中国胡錦涛体制の行方と日中関係の課題

         
朱建栄・東洋学園大学教授(国際政治学)

 (この文章は、11月19日長野市内の犀北館ホテルで行われた「日中平和友好条約締結25周年記念・講演と祝賀のつどい]での朱建栄先生の講演の概略をまとめたものです。文責は編集部にあります。)

一.はじめに

 私は1982年に日本に来て、経済企画庁の外郭団体に勤務したがその時新宿の三井ビルの38階のオフィスに毎日通った。当時中国には24階のビルが最高であった。中国はその後大きく発展し、今や上海だけで、24階を越えるビルは1000棟を越えている。中国のこのような変化は何を意味するのか。新しい中国の光と影について考えてみたい。また日本人と違う中国人の思考様式と発想についてもふれ、日中の相互理解に役立てれば幸いと思う。
 長野県と中国との友好については1県の交流という意味合いを越えて中国では友好のシンボルとして受けとめられている。長野県と中国との関わりは特別の意義を持っている。1.満蒙開拓団が全国一多かったこと。2.日中戦争後人民解放軍の医療部隊などに加わり新中国建国に貢献した長野県関係者が多かった。3.長野オリンピックとの関連もあり、長野県は中国の冬季競技に対する支援を積極的に行った。スキー用具の支援など良く知られている。4.中国の緑化支援、希望小学校、SARS支援など長野県の支援協力に対する友好の感情がある。
 日中間で交流は進んでいるが、両国の好感度は1980年代の70%代と比べて現在40%代と低下している。日中関係は発展している反面問題点も多い。問題を解決するにはどうしたらよいか、努力すべき方向、私なりの考えを後ほど述べてみたい。

二.胡錦涛体制の行方

(1.画期的な16回党大会)
 2002年11月に開かれた中国共産党16回大会は画期的な意味合いを持っている。
 1.世代交代が進んだこと。毛沢東や周恩来などの革命の第1世代から第2世代の登小平へ、そして第3世代の江沢民から文化革命後に入党した第4世代への世代交代が進んだ。
 2.初歩的ではあるが、ルールに則って交代が行われたこと。これは、社会主義国としては珍しい。指導部の政治局員7名のうち6名が引退して若手の8名が加わり9名となった。2つの権力委譲のルールがあり、1つは三選禁止で一期五年、二期十年まで。もう1つは七十歳定年制。これによって指導部の平均年齢が下がった。最高指導者も七十五歳まで、大臣・省長クラス六十五歳、次官六十歳、局長五十五歳とされている。今後選挙の導入が課題。
(2.バックに社会の大きな変化)
 では、なぜそのように変化したのか。登小平の改革・開放政策による社会の大きな変化、国民意識の変化がある。百年二百年のスパンで見ると中国は100数十年程前まで自分が世界の中心という考えでやっていた。中華思想で世界から立ち遅れ封建的な体制から脱皮できなかった。日本は明治維新でこれをなし遂げたが、中国では登小平の時代になって、初めてこれを実現できた。改革開放を進め、経済発展を最優先することによって中国は大きく変わった。もちろんそのバックには毛沢東の指導による中国の独立があるが。 
 登小平は改革開放政策を打ち出し、二〇〇〇年までに四倍増を目標とした。実際には二〇年間で五倍増を実現した。たとえば高速道路の建設では、アメリカに次いで二位で、二万キロに達し、更に毎年二千キロが建設されている。(日本は七千キロ)。
 中国の経済体制の改革変化は政治の分野にも影響を及ぼし、地方分権に変わってきている。日本は国税九割、地方税一割だが中国では国税四割、地方税六割となっている。中国の東部沿海地方、中部と地方の積極性が増大した。計画経済から市場経済に変化したことが大きく作用している。農業の分野では請負制になった。最近では日本の農協の様な組織も学ぼうとしている。
三〇年前中国では三種の神器はラジオ・腕時計・ミシンだった。一九九〇年代にはこれがカラーテレビ・冷蔵庫・洗濯機となった。現在は、マイホーム・マイカー・パソコン(インターネット)と全く様変わりしている。一九九六年のインターネット利用者は六〇万人で大学の研究者などがほとんどだった。二〇〇二年には5900万人が利用しており、これは世界第2位。(日本は5400万人)。インターネットの普及によって、伝統的な社会主義的鎖国政策は不可能となった。もはや情報をストップできない。また国民の声が直接反映されるようになってきた。中国共産党の3つの代表理論の3つ目に全国民の代表にならなければならないとの規定があるが、これもその現れといえる。今後社会民主主義の方向に向けて動いていくと思われる。胡錦涛さんが引っ張ったというより社会の大きな構造的変化、国民意識の変化を見ていく必要があるだろう。1つ2つの動きで判断するのではなく、全体的な大きな流れに沿って中国の将来像を判断していく必要がある。市場メカニズムのもとで人治から法治へ変わってきており、更に15年以上かけて民主主義を実現していけばよいと思う。
(3.中国経済の行方について)
 先頃、有人衛星が打ち上げられられた。ODAの対象に中国はならないのではないかとの議論も聞かれるようになった。日本のような先進国の場合、東京も地方も技術・生活レベルは均一だが、発展途上国は技術や富が中心大都市に集中している。一部は進んでいるが、多くは遅れているのが現実だ。
「一点突破、全面展開」と言う言葉があるが、有人衛星の様な高度な技術の壁を突破し、政府が引っ張って全国に広めるという政策を取っている。日本は超LSIといったしっかりした技術の基礎があるが中国はそうではない。新中国が誕生したとき、ゼロの状態であり、農村を基礎にして社会主義工業化の基盤を作っていった。それが登小平の改革につながった。中国を客観的に評価する必要がある。
 中国では地方分権が進み、百家争鳴、激しい競争が行われている。沿海地区には4つの発展モデルがある。1つは広東モデルで香港と同じレッセ・フェール即ち自由放任型。2つ目は浙江モデルで民間企業主導型。3つ目は上海モデルでシンガポールと同じく政府主導型。4つ目は山東モデルで韓国と同じく幾つかの大手企業集団の下に中小企業を育成していく方法。
 中国政府はまた、経済発展のための戦略的な指導に力を入れている。登小平は1980年を基礎として2000年までの4倍増を打ち出した。16回党大会では、2050年までの3段階発展戦略を打ち出した。2010年までに2倍増、20年までに4倍増、50年までに半ば先進国・半ば中進国の水準に達するというものだ。92年1月には有人衛星実現を目指す方針が発表されているが、逆上って86年4月には、安い労働力で外貨を稼ぎ、同時に科学技術振興策をとり留学生の派遣を積極的に進める方針を打ち出している。2008年の北京オリンピックや2010年の上海万博も早くから準備し招致に成功した。経済の牽引車の役割を担っている。西部大開発や東北発展戦略も、2010年以降の経済発展の機関車になることをもくろんでいる。
(4.中国の抱える構造的問題点について)
 1つは過剰な人口。適正な人口規模は6億人といわれ、人口の限界は16億人とされる。中国では1970年代には年2400万人の人口増加だったが、一人っ子政策により、現在は1200万人の増加に抑えることができた。高齢化社会対策もあり、2002年に抜本的な見直しが行われ、これからは計画出産は続けるが2人子政策に移行する。高齢化を含めて人口圧力は中国の足かせとなっていくことは間違いない。
 2つ目は厳しい自然環境。3分の1は砂漠で、チベット高原などをいれると5割以上が不毛な土地。また長江が第2の黄河となる危険性も指摘されている。毎年1900平方キロの砂漠化が進んでいる。緑化等に真剣に取り組みつづけようやく2050年に悪化をくい止めプラスマイナス・ゼロになると言われている。
 3つ目は極端な地域間格差。東部と西部は面積は半分ずつとして人口は東部に95%が住み、西部にはわずか5%。富も偏在しており、格差是正の取り組みは少数民族問題との兼ね合いもあり重要だ。
 更に、教育投資の不足の問題がある。中国の教育投資は先進国はもちろんインドなどと比べてもはるかに遅れている。

