中国帰国者だより
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 帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と春節交流会(2/4)

 長野県と県日中友好協会中国帰国者交流センターは2月4日、「第10回中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル犀北館で開きました。帰国者1世の体験報告と、帰国者2世の医療通訳の体験発表、さらに満蒙開拓平和記念館の報告が行われ、280人余りが熱心に聞き入りました。第2部では中国太陽芸術団による中国の伝統芸術を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきやくじ引き抽選会、日ごろ日本語教室などで練習してきた歌や踊りの披露、ヤンコー踊りなどを楽しみました。

 主催者を代表して滝沢弘・県地域福祉課課長と高波謙二・県日中友好協会会長があいさつしました。高波会長は「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。長野県には4000人余りの中国帰国者の皆さんが暮らしている。開拓団の悲劇と帰国者支援問題は長野県と県民にとって忘れてはならない歴史。本日は残留孤児一世の皆さんの歩んだ歴史と現状への理解を深め、支援交流にともに励んでいきたい 。本年は、日中平和友好条約40周年の記念の年。日本と中国は再び戦争せず、末永く仲良く付き合っていくことを約束した。日中関係も好転してきており、喜ばしい。県日中友好協会は長野県政府とともに、中国を相手国とする東京オリンピックホストタウン事業に取り組み、また2022年の北京冬季オリンピック支援交流に取り組む。日中友好の懸け橋として帰国者の皆さんもご協力いただきたい。新年のご活躍を祈ります」と述べました。

 体験発表で高山秀子さん(72)=塩尻市=は、「敗戦後に現地で生まれたが、逃避行の中、父や兄弟がなくなり、母とともに養父に助けられた。困難な家庭環境や文革等厳しい時を過ごしたが養父にかばってもらい親切にしてもらった。47歳の時中国人の夫と帰国、日本語ができず職場で苦労したが、2008年に1世の待遇が改善し生活も良くなった。現在は地元のボランティアの皆さんと交流し有意義に過ごしている」と振り返りました。

 1985年に母と帰国した帰国者2世の秦文映さん(52)=飯田市=は、病院での通訳など帰国者支援にあたっている活動を紹介。言葉や習慣の壁に苦しむ高齢の帰国者が少なくないとし、「耳が遠くなり話が通じないと訴える人が多い」などと具体的な事例を交え話しました。

 特別報告として、「満蒙開拓平和記念館の現状報告」をスタッフの島崎友美さんがおこない、満蒙開拓団の悲惨な歴史を語り継ぎ平和を紡いでいく大切さを話しました。

 第2部は中国太陽芸術団による中国の歌・日本の歌、京劇・変面、二胡演奏を堪能しました。

 第3部の春節交流会では長野市日中女性委員会の皆さんが友好の黄色のハッピ姿で、交流会を進行し・盛り上げに大活躍。アトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが餅つきを体験しました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちが工芸品や中国の銘酒、お米などの景品を受け取って喜んでいました。飯田、松本、伊南、長野、上田の日本語教室に通う帰国者の皆さんが次々と準備してきた出し物を披露しました。上田教室の皆さんはハッピ姿に菅笠を手に山笠音頭を披露。飯田グループはおそろいの中国衣装を着て見事な踊りを披露、長野の皆さんは二胡やフルースの演奏なども披露。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。参加した帰国者の皆さんは「中国の春節を祝いながらみんなと集まれるこの会を毎年楽しみにしている」と語っていました。

 飯田下伊那、伊南、伊那、松本、佐久、上田、長野、飯山などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。中沢洋子県地域福祉課課長補佐、本山聖一県地域福祉課主査、小林佑一郎元中国帰国者定着促進センター所長、塩入靖長野市生活支援課課長補佐、清水えい子・村山ひとみ・島津美智子県日中副会長、西堀正司県日中帰国者交流センター所長、西沢毅県日中帰国者留学生委員長、、小林勝人飯田日中理事長、北沢吉三伊南日中事務局長、宮沢信代県日中女性委委員長、布施正幸帰国者交流センター次長らも出席し帰国者を激励し交流しました。

 長沼公民館と共催で「中国の伝統文化を楽しむ会」を開催(1/28)

長沼公民館が主催し、県・長野市日中友好協会女性委員会が共催として協力した「中国の伝統文化を楽しむ会」が1月28日(日)に長沼公民館で開催されました。

これは、東京オリンピック・パラリンピックホストタウン事業として中国を応援する公民館事業の第一弾として行われたもので、この日を皮切りに今後も様々なイベントが計画されています。

当日は、地元の皆さんや県と市女性委員会のメンバーなど約80人が参加しました。第一部の「中国の伝統音楽芸能を楽しむ会」では、初めに長沼公民館の宮沢館長が「このイベントを契機に中国との新たな縁づくりを進めたい」とあいさつしました。

続いて地元グループの皆さんが太極拳のように体を動かしながらラケットで砂の入った球を操る「太極柔力球」を披露。太極拳では参加者も一緒に動きを体験しました。

また、中国帰国者の野村洪才さんによる二胡の演奏や桜井純子さんや島津美智子さん、帰国者の窪田国男さんによる「フルス」の演奏も行われ、参加者は中国民族楽器の奏でる音色にうっとりしていました。

第2部の「中国の料理を楽しむ会」では、中国茶や帰国者の皆さんらが作った餃子、カボチャを原料とした南瓜餅などを囲みながら楽しく交流しました。また、孔子学堂中国側責任者の王秀閣さんから中国茶の種類と効能についての説明や県国際交流員の李妮さんによる南瓜餅の話などもあり、大変興味深いものでした。

参加者の一人は「中国の伝統文化を見たり聞いたりするのは初めてでいい体験だった。こうした交流が広まればいい」と話していました。

 中国帰国者のつどい 伊那路をバスツアー(10/22)

長野市と市日中友好協会、市帰国者の会で構成される長野市中国帰国者三者連絡会の主催による平成29年度長野市帰国者のつどいが10月22日実施されました。

今年は久々の南信地域として駒ケ根市の養命酒駒ケ根工場と伊那市のかんてんぱぱガーデンを訪れました。

当日はあいにくの雨となりましたが、82名の参加者がバス2台に分乗しての賑やかな交流会となりました。

朝8時頃長野市を出発し、途中松代PAで2台のバスが合流してここで開会式を行う予定でしたが、激しい雨のため開会式は駒ケ根に着いてからとされました。

10時過ぎには養命酒の駒ケ根工場に到着し、早速開会式が行われました。まず長野市生活支援課の上田哲夫課長が「長野市は市日中友好協会や帰国者の会と連携して帰国者の生活支援に取り組んでおり、その一環として帰国者のつどいを毎年実施している。楽しい交流会となるようよろしくお願いしたい」とあいさつしました。

続いて三者連絡会の金子繁三理事長が「大勢の帰国者の皆さんに参加いただいてありがとうございます。今年は久々の南信地域ということで昨年の安曇野に引き続いて伊那路を訪れた。充実した1日となるようにしてほしい」とあいさつしました。

また、来賓として出席した布施正幸県日中帰国者交流センター次長が「センターで学んだ帰国者1世の方が2世3世の皆さんとともに元気に参加されとことは大変嬉しい。帰国者の皆さんが安心して幸せな生活が送れるよう、今後とも関係機関と連携して頑張っていきたい」と述べました。

開会式の後、工場の担当者からビデオによる全体の紹介をしていただき、また養命酒の試飲をした後、製造ラインの案内をしていただきましたが、とても興味深いものでした。

見学終了後はショッピングを楽しんでから、駒ケ根インター近くの「ビアンデさくら亭」に移動し、昼食をとりました。

午後は、伊那市のかんてんぱぱガーデンを訪れましたが、大勢の観光客の皆さんに交じって、ショッピングなどを楽しんだ後、バスに分乗して帰路につきました。

かんてんぱぱガーデンで行う予定だった閉会式は、雨が降り続いていたため行わず、途中バスの中で柳沢春生会長から「来年もまた元気で会いましょう」とのあいさつがありました。

あいにくの天候でしたが、参加者の皆さんは皆元気にこのつどいを大いに楽しまれた様子で、大変有意義な交流会となりました。

  帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と春節交流会(2/5)

 長野県と県日中友好協会中国帰国者交流センターは2月5日、「第9回中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル犀北館で開きました。中国東北部に渡り、敗戦時の混乱で取り残され中国養父母に助けられ育てられた帰国者(残留孤児)が体験を発表、あわせて満蒙開拓平和記念館の報告も行われ、240人余りが熱心に聞き入りました。第2部では東京中国歌舞団による中国の歌・日本の歌、民族楽器演奏を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきやくじ引き抽選会、歌や踊りの披露、ヤンコー踊りなどを楽しみました。

 主催者を代表して中澤洋子・県地域福祉課課長補佐と高波謙二・県日中友好協会会長があいさつしました。高波会長は「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。長野県には4100人の中国帰国者の皆さんが暮らしている。開拓団の悲劇と帰国者支援問題は長野県と県民にとって忘れてはならない歴史。昨年11月天皇皇后両陛下が満蒙開拓平和記念館を訪問され関係者と懇談されたことはたいへんよろこばしいことで国民の理解が進むと期待される。本日は残留孤児一世の皆さんの歩んだ歴史と現状への理解を深め、支援交流にともに励んでいきたい 。本年は、日中国交正常化45周年の記念の年。45年前、日本と中国は再び戦争せず、末永く仲良く付き合っていくことを約束した。県日中友好協会は長野県政府とともに、中国を相手国とする東京オリンピックホストタウン事業に取り組み、また2022年の北京冬季オリンピック支援交流に取り組む。日中友好の懸け橋として帰国者の皆さんもご協力いただきたい。新年のご活躍を祈ります」と述べました。

