古い「日々雑録(ひびざつろく)」                  にえきらない思考の断片

 11月29日
 連休二日目。つくづく休みのありがたさをしみじみ感ずる。それはなぜかって、ゆっくり本が読めるからだ。
 「時間がなくて…」はただのいいわけにしかならないことはわかっているのだけれど、平日には、どうしても腰を落ち着けて本を読むことができないのだ。まあ、かといって授業の準備に余念がないのかといえば、実はそうではないのだが。
 先日も、2年生のNさんが遠慮がちだが、私の目を見据えてこういった。
 
 「先生、ちょっと授業中にしゃべりすぎだと思う。あんなに一度にしゃべられても頭になんか入らない。それに、一部の人たち
  とのやりとりだけで授業が進んでいて、あれじゃあ、他の人たちは『お客さん』って感じになってると思う…」

 そのとおり、なのだ。彼女のこの批判には、私の反論の余地は残されてはいない。
 「静かに聴いていてくれる」「時に見せる知的なおもしろさへの興味関心」といったことにあぐらをかいていて、こどもたちがうんうん唸って考えたり、仲間と話し合う中で多くのことを学びあうという授業を、「ずく」を出して創り出そうという気概に欠けていたように思う。
 Nさんの批判は痛かった。しかし、なぜ痛いと感じたかといえば、とりもなおさずそれは私自身が自分自身の怠慢を自覚しながら、「テスト範囲があるからなあ…」といったもとは自分の無計画性に由来することがらを理由にして、「いい授業」の創造に取り組んでいなかったからに他ならない。
 いってくれているうちが華―これは肝に銘じないといけないと思う。

 さて、読書の話しを少々。今日、いっきに読み終えた本がある。
 山室恭子氏の『黄門さまと犬公方』(文藝新書)である。いやはや、これは本当におもしろい。久々におもしろかった。
 歴史学のおもしろさの核心とでもいうべき「史料批判」を駆使しての、常識崩しの連続なのである。
 「名君水戸光圀」VS「迷君徳川綱吉」という対比の図式=世間の常識を、「よくぞまあ、ここまで膨大な量の史料に向き合ったなあ」と、ただただ感心するばかりの手法で、でも実に論理的かつ精緻にひとつひとつの覆していくのである。明かに山室氏本人も楽しんでいるとしか思えない調子で、254ページが無理なくさらさらと流れていくのである。この本は、格好の歴史学入門の一書となると思う。特に、歴史学を志そうとしている高校生や大学生などには、もってこいのテキストになるだろう。
 そう考えるのにはわけがある。この本、その内容もさることながら、その文体がこれまた破格なのである。明かに、歴史学関係の新書や啓蒙書のたぐいにありがちな、ごちごちの文体がいっさい使われていないのである。ひとことでいえば、口語的文語(くだけたしゃべりことば的な文書用のことば―うーん、うまく表現できない)とでもいうのだろうか。ともかく、実は複雑でかなり入り組んだ事情を説明しているんだけど、なぜかするすると頭の中に入ってきてしまう、そんな文体なのだ。
 本書で扱われている内容は、江戸時代初期〜中期の幕藩体制の確立期における政治史上の重要事ばかりである。「生類憐れみの令」「将軍家と御三家の関係」「将軍継嗣問題」「正徳の治」…などなど、それひとつだけとってみても、一書がなるほどのことがらばかりである。しかし、本書は一読して難解さを微塵も感じさせない。それは、山室氏のみごとな文章構成の論理性の高さゆえでもあろうが、何よりも使われている文体の益するところ大であると私は思うのだが、いかがなものだろうか。
 山室氏は続いて、徳川吉宗についても一書をなすつもりであるという。「米将軍」像はいかにして切り崩されるのか?楽しみな限りである。

 こういう創造的な営みに学ばないとなあ。ああ、またも憂鬱になってきた。
 一週間がまた始まる。


 

11月25日
 佐久高原にも本格的な冬がやってきた。我らが霊峰浅間山も、すっかり雪の厚化粧をなすった。これが、なかなかどうして美しかったりする。北アルプスの絶景を十数年見て育った私にも、この景色は引けを取らぬものと映る。朝の冷え込みも、ますます厳しくなるであろうが、その冷え込みが厳しければ厳しいほど、冴え渡った浅間の勇姿が拝めるのであろう。

 さてこんな厳寒の中、勤務校では生徒会の引継ぎの時期を迎えている。昨日は、正副会長の立会演説会と選挙が行なわれた。それぞれの候補者は、おそらく前の晩は演説原稿を何度も読み直し、なるべくなら暗記して演説せよ、という担任の先生のことばを忠実に受けとめて、きっと何度も練習したに違いない。そういった努力がしのばれる、とっても真摯さの感じられる演説であった。
 しかし、である。そういった努力や思いの結晶たる演説を聴くことのできない生徒が、少なからずいたのである。
 本当に不愉快であった。その生徒が1年生ならいざ知らず、いい年をした3年生なのであるから、なおのこと不愉快だった。あまりにも不愉快だったので、夕べは何にもする気がしなかったし、ずっといらいらしていた。
 彼らはこれから「主権者」となっていくはずの人たちである。
 そう、話しを聴かないという行為が、何らかの意志にもとづくものであるのなら、それは「主権者」として資質が十二分に育っているということの証にもなるだろう。しかし彼らは違うのである。50分間、演壇にいて主張をしている人の話を、じっと聴くことが「ただ単にできない」のである。

