えたかい?」
「ええ。‥‥でも、追い払ってきました」
「なら結構‥‥。これから大変だぞ? いろいろと」
「マリオンが居ます。大丈夫ですよ」
そう言って、伸吾はマリオンを抱き寄せた。嬉しそうに目を閉じたマリオンを
見ながら、葵は思わず微笑んで、伸吾の頭をぽかんと叩いてやった。抗議の視線
を向ける伸吾の口元は笑っている。部屋の中に満ちた笑い声は、どれもとても明
るかった。
「はー、なーんか長い6日間だったなぁ‥‥」
一足早く電車を降りた葵は、両手のお土産を下ろしながら、故郷の空気に肺を
満たして伸びをした。辺りはすでに深夜と言ってよく、駅のホームに人影もあま
り見えない。後ろからやってきた優矢に、葵は心配そうに声を掛けた。来週にま
た顔を出すつもりではあるが、やはりマリオンの事が、気がかりで成らなかった
のだ。
「ねえ優矢さん。あの二人‥‥、上手くやっていけると思う?」
「さあね‥‥。でも信じてあげなよ。マリオン君には今、どうしても伸吾君が必
要なんだ。彼がそれを、一番良く分かっていると思う」
「そうだといいんだけど‥‥。マリオンちゃん、伸吾の言うことなら何でも聞い
ちゃいそうな感じじゃない? 手なんか出せないって、伸吾は言ってたけど‥
‥」
「伸吾君はもう子供じゃないよ。少なくとも自分より大切なものを、わざわざ壊
すような馬鹿な真似はしないさ‥‥。彼は変わった。これからだよ」
「自分よりも大切なもの、か‥‥」
マリオンを抱いている伸吾の姿を思い出し、葵はつい笑ってしまった。6歳も
年下の伸吾は弟と言うよりは息子に近い感覚である。だが駅のホームで自分達を
見送った伸吾のその顔は、葵もどきりとするくらいに精悍な顔つきになっていた。
隣の優矢にふと顔を向け、その横顔を見つめる。自分が何故優矢を好きになった
のか、その理由が分かったような気がした。
「さて、それでは帰りますか。車を取りに行って来ます。待っててください」
「‥‥河田さんの部屋って、ここからは遠いんですか?」
「いえ? ここからなら数分‥‥」
何気ない言葉の意味に、優矢はつい言葉を失ってしまった。少し俯いている葵
は自分の方を向かない。優矢は聞こえないように、深呼吸した。
「‥‥散らかってますよ? 掃除もせずに飛びだしてきたから」
「まったく伸吾の部屋もそうだけど、どうして男の人ってあれで平気なのかな。
‥‥片づける人の事も、考えて欲しいわ」
「やっぱり男は勝てませんね。永久に女性には‥‥」
優矢は葵の前に手を差し出した。見上げた葵に微笑んで、呟く。
「僕の部屋に来てくれませんか。これからもずっと‥‥」
葵は優矢の手を取った。故郷の夜空は澄み渡り、満天の星空が遠くまで広がっ
ている。輝くそれらの星々は、二人の頭上でいつまでも煌めいていた。
”Dr.カウラー、評議会が、研究室にアクセスを始めました‥‥”
”流石に断線の時間が長すぎたわね‥‥。ゲートを破られるのも、時間の問題か”
”あの、Dr.カウラー‥‥。「パーソナル統合計画」って、何ですか?”
”レミは知らなかったかな。劣化の始まった私達のI反応を補うために、完全な
ひとつのパーソナルに統一してしまおうという計画よ。全ての人々が同じパーソ
ナルを持つようになるの。全ての人々が‥‥”
”‥‥同じ事を、考えるようになる‥‥”
”ぞっとしないわね。でも仕方ない事よ。評議会の連中は「もっとも尊い魂」に
バグがあったなんて認めたくないから私達のチームを作ったの。それで急場をし
のごうとしたけど失敗に終わった。もう手は無いわ‥‥。「B反応からI反応が
生まれる」事なんか、絶対に認めないだろうしね”
”認めさせることは出来ないんですか?”
”無理ね。だって彼らが滅ぼしたんだから。それで私達は体を捨てた。他人を恨
むこともなく、憎むこともなく、悲しみに涙する事もなくなった。全ての苦しみ
から解放された私達は「自分達は人間を超えたのだ」と思ったけれど、でも私達
ではあんな小さな獣にも、もう勝てなくなってしまったのよ。後戻りするには遅
すぎるわ”
”そんな‥‥‥”
”あの獣は、本当は全てを生み出す「力」なのかも知れないわね。私達はその負
の力だけを恐れて心から取り除いてしまったけど、でもそれで争いが消え、悲し
みの消えたこの世界は、本当はただ「終わった」だけなんじゃないのかしら。気
付いていないのは私達だけなのかも‥‥”
”‥‥‥‥”
"ねえレミ、残りのマリオン、回収は終わってたわね?”
”え? M-AI022とM- AI035ですか? はい‥‥”
”人間の心って、居心地はいいのかしら?”
”! まさか‥‥!”
”貴方についてこいとは言わないわ。ただ私は自分の記憶がマリオンの中にどん
な「心」を産むのか、興味があるだけよ。幸い「向こう」には知り合いも出来た
しね。やっかいになるのも悪くないわ”
”でも、それではドクターのパーソナルが‥‥‥!”
”終わった世界に未練はないわ。私達は今、やり直せる過去にいけるのよ?”
”‥‥‥分かりました”
‥‥それは巨大なクリスタルの中に生まれた、ひとつの小さなノイズだった。
全ての意識が溶け合い、融合するその「世界」の中で、それはやがて消えてゆく。
死すらも超えた永遠の世界。あらゆる苦痛から解放された魂の空間。あらゆる
快楽、あらゆる幸福が誰にでも平等に与えられる、それは永遠の楽園‥‥‥。
吹きすさぶ風に晒されたクリスタルの周りで‥‥。動くものは、何もいなかっ
た。
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