会社人間として一区切り付いた今、自分を振り返って纏めてみた(2006年2月初版;以降逐次加筆)

生い立ち
幼少〜小学4年頃の写真
麦の検査
昭和二十年代前半(団塊の世代終盤)に、信州片田舎の村で米屋・精米所・倉庫業
を営む家の次男坊として生まれる。兄は自分が二歳になる前に他界。弟思いで優
しく利発な長男だったらしい。自分には全く記憶は無いが、兄らしい頼り甲斐の
ある友人に親しみ以上の物を感じてしまうのは、そんな幼児体験があるからか?
二代続いた婿取りの家に久々の男子だから我儘放題育ったと思いきや、養子の父
から軍隊仕込みの厳しさで鍛えられ、今の人格が形成されたようだ(笑)
もう一人、一番上に姉がいるが年が離れていた為か、一緒に遊んだ覚えはあまり
ない。今はリタイアした義兄と共に近くに住み、親代わりの厳しいお目付役。
当時の記憶で残念なのは、可愛がってくれた養祖母が脳溢血で倒れ寝たきりにな
ってから、母が下の世話を行っているのを見て衝いた自分の悪態。仏壇へ向かう
都度、思い出しては申し訳ない気持ちで一杯になる。。。
学生時代
中学〜大学時代の写真
想い出

大学四年北海道旅行
気弱な性格が災いしてか?小学低学年は目立たない存在だったが、自我に目覚め
た頃から俄然実力発揮!クラスの人気者(自分で勝手にそう思っていた)として中
学まで過ごす。厳格な親父から離れたい為、高校は親戚に下宿して××市の県立
Y高校へ。入学と同時に部活はバスケを選ぶも伸びない身長に限界を感じ、当時
の先輩が東大に倣って命名したスキー山岳班へ途中入部。トレと山行に明け暮れ
る三年間が始まった。一番の思い出はオープン競技として始まったばかりの大分
国体山岳種目に高校の部代表として出場できた事。一年後輩のS君は大学卒業後
地元T村に戻り、冬はスキー指導員として活躍していたが、滑降中立木に衝突し
一ヶ月以上も意識不明のまま帰らぬ人となってしまった。これは悲しい思い出。
親戚の家が温泉街に在ったので、風呂はいつも温泉銭湯へ。温泉好きもそこから
始まったのかも知れない。部活に没頭したので成績は当たり前の如く凡庸、親に
甘えさせて貰い大学は東京のG院へ。当然の様に山岳部の門を叩くも都会の誘惑
や学生生活の多様性に負けて一年で退部。その時先輩が引き留めた言葉は今でも
はっきり覚えている。そう言えば付属高から来て一緒に入部したT君、卒業前の
春山合宿で蔵之助谷にてテン泊中に雪崩にやられ、卒業式は涙の遺影参列。もし
部活を続けていたら、自分も親を泣かせていたかも知れない。
社 会 人
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山仲間で送別会
次男とは云え、ずっと跡取りとして育ったので親元から通える地元企業に就職。
業種は、たまたま専攻したゼミが社会心理学で、世論調査集計に使ったのが当時
としては珍しかった電子計算機(何故かコンピュータとは言わなかった)系。これ
からはコンピュータの時代と六感に響き、やはり当時無名に等しかった今の会社
を選んだ。爾来、アセンブラ、コボル、ベイシックとソースコードを書き、年齢
と共に設計・企画・営業と畑を渡り歩き、平成3年12月〜平成7年3月は札幌
勤務も経験した。平成7年4月本社勤務と共に、漸く地方でも浸透し始めたイン
ターネットに関わり、平成25年2月末にて退職。思えば大型汎用機の揺籃期か
ら、常にIT業界の第一線に居続けられた事は幸せだった。
ファミリー
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Jr結婚披露宴
成長の記録へ
初孫:奏一朗
父はH13.10.04、母はH15.06.13奇しくも同じ82歳で亡くなった。長野冬季五輪が
開かれた年の秋、古くなった母屋兼精米所からログハウスに移ってもらい、二人
に晩年を過ごして貰えたのが親孝行の真似事だったのかもしれない(合掌)
職場結婚した姉さん女房との間に一女一男。その息子にも漸く花嫁さんが来た。
(2007年 1月)親父としては、世代交代のリレーゾーンに入った気分
住居は三ケ所での営みだが互いの生活を尊重しつつ家族の絆も保っている(筈)。
因みに週二日、家内がログへ来て三日分の料理を作ったり、掃除・洗濯などして
くれる(感謝)。小学時代まで何度も子供達を自分の趣味に付き合わせ、山やス
キーに連れて行ったが息子は受け身の山行に反発してか、今では私以上に山とス
キー三昧の週末。嫁さんは所属する山岳会の仲間。娘もシーズン何回かはスキー
に行き友人達とのコミュニケーションに役立たせている。リタイヤ迄の後何年か
はこんな生活が続きそう。と思っていたら2008年9月より、息子夫婦がログ
に住み娘は独立しアパート暮らし、7年振りに安茂里へ戻って家内と二人だけの
生活が始まった。2010.05.13息子夫婦に長男誕生♪小生もジージの仲間入り。
更に2014.10.23二人目の孫に明香音も誕生!
スキー歴

