徹はカナダにとけ込んでいた!

 ー没後1周年。墓建立の旅ー

               森 行成

息子、徹は死を前にこういった。
「世界中を回ってみたが、カナダなら永住してもいいと思った。父さん。母さんを連れてカナダへ旅行してくれ。カナダがどんなにいい国か、父さんならわかる。」

死の現実を受け入れた日。ホスピスのベランダで、徹は遠くを見ていた。カナダでの生活を想い出しているふうでもあった。

 

「約束の旅」

徹が逝ってちょうど一年。今回の旅は、いわば徹との”約束の旅”なのだ。
徹の誕生日(6月29日)に、ガールフレンドのフェリーサが野沢温泉に来ると聞いて、徹の一周忌は少し早いが彼の誕生日に済ませて、私たちもフェリーサの帰国に合わせて、約束の旅に出ることに決めた。
同行者は、私と妻喬子、それにフェリーサとフェリーサの妹のタニスの四人。命日の7月4日に、分骨してあるウィスラーのロストレイク湖畔に小さな墓を建てることとして、日本を飛び立った。

東京の温度は25℃。約9時間の飛行で10℃と寒いバンクーバーに降り立った。ホテルは指定していた「リステル」。リステルを指定したのは、実は意味があった。私にはどうしても会わなければならない人、そして徹の報告をしなければならない人がいる。その人は、日本から派遣されている関口和彦さん、その人だ。
フロントで聞いてみる。「ホテルスタッフのミスターセキグチに会いたい」
答えは「残念ながら、そういう名前の日本人スタッフはいない」
私は、カナダに来た目的の半分を失ったような失望感を覚えて部屋に入った。ほどなく電話が鳴って「フロントで何かお聞きのようでしたが、私にお手伝い出来れば・・・」
「このホテルに関口という日本人スタッフがいるはずですが、ご存じないでしょうか?」
「ハイ、私ですが。結婚して妻方の姓を名乗っていますので、ここではカドノ(上遠野)といいます」

 

運命的な出会い。

高校三年生のとき、モーグルを目指した徹は当時”世界最強”といわれた「フランスに留学する」と言っていた。ある日県のモーグルコーチにスキー留学の相談をしたところ、「それなら大槻譲さん(当時SAJ理事、フリースタイル)にお会いすることをすすめます」という。大槻さんは、日本のフリースタイルを今日の世界的なレベルに引き上げた功労者といえる人だが、暮れも近いころ、徹と一緒に東京・新宿は厚生年金会館の二Fレストランでお目にかかった。その時偶然にも、大槻さんと一緒に現れたのが、この「上遠野氏」。上遠野氏も青山学院大時代からモーグルにのめり込んでリステルに入社、カナダに派遣されていた。たまたま一時帰国、カナダに帰る前日に大槻氏を訪ねたという。
「モーグルの潮流は、いまやカナダに向かったよ。これからはカナダでしょう」
大槻さんは、モーグルの環境や流れをコンコンと説いてくれた。上遠野氏は、終止聞いているだけだったが、最後に「明日、私はカナダに帰ります。お望みなら留学準備なとお手伝いしましょう」

「お父さん、オレカナダに決める」徹の判断は早かった。この人に出会わなかったら、徹のカナダ留学はなかった。

約束の時間に現れた上遠野さんは、すぐにわかった。約9年ぶりの再会だが、私は胸が詰まって、言葉にならなかった。
「この人だ。徹が信頼をよせた人だ」
上遠野さんは、徹の留学先「カナディアン・カレッジ」やアパートなどなどを世話してくれた。初めてのカナダ到着を迎えに出てくれて、徹のカナダ留学がスムーズに出来たのも、この人の配慮からだった。

後に、徹は上遠野さんの結婚式に招待された。その時はまだ二十歳だったが、おつき合いを始めたばかりのガールフレンド、フェリーサも出席した。上遠野さんから頂いた集団記念写真には、徹とフェリーサがしっかり手を握り合っているのが写っている。
「徹とフェリーサ。二人の出会いから半年。二人が初めてみんなの前に姿を現したのも、この人の結婚式だった。」

 

新しい徹探し

「約束の旅」の第一目標を果たした私たちは、夕方、フェリーサと妹のタニスに再合流。夕方は徹のよく行った寿司屋「貴船」目指した。中心街から5〜6キロ離れたキツラノビーチに「貴船」はあった。
到着早々、日本食の寿司でもあるまいとも思ったが、今回の旅は徹の気配を感じていたいから・・・、アイツはカナダでどんな留学生活をしていたのか?親の知らない末っ子徹の新しい何かを発見したいからだ。
寿司の味は日本のものと同じ。しかし、サイズはいささかジャンボ。カナダのようだ。
「徹がここを気に入っていたのは寿司が大きいからです。それに、ここは私たちの自宅にも近いし・・」フェリーサ
私は、握りの親方風の人に「息子が世話になっていました」と徹の顔写真を見せた。
「ああ、覚えているよ。相変わらず元気かい?」
「実は、ちょうど一年前に亡くなりまして・・」
親方風の男は、一瞬手を休めて「そりゃーどうも」と言って 「息子さんはいつもその入り口の席に座っていました。」