 体験発表で松本市の中村千生さん(74歳)は、「敗戦直前の昭和20年5月に3歳で内蒙古にわたり、敗戦後の逃避行の中で養父に助けられたが、母は7日目に死別した。養父は私が22歳の時亡くなったが日本に帰る手立てもなく、結婚し55歳まで働き続けた。56歳の時帰国、喬木村の定着センターで4か月勉強した後、松本に定着、長野の自立研修センターで8か月日本語の勉強をしたが、難しくて仕事にすぐ就くことはできなかった。2008年に1世の待遇が改善し生活も良くなって、地元のボランティアの皆さんと交流し有意義に過ごしている」と振り返りました。

 上田市の井澤紀代子さん(76歳)は、「4歳で中国東北部にわたり、敗戦後の逃避行の末に母と物乞いをして過ごした。その後養父に救われ幸せな少女時代を過ごしたが、進学や職場では差別に苦しみ、中でも結婚を約束した男性の親族に日本人だからと反対され、破談になったのが一番つらかった」と語りました。「53歳に家族とともに帰国して長野の自立研修センターで8か月日本語を勉強した後、就職し生活保護を受けることなく母を老人ホームに入れ娘を進学させた。職場で誤解されたり、家族の事故や自身の病気など、経済的精神的に追い込まれるなど、様々な苦しみがあったが、2008年の支援法によって生活が保障されるようになり、今は祖国で生活する喜びを感じている。月2回の上田日中友好協会の日本語教室に通い、また上田市と市日中のお陰で個人墓地を入手し、自分たちでお墓を立てることができた。残りの人生を元気で楽しく生きていきたい」と述べました。会場から、大きな拍手が寄せられました。

 特別報告として、「満蒙開拓平和記念館ボランティアグループ・ピースLaboの歩み」を代表の木村多喜子さんがおこない、満蒙開拓団の悲惨な歴史を語り継ぎ平和を紡いでいく大切さを話しました。

 第2部の東京中国歌舞団の歌と民族楽器演奏では、劉錦程さんの揚琴演奏をバックに陽二蓮さんの歌の世界(中国の歌・日本の歌)を楽しみました。会場は春節の華やかな雰囲気に包まれました。

 第3部の春節交流会では長野市日中女性委員会の皆さんが友好の黄色のハッピ姿で、交流会を進行し・盛り上げに大活躍。アトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちが工芸品やお米などの景品を受け取って喜んでいました。飯田、松本、伊南、長野、上田の日本語教室に通う帰国者の皆さんが次々と準備してきた出し物を披露しました。飯田グループはおそろいの中国衣装を着て見事な踊りを披露、長野の皆さんは二胡やフルースの演奏なども披露。上田教室の皆さんは、はっぴ姿に桜の枝をもって、「真田桜」の踊りを披露しました。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。参加した帰国者の皆さんは「中国の春節を祝いながらみんなと集まれるこの会を毎年楽しみにしている」と語っていました。

 飯田下伊那、伊南、伊那、松本、佐久、上田、長野、飯山などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。宮川あゆみ県地域福祉課主査、小林佑一郎元中国帰国者定着促進センター所長、塩入靖長野市生活支援課課長補佐、中沢道保・福沢宏夫・村山ひとみ・島津美智子県日中副会長、西堀正司県日中帰国者交流センター所長、西沢毅県日中帰国者留学生委員長、田中晃美上田市日中会長、金子繁三長野市日中理事長、宮沢信代県日中女性委委員長、布施正幸帰国者交流センター次長らも出席し帰国者を激励し交流しました。

 帰国者日本語教室だより

                        帰国者交流センター日本語講師桜井純子

長野県日中友好協会が長野県から委託されている日本語教室は長野、上田、松本、飯田にそれぞれあります。

 帰国者である学習者は混乱の時期に中国で育ち、小学校も出ていない人もいます。それに加え、文化、風俗習慣の違いから、学習運営が一般的な日本語教室と大いに違い、受ける側にとっても、教える側にとっても、なかなか難しい所があり、お互い忍耐と工夫が求められます。それでも、「今日は授業に来て良かった、皆と一緒に勉強をして楽しかった」をモットーに、学習者自身の故郷、或いは、学習者の両親の故郷、配偶者の故郷・日本に帰って来て、日本社会で生き生きと自信を持って過ごせるようにと、この日本語事業が実を結ぶ一翼を担うべく日々の授業に臨んでいます。

また、長野、上田、松本の教室は修学旅行を実施していますが、帰国者、特に日本人である一世が、旅行を通し日本の歴史の一端に触れることは一世のアイデンティティー確立の一助ともなっています。学習者の年齢等を考えると、自分の足で歩ける年数も少なくなっていますので、課外授業を通じての社会勉強も今まで以上に取り入れていくことも大事であると考えています。

 長野市の帰国者、80人で安曇野バスツアー(10/30)
 
 長野市と市日中友好協会、市帰国者の会で構成される長野市中国帰国者三者連絡会の主催により平成28年度長野市帰国者のつどいが10月30日行われました。昨年の世界遺産冨岡製糸場参観に引き続き今年も要望に応えてのバスツアーで安曇野の大王わさび農場とガラス工房アートヒルズミュージアムなどを訪問しました。帰国者と友好協会役員、市生活支援課の皆さん等約80名が参加し、大型バス2台に分乗しての賑やかな見学交流会となりました。

 あたたかい日差しに恵まれたこの日、長野を8時前後に出発した2台のバスは松代PAで合流し、ここで開会式が行なわれました。

 長野市生活支援課の上田哲夫課長が「長野市は帰国者の会、日中友好協会とともに三者連絡会を設けて、帰国者の皆さんの生活支援事業に取り組んできましたが、その一環として毎年帰国者のつどいを開催しています。ここ数年はバスツアーで観光名所を訪れながら交流を深めてきました。今日1日楽しく交流を深めてください」とあいさつしました。

 続いて、三者連絡会会長の金子繁三長野市日中友好協会理事長は、「沢山の帰国者に参加いただき感謝します。一昨年の上越市水族博物館訪問、昨年の冨岡製糸場参観バスツアーに次いで今年は安曇野を訪問します。年配の方もいるので、無理しないで、楽しい1日を過ごしてください」とあいさつしました。

 布施正幸・県日中帰国者交流センター次長も「帰国者1世の皆さんが大勢の子や孫に囲まれて安心した老後を送れるよう地域の皆さんとともに頑張っていきたい。今年は開拓団送出のもとにもなった、満州事変から85周年にあたります。歴史を忘れず、平和を大切に守っていきたい。11月には天皇皇后両陛下が満蒙開拓平和記念館を訪問されるとの喜ばしいニュースが伝えられました。開拓団の悲劇に思いを致し平和を大切に考えておられる証と思います。日中両国の不再戦、平和友好を願う気持ちを強く持っている皆さんが今後とも元気に過ごし友好の懸け橋になっていただきたい」と述べました。

 バスは、順調に10時に大王わさび農場に到着すると、他の観光客とともに入場、わさび畑をバックに記念撮影の後、思い思いのルートで広いわさび畑を参観しました。

 説明によると、北アルプスからの湧水を利用した、日本最大規模のわさび園で、年間約120万人が訪れるそうです。もともとは雑草の生い茂る原野だったところを20年の歳月をかけ開墾完成させたもので、「大王」の名称は敷地内にある大王神社に由来します。この神社は民話に登場する八面大王の胴体が埋葬されているとされます。創設者の強い意志を支えるとともに、観光名所の柱にもなっているようでした。わさび田に引かれる湧水は一日12万トンで、水温は年間通して12℃。収穫は年間通して行われます。また、ここは黒澤明監督の映画『夢』のロケが行われたことでも知られ、水車小屋をバックに写真をパチリ。帰国者の皆さんも興味深げに参観していました。

 郊外の「ほりでーゆー四季の郷」で昼食の後、安曇野アートヒルズミュージアムを訪問しました。ガラス工房や様々なガラス工芸品が展示されていて、見ごたえのあるものでした。こちらも観光客でにぎわっていました。

 最後に安曇野スイス村でショッピングを楽しんだ後、閉会式を行い、柳沢春生帰国者の会会長が「来年もまた計画していきたいと思っているのでご高齢の一世の皆さんも元気で会いましょう」とあいさつ、2台のバスで家路につきました。

 一世の皆さんは70代半ば過ぎの方が多いですが、皆さん元気に2世3世4世に囲まれて楽しい一日だったと喜んでいました。
  帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と春節交流会(2/14)

 長野県と県日中友好協会中国帰国者交流センターは2月14日、「第8回中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル犀北館で開きました。旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦時の混乱で取り残され中国養父母に助けられ育てられた帰国者(残留孤児)が体験を発表、あわせて満蒙開拓平和記念館の報告と教育現場での帰国子女への差別を克服した特別講演も行われ、230人余りが熱心に聞き入りました。第2部では東京中国歌舞団による民族楽器演奏を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきやくじ引き抽選会、歌や踊りの披露、ヤンコー踊りなどを楽しみました。

 主催者を代表して田村浩志・県地域福祉課企画幹と高波謙二・県日中友好協会会長があいさつし、「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。長野県には現在1300世帯4100人の中国帰国者の皆さんが暮らしている。2008年には新帰国者支援法が施行され、更に一昨年10月からは1世の配偶者支援の態勢ができた。帰国者1世の高齢化が進み、引きこもり防止や介護、2世の就労などの課題もある。開拓団の悲劇と帰国者支援問題は長野県と県民にとって忘れてならない歴史。帰国者の皆さんが、地域や県民の皆さんの理解を得て、平穏で幸せな生活を送ることができるように国、県、市町村、関係者が連携して支援活動に取り組んで行きたい。満蒙開拓平和記念館も一昨年春オープン以来、9万人近い参観者が訪れて全国的な関心を集めていてよろこばしい。本日は、帰国者一世の石坂万寿美さんの体験発表と満蒙開拓平和記念館報告、特別講演が予定されている。帰国者の皆さんの歩んだ歴史と現状への理解を深め、支援交流にともに励んでいきたい」と述べました。

 体験発表で石坂万寿美さん(72)=塩尻市=は、「家族で旧満州に渡りまもなく敗戦、父はシベリアに抑留され死亡、母とも死別した中で、現地の中国人に救われた。養母は病気の自分を1日に200回もおなかを撫でて看病してくれたり、鉄鍋を売って生活費や教育費を工面し育ててくれた」と体験を語り、私が現在あるは養父母のおかげですと話しました。