 集中力が持続しないだけなのである。
 ただ「我慢ができない」のである。
 ただの「わがまま」なのである。

 これは、本当にゆゆしいことだと思う。そう、民主主義の基本的な精神であり態度でもある、異質な他者の主張を、とにかくまずは聴く、という行為そのものができないのである。その理由というのが、「つまんなくて、我慢できねえから」なのである。
 「ちゃんと主張を聴いて投票してやることが、3年生としての君たちの最後の仕事だし、後輩への礼儀だぞ」
 という私のことばは、ちっとも彼らのこころには落ちなかったようである。「ことばの通じない」ことの空しさ、悲しさをこころの底から感じた。

 それにしても、「体だけ大人になりつつある、幼子たち」にどうやって関わればいいのか。
 だだをこねてモノにあたる、という行動パターンは幼児にありがちなものである。
 でも、この行動パターンが中学3年生まで「成長」し「進歩」し続けてしまったことに、本当に危惧を感ずる。
 
 厳しいのは季節の冬ばかりではない。
 彼らの発達にも、「とても厳しい冬」の部分があるのだ。
 私は、どう関わっていくことができるのか。いや、もっと根本的に本当に関わってなんぞいけるのか。
 私の中では、いま「豪雪」が降りだしている。しばらくは止みそうもないようだ。



11月22日
 21、22日の両日、大町市で開催されていた第44回信州社会科教育研究大会に参加した。略称は「信州社研」といい、義務教育関係諸学校の教員をおもな構成員としている。長野県下では最大規模の自主的な教科教育研究団体である。
 社会科が日本の教育課程に初めて現れたのは、1947(昭和22)年の『学習指導要領(試案)』においてである。社会科の「年齢」が51歳であることを考えると、44歳の「信州社研」が日本の社会科教育の歴史の不可欠の要素である、といってもいいすぎにはならないだろう。
 今回の北安曇大会(各地区に支部があり、支部が輪番で大会運営を担当することになっている)の参加者は約300人。参考までに数値をあげれば、1996年に茨城大学教育学部で行なわれた、「日本社会科教育学会・全国社会科教育学会合同大会」の参加者が約600名であった。このことを考えると、参加者の人数という点だけに限っていっても信州社研の大会の規模がご想像頂けるものと思う。
 さて、私は信州社研の会員ではあるが、この研究会の宣伝係でも広報係でもなんでもない。また、信州社研を誹謗中傷するような立場のものでもまったくない。ただの一会員にすぎない。このことをまずお断りしておく。
 以下のことは、その上での発言である。

 私は大学時代にある先生がおっしゃっていたある一言がずっと気にかかっていた。
 「信州社研は、本当に閉鎖的なところがある。全国規模の社会科教育研究団体との交流もないし、長野県の教師の日社学や全社
  学(全国規模の団体のこと)への加入者は本当に少ないし、全国的な教育関係雑誌への投稿も、長野県からはほとんどないのが
  現状だ。」
 学会への教師の加入率や、雑誌への実践記録や論文の投稿数が多ければ、その地域の教育研究が盛んであるといいきれるのかどうかは検討の余地がある問題ではある。しかし、一方でこんな話しも聴いたことがある。それは、教育書出版の大手M図書の雑誌の購入率が、長野県は全国でも終わりのほうから数えたほうが早い数字だというのである。これも、教育書を購入していないことが、イコール教師が教育研究をしていない、という単純な図式を導き出しやすいエピソードであり、注意深く検討しなければならい数字ではある。これらの風評をについて、私は信州社研の常任委員でも評議員でもないので切実感をもって考えることはできない。しかし、少なくとも一会員としては、自分の属している団体についてかかるあまり芳しくない風評が一部にあるということそのものについては、あまり嬉しい気分がするものではないし、きっと、そんな風評をたてられてはたまったもんじゃないと考える人だって多いはずだ。
 でも、全体講師として来られていた澁澤文隆氏(信州大学教育学部助教授・文部省初等中等教育局教科調査官)がお話の中で
 「ぜひ、44年間の蓄積と厚みをもつ信州社研が、全国に向けて研究成果を発信していって頂きたい」
とくり返し述べられていたことは、上記のことと無関係ではないだろう。その点、信州社研は今までの組織や運営のあり方、あるいは研究会の活動目的や研究の方向性といったものを、一般的な評価も視野に入れながら再検証してみる必要はあるのかもしれない。

 信州社研が、「閉鎖的」で「自己満足的」な研究団体なのかどうかは、いまだ会員になったばかりで、しかもろくすっぽ教育研究もしていない私のようなものの判断できることではない。私は社研の会員である前に一教員であり、その一教員としての職責をとにかく全うすることを自らに課さなければならない。だから、私は社研を自らの陶冶のための手段としてしか見ることができないし、それでいいと思っている。でも、さきほども述べたように、大切な研修の場になるであろう信州社研が、件の芳しくない風評を世間からいただくような存在であっては少々困る。ぜひ、開放的で自己満足も他者満足もさせることができる研究団体であってほしいと切に願っている。


11月20日
 不愉快な一日が終わった。
 これから、何十年も続くであろう教員生活の中で、それこそ何度も経験するであろう不愉快な経験のひとつにすぎないであろう、今日一日の不愉快さ。
 でも、これも「かけがえのない不愉快さ」なんであろう。そのことは肯定できる。
 しかし、僕も人間。不愉快なものは不愉快。
 いや、怒り、といってもいいかもしれない。
 「こどものやったことに、そこまで不愉快にならずともいいのに。大人げない…」
 そんな声も聞こえてきそうだが、自分自身の感情を押し殺してまで、人間相手の職業である教員なんかやってられない気もするのだが…違うのだろうか?

