永住したかったウィスラー

小さな小さな墓を建立


ウィスラーに向かう日、フェリーサはジャフの車で迎えに来た。シボレーの4WDワゴン。自動車が趣味のジャフ自慢のツーリング。
しかし、カナダは寒い。私はジャフの冬用のジャケットを。喬子はフェリーサのジャケットを借りた。バンクーバーは何十年ぶりの冷夏なのだという。
ハイウェイを走って約2時間。ウィスラービレッジに着く。

ヨーロッパの山岳リゾートは見慣れているつもりだが、なぜか私はアメリカ大陸は初めて。ロッキーを見るのも初めてだ。
ホテルにチェックイン。モーグルのキャンプを張っている林貴志さんから伝言が届いていた。
「2時にロビーで会いましょう」

ウィスラーは、想像以上のスケールだった。15年ほど前は、まだ「ほんの小さな村」という感じだったというが、今や「北米大陸最大の山岳リゾート」なのだという。
あのアスペンやベイル(アメリカ)よりもスケールアップなのだと聞いた。しかも、すべて計画に基づいて開発されていて、街の下は駐車場が確保されている。つまり地下構造物の上に、自然豊かな街がつくられた。「猛吹雪の時は、地下駐車場を通るとどこにでも行ける」という。
この国の人たちには、核シェルターの発想があるらしい。あのリレハメルオリンピック(ノルウェー)のスケート会場のように・・・。

 

心の風景

山の大きさといい、街の規模といい、発想の大きさといい、すべてに圧倒される思いだ。徹から聞いて、私自身が勝手に描いていたウィスラーの「心の風景」とは大きな違いがあって、改めて”世界の舞台”を求め続けた息子を想った。

合流した私たちは、貴志さんの案内で直ちに徹の骨が分骨されている、ロストレイク湖畔に向かった。

ロストレイクは、ウィスラービレッジから歩いて30分ほど。ロストレイクパークの中心にあって、周囲はカナダ松や松、ヒノキといった針葉樹の厚生林におおわれていた。
分骨の骨は、湖岬遊歩道わきのカナダ松の間にあった。湖面を渡る風が涼しく、その向かい側には、毎日滑っていたブラッコムのスキー場が見える。徹が眠るには最もふさわしく思えて、こちらは描いてきた「心の風景」にぴったりだった。

一年前、野沢温泉の実家で営まれた葬儀に出席してくれた里谷多英(金メダリスト)の手によって、徹のお骨は、海を渡っていた。
徹が信頼していたナショナルチームのコーチ、スティーブ・ファーレンの自宅は、ここから歩いて10分ほど。日本のナショナルチームの合宿があるときなど、この道は毎日の散歩コースという。「毎日、徹さんに会えるんですヨ。スキー場なら、なかなか行けないじゃないですか。ここなら、お父さんたちでもいつも行けるって。みんなで相談して決めたんです」(多英さん)

 

「母さんも、フェリーサも一緒だよ」

「徹。やっと来たよ。お母さんも一緒だよ。約束だからな・・・」

私は、分骨の上に落ちていた枯れ葉などを払いながら、徹に話しかけた。喬子もフェリーサも、同じようにしゃがみ込んで語りかけた。
長い沈黙が続いた。土の上を幾度もなでる喬子の姿を見て、涙が止まらなかった。
とりあえず、持参した線香と花一輪を手向けて若般心経を一巻上げた。
「よし、明日ここに墓石を建てよう」

「ウィスラー・ブラッコム」という名前は、徹から聞いていた。
「お父さん。ウィスラー・ブラッコムっていうスキー場のそばに売りに出たロッジがあるんだ。3000万円くらいだって。お父さん買わない!」
21歳になった徹はある日、突然こんな話を切りだした。
「お父さんが買っても、商売にならんだろう」
「いや、オレが使うよ。しょっちゅうウィスラーにいるんだから、その方が得だよ」
何かヘンな言い回しだったが、私は「何を夢のようなことをいっているんだ」と話の腰を折った。

死を前に徹はホスピスのベランダで言ったことがある。
「カナダっていい国なんだ。永住したいと思っていた」
「そういえば徹、お前いつかウィスラーのロッジを買ってくれってお父さんに言ったことがあったな」
「ウン、オレ本気だったんだけど、お父さんに茶化されてしまった。オレ連れて行くことは出来ないけれど、いつかお母さんとカナダへ旅行しろよ。いいとこなんだ。オレ、なぜ永住したかったか、お父さんなら分かるよ」

