【書評】

 守一雄「認知心理学」岩波書店


無藤 隆(お茶の水女子大学生活科学部)

         
 本書は、認知心理学の入門書である。そんな本はいくらでもあるではないか、何で今 更紹介するのだと思うかもしれない。そうではないのである。画期的なテキストであり 、しかも、認知心理学・認知科学として極めて正統的な形なのである。「一般に心理学 の特徴とされる実験研究についての記述を思い切って減らして、認知心理学の特徴であ る理論的なモデルを紹介することに重点を」置き、「代表的な包括的モデルを紹介」し ているのである。

 第1章は「認知心理学の成り立ち」、第2章は「認知心理学の方法」であるが、それ 以降では、第3章「記憶のモデル」では、アンダーソンのACT*、第4章「心的イメ ージ」では、コスリンの視覚バッファ、第5章「言語の理解」では、シャンクのCD理論と スクリプト、第6章「学習と思考」では、ニューウェルのSOAR、第7章では「新た なアプローチ」として、コネクショニズム・PDPが紹介されている。各々古典的なモ デルであるが、確かにかなりの包括性を持った野心的なものであった。また、そのモデ ルに実現された「思想」が認知心理学・認知科学を決定的に進歩させてきたものである 。この本でこれらのモデルを取り上げ、実に分かりやすく、その要点と意義を説明して いる。これらのモデルが「個々の現象に共通するような人間の認知の特徴について総合 的な視野を与えてくれる」ことを鮮明にした、モデルの選択であり、説明であるだろう 。(「インダクション」については翻訳もあることであり、コラムで簡潔に説明してい る。「アフォーダンス」もコラムで触れている。)

 本文を補うものとしてコラムが活用されている。その上、各章毎に、まとめ、キーワ ード、演習問題が付けられ、学生の自習用に活用できる。まとめによると、ACT*モ デルはこうなっている。「記憶を含む認知についての包括的モデルであるACT*モデルは 、Lispでプログラムが書かれたコンピュータ・シミュレーション・モデルである。AC T*モデルは、作業記憶部門・宣言的記憶部門・プロダクション記憶部門の3部門から 成り立っている。ACT*モデルでは、知識は命題ネットワークによって表象されてい る。」これでは不十分だと当然誰しも思うだろうが、そうお思いなら、3行でまとめを書いてみる とよい。これがいかに簡潔なまとめになっているかが分かる。

 認知心理学の入門ないし概説としてどのような形を取るべきかはいろいろな考え方が あろう。確かに私なども実験の方法やその結果の面白さについて、多少この本で触れて いるものの、実に多様なその世界に立ち入っていないことは物足りない。だが、それは 、一定の紙幅の本として何を優先するかの問題であり、また日本の出版物の現状におい て何を新たな本として付け加えるべきかの判断である。さらにおそらく著者の意図とし て大切なのは、日本の認知心理学においてモデル的なとりわけ包括的なモデル構築への 志向が足りないという評価であり、それを是正するものとしてのテキストの必要性なの である。そして、その著者の判断はおそらく正当なものである。認知科学全体はともあ れ、多くの心理学者は実験的な成果を出すことに汲々としているし、それを自らの役割 として自己規制しているように見える。それは半ば正しいにしても、モデルの開発・発 展と離れてしまったり、よそのモデルに無理にこじつけるのでは、本来意図された認知 心理学にはならないのである。

 この著者の守氏は、人工言語の習得研究で最も知られていると思うが、同時に、その熱心 な大学教師としての実践も有名である。その研究者と教育者の結合の幸せな子どもがこ の本であるように思える。本当は相当に難しいはずの事柄が実に分かりやすく語られて いる。ACT*モデルの説明が、命題ネットワークやプライミングの解説を含め、12 ページほどでなされている。もちろん、まさに概略に過ぎないのであるが、そのモデルの全体の 枠組みや何を行おうとしているかなどがそれで分かる。具体的な表現やその動きも簡単 に例示されている。多分、学部の2年生程度でも十分に理解できるだろうと思う。その 上、足りない点を補うべく、「読書案内」も詳しく、全部で62冊挙げられ、各々に簡 単なコメントが付けられている。それをガイドにして、広大な認知科学のフィールドに 学生は乗り出して行けるに違いない。

 守氏は、「さらに勉強するために」というガイドの箇所で、「心理学者がいつまでも 実験だけにしがみついていればよいという時代はもう終わった」、実験認知心理学に対 して、「理論認知心理学」を進めるべきだと檄を飛ばしている。おそらく、この本から 出発した若い人々から多くの理論認知心理学者が生まれてくるに違いないのである。

 終わりに、個人的な感想になるが、今や二十年以前、私が学部生から大学院生の頃、 本書でも引用されている、ナイサー、ノーマン、キンチ、リンゼイ・ノーマン、アンダ ーソン(これはもう少し後かもしれない)などの概説書・入門書を興奮して読んだこと を思いだした。あるいは、アンダーソン・バウアー、タルヴィング・ドナルドソン、ノ ーマン・ラメルハート、シャンク・エイベルソン、等等の研究書・論文集を読んだとき の苦労や驚きも思い出す。心理学の世界ががらっと変わっていったのである。今、本書 を読むであろう若い学生諸君が、そのような新鮮な驚きと興奮を持ってくれればと願い 、本書であれば、それを可能にしてくれるのかもしれないと思ったのである。


『認知科学』(日本認知科学会編集:共立出版)第2巻第3号95-96頁所載
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