 小林よしのり氏にいわせれば今日の雑録は、「個人のつぶやきを意見と勘違いして公の場にタレ流してしまっている」「互いに顔を合わせてだと話せない人たち」(『戦争論』p.101 )の「つぶやき」の「タレ流し」になるのかもしれない。
 しかし、私自身は「意見」と「つぶやき」は峻別して、この雑録上に書いてきているつもりだ。上掲の枠内の文章は、私の「つぶやき」であって、私自身の自己満足・自慰的発語にすぎない。だからこそ、雑録本文の書式とは区別して記載をした。また、私自身は、「意見をタレ流して」いるつもりなど毛頭ないし、ましてや「顔を合わせてだと話せない人」では、断じてない。ここで述べている発言については、独立した一個人として責任を負う覚悟は常にしているし、そういう覚悟ができないことについては、一言たりとも書かないことにしている。
 発言というものは、その発言主体の「分身」みたいなものだと思う。だから、「もう一人の自分自身」のような存在である発言には、常に責任と覚悟をもっていたいものだ。


11月17日
左の詩は、河合隼雄氏の著書『子どもと悪』(岩波書店)の裏表紙に掲げられたものである。作者は谷川俊太郎氏。この詩に出会ったときの衝撃には、ただならぬものがあった。
 
 「いいこだから わたしはわるいこ」

この語義矛盾が、何ともいえない感情を読むものに与える。
 昨日行なわれた、勤務校の読書旬間関連活動である『読書の部屋』で、「自分創り、自分探しのための哲学ごっこ」と題して、モノをつきつめて考えることの難しさとオモシロさについて、こどもたちとともに考えてみた。その時、谷川氏のこの詩を配り、「良いとか悪いとかって、何なんだろうか?」と問いかけてみた。
 『時間』後の感想はさまざまであったが、多くの生徒にとっては「難しい」内容だったようだ。しかし、私はそれで良かったと思っている。むしろ、あの時間に「わけのわからなさ」「難しさ」を感じて、まさにこれから「自分とは何者なのか?」「私はいったい、どこへいこうとしているのか?」といった、自己確立のための営みを始めていってくれればなあ、と思う。
 
 『時間』後、若干の「問題傾向」(このことばも曲者だ)のあるS君に、先の詩のあまりのプリントを何気なく渡した。そのことは、正直、今朝登校してS君が学年室に来て、「あの詩のことなんだけどさあ、一段落目の意味がわかんねえよ、先生」と問いかけてきてくれるまで、忘れていた。結局S君は、今日だけで合計3回も学年室に私をたずねて来た。いずれも、この詩についての自分の思いを告げるために、である。
 
 彼の中で、あの詩が何らかの「発酵」をとげているのだろうか。それとも、一過性の「ひっかかり」をもたらしたのにすぎないのだろうか。「文学」は、人の在りようにどれくらいのインパクトを与え得るのか。そんなことを考えさせられる、一日であった。


11月15日
 読書旬間が勤務校でも行なわれている。
 明日の6時間目には、先生方がそれぞれ担当する『読書の部屋』なる時間が設けられている。さてさて、何をやろうか。
 
 さて、そんなわけで今日は久々の休日。ゆっくりと読書をしようと、「積ん読」状態にある我が蔵書の中から、てっとりばやく読めそうな雑誌を「ブックタワー」(本棚がないため、本のタワーが部屋にの中に何本も「建設」されているのだ)から抜き出してきた。日本中世史家の網野善彦氏が自らの研究生活を回顧的に綴った論文があるため、毎月買うだけ買っていた『中央公論』を読むことにした。「いろいろなことを考えている人がいるんだなあ」という、自らの非思索的生活を露呈してしまうような感想をもちつつ、雑誌をぱらぱらめくっていあたら、ふと目にとまった文章があった。哲学者の今道友信氏が連載されている「一哲学者の歩んだ道」(第二回)であった。「難しそう…」と思いつつ読んでいくと、とても印象的なことが書かれている、中身の濃い(濃すぎて理解できないことも多かったが)文章であった。その文章の中で特に印象に残ったことは、今道氏の師のひとりである哲学者の故出隆氏が、今道氏が卒論で何を研究するか迷っている時にかけてくれたひとこについて述べたくだりである。
 アリストテレスの研究を行うよう出氏に促された今道氏が、「三年間でできるんでしょうか」と小声で尋ねると、出氏はこう答えたというのである。

 「もちろん、でけるとは限らないが、小さな完成よりは、大きな未完成になれ」

 今道氏は、このひとことについて「いまでも本当にいい忠告をいただいたと思っています。『大きな未完成!』、私はそっと紙きれに書いてお守りのようにしました」と述べている。
 
