まえがき


  ラメルハートとマクレランドら(Rumelhart, McClelland, and the PDP Research Group)による革命的な2冊組の大著『並列分散処理論
(Parallel Distributed Processing)』(The MIT Press, 1986)が出版されてから今年でちょうど10年が経った。ラメルハートらがこの本の中で提唱した「並列分散処理」という考え方は、当時行き詰まりに陥っていた伝統的な人工知能研究の壁を打ち破る突破口となるものであった。ラメルハートらが提唱したアプローチは、「PDPモデル」や「コネクショニズム」、「ニューラルネット(神経回路網)」などという別々の名前で呼ばれてきているが、基本的には同じ考え方に基づくもので、1980年代以降爆発的に研究が行われるようになった。
 日本でもこの本に対する評価は高く、500頁を越える大著2冊組でありながら、原著出版後わずか3年後の1989年には、甘利俊一東大工学部教授らによって翻訳出版された。日本語版は書名を『PDPモデル:認知科学とニューロン回路網の探索』とされ、原著の全26章の中から11章分を選んで訳出し1冊にまとめたものであった。大著2冊組の原書にはとても手が出ないという人や、原書を読む前に一通り内容を見ておきたいと考える人にとって、この翻訳書はまさにPDPモデルの世界への入口であったはずである。(筆者自身も、PDPモデルを勉強しようとしたときに初めに手にした本はこれであった。)
 しかし、この翻訳書は難解であった。おそらく多くの人がこの本を手にし、「PDPモデルは難しい」と考えてしまったにちがいない。しかし、その難解さのほとんどは、訳文のまずさによるものである。残念なことに、導入部にあたる第1章から第4章が特にひどい。「PDPモデルは数式がたくさん出てきて難しい」とよく言われるが、ほとんどの読者は数式が出てくる前に挫折していた可能性の方がずっと高い。じつは、原書は(英語であることを別にすれば)けっして難しくない。翻訳書は、原書になかなか手が届かない初学者への道案内となるべきはずのものであるが、この翻訳書では不幸にも、原書への道をふさぐ障害物になってしまったとしかいいようがない。(労力ばかりがかかって正当に評価されにくく、うまく訳せて当たり前、ちょっとでも誤訳があると非難されるという割に合わない仕事をご担当下さった翻訳者の方々には、こんな言い方をして大変申し訳なく思う。いち早く原書の重要性を看破し、これだけの大著を短期間で翻訳したことには深く敬意を表したい。)
 それでも、理科系の人には麻生英樹氏による『ニューラルネットワーク情報処理』(1988)という別の大変優れた入門書があったために、『PDPモデル』の入口が塞がれても、そっちから入って原書にたどりつく道があった。(ちなみに、『PDPモデル』でも麻生氏が担当した第8章の訳文は完璧である。)しかし、文科系の読者(日本のほとんどの心理学者も文科系)にとっては、第1章から数式がバンバン出てくるこの本も、PDPモデルへの入口となるには敷居が高すぎたと思われる。
  そこで、本書は文科系の読者にとってのPDPモデルへの入口を提供することを目標として書いた。といっても、理科系の人への入口を提供した麻生氏の向こうを張ろうというわけではない。私にはとてもかなうはずがない。にもかかわらず、こうした本を書くことにしたのは、誰かが入口を作らなければ、この素晴らしい世界が心理学者(やその他の文科系の研究者)とは隔絶されたままになってしまうと思ったからである。それでも、本を書こうとするからには、麻生氏に少しでも追いつけるようにもっと勉強すればいいのかもしれないが、もうすでに40代半ばの私の勉強は遅々として進まない。このままではいつになったら本が書けるかわからない。そして、もうまもなくPDPの原書が出てから10年目の1996年である。なんとか10年遅れででも、新しい世界への入口を作っておきたい。「見切り発車」である。
 実は、自分の非力を省みず、こうした本を書くことにした理由がもう一つある。それは、まさにPDPモデルを勉強していて気づいたことであった。一般に、入門書を書くような人は、その分野のすべてに精通していなければならないとされている。研究論文ならば、ある一部分についての知識があれば書けるかも知れない。しかし、入門書は、いわばその分野全体の精巧な模型のようなものであるから、その分野全体にわたって幅広く正確に知っている必要がある。最高の入門書はノーベル賞受賞者によってこそ書かれるべきである、というわけである。現に、『ファインマン物理学』などの定評のある教科書もある。この考え方に従えば、私は、この分野のすべてに精通などしてないから、とても入門書など書けない。