夜九時を回ってキツラノビーチに出る。雨がそば降る中、フェリーサはスケートを滑る姿勢をしながら、「私は自転車、徹はローラーブレード、いつも、トレーニングトレーニング・・・」
喬子も同じようにスケートの姿勢をとって、「なんだか、徹が一緒にいるみたいだね」

そういえば、出発前の成田空港から、喬子はすでに徹の足跡を探していた。「フカヒレラーメンの店はどこにあるんだろうネ。カナダに出発のときは必ずフカヒレラーメンを食べていたんだって・・」

到着のバンクーバーは雨。下降を続けていた飛行機は、厚い雲を通り抜けて着陸態勢に入った頃、バンクーバーの街並みが視野に入った。
「お父さん、バンクーバーだよ。バンクーバー。きっと徹が迎えに出ていてくれるよね」
「たぶん・・・ナ」
私もそんな気がして相づちを打っていた。

私たちは、その足でイングリッシュビーチを目指した。イングリッシュビーチはダウンタウン近くの広く長〜い浜辺。近くのスタンレーパークと並んで、市民の憩いの場である。
徹が住んでいたアパート(ハロー通り)から約5〜600m。ローラーブレードの徹なら、ものの5〜6分で到着する。このビーチからごく近く、4〜50mも坂を上がったところにフェリーサがアルバイトしていたコーヒーハウス(喫茶店)「デラニーズ(Delany's)」がある。
このビーチとデラニーズは、その後、徹とフェリーサのデートコース。恋を語った場所である。

 

二人の出会い

留学先は「カナディアンカレッジの語学コース」だった。留学した(4月)その秋に、フェリーサはカナディアンカレッジの英語教師として赴任してくる。彼女も学生アルバイトだったが、徹のクラスを受け持った。
少し小柄ながらスラッと伸びた足、いつも笑顔が綺麗な金髪美人は、すぐに留学生仲間の話題の的となる。徹もその輪の中にいた。
「いつもボーとして彼女の顔ばかり見ていた」ともともクラスメートはいう。一目惚れらしい。

そんなある日。トレーニング中の徹はいつものようにローラーブレードでバイスクルロード(自転車道)を飛ばしていて、自転車のフェリーサにバッタリ出会う。
「ハロー」「・・・・」 「これからアルバイトなの」「・・どこ」
「すぐそこのデラニーズ」「・・・」

フェリーサのアルバイト先をつきとめた徹は、その日から毎日毎日日参することになる。
「モカコーヒー一杯(300円)で2時間も3時間も。いつも何かカウンターにいる私にペチャペチャ・・・」
まだ英語が身についていない徹は、そのうちに辞書持参ではまり込む。喫茶店はやがて英語の個人レッスンの教室のようになる。
フェリーサの父も若い頃北海道大学工学部に留学したこともあって、家族はみんな日本びいき。加えてフェリーサもジュニア時代はフィギァスケートの選手。一度はオリンピック出場を夢見たスポーツウーマン。共通点を見いだした二人は急速に親しくなる。

フェリーサは回想するようにいう。
「その机は、徹一人の勉強机になった。私の仕事が終わるまで待つ徹。そして、店の掃除をシュッシュッと手伝ってくれるの。」
「キツラノビーチの自宅まで自転車で帰る私を徹はローラーブレードで送ってくれるの。それから徹はまた約3キロの道を帰ってくる」
それが毎日ように続く。学校での授業中もコーヒーハウスのいるときも、そして夜道の送りと、徹はいつしかフェリーサのナイト(騎士)気分だった。

そんな頃、林貴志という成年が徹を訪ねる。貴志さんは千葉県の出身だが、中学卒業後アメリカに留学中にモーグルの面白さにとりつかれて、すでに国際レベルの実力の持ち主だった。もちろん英語は堪能だ。徹とは、合宿中に知り合い、意気投合した。のちに、手術の時や、死の床に伏しているときも病室を訪れてくれた。心の許した最良の友達だった。

「恋文の代筆」というのは、日本でも万葉集の時代からあるのは知っている。が、恋の告白を他人に頼むというのはそう聞いたことがない。しかも英語で伝える。
まだまだ英語が不自由な徹は、自分の気持ちをフェリーサに告げられないでいた。そんな時。貴志さんの来訪は、まさに”渡りに舟”だった。
「頼む助けてくれ」という徹に、一肌脱ぐことにした貴志は、「店が終わったら、徹と前のレストランで待っている」とフェリーサに伝える。