 今道氏は、出氏という優れた師からこのことばをプレゼントされ、生きるための指標のひとつとされた。そして、私は書物を通じて、今道氏からこのことばを「再プレゼント」された。読書の効用とは、まさにこういうことをいうのであろう。
 
 私は、日々のこどもたちとの関わりの中で、こどもたちに「お守りのように」してもらえるようなひとことを「プレゼント」してきただろうか。そして、今後、そうしていくことができるだろうか。そんな人間になり得るような、日々の研鑚をしているだろうか。「忙しい」のひとことを言い訳にして、安きに流れてはいないだろうか。

 読書旬間、心せねばなるまい。



11月14日
 「『自分の追究できる世界を持っていること』、これが信州の教師世界に脈打っていた伝統なんですがね」
 中村一雄先生は、90歳近いお年を感じさせないしっかりとした口調で、しかし気張らず淡々と語られた。中村一雄先生といえば、各都道府県教育史の中でも最大の規模と高い質を持ち、現在もなお高い評価を受けつづけている『長野県教育史』(全48巻)の編纂主任を務められた、教育史研究の重鎮のお一人である。
 先のことばは今日、長野県短期大学で行なわれた長野県近代史研究会秋季研究会後の懇親会の席でのものである。以前、長野県で教員をされていた方にお話をおうかがいする機会があったが、その時も、先の中村先生と同趣旨のことをいわれていたことを思い出す。かつての長野県の学校教育現場には、学校内外での教師の個人的な学問研究を奨励する気風がみなぎっており、そのことと日々の教育実践は不可分のものとして捉えられていたという。つまり、教師個人の学問的な研鑚が教師の人間性や存在感に奥行と深みを与え、それが日々の教育実践活動におのずと反映され、ひいてはこどもたちの成長にも不可欠の働きかけをもたらすはずである、という確信が共有されていた、ということであろう。
 しかし現在、こういう考えを持った教師は教育現場においては疎まれることが多いと聴く。今日の懇親会の席上でも、このことは問題になった。なぜ問題になるかといえば、かつて長野県近代史研究会を担っていた教員会員が激減し、今や会の存続運営も苦しい状況に追いこまれているからだ。このことは何も近代史研究会だけに限ったことではなく、かの信濃史学会においても同様の状況が見られる。『信濃』最新号の編集後記でも、かなり厳しい会の実情が報告されていた。
 だからといって、この事実をもって「教師が以前に比べて学問をしなくなった」と断じ嘆くことは、少々早計にすぎるように思われる。私の勤務校やその他の学校におられる諸先生方は、こどもたちのことに思いを寄せ、日々の授業や生活指導的なことがらについても研究を重ねておられるし、公的あるいは私的な研修の機会に自身の教師としての力量を高めんと鋭意努力されている。このことは否定できない事実である。
 ただ、自分自身のことを反省的に見つめなおしてみると、ちょっとこころが痛むことがある。それは、こどもたちには「学べ−、勉強しろー」と毎日のように掛け声をかけながら、実は当の自分はそれほど学んではいないのである。これはちょっと情けないような気がする。
 学問をしないでいる人間に、学問をしろといわれることほどしゃくにさわることはないはずである。厳しく学べないでいる上、創造的な営みである学問に真剣に取り組めないでいる人間に、「教育」というまさに創造的な仕事ができるのかと問われたら、私には「できっこないわなあ」という回答しか出すことができない。
 研究会の最中、私の愚の骨頂ともいうべきヘボ研究に真剣に耳を傾けてくださり、メモを手帳にびっしと書きこまれていた、なおも厳しく学びつづけておられる中村先生のお姿に、「一流の教師の本質」を見たような気がした。


11月12日
昨日は、勤務校の特別活動「豊かな心を育む活動」全校発表会が行なわれた。一昨年から、文部省からの同活動の研究指定校として実践・研究を進めてきており、今年で3年目。学校内では、それなりの認知度も高まり「豊かな心」という略称で呼ばれるにまでなっている。
 各学年、活動内容は異なっており、1年生−町の自然に親しむ活動、2年生−職業体験学習、3年生−福祉諸施設の訪問学習というカリキュラムが組まれている(ちなみに私は、3学年に属しており施設訪問の学習に関わっていた)。私は、自分自身の中学生時代にこういった、いわゆる「総合的な学習」の時間というものがなかったため、赴任当初この活動にいまひとつイメージが持てなかった。そのため、合計5回の施設(私の担当は老人ホームであった)の訪問学習は、こどもたちに学びの場を提供する、というよりは、私自身がこどもたちやお年寄りといっしょになって、話をしたり歌を謳ったり、あるいは施設内の掃除をしたり施設の方のお話を聴いたりという、およそ「教師の関わり」とは無縁の、はいまわる活動に終始していた。
 しかし、この5回の訪問で得たさまざまな情報や感情は、私のこれからの教育活動を支える思考回路に、きわめて大きな影響を与えるものになったのではないか、と感ずる。
 私は、この活動を通じて学んだことは大きかった。こどもたちの多くもまた、大いに感ずること、考えることがあったようである。ある生徒たちは、次のような感想を発表してくれた。