「お父さんなら分かるよ」。
この言葉は、徹から出された宿題のようにずぅーと私の心に残っている。「お父さんなら・・・。お父さんなら・・・」。何気なく聞き流すところだったが、息子はその日PCW(パスカルケアワーカー)との話し合いで自分の命が、そう長くないことを知る。自ら死を受け入れる「死の受容」をしたばかりだ。宿題といえば宿題。遺言といえば遺言。だから今回の旅では、その答えを出さなければならない。私は一言一句、聞き漏らすまいと緊張していた。

 

35年ぶりの夏スキー

墓石建立のその日。冷たくそば降る雨がパーと晴れ上がった。ウィスラーでは、6月初め以来、一ヶ月ぶりの晴天なのだという。そして、この寒さは60年ぶりの冷夏なのだとか。
陽が差すと、とたんに暖かくなる。その寒暖の差は、日本では経験できないものだが、まぶしいほどの青空となった。建立は夕方の4時とした。
「お父さん、山に登りませんか。徹がどんなとこで滑っていたかわかりますヨ。仲間が世界中から集まっていますし、今、多英も愛子(上村愛子)も来ているんです」
貴志さんからの提案に、私は少し迷っていた。
喬子はすぐ「行きたい。行きましょうよお父さん。スキー借りて・・・」

ウィスラーの街で、「モーグルコーナー」というスポーツ店を経営するのは、日本人の浜崎ご夫妻。その長男、健介君は、徹の大の仲良しだ。徹も健介君の家に居候を決め込んだ時期もあったとか。
「徹はボクに勇気をくれました。何もかもイヤだった高校生のころ、徹さんに会いました。そして、本格的にモーグルを教わりました。ボクもかなり上達して国際大会に出られるようになりました。だから、徹さんはボクにとってヒーローなんです。いまでも写真持ってます」
健介君はそういって、すり切れた写真を見せてくれた。私はパウチした徹の新しい写真を彼に渡した。

借りスキーを手に、しっかり防寒服に身を包んで、リフトを乗り継いでスキー場に向かう。約1時間、標高3000mに近いブラッコムの山頂に立つ。さすがに興奮していた。この時期でスキーをすることは、35年ぶりのことだ。私も喬子もインターハイチャンピオンの実績を持つスキーヤーだ。一刻も早く滑り出したかった。

ブラッコムの夏用ゲレンデは、山の北側、つまりウィスラーの街からは、山の反対側にあった。
広大なゲレンデにTバーリフトが二本、斜面はそれぞれ区分けされて、スノーボード用のハーフパイプが二本併設、ワンメーク用の大ジャンプ施設が3カ所。そして、一般スキーヤーの斜面、アルペンスキー用バーン。モーグル斜面は5本も併設されていて、各国のキャンプが張られていた。

貴志さんを先頭に滑り出した。そして、Tバーの終点に着いた。休憩中の選手の間に、私たちのことはアッという間に広がった。
「トオルのお父さんと、お母さんが来たよ。みんな集まれ」

 

「空を飛び続けろ」

何てことだ。次から次と声を掛けられる。日本人に混じって、雑誌でしか知らないような外国選手が、次々と握手を求める。
・マイク ダグラス  (徹のプライベートコーチ)
・シェーン ザック  (プロ、徹と仲良し) 
・ショーン スミス  (米、合宿を組んだ)
・トレノ ペインター (カナダ、
・ライアン ジョンソン(
・ジェイソン スミス (ノーアム時代のライバル、兄)
・グレハム スミス  (ノーアム時代のライバル、弟)
・エイドリアン コスター(オーストラリア)
・ジェイ ボーン   (カナダ、仲良しだった)
そして極めつけは、フィンランドの三銃士。’99シーズンのワールドチャンピオンをはじめ、’99ワールドカップ・斑尾大会のワン・ツー・スリーが会いに来た。
・ヤンネ ラテラ   (フィンランド)
・ラウリ ラシュラ  (フィンランド)
・ミユロ ユカイネン (フィンランド)

ヤンネは、今年の春、野沢の実家を訪れて一泊したから旧知の仲だ。その時ヤンネは自作の詩を徹に贈った。
「徹。君はイイヤツだった。
ポンポン空を飛んでばかりいた。
空はキミを歓迎していた。
だからもう、いつまでもいつまでも空を飛び続けていいよ」

彼はその短い詩を「Keep on Flying」と名付けた。
ヤンネは、見た目は今どきの目立ちたがり屋の若者。何をするかわからないような雰囲気をもっているが、それが、どうしてどうして!繊細で、暖かな優しい心の持ち主だ。

そしてさらに
・クーパー シエル  (米、ナショナルチームコーチ)
・スティーブ デソビッチ(米、ナショナルチームコーチ)
クーパーは、徹の手術後に、「話は聞いたが、本当のことか。徹は次のチャンピオンになれる男だよ」と電話してくれた人だった。

