第四夜「マリオンのつぶやき」
「起きろってのが、わからんのか貴様ー!!」
という「鈴のように美しい声音の」罵声に、葵はもう少しで持っていた包丁を
放り投げてしまう所だった。ばっ!と振り返ったその先には伸吾の部屋があり、
時計はすでに朝の9時を回っている。顔中に冷汗が流れ始めた葵の前で部屋の扉
が静かに開くと、初めに顔を出したのは弟の伸吾だった。
「‥‥‥お、おはよっ」
という葵の挨拶に、
「おはよう」
という不機嫌めいっぱいの口調で応えた彼の後ろから、マリオン、そして河田
優矢が顔を出す。ずれた眼鏡を直しつつ、河田は葵に視線を向けた。真っ赤にな
って視線をそらした葵にちらと一瞥をくれてから、伸吾は河田に紹介した。
「そんなわけで、これがうちの姉です」
不意に笑い出した河田の前で小さくなりながら、葵はマリオンに訴えるような
視線を送る。葵の「起きないときの起こし方」を忠実に守ったマリオンは、しか
し「?」という表情で葵を見つめ返していた。
「いやあ、びっくりしましたよ。不意に何をするかと思ったら‥‥」
「ご、ごめんなさい‥‥! ‥‥駄目じゃないのマリオンちゃん、ちゃんと相手
を選ばなきゃ‥‥!」
「俺ならいいのか、おい」
「うっさい! あんただったら爆竹で起こしても問題無いわよ!」
随分差のある態度に憤慨やるせないといった顔で、伸吾はマーガリンを塗った
トーストにかじり付いた。朝食は昨夜のようにリビングの床上で取っていた4人
だったが、朝食には昨日とは違いサラダが追加されている。材料は昨日も冷蔵庫
にあったはずで、心なしか目玉焼きの形も整っているような気がするのは気のせ
いだろうか‥‥などと思案している目の前で、トーストをかじっていたマリオン
が不意に葵の方を向いた。
「伸吾さんにしか、あのようにしてはいけないんですか?」
「‥‥え?」
「俺じゃなくたって、本当はしちゃいけないの!!」
「してはいけないことなんですか?」
「僕は構わないけどね。葵さんにして貰えるなら」
「河田さんあんた‥‥。よくそう言うおのろけがへーぜんと言えますね」
「葵さんを追いかけて来た帝都大卒のエリートだよ? プライドなんか、とうの
昔に捨ててるよ」
「知りませんよ? 結婚してから後悔しても」
「ちょっと二人で勝手に話を進めないでよぉ! まだ‥‥‥!!」
顔を赤らめて抗議した葵だったが、続く「‥‥OKした訳じゃないんだし」と
いう一言はなぜか恥ずかしくて言えなかった。おちつかなげにコーヒーカップを
弄んだあと、自分の方をじっと見ているマリオンに向き直る。葵はまたため息を
ついた。
「‥‥解らない?」
「はい」
「あとで教えてあげるから、今はトースト食べちゃいなさい」
「はい」
東京都内にある「リッチアイランド」はそう大きな遊園地ではないが、伸吾の
アパートから比較的近い事と入園料がそれなりに安い事、そして内部に小規模な
動物園を持っている事で彼らの選択対象になった娯楽施設だった。みんなで遊び
に行かないか、そう提案したのは河田であったが、葵にとってもマリオンがいる
とはいえ、狭い部屋のなかで河田といっしょというのは流石に抵抗がある。伸吾
には午後から大学の講義が有るはずで当初はキャンセルする予定だったのだが、
葵に言われた一言で、彼は考えを改めた‥‥いや、改めざるを得なかった。
「ついてこないならまた押し掛けるぞ?」
‥‥そんなわけで。
「リッチアイランド」の入園口であるピエロをかたどったアーチをくぐり抜け
た葵は、マリオンを引きながら辺りをきょろきょろと見回していた。周囲には来
客が行き交いそれなりににぎやかである。高校を卒業して直ぐに地元で就職して
しまった葵にとって、こういう場所はあまりなじみがないのだ。少し遅れてやっ
てきた河田はそんな葵の様子に優しい笑みを浮かべてから、ふと伸吾の方を向い
た。含みのある顔をしながら、彼は伸吾の肩に手を置いた。

「伸吾君、君を話の分かる男と見込んで、ひとつ相談が有るんだけどね」
「‥‥河田さん、あんたもしかしてセコイ事考えてませんか?」
「理解が早くて結構‥‥。だがセコイとは失礼な。せめて常套手段と言ってくれ
よ‥‥。それに君だって、マリオン君の事がまだ終わってないだろ?」
「‥‥‥何が言いたいんです」
声のトーンが変化する。笑っているようでそうではない河田の瞳は、ただ自分
をじっと見つめていた。
「君が昨日の夜言ったことが本当なら、彼女はずうっとあのままさ。ストイック
と言えば聞こえはいいが、単に君、他人を避けてるだけなんじゃないのかい?」
平日とはいえ施設内には楽しげな音楽が流れ続け、来訪した客達が彼らの周り