 「今でも印象に残っていることは、施設のお年寄りの方が悲しい顔をしていたことです。
  僕が変なことをしてしまったからかもしれないし、病気だったからなのかもしれないけれど、今でもこのことは、僕の心に
  残っています」(M君)
 「施設訪問を重ねていくうちに、お年寄りに接する態度がどんどん積極的になっていくことを、自分でもびっくりしました」
 (Yさん)
 「こころを開いて前向きに接していけば、お互いわかりあえたりすることを感じました」(H君)

 しかし一方で、最初から最後まで終始「やらされている」という意識から抜け出せず、活動を通して獲得していけたはずであろう成就感や満足感を得られず、それどころか、活動の本旨とは逆の、高齢者や障害者への偏見をますます助長させてしまったこどもたちも、これまた多くいたように感ぜられた(事後追跡が必要であると思う)。

 偏見や差別心そのものが自らのこころの内に生じたり、存在しつづけていることまで否定してしまうことはできまい。このことを抜きにした道徳教育や同和教育は、私自身は欺瞞に満ちたものだと考えている。肝心なのは、この「人間存在の不可避的な脆弱点」を肯定することを立脚点にして、「差別心や偏見を不可避的に持ってしまう人間が、その内に生じ存在しつづけてしまう『獅子身中の虫』と、どうやって闘っていくか、闘っていく柔にして剛な自己を、他者との関係の中でいかに育て上げていくか」、ということである、と思う。

 きれいごとは、こどもの前ではとてもとてもいえない。私も人間だ。だから、そこを出発点にした彼らとの関わりを模索したいと思う。


11月9日
 学生時代の後輩から、ひさびさの便りをもらった。彼女とは、先輩後輩の別なく「同学の輩」として、ひろく学問的な議論や生き方や在り方について議論を重ねたものだった。彼女は、よく「先輩のお陰で、何とか『学ぶこと』ができたなあ、って思います」といってくれる。私は、そのことばを見たり聴いたりするたびに、面映い思いになってしまう。
 なぜならそれは、少々私を買かぶりすぎているんじゃないかな、と思うからであり、もうひとつは、何よりも、私の方が彼女から多くのことを学ばせてもらったからである。私が、自分が専門とする歴史学や教育学以外の、地理学や哲学あるいは社会学といった他の人文・社会科学に目を向けることができるようになったのは、他でもない、彼女の「学恩」があったからに他ならない。
 そんな彼女からの手紙に同封されていたのは、修士論文の中間発表のレジュメだった。

「新制高等学校社会科選択科目『人文地理』の成立と展開−地理学者石田龍次郎の目指した『人文地理』の検討を中心として−」

 これが彼女の修士論文の題目である。
 彼女は、この論文で教育史学の学問的論議にどのような切りこみをかけていくのか。それはそれで、すごく楽しみである。
 しかし何よりも、彼女が研究を進め思索を深める中で、自らの生き方や在り方をどのように「問い直す」のか。それこそが、実は一番楽しみなのである。
 「学問とは何か」という問いは、あまりにも大きすぎてここで何らかの「解答」を示すことができる類の問いではない。
 でも、私が今までよってたってきている「学問観」は、次のようなものである(むろん、この考え方が普遍性や不変性を持つものでないことは自明のことである)。
 つまり、学問的な作業や思索を通して、自分自身の行き方や在り方を問い返し、「より深みのある、より広がりのある自分」を創造する(探究する)こと、それが私にとっての「ホンモノの学問」である。

 何やら思弁的な文章になってきてしまった。まずいまずい。
 久々に、後輩の手紙から学問の薫りをもらって、悪い癖が出てきてしまったようだ.
 かの上田薫氏は「抽象への抵抗」ということを述べている。日々の授業の中で、抽象的なことばが、いかにこどもたちの頭の上を、乾いた音をたてて吹きぬけていってしまうかを痛感しているはずの自分が、ややもすると「学問の世界では…」ということばを金科玉条のように押し出して、こどもたちを知識の暴風の中に巻き込んでしまう。
 「抽象への抵抗」をことばの上で論ずることはた易い。問題は、この精神をどうやって具体化・具現化していくことができるかである。それには、まず、自分自身の中に巣食う「抽象への無抵抗」を駆逐しなければなるまい。
 このことが、また、私自身が志向する「ホンモノの学問に生きる」ことにもつながるのであろう。


11月7日
 なかなかに厳しいものがある。

 「先生、最近ちょっとしたことでもキレル。4月頃は、なんかもっと変な先生だったのに」(Yさん)

 「生徒と教員との距離」ってのは、自分でも知らないうちに開いていくもんなんだ、ってことを今日は思い知らされた。彼女のひとことは、土曜の午後の昼下がりのゆるみきった私の心に、ぐさりと突き刺さってしくしく痛んだ。
 でも、Yさんが発してくれた「ずうずうしく」も「ぐさりとくる」ひとことは、知らず知らずのうちに高慢ちきになんていた私にとっては、矛盾しているようだが、とても「じーんとくる」ひとことでもあった。このYさんの「思いやり」を心したい。
 こういう「ひとこと」がこどもたちから「直接」聴けなくなったとき、教員はひとつの転機を迎えるのかもしれない。