 

英語の上達は「恋」から

夜中かなり更けていた。合流した三人は、話し始める。貴志は得意な英語で、徹の気持ちを伝える。フェリーサに見つめられた徹は、いきなり「I Love You!」とだけ精一杯の声にした。
「待って。Wait!Wait!」フェリーサは先生に戻っていった。
「こういうときは、直接 I Love You は言わないの。とりあえずお友達になりたいーというのよ」
「お友達になって下さい」(徹)

恋の仲継ぎをした貴志さんは思いだして、
「あんな真剣な顔、あとにも先にも見たことないなぁー」

晴れてフェリーサと友達になれた徹の英語はメキメキと上達した。その年のクリスマス、徹はフェリーサの家に招待された。フェリーサより2歳年下の妹タニス。そして徹より一つ年下のジャフ。そして両親と数人の友だち。徹は早くもここで乾杯の発声をした。以後、乾杯の役目は毎年、徹の役目となる。
特にジャフとはウマが合った。魚釣り、ハイキング、キャンプ、ローラーブレード、そして若者らしい”悪さ”もジャフは一緒だった。自宅と会社が離れているジャフは、よく徹のアパートで寝起きしていた。

フェリーサとのおつき合いは、家族ぐるみの暖かい交流となり、何かにつけて招待されている。それに伴って徹の英語は格段に上達していく。徹の英語は「恋から」といえなくもないーそんな気がしてきた。

楽しい時間を過ごした私たちは、徹のアパート前を通ってホテルに戻った。

 

ローラーブレードとともに

バンクーバーは坂の街である。リアス式海岸が街の中に深く切り込んで、ダウンタウンをぐるっと海が囲んでいる感じだ。港やヨットハーバー、ビーチなどが整備されていて、どこからでも海やヨットが見える。
アパートは、もっとも賑やかなロブソン通りを一区画坂上に上がった緑豊かな住宅街にあった。ちょうど丘の上のアパートという雰囲気。ローラーブレードに履き替えた徹は、一気に坂を下りた・・・・。信州の山奥・野沢温泉で生まれ育った徹はこの街を気に入っていた。
「海も山も森も、何でもあるんだよ。お父さん」ホスピスのベランダで徹はそういっていた。

中古で買った徹の車には、遊び道具やらトレーニング道具がいつもビッシリ詰まっていた。折り畳み式マウンテンバイク、サッカーボール、ローラーブレード、リズムスティック、鉄アレイ。それに運動靴がいつも5〜6足。着替え用のTシャツなどなど・・・。モーグル用ストックはいつも2対。遊んでいるように見えても、モーグルやその為のトレーニングはいつも視野に入っていた。

ジャフは思い出を語ってくれた。
「ボクたちの仲間で、徹ほどローラーブレードがうまいやつはいなかった。みんな徹に教わって覚えたんだ。」
「ボクのローラーブレードも、徹の部屋に置いてあった。夕方にいつもトレーニングに出かける徹と合流して、スタンレーパークを一周(6〜7キロ)したり、ビーチを走ったりした。」

ジャフによると、徹は”二度死んだ”という。
二人はローラーブレードで街の中を走っていた。坂上から走ってきたので、スピードはかなりあったらしい。横断歩道の信号機は明らかにGO(青)だった。そこへ停止線をはみ出した乗用車が、スッと突っ込んできた。
「危ない」「やられたっ」と思った。
しかし、次の瞬間、徹はボンネットの上にバンと手をついて、車の上をトントントンと走りきって、向こう側にトンと飛び降りてしまった。ちょうど日本の跳び箱のような要領で、動いている車のボンネットに跳び上がったらしい。

「そしたら、歩道を歩いている人たちから、拍手が起こったんだヨ」
「徹は、ちょっと後ろ振り向きながら、手を振って、バイバイってやっているんだ。タフなヤツだった」

人口200万人。カナダ第二の都市であるバンクーバーは、カナダ西岸の産業・経済・分化の中心都市である。また海外から多くの留学生を受け入れる学園都市でもある。
夕日がきれいなイングリッシュビーチは、ちょっとの晴れ間でも家族連れが多く、日光浴などを楽しむ。そして、海岸線は、それなりに安全に配慮されている。
まず、海から見ると砂浜がきれいに整備されている。そして砂浜が切れる当たりに、直径50cmもあろうかと思われる大木が、海を眺める腰掛けのために何本も並べられている。
芝生が続き、そしてバイクロード。3〜4mの幅だが、自転車やローラーブレード専用道路だ。次に歩道があって、湾岸線ともいう一般国道が走っている。

次から次と、ローラーブレードで走ってくる若者たちを目で追いながら、喬子はいう。
「この中に徹もいたんだ。楽しかったんだネ」
私たちは、小半時も丸太に座って、若者の姿を見続けた。

 

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