を行き交う。だが何もかもが止まったような錯覚の中で、伸吾はようやく言葉を
吐いた。
「‥‥悪い事ですか、それが」
「良くないって思ってるからそんな言い方になる。脆弱な自分の心を隠して虚勢
を張って、達観したそぶりをしながらそのじつ何かを求めてる。そんな弱さを悟
られまいと人を避け‥‥違うかい?」
「利いた風なことを言わないでくださいよ! 逃げた女を追いかけてきたなんて
人が!」
先を行く葵達には多分聞こえない声で、伸吾は河田の手を振り払った。伸吾が
睨み付けた年上の青年は、だが逆に伸吾を見つめ返す。目をそらしたのは伸吾の
方だった。
「僕は間違っていないつもりだよ。それにプライドってのはね、自分の弱さの裏
返しでもある‥‥。くだらないプライドのせいで彼女を逃したら一生後悔すると
思ったし、そんなことをしたら自分が『弱い』って認めてるようなものじゃない
か。僕は自分が「弱い」なんて、認めたくないんだよ」
「‥‥自信家ですね。河田さんの考えはそんなに正しいんですか」
「それは返答を用意してから言う台詞だよ。そうでなければ負け犬の遠吠えにも
劣る」
「‥‥‥!」
「‥‥ま、そんなわけでマリオン君は任せた。あのジェットコースターの辺で分
かれるってので、どうだい?」
「‥‥ご自由に。後で後悔しても知りませんけどね」
「ご忠告、痛み入るよ」
河田は笑いながら葵達の方に歩いていった。コースターの向こうに見える観覧
車を指さしながら葵に話しかけ、伸吾を呼んでから葵と共に歩き出す。1人ぽつ
んと立っているマリオンはじっと伸吾の方を見つめていた。歩み寄りながら、伸
吾は昨日の夜、自分が河田に返した言葉を思い出した。
『‥‥別に、何かを求めてる訳じゃありませんよ』
それが嘘であることくらい、伸吾が一番よく解っている。自分が求めている
「何か」を彼女に求める事が‥‥。なぜかひどく、怖いのだ。
「‥‥あ、あああれ? あの、‥‥伸吾は?」
「おや? さっきまで後ろにいたと思ったのに‥‥‥ああ、あんな所に」
「あー! こ、こら伸吾!! どうしてコースターなんかにのってんのよ!?
ちょっと‥‥マリオンちゃんも一緒?! 何考えてんのー!!」
「若いねえ彼は‥‥。ああほら、ゴンドラが来ましたよ、乗りましょう」
「え? あ、きゃっ?!」
すっと引き込まれた葵の目の前で、ゴンドラの扉がロックのかかる音と共に閉
じてしまう。定員に2名ほど足りない乗客を乗せ、ゴンドラはそのまま観覧車と
共に動いていった。ゴンドラを閉めた年輩の係員に河田が頭を下げると、彼は笑
いながら、Vサインで応えた。
名物という程ではないが、「リッチアイランド」のジェットコースターもそれ
なりのスリルはあり、伸吾も恥ずかしながら「怖い」と思わないわけではなかっ
た。コースターがホームに入りロックが固定されると、アブソーバーが自動的に
上がって降りられるようになる。ほっとしながら、伸吾は隣のマリオンに顔を向
けた。彼女はあまり表情が変わっておらず、特に怖いと思っている様子もなかっ
た。伸吾はなぜか少し、寂しかった。
「降りるよ?」
「はい」
そう応えてから立ち上がろうとしたマリオンだったが、不意にバランスを崩し
て転びそうになる。慌てて手を添えた伸吾だったが、彼女に触れてみて、はっと
した。
‥‥震えているのだ。
「‥‥怖かったの?」
「怖いって、何ですか?」
口調は全く、怖がっているようには思えなかった。
「君が、身の危険を感じたかって事だよ」
「‥‥‥‥」
返答はしかし、無かった。それは伸吾がため息をついた、その瞬間だった。
マリオンの瞳が、不意に潤みだしたのだ。涙が大きな滴となって頬を流れ、地
面にぽたぽた落ちてゆく。伸吾は彼女の手を引いて、人気の少ない場所を探した。
涙はまだ流れ続けている‥‥‥。立ち止まったその場所で、伸吾はマリオンを抱
き寄せた。
「‥‥ごめん」
マリオンの表情は変わらない。流れ続ける涙が伸吾の胸をぬらしている。抱き
しめた彼女は暖かく、そしていい匂いがした。胸の鼓動が早くなるのを感じなが
ら、「アニマルランド」と書かれた看板の横で、彼はしばらくマリオンを抱いた
まま、じっと何かを考えていた。河田の言葉が脳裏を横切る。
『君は彼女に、何を求める?』
解っていたのだ。自分は彼女にずっと「何か」を求めていたのだ。ただ、それ
を認めるのが怖かった‥‥。自分の心が、彼女に何かを求めるその心が、あまり
にもグロテスクだったと言うことを、伸吾は認めたくなかっただけなのだ。
”‥‥来た! 伸吾君のI反応です! 継続中!!”