三.日中関係の課題
 昨年の日中間の往復貿易額は、1030億ドルに達した。2国間で1000億ドルを越える関係を持ったのは歴史上日米など5組しかなく、きわめて強い結びつきと言える。文化交流や地方レベルの交流など他に例を見ないほどだ。42万人の中国人が日本を訪れ、大学で博士号を取った者もすでに3000人に及ぶ。しかし、多くの問題が表面化している。どうしたら良いのか。
 問題があることは、必ずしも悪いことではない。30年前日中国交正常化の熱気に満ちていたとき、どれほど日本人は中国の事を知っていたか。言わば当時は恋愛の時代で、現在は結婚後の時代と言えよう。交流拡大にともなって出てきた問題。残念なことに、交流拡大のわりに、相互理解が進まなかった。中国でも日中戦争のことは教えたが、日本の戦後の変化や現在の日本社会についてはあまり教えなかった。日本でも中国社会の本質的な変化についての認識が不足していた。マスコミも中国の内面の変化を伝えず、アメリカ流の物差しで中国を見て一人二人の人権活動家が逮捕されたといった事を大きく取り上げ、13億の人々の生活が向上し、自由になってきたことをあまり紹介してこなかった。また歴史観の隔たりも埋められなかった。日中韓の間では、顔が似ていて同じ漢字を使い、食べるご飯も同じなので、自分の物差しで相手をはかる傾向がある。なんで、こんなことも分からないのか、と思ってしまう。お礼の言い方ひとつとっても、日本人は、昨日のお礼はすぐ返す、プラス・マイナス・ゼロを保ちたいというこのような日本人の気持ちは中国人には分からない。結果として私の好意を菓子折り一つで済ますのかと言うことになってしまう。韓国の反日感情はサッカーのワールドカップの共催でだいぶ解消したようだ。中国とベトナムはかつて中越戦争をしたが、中国側が占領した国境紛争地をベトナムに渡して、今その地が国境貿易の基地になっている。気持ちの余裕がある。ところが日中間では互いにアジアの大国だと言う意識や過去の歴史的経緯もあって互いにコンプレックスを持っていて互いの動きに過剰反応する。
 どうしたら良いか。1つは経済・文化の両面で交流基盤を厚くしていく。日中間でシンボリックな経済協力を行っていく事も良いだろう。相互理解の強化に力を入れることが欠かせない。相手がどう思っているかを考える。西安の留学生事件はその必要性を非常に鮮明にした。歴史問題についていえば、胡錦涛指導部は日中関係を全般的に発展させ、歴史問題を相対化するという政策をとろうとしている。言わば入口論から出口論になった。しかしこれは、歴史問題を中国が引っ込めたというわけではない。小泉首相の靖国参拝は、首脳交流ができない大きな壁として立ちふさがっている。日中関係の発展にとって大きな阻害要因となっている。この問題の解決を強く望んでいる。

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