近所の兄ちゃん達と
キャリア的には登山歴よりも長い。小さい頃は竹スキーという30cm位の竹を半分
に割って先端を折り曲げた遊具に長靴で乗り道路を滑っていた。バランス感覚は
この頃に養われたのかもしれない。その後、市販のスキー板を買って貰い近くの
畑で滑るようになる。長靴用の締め具で、爪先をベルトに通し踵がずれないよう
やはりベルトで縛る簡単な物。当然ヒールフリー。寒さや冷たさにお構いなく暗
くなるまで夢中で滑り、家に帰って炬燵にあたると手足が凍傷一歩手前のように
ズキズキ。そんな思い出も懐かしい。その後はゴム製のスキー靴とカンダハーと
いう組み合わせの時期があり、現在のようなプラブーツと踵固定で過負荷が掛か
ると外れるセイフティービンディングになったのは高校1年の時。セットで買っ
た板はヤマハマーク1という板、ワックスレスにも感動した。SAJの級検定は
一度だけ一級にチャレンジしたが敢えなく不合格。それ以来、自己流で通す。
登 山 歴

中2燕岳山頂
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佐武流山頂
中学1年の白根山、2年で燕岳学校登山が山登りの始まりかと思う。中3年の秋
には仲良し4人組で最後の思い出にと虫倉山へも登った。本格的な登山開始は高
校山岳部に入部してから。三年間は山一筋に過ごした。当時の高体連は高校生の
ロッククライミングと冬山を禁止していた為、専ら一般道での縦走やピークハン
ト。その名残か未だにアルパインには手付かず。主な足跡は白馬〜爺ヶ岳の後立
山縦走、燕〜奥穂の表銀座槍穂高縦走など。大学入学と同時に山岳部へ入部した
が、最初の新人歓迎山行前夜に高熱でダウン。代わりにと先輩が企画してくれた
富士山の雪上訓練で日本最高所に立ち、アイゼン・ピッケル・確保術を教わる。
夏山合宿は奥只見〜平ヶ岳〜尾瀬へのテン泊藪山縦走、イワナも初めて釣った。
信州へ戻ってから山をやろうと、一年で退部し三年間はブランク状態。社会人に
なり単独で烏帽子〜雲ノ平等を歩いてみたが、一念発起し会社の親睦会にワンゲ
ル部を作る。学生時代の経験者は居なかったが後輩社員が何人か入部し、以降は
部が自然消滅するまで北ア・中ア・南アのメジャーな山を登る。平成13年秋に
村への移住と同時に地域山岳会に入会し、現在に至る。近頃流行の百名山は深田
作品を読んではいたものの、全部登ろうなどとの発想は起こらず、札幌で三年半
も暮らしながら登った山は近郊の日帰り可能な山のみ。せめて信州百名山でもと
目標を決め、2008.10.25佐武流山頂にて山仲間8人から完登を祝福される(感謝
山スキー万歳!