”やっとか‥‥。どう? 規定値を満たしてる?”
”まだ微弱ですね‥‥。レコード出来るほどくっきりした波形では有りません”
”‥‥まあ、大丈夫ねこれで。後は放っておいてもコネクションまで持ち込む
だろうし‥‥”
”‥‥え?”
”どうしたの?”
”M-AI043に‥‥、今、B反応らしきパルスが‥‥!”
”B反応‥‥って、マリオンに?! まさか!”
”消えました‥‥。今‥‥”
”ちょっと‥‥”
「‥‥んっ‥‥」
河田の唇がゆっくりと離れた瞬間、こわばっていた葵の全身から、まるで栓を
抜いたかのように力が抜けていった。狭いゴンドラの中で寄り添う優矢の腕に抱
かれながら、自分だけをじっと見つめる彼の瞳は眼鏡の向こうで知的に輝いてい
る。それは突然だった。唇は今奪われたのだ‥‥。何かと一緒に。
「‥‥強引、なんですね。普段はあんなに優しいのに‥‥」
「そう演じているだけですよ。それに正体はね、盗賊なんです」
「‥‥馬鹿」
薄く笑いながら、優矢は再び唇を寄せた。ふれあう思いに応えるように、葵は
差し伸べた両腕を、優矢の首に巻き付けた。どうしてあんなに怯えていたのか、
今はもう、解らなかった。
「‥‥落ち着いた?」
ようやく涙の止まったマリオンを離しながら、伸吾はマリオンの顔を見つめた。
姉の葵が「身だしなみだ!」と押しつけたハンカチを取り出して涙を拭いてやる
が、表情は全く変わらなかった。彼女は多分自分が「笑え」と言えば笑うだろう
し、「服を脱げ」と言えばこの場であっても脱ぐのだろう。どんなことでも思い
のままだ。彼女はそう言う存在なのだ。夢の連中に怖いという感情すら表に出さ
ないようにされた‥‥、人形なのだ。
「‥‥いいよ、もう」
伸吾は少し微笑んだ。後ろの檻の中で、何かの動物が鳴いている声が聞こえた。
マリオンは何の表情もなく、ただ自分を見つめている‥‥。結局自分には、彼女
を救う事など出来なかったのだ。マリオンを見つめ、伸吾は小さく呟いた。それ
は何か吹っ切れたような、そんな話し方だった。
「これからは、マリオンが自分で望むことをしたらいいよ。怖いなら逃げればい
いし、食べたいなら食べればいい。嫌なことなら、しなくてもいいんだよ?」
「嫌なことって、どういう事ですか?」
マリオンの表情は‥‥、変わらなかった。マリオンは従わなくてはならないの
だ。伸吾の言うことにはどんなことでも。伸吾は笑った。乾いた笑い方だった。
「‥‥さっき君が泣いたのはさ、君自身が『怖い』と思ったからなんだよ。そう
言うのが嫌な感情‥‥。他にも解るんだろ? 『思う』って事は」
「はい」
「それなら君は、それに従うんだ。君が、自分で望むことをするんだよ。君は本
当は、‥‥自由なんだからさ」
マリオンは伸吾を、じっと見つめていた。伸吾もまた、マリオンを見つめてい
た。やがて洩らしたマリオンのつぶやきに、伸吾はただ、微笑んでいた。
「自分が、望むこと‥‥」
「俺の言うことなんかさ‥‥。もう、従わなくていいんだよ。誰の言うことにも、
君は従わなくていいんだ。ただ、君が思うとおりに、生きればいいんだよ」
伸吾の後ろで、霊長類らしい動物が突然鳴き声をあげていた。食べ物の奪い合
いが始まった檻の外で、マリオンは静かに、顔を上げた。
「はい」
マリオンは不意に、後ろを振り向いた。小走りで駈けてゆくその先には売店が
建ち並び、人々が食事をしているその中へと、マリオンは入っていった。追いか
けた伸吾がそこで見たものは、小さな小学生の食べていたお好み焼きを奪い取っ
て手づかみで食べている、それは嬉しそうなマリオンの姿だった。