 特別報告として、飯田日中友好協会理事長の小林勝人さんが「満蒙開拓平和記念館」の活動を紹介し、ピースラボ講座や澤地久枝さんの講演会、中国養父母連絡会代表と養母を招いてのシンポジウム、養父母展の開催等を通じて、開拓団の悲劇を若い世代に伝える平和教育の基地としての役割を果たしていることを報告しました。また養父母展の県内巡回展示への協力を呼びかけました。

 特別講演として篠ノ井西中学教諭の飯島春光さんは「満州開拓団の歴史を20代で82.9%、30代で66.3%の人が知らない、帰国者がなぜ日本で生活し苦労しているかその理由も知らない現実がある」と指摘し、篠ノ井西中学で1990年代後半中国帰国生徒が急増する中で差別やいじめ問題が発生し荒れていた、それを克服するために、満州移民に焦点を当てた学年ぐるみの歴史、平和学習に取り組んだ経緯を紹介しました。「生徒たちは祖父母や曾祖父母の戦争体験の聞き取りと発表に取り組み、帰国生徒も新聞づくりを通して曾祖母の人生に迫った」「ひいおばあちゃんの話を取材した宏くんはひいおばちゃんが中国で殺されそうになったところを現地の中国人に救われ結婚し、帰国後現地に家族と自分の墓を建てたことを知った」「ひいおばちゃんの歴史を調べ、それを親にも知らせることができた」などの事例を紹介し、戦争をどう学び、どんな未来をつくっていくかが問われていると話しました。

 第2部の東京中国歌舞団の民族楽器演奏では、劉錦程団長の揚琴と汪成さんの二胡の演奏を楽しみました。会場は春節の華やかな雰囲気に包まれました。最後に「北国の春」と「大海啊、故郷(海はふるさと)」を歌いました。

 第3部の春節交流会では長野市日中女性委員会の皆さんが友好の黄色のハッピ姿で、交流会を進行し・盛り上げに大活躍でした。アトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちが切絵のカレンダー、お米やリンゴなどの景品を受け取って喜んでいました。松本、飯田、上田、長野、伊南の日本語教室に通う帰国者の皆さんが次々と準備してきた出し物を披露しました。「信濃の国」「ふるさと」「花」「北国の春」などを堂々と歌い大きな拍手を受けました。上田教室の皆さんは、はっぴ姿に桜の枝をもって、「真田桜」の踊りを披露喝采を浴びました。二胡やフルース、横笛の演奏なども披露され、最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。参加した帰国者の皆さんは「中国の春節を祝いながらみんなと集まれるこの会を毎年楽しみにしている」と語っていました。

 飯田下伊那、伊南、伊那、松本、佐久、上田、長野、飯山などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。中沢洋子県地域福祉課長補佐兼自立支援援護係長、宮川あゆみ同係主査、小林佑一郎元中国帰国者定着促進センター所長、庭山透長野市生活支援課長、王秀閣中国国際放送局孔子学堂担当者、井出正一県日中最高顧問、清水可晴・中沢道保・福沢宏夫・清水えい子・村山ひとみ県日中副会長、西堀正司県日中帰国者交流センター所長、西沢毅県日中帰国者留学生委員長、池上一巳上田市日中会長、金子繁三長野市日中理事長、布施正幸帰国者交流センター次長らも出席し帰国者を激励し交流しました。
 新年好!楽しく学ぶ、引きこもりを防ぎ脳トレを兼ねた日本語教室 (1/1)     

 長野県日中友好協会帰国者交流センターは国と県の委託を受けて、長野、上田、松本、上伊那、下伊那などで帰国者一世を中心とした日本語教室を開いています。一世の高齢化とともに日本語教室も「日本語能力を高め社会生活に困らないために」から「引きこもりを防ぎ脳トレを兼ねた日本語」へとシフトしてきています。日本語を勉強する中で、ラジオ体操をやったり、歌や踊りを覚えたり、パズルをやったりしています。そして、帰国者の皆さんの望みは、教室に来ると皆に会えるので、中国語で思う存分おしゃべりをしたいとの希望を持っています。そんな望みも叶えながら教室運営に工夫を凝らしながらやっています。また、長野や松本教室の学習者の間では、iPadやスマートフォンが流行っており、パズルをしたり、中国のニュースを見たり、学習者同士または中国の家族と微信(LINEの中国版)で連絡を取ったり、写真の交換をしたりしています。(写真は長野教室年末の懇親交流会)

7月23日には、各市町村の帰国者担当者研修会を開催しました。満蒙開拓平和記念館を参観したのち、記念館の寺沢秀文専務の講演をお聞きし残留孤児が生まれた歴史背景を学びました。また県地域福祉課の宮川あゆみ主査から帰国者と介護保険制度について説明があり、有意義な研修会となりました。

2月14日には恒例の「帰国者への理解を深める県民のつどい」(帰国者春節交流会)を開催します。皆様のご参加をお待ちしています。
  (帰国者交流センター日本語講師 桜井純子)

中国人養母ら招き阿智村でシンポジウム(12/12)

 満蒙開拓平和記念館(河原進館長)と飯田日中友好協会(清水可晴会長)は12月12日、阿智村中央公民館で中国残留孤児を育てた養母を招き「中国養父母を知るシンポジウム」を開きました。元残留孤児やその家族、支援者、市民ら約100人が参加し、養母と孤児の話に耳を傾けました。

 来日したのは、黒竜江省ハルビン市在住で残留孤児の日本人女児を育てた養母、李淑蘭さん(88)や中国に残る孤児や養父母の生活を支援している「ハルビン市日本孤児中国養父母聯誼会」の丁一平副会長ら7名。昨年6月、記念館代表が訪中した際に交流したのがきっかけで今回の招請が実現しました。

 丁副会長が1985年に設立された養父母聯誼会の活動を紹介したのち、李さんは記念館の三沢亜紀事務局長の質問に答える方式で、日本人孤児を育てることとなった経緯や思いを語りました。おかゆやマントウを売る店を営んでいた李さんは1945(昭和20)年秋、日本人女性からやせ細った女児を託されました。自身も養女として育てられた経験から「ほっておけない気持ちで預かった」。日本人の子を預かったことで非難も浴びたが「孤児なのだから誰かが面倒を見てあげなければかわいそう」と揺るがなかったと李さん。娘が81年実母がわかり日本に帰ることとなった際は「別れはつらかったが娘が実の母と会えると思うとうれしかった。自分は母が誰なのかいまだわからない」と述べました。

 中国の養父母に育てられた元残留孤児、多田清司さん(76)=飯田市=も登壇。「(収容所で父母を亡くした多田さんを)養父がおぶって自宅へ連れて帰り、養母がおもゆを作って一口一口たべさせてくれた。中国の養母(ママ)のおかげで生きながらえることができた」と話しました。

 東京から駆け付けた元残留孤児の中島幼八さん(73)は、花束とともに自身の体験をつづった書『この生あるは』(中国語版)を贈り、感謝の気持ちを表しました。中国残留孤児長野訴訟副団長を務めた石坂万寿美さん(72)=塩尻市=も「中国と養父母は私たちが生活し学ぶすべてを支援してくれた。健康で長生きされることを心から願っています」と語り、感謝の意を表しました。

 小林勝人・飯田日中友好協会理事長が日本側における残留孤児の受け入れ活動の概要を報告し、寺沢秀文・平和記念館副館長がシンポジウムのまとめを行いました。

 なお、平和記念館では「日本人残留孤児と中国養父母展」(ハルビン市日本孤児中国養父母聯誼会提供)を11月21日から12月26日にかけ開催しています。引き続き、県内各地区日中友好協会と共催で巡回展示を予定しています。 
長野市の帰国者、世界遺産・富岡製糸場とこんにゃくパークを見学交流(10/25)
 
 長野市と市日中友好協会、市帰国者の会で構成される長野市中国帰国者三者連絡会の主催により平成27年度長野市帰国者のつどいが10月27日行われました。昨年の上越市水族博物館訪問に引き続き今年も要望に応えてのバスツアーで世界遺産冨岡製糸場とこんにゃくパークを訪問しました。帰国者65名と友好協会役員、市生活支援課の皆さんが参加し、市のバス2台に分乗しての80名の賑やかな見学交流会となりました。

 あたたかい日差しに恵まれたこの日、長野を8時前後に出発した2台のバスは松代PAで合流し、ここで開会式が行なわれました。

 三者連絡会副会長の柳沢春生・市帰国者の会会長は、「沢山の帰国者に参加いただき感謝します。年配の方もいるので、無理しないで、楽しい1日を過ごしてください」とあいさつしました。布施正幸・県日中帰国者交流センター次長も「帰国者1世の皆さんが大勢の子や孫に囲まれて安心した老後を送れるよう地域の皆さんとともに頑張っていきたい。日中両国の不再戦、平和友好を願う気持ちを誰よりも持っている皆さんが友好の懸け橋になっていただきたい」と述べました。

 バスは、予定通り11時に富岡製糸場に到着すると、参観者が門前列を成していて大盛況でした。「木骨レンガ造」の広大な建物がしっかり保存され、東置繭場跡には富岡製糸の歩みをわかりやすくパネル展示してありました。繰糸所は工場の心臓部だったところですが、28年前まで動いていた機械が整然とその場所に保存されていました。

 富岡製糸場は明治5年(1872)に日本初の官営の近代的大規模製糸工場としてスタートしました。以後民営払い下げとなり最終的に長野県とかかわりの深い片倉工業㈱が取得し昭和62年(1987)操業停止まで続いたもので、その後富岡市に寄贈され国指定重要文化財となりました。昨年念願かなって世界遺産に指定されました。帰国者の皆さんも興味深げに参観していました。