里谷多英、上村愛子、そしてスティーブ・ファーレンコーチ。見慣れた仲間たちが声を掛けてくれる。
さすが世界モーグル界の主流といって、徹が選んだカナダだ。この時期、新しい技の開発や基本の習得に、世界中からモーグラーがここを訪れる。いまやモーグルの”メッカ”なのだ。

「徹はウィスラーのボスだった。ヘリコプターのトオルって、みんな知ってるよ」と言ってくれたのは、丸坊主にハデなイヤリングをした、ジェイ・ボーンだ。ジェイ・ボーンとレベルが一枚上だったシェーン・ザックは、いつも兄弟のように遊んでいたという。変わり者の多いモーグラーの中でも、”ヘリコプターの徹”の存在はモーグル界に知れ渡っていた。日本から来た「クレージーな奴」というらしい。三浦豪太選手が教えてくれた。

何もわからない18歳の少年が、兄たちと同じように単身海を渡って4〜5年。骨折や手術などのアクシデントに見舞われながらも、ワールドカップや世界選手権大会に出場。長野オリンピックの日本代表候補で、最終選考を通っていた。
若い子供。まだまだ青二才と親は感じていたが、モーグルにかけた情熱や、モーグルを通して、世界中に友人を持っていた徹を思うと、末っ子はとっくに親を乗り越えて、大きく成長していた。

 

「徹さんがくれたんだ、この天気」

次々とカメラに納まって、喬子は感激している。
「嬉しいね、嬉しいね。こんな仲間たちの中に徹はいたんだ。・・・なんで逝ってしまったのかな。そんなに急ぐことじゃないのに・・・」。
喬子は、仲間の若者の中に、徹の面影を探した。

偶然だか、この時パーと霧が晴れた。真っ青な空が広がった。私たちもジャケットを脱いで、サングラスをかけて滑った。
「今日は徹さんの命日。徹さんが青空をプレゼントしてくれたのよ、きっと」。里谷多英はそういって納得しているようだった。

 

大勢に囲まれて、墓建立

墓石は重かった。ちょうど牛乳パック大の黒御影石に、戒名を刻り込んである。裏面にはヘリコプターを飛んでいる図柄に、徹自筆のサインを入れた。
写真が石碑に写るなんて、考えられなかったが、今はコンピューター技術がそれを可能にした。あまりの重さに石碑の真ん中を底から抜いて貰った。その中に、杉山進さん(プロスキーヤー)から頂いてあった般若心経の写経を入れて密閉した。徹の墓石は、図体は小さいが、いま最新の技術を駆使して作られた物だ。

ホテルからロストレイクまで、墓石は私と喬子が交代で手に抱いた。ロストレイク近くでは、フェリーサも抱いて歩いた。
まず深い穴を掘った。中に土台になるような30cm大の大きな平石を沈めて、その上に墓石を建てた。その頃、仲間がどんどん集まってきた。多英も愛子もスティーブも。内外の友、20人に膨れ上がって、徹らしい賑やかな場所になった。
そして、小石にそれぞれ名前を書いて墓石の側に添えた。喬子は「父さん母さん」と書いた小石を正面に置きながら、
「お父さん覚えておいてちょうだい。私が死んだらここに分骨して。徹が一人じゃかわいそうだから」という。
「何だ、お母さんはオレより早く死ぬのか」
私たち二人の会話を聞いていた人たちから爆笑が起こった。

そして土をかぶせて、周囲にあった苔を乗せた。あまり目立たないように墓石の3分の2を埋めて15cm程を出した。
私の読経の中、みんなでろうそく、線香を手向けて、徹の供養は終わった。

 

毎年来たいね

バンクーバーに戻った私たちは、二人で再びイングリッシュビーチを訪ねた。
そして、よく遊んでいたというカナダ・プレイス。バンクーバー博覧会の会場をなった港の広場だが、対岸のスタンレーパークからの夜景は極めつけに絶景だ。フェリーサと徹は、この夜景を見に数回訪れた。「少なくとも2回」と言って、フェリーサは笑った。

朝食はいつもアパート前のレストラン「ブレットハウス」。腹いっぱい食べるときは、「クランビルアイランド」へ。肉、魚、果物が並ぶバンクーバーの市場。市民の憩いの場でもある。私たちは、徹がいつも食べたという「フジ」のリンゴを一つ買って、かじりついた。
徹との約束の旅は、無事に終わった。フェリーサと「上遠野さん」に見送られてホテルを後にした。

タクシーの中で喬子はいった。
「よかったね。いい旅だった。単なる観光旅行じゃなかったから・・・。
徹はカナダに住んでいただけじゃなかったね。カナダにすっかり溶け込んでいたんだよね。出来たら、毎年線香上げに来たいね」

 

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