 こうした考えは「すべての操作は結局一番トップに君臨する1つのCPU(中央処理ユニット:パソコンの分野ではインテル社のペンティアムというCPUが有名)によってなされる」という、コンピュータをモデルにした従来の記号処理モデルによく似ている。一極集中・中央集権・独裁型である。極端に言えば、きわめて優れたCPUが一つあれば、他は単に情報を出し入れするだけのメモリチップでよい。実は、PDPモデルはこうしたコンピュータ比喩モデルを否定するものである。PDPモデルは、コンピュータではなく、脳をモデルにしている。そこでは、すべての構成素(ユニット)が少しずつ処理を分担し、それぞれのユニットの能力はほぼ同等である。CPUとメモリの区別もない。個々のユニットは自分の近くのユニットとだけ情報をやりとりするだけで、全体としてどのようなことがなされているかは「知らない」。それぞれのユニットが少しずつ仕事を分担しながら、しかも全体のことなど考えずに、各自勝手に働きながら、全体としては意味のある知的なシステムとして働いているのである。PDPのモデルとなっている我々の脳もこのようにして我々の知性を生み出しており、その全体を把握しているような「CPU」をもっているわけではない。
 私もその全体を把握するような「CPU」にはなれないが、ユニットの一つとして、周りの人たちに自分の知っていることを伝えることくらいならできる。数十人に対してなら、講義としてもう既にやっている。本を書くのはそれをせいぜい数百人か、多くても数千人程度に広げるだけである。多少の間違いがあったとしても、同じようなことをする人が増えてくれば、徐々に修正もされるはずである。少なくとも、入口に大きな岩があって誰も入れないよりはマシだろう。こう考えたのが、本書を書くことにした第2の理由である。
【この本の特色】ユニットの擬人化による説明
 というわけで、多分に見切り発車的にこの本を書くことにした。そこで、この本は、はじめから間違いを恐れずに分かりやすさ最優先で書くことにもした。「間違ったことは書かれていないが、何が書かれているか分からない」という本ではなく、「書いてあることはどうもアヤシイが、よくわかる」という本を目指すことにしたわけである。(だからといって、「間違いをいちいち指摘してくるな」と開き直っているわけではない。「たとえ初学者に対してでも、ここまで間違って説明したのではかえって逆効果だ」というようなことがあれば、ぜひどしどし指摘してきていただきたい。)
 分かりやすさを優先させるために、本書では「ユニットの擬人化による説明」という方針をとることにする。ユニットというのは、PDPモデルにおける個々の処理単位で神経系における神経細胞に相当するものである。後に詳しく述べるように、個々のユニットが行う操作はきわめて単純なものであり、それ自体はいかなる「知性」ももたない。しかし、そうしたユニットがたくさん集まってネットワークを作るとネットワーク全体として「知性」が生じてくるというのがPDPモデルの核心である。言い替えれば、「知性」が「知性」のないものから生まれてくることこそが大事なのである。それなのに、個々のユニットをそれ自身が「知性」をもった人間化して考えてしまうと、「知性」の原因を別の「知性」によって説明するという例のホモンクルスの誤り(頭の中に「こびとさん(=ホモンクルス)」がいて、見たり、聞いたり、考えたりしているという説明)につながりかねない。そこで、厳密さを信条とする本であれば、個々のユニットはできるだけ「知性」を感じさせない機械的なスイッチのようなものとして表現するのであるが、わかりやすさを考えればなんといっても擬人化するのが一番である。
 そこで、本書では、個々のユニットが「計算」したり「判断」したりするほか、「シマッタと思ったり」「連絡がないがどうしたんだといぶかったり」までする。さらには、読者自身にも個々のユニットになってみることを積極的に勧める。数段落ほど前にも書いたように、私自身も、ユニットの一つになって「本を書いたり」までしている。そこでも書いたとおり、私は「周りの人たちに自分の知っていることを伝えること」を仕事にしているわけであるが、日常の社会生活の中では、まさにすべての人が知っていることを伝えあっているのである。こうした観点から見れば、PDPモデルと人間社会との類似点も明らかになってくるだろう。(1995年以降日本でも爆発的なブームとなったWWW(world wide web)ともよく似ている。)実は、工学部の同僚などに教えをいただきにいくと、擬人的な表現が結構出てくる。おそらく理科系の人も、擬人化して理解しているらしいのである。ただ、彼らはそうしたことを文章にまではしないだけなのだろう。
 最後に、こんなとんでもない本を出版することに賛同して下さった新曜社の塩浦あきら氏に感謝の意を表したい。また、草稿の段階で同僚の小松伸一氏からはいろいろなコメントをいただいた。毎日いっしょに昼食を食べながらの雑談から示唆を受けた部分も多い。小松氏のような専門的な見地からではないが、仮想的な読者の代表として原稿のわかりにくいところを徹底的に批判してくれた「私のB脳」である妻の秀子にも感謝したい。
平成8年3月吉日                     守 一雄
【 www版掲載1996/3/13】
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