 ちなみにこのYさんと友人のAさん。
 橋本龍太郎前総理大臣に、公民の授業での疑問点をハガキにしたため自民党へ郵送して解決を図らんとした、これまたなかなかの行動派。その顛末は…。
 何と、橋本さん本人から直筆の手紙が帰ってきた。数点の疑問点に懇切丁寧に答えている手紙であった。
 私は驚いた。何にか?
 それは、疑問や問題を感じその道のプロに直接聴くために行動した、ふたりのその問題解決能力に対してである。

 こどもたちは、勝手に育っている。
 私は、いったい4月からどれほどの成長をしているのだろう。

 いやはや、なかなかに厳しいものが…ある。



11月3日
 「旗日」−これはもう死語かもしれない。つまり、「国民の祝日に関する法律」に定められている祝日に、国旗を掲げ、その日が祝日となった事由に思いを致す日、ゆえに「旗日」というわけである。
 わが田舎町でも、もう国旗を掲げて祝日を祝うという景色はまばらにしか見られない。ちなみに、今日は車に乗ってふらふら町を徘徊したが、国旗が掲げられていた家は一軒だけしか見つけられなかった。
 今日は「文化の日」。その昔は「天長節」「明治節」といわれた日だ。明治天皇(睦仁)の生誕日として、戦前には特別にお祝いをした日だと聞く。しかし、今やそのことを知る人は少ない。文字どおり「明治は遠くなりにけり」である。
 午後、明治どころか昭和でさえ「遠くなりにけり」と思しき2年生の野球部の生徒たちが、わが教員住宅に押しかけてきた。そこでふるまったのは、自慢のカレーライス。満足げにカレーをほうばるその姿は、無邪気でばからしくて愛らしかった。来てから帰るまで、同級生の好きな女の子の話で持ちきりであった。
 「Kさんとは最近うまくやってるの?」
 「Yとはどうなんだ?」
 「Eさんって、ほんとかわいいんだよねえー」
「…あほか、お前ら」といいたくもなったが、密かにそんな彼らが羨ましかったりするのだから、おもしろい。 
 どうやら、わが教え子たちは学年に関係なく、「恋愛の秋」を謳歌しているようだ。


11月2日
 なぜか、秋だけが「芸術の秋」だの「食欲の秋」だの「スポーツの秋」だのと、やたらと形容詞をつけて呼ばれるのはどうしてだろうか。けっこうこのことは不思議だったりするのだが、皆さんはどうだろうか。
 まあ、それはそれとして、学校における秋を形容詞をつけて呼ぶならどうなるだろう。
 「行事の秋」「進路実現に向けてシフトする秋」「人事異動のための校長面接のある秋」などなどが思い浮かんでくる。
 しかし、これらの「秋」はよく考えてみると、教師側・学校側からの視点から形容されている「秋」であることに気づく。学校という空間における活動主体は、教師だけではもちろん、ない。こどもたちが、欠くことのできない活動主体である。
 では、彼らの視点から学校における「秋」を形容すると、どんな表現になるだろうか。学年によって、表されてくる「秋」はさまざまであろうが、私の属している3学年の生徒たちの最近のようすから、生徒たちにとっての「秋」をひとことで表現すれば、それは、「恋愛の秋」が非常によく当てはまる表現のような気がする。
 一緒に連れ立って薄暗くなった通学路を、ゆっくりお互い笑顔を見せながら歩いていく様子は、偶然見かけたこちらが思わず嫉妬してしまうくらい、美しい。あれを美しいといわずして、何を美しいというのだろう。それくらいの「価値」ある風景だと、私は思う。
 恋を実らせていくことも、大切な自己実現のかたちだと思う。むろん、恋愛には相手というのがつきもので、一方的・偏在的な関係はあり得ないものだ。そういう関係性の中で営まれるものだからこそ、ヒトはその長くもない歴史の中で、時には命をかけてその関係性を維持しようとしたり、バカげた行動をとってみたりしてきた。時に、それらの行動が歴史の流れを決定づけたことだってあったに違いない。
 3年生の「価値」ある姿に話をもどそう。彼らは、いよいよ受験という人生最初の「関門」(それを過ぎ去った人々からみれば、そんなに大したものだとは見えない、というのがこの受験というやつの性質)に臨もうとしている。不安定な精神状態に彼らが追い込まれ始めているのは、紛れもない事実だ(追い込んでいる張本人が、私自身だったりするのだから、これまた複雑な気分)。そんな不安定な気持ちを和らげたり、あるいは励ましあったり、時には鼓舞しあったり競争しあったりできる「仲間」の存在が、特にこれから重要になってくると思う。むろん、私も彼らの不安に寄り添っていきたいとは思っている。けれども、自分の経験上もいえることだけれども、やはり「仲間」の存在ほどありがたい(ありがた迷惑の時も多分にあるのだけれど)ものはない。
 そんな意味で、3年生諸君の「恋愛の秋」を、私自身は非常に好ましいことだと静観している。この「恋愛の秋」にたくさんの「実り」をお互いが「収穫」し、これから迎える「厳しい冬」に向けて、共に敢然と歩んでいってほしいなあ、と思っている。
 頑張れよ、3年生諸君。