 市内の藤乃屋で昼食の後、群馬県の特産こんにゃくのテーマパーク「こんにゃくパーク」を訪問しました。大変大きな施設ですが、こちらも大勢の観光客でにぎわっていました。まず入口で記念撮影、そして工場を2階から案内コースに沿って参観しました。続いてこんにゃくのバイキング料理を味わい、最後に両手がふさがるほどのこんにゃく製品を買い込みショッピングを楽しみました。

 一世の皆さんは70代半ば過ぎの方が多いですが、皆さん元気に2世3世4世に囲まれて楽しい一日だったと喜んでいました。
帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と春節交流会(2/22)

 県と県日中友好協会中国帰国者交流センターは2月22日、「第7回中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル犀北館で開きました。旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦時の混乱で取り残された体験を持つ帰国者らが体験を発表、あわせて満蒙開拓平和記念館の報告も行われ、250人余りが聞き入りました。第2部では東京中国歌舞団による歌と民族楽器演奏を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきやくじ引き抽選会、歌や踊りの披露、ヤンコー踊りなどを楽しみました。

 第1部では主催者を代表して小口由美・県地域福祉課長と井出正一・県日中友好協会会長(元厚生大臣)があいさつし、「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。日中国交正常化以来、長野県に永住帰国した1世は約400名で、その家族合わせると4200人の中国帰国者の皆さんが県内で暮らしている。2008年には新帰国者支援法が施行され、更に昨年10月からは1世の配偶者支援の態勢ができた。一方帰国者1世の高齢化が進み、引きこもり防止や介護、2世の就労などの課題もある。帰国者の皆さんが、地域や県民の皆さんの理解を得て、平穏で幸せな生活を送ることができるように国、県、市町村、関係者が連携して支援活動に取り組んで行きたい。満蒙開拓平和記念館も一昨年春オープン以来、5万5千人余りの参観者が訪れて全国的な関心を集めていてよろこばしい。尖閣問題で厳しい状況が続いてきた日中関係も昨年11月に3年ぶりに両国首脳会談が実現し明るさが見えてきた。帰国者の皆さんには平和の尊さを身にしみて感じておられる。友好の架け橋としても活躍願いたい。春節にあたり楽しく交流し理解を深めましょう」などと語りました。

 体験発表で大石文彦さん(73)=長野市=は、「3歳のとき終戦間近の1945(昭和20)年5月に宝興長野郷開拓団として家族と一緒に旧満州の延寿県宝興に渡った。戦争末期で廃業に追い込まれた長野市内の商工業者を無理やり説得して組織された開拓団だった。母が妊娠していたが強引に送り出されることとなった。慣れない農作業、落ち着くゆとりもなく敗戦、冷静な団長の判断で、逃避行での被害は最低限に抑えられたが、産声を上げた赤ちゃん(弟)は、冷たい雨に打たれて3日で死んでしまった。現地の人に助けられ自分は母とともにその後7年中国に滞在。さまざまな困難も体験したが1952年7月帰国できた」と振り返えりました。その上で、「日本は戦争で多くの人の命を失い、中国の人々に取り返しのつかないことをした。もうあんな悲劇を繰り返してはいけない」と強調しました。大石さんは自らの体験を『活(いきる)-戦中戦後中日でで活き抜いた少年の物語』(信毎書籍出版)としてこのほど出版しました。

 伊澤玲子さん(35)=上田市=は、帰国者2世の立場から「日本での出会い」と題して体験を語りました。「中国にいた小学生の頃、自分が日本人であることを恥ずかしいと感じていたが日本に来て日本人と接することで日本の悪いイメージが覆り日本人であることに自信を持てるようになった。お互いに悪い部分をクローズアップするのでなく自分の目で見て感じて互いの国を知ることが大事」と語りました。

 特別報告として、飯田日中友好協会理事長の小林勝人さんが一昨年春阿智村に開館した「満蒙開拓平和記念館」について映像を使って展示内容や参観者の動向など説明、これからも開拓団の悲劇を若い世代に伝える平和教育の基地としての役割を果たしていきたいと語りました。また昨年記念館スタッフが中国東北を訪問した際に、ハルピンで残留孤児養父母の会の責任者と出会い記念展示や活動を知ることができたことなどを紹介しました。

 第2部の東京中国歌舞団の公演では、陽二蓮さんの歌の世界と劉錦程団長の揚琴演奏を楽しみました。会場は春節の華やかな雰囲気に包まれました。最後に陽さんのリードで「北国の春」と「大海啊、故郷(海はふるさと)」を歌いました。

 第3部の春節交流会では長野市日中女性委員会の皆さんが友好の黄色のハッピ姿で、交流会を進行し・盛り上げに大活躍でした。アトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちが羊のぬいぐるみや切絵のカレンダーなどの景品を受け取って喜んでいました。松本、飯田、上田、長野の日本語教室に通う帰国者の皆さんが「早春賦」「ふるさと」「ソーラン節」「長野賛歌」などを一生懸命歌い大きな拍手を受けました。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。参加した帰国者の皆さんは「中国の春節を祝いながらみんなと集まれるこの会を毎年楽しみにしている」と語っていました。

 飯田下伊那、伊南、松本、佐久、上田、千曲、長野、中野、飯山などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。中澤敏正県地域福祉課長補佐、宮川あゆみ同係主査、小林佑一郎元中国帰国者定着促進センター所長、田中幸廣長野市厚生課長、朱丹陽中国国際放送局孔子学堂担当者、森田恒雄・中沢道保・福沢宏夫・清水えい子各県日中副会長、池上一巳上田日中会長、西沢毅県日中帰国者留学生委員長、金子繁三長野市日中理事長、布施正幸帰国者交流センター次長らも出席し帰国者を激励し交流しました。

佐久で中国帰国者との交流会140人が集う(11/23)

 佐久日中友好協会は11月23日、佐久市内のホテル一萬里において佐久平中国帰国者との交流会を開きました。佐久平地域の帰国者家族や友好協会会員、市民ら140人が参加し、楽しい交流の1日を過ごしました。

 中沢道保佐久日中友好協会会長は、帰国者の皆さんが言葉と習慣の壁を乗り越え頑張って生活していることに敬意を表し、今日は1日楽しく交流してくださいと激励しました。布施正幸県日中事務局長は帰国者一世の配偶者への支援体制が今秋から整備されたことを紹介しながら一世の皆さんが幸せな老後を過ごすためにも二世の皆さん三世の皆さんが安心して働き元気に学校に通えることが不可欠で友好協会としても地域の皆さんとともに努力していきたいと述べました。

 帰国者を代表して1974年に第1陣で帰国した神津よしさん(86歳=佐久市)が年はとっても元気に生活している様子を紹介し、交流会を楽しみに参加させてもらったと語りました。

 来賓として、柳田清二佐久市長(代理/坂戸千代子社会福祉部長)、井出庸生衆議院議員、木内均衆議院議員(代理)、今井正子県議、桃井進県議、吉岡徹市議、朱丹陽・中国国際放送局長野孔子学堂代表らがそれぞれの立場から激励のあいさつをしました。上田、小諸、軽井沢の日中友好協会の役員も参加し交流しました。小林良清佐久保健福祉事務所長の音頭で乾杯し懇親交流会に入りました。ホテル一萬里の畠山社長も大日向村開拓団の生き残りで、自らの悲惨な逃避行の体験を話しました。今回の催しに際して、協力を惜しまず、おいしい料理を提供していただきました。

 久しぶりに再会した帰国者の皆さんは懐かしく語り合い交流していました。続いて、みんなで楽しむビンゴゲームです。山のように用意された景品は、友好協会会員のみなさんが協力して提供していただいたものです。続いて古崎グループによる軽音楽の演奏、中国語学習グループによる「故郷」「夜来香」の合唱が披露されました。更にカラオケにあわせてのど自慢の皆さんが日本の歌、中国の歌を披露しました。最後に全員で佐久出身の井出はくさんが作詞した郷土の歌「北国の春」を全員で合唱して終了となりました。

 参加した帰国者の皆さんは「大変楽しかった。今後も参加したい」と語っていました。佐久日中の花岡茂理事長は今後ともこのような交流機会を持って帰国者支援にとりくんでいきたいと語りました。
長野市の帰国者、上越水族館とマリンドリーム能生を見学交流(10/26)
 
 長野市と市日中友好協会、市帰国者の会で構成される長野市中国帰国者三者連絡会の主催により平成26年度長野市帰国者のつどいが10月26日行われました。昨年の満蒙開拓平和記念館訪問に引き続き、今年も要望に応えてのバスツアーで上越市水族博物館とマリンドリーム能生を訪問しました。帰国者60数名と友好協会役員、市厚生課の皆さんが参加し、市のバス3台に分乗しての80名の賑やかな見学交流会となりました。

 あたたかい日差しに恵まれたこの日、長野を8時前後に出発した3台のバスは妙高SAで合流し、ここで開会式が行なわれました。三者連絡会会長の金子繁三・市日中理事長は、帰国者の皆さんの日ごろの活躍をたたえ、楽しい1日を過ごしてくださいとあいさつしました。

 上越の水族館では、大きな水槽の中をゆったりと泳ぎまわるエイなどが人気を集めていました。糸魚川の「膳処くろひめ」で昼食をとり、マリンドーム能生で取り立ての海の幸などのショッピングを楽しみました。最後に船をバックに全員で記念撮影。楽しい思い出を胸に帰長しました。

 一世の皆さんも70代半ば過ぎの方が多いですが、皆さん元気に2世3世に囲まれて楽しい一日だったと喜んでいました。
長野びんずる「日中友好連」で参加(8/2)

 第44回長野びんずる祭りが8月2日長野市の中心街でおこなわれ、長野市日中友好協会は「日中友好連」を組んで40人で参加しました。

 1万2千人の踊り手とともに中央通りのもんぜんぷら座前から長野駅に向かって進みました。日中友好の提燈を先頭に、友好協会会員と帰国者、実習生などが黄色い友好法被をまとってシャモジを打ち鳴らしながら熱心に踊りました。

 汗だくになりながら、元気いっぱい、エネルギーを発散させて踊りました。

 「楽しかった。良い思い出になりました」と皆さんの感想でした。
映画「望郷の鐘」制作協力と上映活動(8/1)