針ノ木雪渓


妙高三田原

山ノ神
静寂で真っ白・汚れない空間に身を置き、無垢の雪面に自分の軌跡を残したい!
山行とスキーを融合させれば、さ程高望みではなく実現可能な思いだった。元々
3月〜6月にはスキー靴を入れたザックに板を括り付け、根子岳や白馬・針ノ木
の雪渓を滑っていた。ただ、それは全て雪が締まりザラメになってからの季節に
限られ、厳冬期の処女雪にシュプールを残したい欲求は高まるばかり。そんな頃
高校時代からの友人にクロカン用の靴を貰い、クロカンスキーを滑ってから山ス
キー熱の序章が始まったのかも知れない。最初手に入れたクロカン板は競技用よ
り太めでダブルキャンパーのウロコ。確かにバックカントリー仕様でもあったが
本格的山行に必要なエッジが無かった。たまたま上京した折、ネット通販で知っ
ていたSスポーツを覗くとバーゲンでCARHU ダブルキャンパー&フルエッジの板
があったので即購入、意気揚々と新幹線で持ち帰った。そのシーズンは北八周遊
に始まり、大渚山・佐渡山・鍋倉山と山スキーでも楽しめる山々へ水を得た魚の
ように出かける。しかし所詮は細板と合皮靴、テレマークの基本も知らない自分
にはアルペン滑りが関の山。登る楽しさは得られたが滑りも快適にと望むのは当
然の性。そんな頃、当時テレマークスキーに嵌りつつあった息子のアドバイスで
山靴用にと買ったものの殆ど使ってなかったファット板にジルブレッタeasyGoを
装着、シールも貼り流しを買って山スキー用にリセットさせる。実際使ってみる
と(勿論、兼用靴も購入)目から鱗の開眼、初めて山スキーの快適さに目覚める!
爾来、11月にゲレンデで足馴らし12月〜5月の半年は山スキーを楽しむ日々に。
山スキー愛好家のMLではエクストリームな報告も多いけれど、冒険心の湧かない
中年オヤジにとって、山スキーの魅力は7割方登りに有ると感じる。無雪期には
登山道のない山や尾根も、積雪期なら山スキーで自由に登れるし、新雪の積もっ
た雪面に陽が当たりキラキラ輝いたり、猛吹雪に耐えた樹氷やエビの尻尾・雪庇
と自然の造形美を見れるのもこの季節だけの特権。無垢の雪面に自分だけのシュ
プールを刻む喜びや、パウダー斜面を鳥の気分で舞い降りる感覚も捨てがたい。
当分は帰路の立ち寄り温泉共々山スキーの魔力から解放されないだろう。。。(笑)
ヒマラヤ〜♪

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エベレスト


イムジャ湖
山ヤであれば誰でも憧れる世界の屋根ヒマラヤ。最高峰は無理にしても6000m位
の山に登りたいと思っていたが、定年間近になってからはトレッキングでも良い
と、トーンダウン。そのトレッキングの機会が突然やってきた。山岳協会と自然
保護連盟合同で、決壊の恐れがあるイムジャ氷河湖を視察する「エベレスト山群
環境トレッキング」を企画。それにマネージャー役で参加するという幸運が舞い
込んで来た。期間は2009.04.22-05.10の19日間、丁度2月末で定年を迎え38年間
務めて来た自分へのご褒美にうってつけ。GWを挟むので有給休暇も前後合わせて
11日取れば可能だった。ルートはルクラ〜チュクンの所謂エベレスト街道を行き
チュクンから日帰りでイムジャ湖を往復した。一番の心配は高山病だったが一晩
の下痢と三日ほど続いた軽い頭痛程度で済んだ。どうやら自分は高所に強い体質
かも知れない。ルクラの標高が2800mでイムジャ湖は5030m、その間を5日半掛
けて高度を上げて行った。ヒマラヤの雄大さ、地球温暖化による氷河の溶解など
見るもの全てが新鮮だったが、我々に奉仕してくれた現地のシステム及び個々の
シェルパ、サーダーとの触れ合いが一番印象に残る。これも全てヒラリー卿の功
績か、と妙に納得している。19日間で撮った画像は2500点にのぼるが、それ以上
に強く記憶に残るトレッキングとなった。今回はピークを踏まなかったが、次に
行く機会があればメラピーク或いはカラパタール・・なんてね。