11月1日
 学生時代に深く関わっていた教育ボランティア(信大YOU遊サタデー)で現在、中心となって活動している学生さんお二人(4年生)と話をする僥倖を得た。
 私自身が学生時代、仲間と共に悩んだ同じ問題=古くて新しい問題に悩んでもいた。また、5年間という積み重ねの中で、徐々に蓄積し噴出し始めた問題にも悩んでいた。むろん、その苦悩は重く深く、それらの問題への処方箋は容易に見出せるたぐいのものではないことも、今は「かつての関係者」となってしまった私にも、十二分にわかった。
 しかし、彼らの表情には、適切な表現ではないかもしれないが「明るさ」があったように思われた。むろん、その表情には苦悩の色は隠せなかったし、彼らが実際に抱え込んでいる状況には、他者の楽観視を許さないような、抜き差しならない雰囲気が多分に存在しているのであろう。しかし、彼らの存在そのものがかもし出す雰囲気が、それらの不安材料をおおって余りある情熱とやる気を感じさせていた。
 理想を具現化しようとする学生さんたちの姿から、就職以来半年で「たるみ」を感じていた自身のあり方に、かけがえのない元気をもらった気がした。
 持つべきものは良き先輩、同志、そして後輩である。


10月31日
 昨日の6時間目、授業をさぼって保健室にいた3年生のS君と、ゆっくり話をすることができた。
 あんなに落ち着いた顔つきをした彼を見たのは久しぶりだった。
 「おれ、今は自分のことで精一杯なんだ…」
 うそ偽りのない、本音の声に聞こえた。自己顕示欲の強い彼のこと、少々大げさに自分の今の気持ちを語っていることは、十分過ぎるほどわかった。しかし、将来への夢や不安、あるいは「今までの自分の過去を捨てたい」と語るその姿に、今まで何度も彼のことばに「裏切られた」経験が、少し記憶のかなたへ退いていった気がした。
 でも、こどもたちは誠実でもあり、また薄情でもある。
 流水に字を書くような、そんな毎日が続いて、はや半年。そんな毎日の中で、自分自身どれほどの成長することができたのか。同じく中学校で教員をしている友人のホームページから感じ取れる、「教師としての成長」をうらやましく思う、そんな毎日である。


10月22日
 「1年のときは、地理も歴史もそんなに好きじゃなかったけど、地理が少し好きになれた」(Yさん)。
 「やっぱり地元に残ることにした。地理が好きになった」(Tくん)。

 2年生の日本地理の全ての単元がようやく終了した。進度のはやいクラスに遅れること5、6時間。確かに進度の遅れは気にかかるが、それでも、半年以上、こどもたちと日本地理の学習をしてきて、「地理が好きになれた」という感想を少なからぬこどもたちから得ることができたことは、正直嬉しかった。
 自分自身が中学生時代に、社会科の中でも特に地理を大の苦手にしていただけに、地理をおもしろいと思えないこどもたちに、どうやったら地理のおもしろさ(むろん、この「おもしろさ」の感覚は、学生時代に学んだ地理学からの恩恵である)を味あわせるかには、それなりに心を砕いてきたつもりだった。その「思い」が、それなりに彼らにも伝わったということだろうか。
 自分なりに地理学の学問的な方法論(のまねごと)を授業の中にも多く採り入れたり、作業学習を多くしたり(地図に統計情報をおとす作業)、地図やグラフの読み取りとそこから疑問を持たせ、簡略化した課題解決的学習を仕組んだりもした。これらのことがこどもたちの知的探究心や好奇心、学習意欲を喚起したということになるのだろうか。そのあたりのことは、はっきりと「こうだ」という見解を示せないが、やはり、ここをはっきりと吟味しておく必要があるのだろう。それが、いわゆる実践的教育研究というやつなんだろう。いずれにしても、こどもたちが地理から多くを学んだように、そんなこどもたちの姿から、私自身がこれまた多くのことを学んだことは確かである。
 
 いよいよ歴史的分野が2年生は再開だ。1年生も歴史的分野が始まった。「歴史入門」と題して、先日第一回目の歴史の授業を行なった。45億年を100メートルとすると、人類の誕生から現在までは何と8センチにしかならない…などの内容を、寒空のもと校庭にこどもたちを連れ出して、100メートルをいっしょに歩きながら学んだ。

 そのとき彼らに伝えたことは以下のこと。
−この8センチに数々の「物語」が埋め込まれている。歴史とはhistory=his-story、つまり「物語」を内在させているものなのである。この「物語」に思いを寄せていくこと、それが歴史を学ぶことの醍醐味であり、また意味でもあると考えている−と。
 