「残留孤児の父」として多くの人々から慕われた「山本慈昭」さんの生涯を描いた映画「望郷の鐘」(山田火砂子監督)の制作が進んでいます。

この映画制作への協力体制として、地元阿智村を中心に『山本慈昭「望郷の鐘」制作を支援する会』(会長阿智村長)が5月に発足し、飯田日中友好協会及び満蒙開拓平和記念館もこの会の副会長として参加協力し、チケット販売、協賛金集め、上映計画等の活動を積極的に行っています。チケットはすでに飯田日中と記念館で2千3百余を販売していますが、今後も取り組みを続けていきます。(県協会はじめ県下の地区協会においても協力しています)

7月23日には山本慈昭役の俳優内藤剛志さんも参加して映画撮影安全祈願祭が行われ、24日からはいよいよ撮影が始まりました。完成は11月の予定で、12月から上映が始まります。
(飯田日中友好協会事務局長 池田真理子)

春節にちなみ帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と交流会(2/11)2014

 県と県日中友好協会は2月11日、「第6回中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル・サンパルテ山王で開きました。旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦時の混乱で取り残された中国残留孤児らが体験を発表、あわせて昨年4月開館した満蒙開拓平和記念館の報告も行われ、220人が聞き入りました。第2部では東京中国歌舞団による歌と民族楽器演奏を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきやくじ引き抽選会、歌や踊りの披露、最後にヤンコー踊りを楽しみました。

 第1部では主催者を代表して小口由美・県地域福祉課長と井出正一・県日中友好協会会長(元厚生大臣)があいさつし、「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。日中国交正常化以来、長野県に永住帰国した1世は約400名で、その家族合わせると4300人の中国帰国者の皆さんが県内で暮らしている。2008年には新帰国者支援法が施行され、更に本年秋からは1世の配偶者支援の態勢ができた。一方帰国者1世の高齢化が進み、引きこもり防止や介護、2世の就労などの課題もある。帰国者の皆さんが、地域や県民の皆さんの理解を得て、平穏で幸せな生活を送ることができるように国、県、市町村、関係者が連携して支援活動に取り組んで行きたい。満蒙開拓平和記念館も昨春オープン以来、2万5千人余りの参観者が訪れて全国的な関心を集めていてよろこばしい。日中関係は尖閣問題で引き続き大変厳しい状況にあるが、帰国者の皆さんには友好の架け橋としても活躍願いたい。春節にあたり楽しく交流し理解を深めましょう」と語りました。

 体験発表で岩本くにをさん(81)=下伊那郡松川町=は、「9歳のとき1941(昭和16)年に泰阜村開拓団の一員として家族と一緒に旧満州の大八浪に渡ったが、敗戦前後に両親、兄姉を相次いで亡くし、逃避行の末に妹とも生き別れてしまった。一時は死のうと思ったが親切な中国人に助けられた」と振り返えりました。その上で、「日本は戦争で多くの人の命を失い、中国はじめ世界の人々に取り返しのつかないことをした。もう二度と戦争をしてはいけない」と強調しました。

 石坂万寿美さん(70)=松本市=は、中国残留孤児にとって配偶者は養父母と同じように孤児を守ってくれた恩人であることを紹介し、「2008年施行された新援護法で生活が安定し幸せを感じている。しかし孤児がなくなった場合、残された配偶者が無年金になってしまう問題点があり、これを、解決するため国会に請願署名を提出する運動をおこした。県日中友好協会はじめ多くの県民の皆さんの協力をいただき全国10万人署名を達成でき、昨年末の国会で配偶者支援法が衆参両院を通過し成立した。心から感謝申し上げます」と語りました。

 池田愛子さん(30)=長野市=は、帰国者2世の妻の立場から発表しました。「来日以来言葉に苦労したが日本語教室で日常会話を学び生活にもなれ、子供も生まれた。子育てに一段落したら簿記と日本語1級検定にチャレンジし働きたいと思う」と前向きに生きていく決意を語りました。

 特別報告として、飯田日中友好協会事務局長の小林勝人さんが昨春阿智村に開館した「満蒙開拓平和記念館」について映像を使って説明。歴史展示や体験証言・山本慈照氏ゆかりの展示などが若い世代にも写真や資料・映像で実感できるよう工夫をこを凝らして展示されている。また記念館脇に「鎮魂の碑」とともに「平和友好の碑」が建てられ、その台座には、周恩来総理ゆかりの「前事不忘、後事之師」の文字が刻まれていることなどを紹介しました。地元の中学生らが平和学習で訪れている様子も紹介し「平和の尊さを長野から日本、そして世界へと伝えていきたい」と語りました。

 第2部の東京中国歌舞団の公演では、陽二蓮さんの歌の世界と劉錦程団長の揚琴、黄恬さんの中国笛の演奏を楽しみました。会場は春節の華やかな雰囲気に包まれました。最後に陽さんのリードで「北国の春」と「ふるさと」を歌いました。

 第3部の春節交流会では長野市日中女性委員会の皆さんが友好の黄色のハッピ姿で、交流会の進行・盛り上げに大活躍でした。アトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちが景品を受け取って喜んでいました。飯田、長野、上田、松本、伊南、飯山の日本語教室に通う帰国者の皆さんが「北国の春」「富士山」「星影のワルツ」「ふるさと」などを一生懸命歌い大きな拍手を受けました。長野教室に通う皆さんは練習してきた踊りを披露し、また池田充さん作詞の「我愛你長野」を発表して大きな拍手を浴びていました。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。参加した帰国者の皆さんは「大変楽しい春節のつどいだった。来年も参加したい」と語っていました。

 飯田下伊那、伊南、松本、佐久、上田、千曲、長野、中野、飯山などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。山田火砂子監督(山本慈照氏の生涯を描いた映画「望郷の鐘」の監督)、和田登『望郷の鐘』原作者、堀内千恵子県地域福祉課長、竹内正一同係長、北原昇長野市厚生課長、高橋康雄部落解放同盟県連副委員長、朱丹陽中国国際放送局孔子学堂担当者、張金霞県国際交流員、福沢宏夫・村山ひとみ県日中副会長、西堀正司県日中理事長、西沢毅県日中帰国者留学生委員長らも出席し帰国者を激励し交流しました。
満蒙開拓平和記念館脇に「平和友好の碑」建立(10/8)2013

 飯田日中友好協会は創立50年を記念して、阿智村駒場の満蒙開拓平和記念館に「平和友好の碑」を建立しました。正面に「平和友好」と刻み、これまでの友好運動を継承し、平和への思いを発信する意志を込めたものです。

 石碑は中国福建省産の花崗岩で、平和をイメージした直系90㌢の球体。大鹿村産の変成岩でできた高さ約85㌢の台座にすえられています。平和友好の文字は阿部守一知事に揮毫を依頼。台座正面には、過去の出来事を忘れず将来への戒めとする中国の格言「前事不忘・後事之師」と刻んだ石がはめ込まれています。

 石碑の横には、旧満州(中国東北部)で亡くなった開拓団関係者を悼む「鎮魂の碑」があります。記念館の館長も務める河原進会長は「『平和友好の碑』を平和を願うシンボルにしたい」と話しました。

 10月8日には、阿部知事も碑を訪れました。平和友好の碑の建立に際しては、県内各地区友好協会からも賛同の寄付金が寄せられました。

 *日本軍国主義の国策の犠牲となった開拓団犠牲者の魂は日中の不再戦・平和友好を切望しているに違いありません。ハルピン市郊外の方正県には、周恩来総理の支持のもと、1964年に建立された中国東北部で唯一の「方正地区日本人公墓」があります。「日本人民も中国人民と同じように日本軍国主義の犠牲者であった」との周総理の言葉は長く開拓団関係者の間に語り継がれてきました。この日本人公墓の一角に1995年に「和平友好」の記念モニュメントが設置されました。当時の吉村午良知事の揮毫で長野県民の中国側への感謝と日中不再戦・平和友好の誓いを込めたものでした。この度の平和友好の碑はこのモニュメントを模して作られています。1600㌔の山河と海を隔ててなお通い合う平和友好の熱い思いを刻んだものに他なりません。
中国帰国者支援市町村担当者会議、満蒙開拓平和記念館参観認識深める(6/6)2013

 長野県中国帰国者支援連絡会(県・県日中・関係市町村)が主催して6月6日、2013年度の中国帰国者支援市町村担当者会議が阿智村で開かれました。日ごろ中国帰国者支援活動にとりくんでいる、市町村の担当者40名余りが出席しました。

 最初に今春オープンした満蒙開拓平和記念館を参観しました。軍国主義の誤った国策のもと満蒙開拓団が長野県から全国一の3万数千人が送り込まれ、敗戦時悲惨な逃避行の末、1万5千人がなくなったこと、その過程で多くの残留孤児や残留婦人が生まれたこと、それらの歴史的背景と、平和への願いがさまざまな資料や体験者の証言映像などで展示されています。寺沢秀文専務理事や三沢亜紀事務局長、小林勝人飯田日中事務局長らが熱心に説明してくれました。8年がかりで実現した記念館を、平和学習の場として多くの人に参観活用してほしいとの思いを強くしました。

 その後会場を阿智村公民館コミニティーホールに移して、中国帰国者介護福祉の会ニイハオノ樋口顕勇氏に帰国者介護の実践体験報告をしていただきました。
”平和のシグナル”出し続ける、満蒙開拓平和記念館が阿智村で開館式(4/24)2013

 満蒙開拓団の歴史を語り継ぐ拠点として建設された「満蒙開拓平和記念館」が長野県下伊那郡阿智村に完成し、4月24日に開館式が行われました。建設にむけた事業準備会で会長を務めた河原進・記念館館長(飯田日中友好協会会長)はじめ関係者ら約150人が出席して共にオープンを喜びました。満蒙開拓に特化した記念館の開館は全国で初めてとなります。
 
 主催者あいさつに立った河原館長は、「満蒙移民の歴史を伝え、平和を求める舞台にやっと立つことができた。気持ちを引き締め、末永く堅実に運営していく」とあいさつ。

 来賓としてあいさつした阿部守一・長野県知事は「平和な社会や暮らしをしっかり守っていかないといけないとあらためて感じている」と述べました。また、記念館建設用地を無償貸与した阿智村の岡庭一雄村長は「記念館が、満蒙開拓の真実を伝えることのみならず、日中友好をはじめ新しい平和をつくる役割を果たすことを心から願っている」と述べました。このほか、本郷一彦・県議会議長、牧野光朗・南信州広域連合長も祝辞を述べ、(公社)日中友好協会及び長野県日中友好協会を代表してあいさつした西堀正司理事長(全国常務理事)は、「今日はゴールではなく出発。これから平和のシグナルを出し続けて行く記念館に、長野県だけでなく、全国各界各層の大勢の人に訪れてほしい」と期待しました。

 また開館式では、建設に携わった企業に感謝状が贈られたほか、元開拓団員の中島多鶴さん(87)が「満蒙開拓の歴史を後世に伝え残し、命ある限り平和を求めて歩み続けて行くことを誓います」と、平和の誓いを読み上げました。式の後、内覧会が行われました。報道関係者の姿も多く見られ、注目の大きさをうかがわせました。

 記念館は、2006年7月に飯田日中友好協会が定期大会で建設に向けた活動計画を採択したことに始まり、翌07年に事業準備会が発足しました。全国の約1400人からの寄付と、県や地元自治体などの公的補助を加えた総事業費1億2千万円で造られました。満蒙開拓の歴史を年代をたどって学ぶことができます。一般公開は25日から。午前9時半~午後4時半。入館料は一般500円、小中高生300円。火曜と第2、4水曜、年末年始は休館となっています。
佐久でも中国帰国者等との春節交流会(2/24)

 佐久日中友好協会(井出正一会長)は2月24日、佐久市内のホテル一萬里ゴールデンセンチュリーにおいて佐久中国帰国者等との交流会を開催をしました。佐久地域に住む帰国者とその家族らと日中友好協会会員ら約140名が出席しました。

 冒頭のあいさつの中で、井出会長は「昨年は日中国交正常化40周年の記念すべき年であったが、尖閣諸島を巡る対立が生まれ残念なことに日中関係がぎくしゃくし心配している。国と国は対立しても民間での友好はしっかりしていかなくてはならない。日中両国民は冷静にこの現実を理解し解決に向けて行動していきたい。両国の文化を理解できる帰国者の皆さんが架け橋になって欲しい」と述べました。

 帰国者を代表して、金井徳義さんは「佐久でこのような交流の機会がたくさんもたれるようお願いしたい。私は、日中の友好が代々続くよう祈っています」と結ばれました。

 来賓のごあいさつで、柳田清二佐久市長が県議時代の訪中談を披露しながら「佐久平に住む中国帰国者や花嫁さん等との交流の窓口を大きく広げ協力していきたい」と話されました。また昨年暮れの総選挙で初当選された、木内均(自民)、井出庸生(みんな)両代議士が出席、両氏とも今後の日中関係の重要性を訴え、特に民間の信頼厚い友好協会に期待するというごあいさつがありました。

 佐久保険福祉事務所の小林一司所長の発声で乾杯し宴会に入りました。”日本語と中国語の頭を使ったクイズなぞなぞ”、”みんなで楽しむビンゴゲーム”、”飛び入り歓迎カラオケ大会”など次々と企画されていて賑やかに会場も盛り上がり、子供も大人も楽しみました。協会員や後援者から景品が多数寄せられ、特に押絵羽子板が目玉となり、あたった人は、喜びも倍化したようでした。フィナーレに全員で「北国の春」を合唱し、お開きとなりました。帰りにはホテルのご好意で温泉に無料入浴でき、ゆっくり温まり家路に着きました。
帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と春節交流会(2/17)

 県と県日中友好協会は2月17日、「第5回中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル・サンパルテ山王で開きました。旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦時の混乱で取り残された中国残留孤児ら2人が体験を発表、飯田日中友好協会が中心となってすすめている満蒙開拓平和記念館の報告も行われ、250人が聞き入りました。第2部では中国文化芸術センターによる雑技と民族楽器演奏を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきや大正琴の演奏、くじ引き抽選会、歌やヤンコー踊りを楽しみました。

 第1部では主催者を代表して玉井邦彦・県地域福祉課長と井出正一・県日中友好協会会長(元厚生大臣)があいさつし、「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。現在4300人の中国帰国者の皆さんが県内で暮らしている。帰国者1世の高齢化が進み、生活習慣への対応や2世の就労などの課題もある。帰国者の皆さんが、地域や県民の皆さんの理解を得て、平穏で幸せな生活を送ることができるように国、県、市町村、関係者が連携して支援活動に取り組んで行きたい。満蒙開拓平和記念館も今春オープンの運びとなり、有意義な役割を期待したい。日中関係は尖閣問題で大変厳しい状況にあるが、帰国者の皆さんには友好の架け橋としても活躍願いたい。春節にあたり楽しく交流し理解を深めましょう」と語りました。

 体験発表で馬淵保男さん(76)=北安曇郡松川村=は、「生後間もない1936(昭和11)年に現南木曽町から読書開拓団の一員として家族と黒龍江省の公心屯に渡ったが、9歳のとき45年8月のソ連軍の侵攻となり、(父はすでに現地徴兵されていた)逃避行の中で母や弟をなくし、姉と共に中国人に引き取られ生き延びた」と述べ、以後73年に帰国するまでの厳しい生活を振り返り、往時の様子をかみ締めるように淡々と語りました。最後に「残留孤児や残留婦人の皆さんは中国で亡くした親兄弟の分まで長生きしてください」と結びました。

 宮沢順子さん(73)=飯田市=は天龍村出身で41年に黒龍江省の大八浪に渡り、2000年に帰国。逃避行の際、「疲れきった母は、歩けなくなった5歳の私を道端において行こうとしたが、私が泣き叫んだため考え直したと聞いている」などと話し、「過去を振り返ってみて、戦争こそが私達に災難をもたらした。もう戦争は要りません。永遠の平和を心から願っています」と話しました。

 特別報告として、飯田日中友好協会事務局長の小林勝人さんが今春4月25日開館が決まった「満蒙開拓平和記念館」の報告紹介をしました。この記念館を、周恩来総理が言った様に「前事不忘、後事之師」として開拓団の悲劇・歴史の教訓を風化させることなく平和を語りついでいく拠点として立派に運営して行く決意を述べ、そのためにも大勢の皆さんに来館していただきたいと訴えました。(入館料500円9:30~4:30火曜休館)

 第2部の中国文化芸術センターの公演では、程波団長の軽快な司会で雑技と民族楽器の演奏を楽しみました。楊春紅さんが一輪車に乗ってお碗を次々と頭の上に載せる見事な技を披露すると大きな拍手が起こりました。また趙正達さんの少数民族の瓢箪と竹で作ったバーウーと呼ばれる縦笛や、二胡の演奏に聞きほれました。会場は春節の華やかな雰囲気に包まれました。

 第3部の春節交流会ではアトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。大正琴の友情出演も会場を盛り上げてくれました。会場のここかしこで再会を喜び合う姿が見受けられました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちがたくさんの景品を受け取って喜んでいました。上田、松本、長野、飯田の日本語教室に通う帰国者の皆さんが「北国の春」「信濃の国」「里の秋」「夜来香」や「さくら」などを一生懸命歌い大きな拍手を受けました。飯田の皆さんは鮮やかな舞台衣装に着替えて見事な踊りを披露、大好評でした。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。参加した帰国者の皆さんは「大変楽しかった。来年も是非参加したい」と語っていました。

 飯田下伊那、伊南、松本、上田、飯山、長野、千曲などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。竹内善彦県地域福祉課企画幹、竹内正一県地域福祉課係長、北村俊英長野市厚生課係長、小林佑一郎元帰国者定着促進センター所長、福沢宏夫・清水えい子・村山ひとみ県日中副会長、西堀正司県日中理事長、西沢毅県日中帰国者留学生委員長、北島良一長野市日中理事長らも出席し帰国者を激励し交流しました。長野市日中女性委員会の皆さんは友好の黄色のハッピ姿で、交流会の進行・盛り上げに大活躍でした。
満蒙開拓平和記念館、今春4月末オープンへ (13.1/1)

満蒙開拓の歴史を伝える日本で唯一の施設「満蒙開拓平和記念館」がいよいよ今春4月末、阿智村にオープンします。これまで力強いご支援をいただいた日中友好協会はじめ関係者各位に心よりお礼申し上げます。建設までには紆余曲折ありましたが、日中双方に多くの悲劇を生んだこの歴史を絶対風化させてはならない、二度と繰り返してはならないという信念で進めてまいりました。ここまでの道のりが長かった分、様々な活動を通じて支援の輪が広がり、満蒙開拓の歴史への理解が深まったと考えております。

建設は順調に進んでおり、現在、中身の展示の設計・製作に追われております。難しいテーマを内包する満蒙開拓の歴史をどのように表現するか、若い世代にどう伝えていくか、知恵を絞っています。皆様をお迎えできる日を楽しみにしております。
             (満蒙開拓平和記念館事業準備会 三沢亜紀)

*4月24日開館記念式典、4月25日から一般公開スタート。 *詳細はーー>満蒙開拓平和記念館 建設準備会

帰国者の霊園整備、上田で開眼法要(5/20)

 上田市下室賀に10年前に造成された中国帰国者のための霊園で受入れ準備が整い埋葬希望者の申しこみ手続きが始まり5月20日に現地で開眼供養が行われました。霊園は2002年7月、上田日中友好協会が私有地の無償貸与を受けて完成させ、その後石材店から観音像も寄贈されるなど整備が進められてきましたが、今まで埋葬希望がなかったことから使われていませんでした。県内の帰国者向共同墓地は他に長野、松本、飯田にありますが、専用墓地として世帯ごとに区画が分かれているのは上田市だけ。
 霊園は約660平方㍍。4月に12世帯分の区画を整備しました。1区画は5平方㍍ほどで10世帯が申し込んでいます。供養には帰国者や上田日中友好協会の関係者ら40人余りが出席しました。