 このあたりのことを、より深く、こどもたちと学んでいこうと思っている。


10月15日
 それにしてもやるせなくなる。
 「指導」というのは何なのか?口うるさく、日常生活の中でのマナーやルールを教え諭していくことも「指導」だろう。しかし、あまりにも事細かに、「あれもできてない、これもできていない」ってな具合にぐちゃぐちゃいうことが、果たして「指導」というのだろうか。非常に疑問に思う。
 そりゃあ、そういう行為をしないよりもしたほうがいいのだろうし、それをできなければ一人前の教師とはみなされないのかもしれない。だから、この行為そのものの良し悪しはもう決まっているのだろう、きっと。つまり、こういった「指導」が威厳をもって、確実にできないと子どもたちになめられることになるし、教員世界においても「無能者」の烙印を押されることになる(と思う)。でも、その「指導」なるものをし続けたときの子どもたちの反応(今、私は「こどもたち」と書きながら、ある具体的な数名の生徒のことを確実に念頭においているのであるけれど)をみると、本当に腹が立つし「むかつく」し「キレソウ」になる。私だって喜怒哀楽が十二分に備わっている人間だから、この感情を押し殺したり、無いものとみなすことなんて、とてもじゃないができない。とにかく、あまりの理不尽さ、身勝手さには辟易するのもはなはだしい。しかし―にもかかわらず、彼らに何らかの関わりというものをしていかなければならないのだろう。なぜなら、それが私の仕事だし、「しなければならないはずだ」という私の中の倫理観が、私をしてそう思わしめているからだ。
 思うに(というか、当たり前だろうけど)「指導」はもっと深く広い意味をもっているはずだ。彼らの言葉でいえば「ぐちゃぐちゃ」いうのも「指導」だろうし、すぐに「きれたり」「むかついたり」する彼らのご機嫌を注意深くうかがいながら(こう書くと迎合的な響きがあるけれど、そうではない)、すんなり彼らの中に染み入っていくような言葉をかけていくとか、時には「言葉の刃」ともいうような厳しい言葉を与えること…などなどいろいろなものがあるのだろう…思考断裂

 ここまで書いてきて、正直に私の今の状態を申し上げるなら、それは、
 
 


「迷っている」


 






のひとことになる。はっきりいって、彼らとの意味のある関係の構築に暗雲を感ずることもあれば、台風の去った後の爽やかな晴れ間を感ずることもある。本当に、毎日が迷いと困惑の連続だ。
 支離滅裂な文章になってしまった。もともと思考回路が錯綜しているので、まともな文章が書けないのだけれど、ともかくも、この文章全体の印象が、私の今の心的状態の全てを具現しているといってもいいと思う。
 でも、生きる元気ややりがい、根源的な問題意識を刺激してくれるようなできごとやことばを、こどもたちが私に与えてくれていることも、これまた事実だ。
 子どもというやつは、少なくとも私にとっては、本当にパラドキシカルな存在だと、つくづく思うのである。


10月11日
 この連休は、本当に久しぶりに「休む」ということをしたような気がする。
 といって、しっかり床に入って睡眠をとったというのではなく、ただ普段飲めないお酒を好きなだけ飲んだ、というだけのこと。初任者の仲間たちと我が家でバカ話をしながら一杯やったり、高校時代の友人が訪ねてきて、これまた一杯やったり…。こんなことを書くと仕事をまったくしていないみたいだが、実際やっていない…なあ。
 中間テストが終わり、こどもたちは一安心といったところなのだろうが(戦々恐々とした気持ちで、答案の返ってくるのを待っている子もいるんだろうけど)、こちらは採点というやっかいな仕事があるんだな、これが。でも、子どもたちが50分間という時間、もてる力を可能な限りふりしぼって向き合った答案ではあるので、こちらも熱意を込めて(それなりにだけど)採点しないといけないな、と思う。
 3年生は中間テストが終わったのもつかの間、11月始めには総合テストがある。


10月7日
 授業研究というものの不思議さを日々感じている。というよりも、感じさせられている。感じさせてくれるのは他でもない生徒たちだ。「研究授業」というと、何のためにやっているのかさっぱりわからない、というのが正直な感想だ。よく、学問の世界では「研究のための研究」という言葉が使われて、目的意識や問題意識あるいはオリジナリティーのない研究を侮蔑するときの常套句と
なっているが、これは何も学問の世界だけの話ではない。実践的教育研究?の場でも、こういうことは盛んにいわれることのよう
だ。「やることになっちゃったから…」とか「レポート出せっていうから…」といった、きわめて他律的な要因で行なわれることの多い研究授業というやつは、なかなかのくせものだ、と思う。でも、実際はこの種の他律的な要因にせかされて、世の多くの授業研究というものは行なわれているように思われてならない。
 でも、不思議なもので、そんな他律的な動機で始めた研究であっても、時と場合によっては驚くべき宝物をもたらしてくれることもあるようである。それが、最近私の身の上にも起きた。本当に不思議な、でも興奮する出来事だった。あんなに乗り気じゃなかった研究が、その後の展開によってこれほど私の意識を変えるとは思わなかった。その後の「劇的な展開」をもたらしたものは、
他でもないこどものひとこと一言であった。決して私のひとこではなかったのだ。あのひとことが発せられたとき、授業は、こどもたちは、そして私は「なにもの」かに突き動かされた。そうとしか表現できない何かが教室の中で起きたのだ。物理的には普段と何の変化もない、あの教室の中でである。どんなことが起きたのかは別稿にゆずるが、ともかく、授業をしかけていた私自身がおもしろい、と思える瞬間が数え切れないほどある、そんな授業がこどもたちともに創れたことに驚きを感じているのだ。
 でも、こう書くと非常におおげさに聞えてしまうものがある。そう、ここに書いたことは別段大したことではないのかもしれない。それでも、このことに何らかの意味を見出すとすれば、それは私以外の何者でもないであろうし、それでいいのだと思う。
 実践的教育研究というのを教育学的な説明でいうとどうなるのか知らないが、私自身は日々の授業を、少なくとも自分自身がお
もしろいと思え、あわよくばこどもたちもおもしろい、と感ずることのできるものにしたいと思っている。そのための自分自身のあらゆる活動が実践的教育研究というものになるのだと、今は思っている(考えている、のではない)。