 中国残留孤児・邦人と呼ばれる帰国者の皆さんは、日本語が話せないことなどから地域に溶け込めなっかったり、経済的にも苦しかったため、墓をどう確保するかは切実な問題でした。
 同協会元会長の小山正俊さんは10年余り前、「せっかく日本に帰ってきたのに、死んだら行くところがない」と話す帰国者たちに会い「衝撃を受けたと」振り返りました。同協会から要望を受けた上田市は2001年10月、土採り場だった私有地を霊園用地として協会に無償貸与しました。

 帰国者たちが高齢に也2008年からは老齢基礎年金の満額支給によって経済状況が改善してきたことなどから、協会が改めて埋葬希望者を募集しました。

 霊園の使用は原則、同市内在住者で、用地整備費と20年分の管理費計9万円が必要。墓石の購入費などは自己負担。申し込んだ帰国者の井沢紀代子さん(73)は「これで安心して晩年を過ごせます」。申し込んだ坂井蓉子さん(74)の夫で中国人の白永安さん(76)は「ずっとお墓のことが心配だった。上田は第2の故郷」と話しました。
佐久で中国帰国者交流会開催(4/1)

 佐久日中友好協会は4月1日、佐久市内のホテル一萬里において佐久中国帰国者との交流会を開きました。佐久平地域の帰国者家族や友好協会会員、市民ら120人が参加し、楽しい交流の1日を過ごしました。

 井出正一佐久日中友好協会会長は、流暢な中国語で自己紹介した後、帰国者の皆さんが言葉と習慣の壁を乗り越え頑張って生活していることに敬意を表し、地域ぐるみの支援交流に努めていきたいと述べ、また日中友好の架け橋としても活躍されるよう激励しました。帰国者を代表して1974年に第1陣で帰国した神津よしさん(85歳=佐久市)が年はとっても元気に生活している様子を紹介し、交流会を楽しみに参加させてもらったと語りました。来賓として、柳田清二佐久市長、布施正幸県日中事務局長、鄧徳花・中国国際放送局長野ラジオ孔子学堂代表、今井正子県議、佐々木治夫小諸市日中会長らがそれぞれの立場から激励のあいさつをしました。片岡正夫佐久保険福祉事務所福祉課長の音頭で乾杯し懇親交流会に入りました。ホテル一萬里の畠山社長も悲惨な逃避行体験者で、今回の催しに際して、協力を惜しまず、おいしい料理を提供していただきました。

 久しぶりに再会したメンバーもおり懐かしく語り合っていました。続いていよいよお楽しみなぞなぞクイズ、みんなで楽しむビンゴゲーム、カラオケの時間です。山のように用意された景品は、友好協会会員のみなさんが協力して提供していただいたものです。「手紙」「娘」「汽車」・・日本語と中国語は意味が違います、分かりますか?元気に手を上げて答える様子に拍手が起こります。ビンゴゲームは相変わらずみんな熱くなります。景品を獲得して皆さん満足そうでした。最後に当たらなかった人にも景品が贈られ、役員に感謝の拍手が起きました。カラオケにあわせてのど自慢の皆さんが日本の歌、中国の歌を披露しました。最後に全員で佐久出身の井出はくさんが作詞した郷土の歌「北国の春」を全員で合唱して終了となりました。

 参加した帰国者の皆さんは「大変楽しかった。今後も参加したい」と語っていました。佐久日中の花岡茂理事長はこれを契機に臼田日中時代にとりくんでいた交流会や日本語教室を復活させとりくんでいきたいと語っていました。
帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と春節交流会(2/5)

 県と県日中友好協会は2月5日、「中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル・サンパルテ山王で開きました。旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦時の混乱で取り残された中国残留孤児ら3人が体験を発表、飯田日中友好協会が中心となってすすめている満蒙開拓平和記念館の報告も行われ、240人が聞き入りました。第2部では東京中国歌舞団による歌と民族楽器演奏を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきや大正琴の演奏、くじ引き抽選会、歌やヤンコー踊りを楽しみました。

 第1部では主催者を代表して吉川篤明・県地域福祉課長と西堀正司・県日中友好協会理事長(中国帰国者交流センター所長)があいさつし、「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。現在4000人以上の中国帰国者の皆さんが県内で暮らしている。帰国者1世の高齢化が進み、生活習慣への対応や就労、教育などの課題もある。帰国者の皆さんが、地域や県民の皆さんの理解を得て、平穏で幸せな生活を送ることができるように国、県、市町村、関係者が連携して支援活動に取り組んで行きたい。満蒙開拓平和記念館も実現に近づき、有意義な役割を期待したい。日中国交正常化40周年の年を迎えさまざまな記念事業が予定されている。帰国者の皆さんには友好の架け橋としても活躍願いたい。春節にあたり楽しく交流し理解を深めましょう」と語りました。

 体験発表で丹羽千文さん(78)=飯田市=は、1940年に家族と満州に渡ったが、45年8月のソ連軍の侵攻後の逃避行を地獄のようだったと振り返り、50年間を中国で過ごし、帰国時は「日本語をすっかり忘れていた」と語りました。今は子供や孫に囲まれて平穏に暮らしているといい、「二度と戦争を起こさず、平和であることをいつも願っている」と結びました。
 中島今朝代さん(77)=松本市=は逃避行と方正での厳しい越冬の様子、現地の中国人家庭に引き取られその後結婚、1990年帰国するまでの中国での暮らしを淡々と語りました。
 坂井馨さん(28)=長野市=は、2世と結婚し、2006年来日、「日本語の壁や困難を乗り越えてきた。出産後新しい職場で、周りの皆さんのあたたかい指導を受けながら前向きに頑張って行きたい」と話し、激励の拍手が送られました。
 特別報告として、飯田日中友好協会事務局長の小林勝人さんが今春着工が決まった「満蒙開拓平和記念館」の建設の意義と経過を報告しました。この記念館を、開拓団の悲劇を風化させることなく平和を語りついでいく拠点として立派に運営して行く決意を述べ、今後とも資料提供をはじめ協力支援をお願いしたいと訴えました。

 第2部の東京中国歌舞団の公演では、陽二蓮(ヤンアーレン)さんが「茉莉花」や「草原情歌」「早春賦」などを次々と披露。また劉錦程団長の揚琴と曹雪晶さんの二胡による、「賽馬」「柴竹調」「平湖秋月」の演奏が行われ、会場は春節の華やかな雰囲気に包まれました。陽さんのオリジナル曲「母の月」は情感あふれる曲でひときわ大きな拍手が起こりました。最後に会場一体となって「ふるさと」を熱唱しました。

 第3部の春節交流会ではアトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。大正琴の生演奏をバックに会場のいたるところで交流が行なわれました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちがたくさんの景品を受け取ってにっこり。松本、上田、長野、飯田、伊南の日本語教室に通う帰国者の皆さんが「海」「富士山」「四季の歌」「海はふるさと」や「ふるさと」「北国の春」「春が来た」などを一生懸命歌い大きな拍手を受けました。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。参加した帰国者の皆さんは「大変楽しかった。来年も是非参加したい」と語っていました。

 飯田下伊那、伊南、松本、上田、飯山、長野などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。長谷部孝長野市厚生課長、篠原哲也県地域福祉課課長補佐、竹内正一県地域福祉課係長、小林佑一郎元帰国者定着促進センター所長、成沢捨也県日中副会長、福沢宏夫県日中副会長、北島良一長野市日中理事長らも出席し帰国者を激励し交流しました。長野市日中女性委員会の皆さんは友好の黄色のハッピ姿で、交流会の進行・盛り上げに大活躍でした。
     
満蒙開拓平和記念館建設実現に向けて県が支援を約束(11/23)

 飯田日中が中心となって進めてきた満蒙開拓平和記念館建設はここへ来て大きな前進を見ました。県が南信州広域連合とともに建設に必要な差額を助成する予算処置を講ずることが明らかになりました。総事業費1億3千万円のうち、寄付金で集まったのは4千万円あまりにとどまっていましたが、関係者の高齢化が進む中、早期着工が期待されていました。来春の着工を目指していきたいと意気込んでいます。
飯田で帰国者支援のシンポジウム(11/18)

 飯田日中は11月18日、飯田中国帰国者支援への理解を深めるためのシンポジウムを開催し、飯田下伊那地域に暮らす1240人あまりの帰国者が新支援法のもと幸せな老後を暮らせるようにしていくための課題は何かを話し合いました。
長野市中国帰国者のつどい(11/6)

 長野市中国帰国者三者連絡会(長野市・長野市日中・長野市帰国者の会)は11月6日、長野市の松代荘で平成23年度長野市中国帰国者のつどいを開きました。つどいには、帰国者50人と日中友好協会や日ごろ地域でお世話になっている区長・民生委員さんなど20人あまりが参加し交流を深めました。

 主催者を代表して北島良一・三者連絡会会長(長野市日中友好協会理事長)が帰国者の皆さんが新支援法施行により経済的な安心をえたことを喜ぶとともに、日本語教室やびんずる祭り、マレットゴルフ、地域交流会などにも参加してより有意義な老後をおくってほしいとあいさつしました。二胡の演奏とマジックショーを楽しんだ後、懇親会で交流しました。また温泉につかり楽しい一日を過ごしました。
長野びんずる「日中友好連」60名で参加(8/6)

 第41回長野びんずる祭りが8月6日長野市の中心街でおこなわれ、長野市日中友好協会は「日中友好連」を組んで60人で参加、1万5千人の踊り手とともに中央通りを進みました。日中友好の提燈を先頭に、友好協会会員とともに中国帰国者の皆さん、研修生など黄色の友好法被をまとってシャモジを打ち鳴らしながら熱心に踊りました。

 出し車の中国風の飾りは見物客の目を引き注目されていました。汗だくになりながらも、元気いっぱい、エネルギーを発散させて「本当に楽しかった」と皆さんの感想でした。
おんたけ山麓で日中友好キャンプ(7/17・18)

長野県日中友好協会青年委員会と女性委員会は7月17・18日木曽王滝村のおんたけ銀河村キャンプ場にて第46回日中友好キャンプを開催しました。留学生や帰国者の皆さん、友好協会会員メンバーなど75名が参加し、楽しい2日間を過ごしました。

 開会式で「友好王国」の建国を宣言して、霊峰御嶽山の麓、標高2160mの田の原高原散策に向かいました。雄大な御嶽山の姿を仰ぎ見、かなたに木曽駒ケ岳を眺めての至福のひとときを過ごしました。

 高原散策の後は6つの班に分かれて、食事の準備。おなじみのバーベキュー、ビール片手に焼肉をほおばり大いに語り合いました。キャンプファイヤーを囲んでのフォークダンスやウララは中国の皆さんに好評でした。そして銀河キャンプ場ならではの観望会では星座語りや天体望遠鏡で土星を見るなど貴重な体験ができました。

 翌朝は7時起床、ラジオ体操、太極拳で体をほぐした後、カレー作りに励みました。各班それぞれの味自慢のカレーをおいしく食べ、滝めぐりに向かいました。険しい道を登って行くと新滝の豪快な景観が現れました。さらに山道を進み清滝に至りました。疲れも忘れ心身ともに清浄され活力が漲りました。

 この間女性委員会スタッフはご飯をこねて「五平もち」作りに励んでいました。全員戻ったところでスイカを頬張り、五平もちを美味しくいただきました。
 
閉会式で、留学生代表は、「今回初めてキャンプに参加しましたが、皆さんあたたかく本当に楽しかったです」と感謝していました。

第34回日中友好スキー交流会in菅平、帰国者家族も参加交流(2/26~27)

 長野県日中友好協会青年委員会(高山浩一委員長)と同女性委員会(村山ひとみ委員長)の主催により、2月26、27日の両日、上田市菅平高原スキー場において、恒例の第34回日中スキー交流会が開かれました。交流会には中国留学生・帰国者らをはじめ108人が参加し有意義な交流となりました。

 快晴の青空の下、開会式の後早速、6班に分かれてスキー教室がおこなわれました。初心者も青年委員会メンバーなどの指導員のリードのもと汗だくになりながらスキーにチャレンジしました。最初は転んでばかりの初心者もだんだんとコツをつかみ直滑降からブレーキの体勢、ボーゲンへと進歩が見られるようになっていきました。スキーは2度目3度目でかなりの腕前の留学生もいました。今回初めてスノーボードの班も開設されました。

 夜の交流会では、地元の同好会メンバーによる青木村壁塗り音頭が披露され拍手喝采を浴びました。杯を交わし交流しながら班ごとの歌の発表や青年委員会メンバーのダイナミックな踊り、ジャンケン景品争奪戦などもあり、大いに盛り上がりました。

 2日目のスキー教室では全員がリフトに乗って、緩やかなコースを滑り降りれるようになりました。雪質も良く快適なスキー日和のなか昨日の苦労とうって変わってスキーの楽しさを味わっていました。帰国者の池田慧子さん(長野市5年生)は小学校の同級生小川博子さんとともに参加しましたが、パラレル・ボーゲンで滑れるまでになりました。駒ヶ根市から参加した姜(上村)秀樹さん一家もだいぶ上達してスキーの面白さを満喫していました。

 昼は女性委員会の皆さんが準備してくれたおにぎりと豚汁を全員でおいしくいただき、またの再会を期待して閉会となりました。

 留学生や帰国者にスキー用具を提供いただいた㈱スワロースキーの丸山哲三会長代理の山田進取締役部長や上田市長代理の笠原茂正真田地域センター長、西堀正司県日中友好協会理事長、池上一巳上田日中友好協会副会長らも交流会に出席され激励してくれました。
帰国者への理解を深めるつどい・体験発表と春節交流会(2/11)

 県と県日中友好協会は2月11日、「中国帰国者への理解を深める県民の集い」を長野市内のホテル・サンパルテ山王で開きました。旧満州(現中国東北部)に渡り、敗戦時の混乱で取り残された中国残留孤児や帰国者2世の4人が体験を発表、200人が聞き入りました。引き続き、第2部では京劇と変面のショーや二胡演奏を堪能し、第3部の春節交流会では餅つきを皮切りに大正琴の演奏、くじ引き抽選会、歌やヤンコー踊りを楽しみました。

 第1部では主催者を代表して吉川篤明・県地域福祉課長と井出正一・県日中友好協会会長があいさつし、「長野県は全国一満州開拓団を送り出し多くの犠牲を出した。現在4300人の中国帰国者の皆さんが県内に暮らしている。帰国者1世の高齢化が進み、生活習慣への対応や就労、教育などの課題もある。帰国者の皆さんが、言葉や習慣の壁などさまざまな困難を乗り越えてきたことに思いをいたし、地域や県民の皆さんの理解を得て、平穏で幸せな生活を送ることができるように国、県、市町村、関係者が連携して支援活動に取り組んで行きたい」と語りました。

 体験発表で井原澄子さん(74)=飯田市=は、1945年3月、当時8歳のとき家族8人で旧満州に渡ったが落ち着く間もなく、ソ連軍の侵攻に遭遇、約1ヶ月間山中を逃げ回った後、父はシベリヤ連行され、祖父や母とは死別、兄弟姉妹は現地の中国人家庭に引き取られその後結婚、1994年永住帰国するまで50年間異国で暮らし、その間「いつになったら日本人としての暮らしができるのか、祈るばかりだった」と話し、最後に、「悲劇を繰り返さないためにも日本と中国が平和であってほしい」と訴えました。
 残留孤児の蔵本芳恵さん(65)=長野市=は、「18年前に夫と息子3人で帰国し、日本語の壁や困難を乗り越え働いてきた。退職後は国の生活支援給付金を得て、安定した生活が送れるようになった。現在日本語を勉強し、家族も孫を含めて10人となり幸せに暮らしている。社会に恩返ししたい」と話しました。
 母親の出身地の駒ヶ根市で暮らす帰国2世の小池向華さん(57)は来日後に日本語を学び、就労や自動車免許を取得した苦労を振り返り「最初は生活のため仕方なく学んだが、今は日本語に興味がある」と語りました。
 小学5年生の池田慧子さん(11)は小学校で先生の指導を得ながら勉強に励んでいる様子を元気に発表しました。

 第2部の中国太陽芸術団の公演では、程波団長がかつてNHKのテレビドラマ「大地の子」に中国政府代表団の仰団長役で出演したことなどを紹介しながら、軽妙な司会で会場を沸かせました。京劇俳優の劉妍さんは煌びやかな衣装を身にまとい「覇王別姫」のなかの虞美人の剣舞を披露し会場の雰囲気を盛り上げました。二胡奏者の于雪源さんは中国と日本の名曲を演奏、アンコールに応えて「北国の春」の調べに乗ってテノール歌手でもある程波団長が歌いだすと会場は手拍子に包まれました。最後に劉妍さんが再び登場して秘伝といわれている「変面」を観客のすぐ目の前で披露、瞬間的に15の面に変わる高度な芸に拍手が鳴り止みませんでした。

 第3部の春節交流会ではアトラクションとして臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。懇親会に入って、大正琴の生演奏をバックに会場のいたるところで交流が行なわれました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちがたくさんの景品を受け取ってにっこり。長野、松本、上田、飯田や伊南の日本語教室に通う帰国者の皆さんが「北国の春」や「星影のワルツ」「故郷の空」などを一生懸命歌い大きな拍手を受けました。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。

 飯田下伊那、伊南、松本、上田、飯山、長野などからおおぜいの帰国者や支援者、市民のみなさんが参加しました。戸井田一成長野市保健福祉部長、西堀正司県日中帰国者交流センター所長、小林佑一郎元帰国者定着促進センター所長、長谷部孝長野市厚生課長、阿部智史県地域福祉課係長、北島良一長野市日中理事長、北沢久県日中帰国者留学生委員長らも出席し帰国者にエールを送り、交流しました。長野市日中女性委員会の皆さんは友好の黄色のハッピ姿で、交流会の進行・盛り上げに大活躍でした。
中国帰国者への理解を深める県民のつどい(日中友好春節交流会)

長野県内には、中国帰国者が4300人暮らしています。帰国者の皆さんと交流し、理解を深めるためのつどいを開催します。お誘いあってご参加ください。


*2月11日(金/祝)午前10:30~15:00
*第1・2部は無料。第3部は会費:一般2000円、帰国者1000円・子供500円

*主催/長野県  長野県日中友好協会 帰国者交流センター
*申し込みは2月1日までに長野県日中友好協会へ(TEL026-224-6517)

第1部中国帰国者の体験発表
*残留婦人、残留孤児、2世、3世が歩んできた労苦や喜び悩みなどを語ります。
第2部中国太陽芸術団による京劇・二胡・変面ショー
中国太陽芸術団の程波団長の司会で楽しいひとときをお過ごしください。
*京劇  「覇王別姫」より虞美人の剣舞
*二胡演奏  日本と中国の名曲を演奏
*変面ショー  変面に京劇の動作をくわえてオリジナルの演出をし次々に10枚以上も顔を変えます。
第3部春節交流会
*中国のお正月である春節を祝い、餅つきと懇親交流会
中国帰国者の体験に耳を傾け、餅つき春節交流会(2/21)2010

 長野県日中友好協会・中国帰国者交流センターと長野市日中友好協会は2月21日長野市内のホテル、サンパルテ山王にて中国帰国者から体験談を聞く「中国残留邦人への理解を深める県民の集い」を開きました。県内各地から170余名が参加し、残留婦人や残留孤児1世など帰国者の話に耳を傾け、続いて餅つきなど春節を祝ってにぎやかに交流しました。

 1941年(昭和16年)に両親やきょうだいとともに満州に渡った岩本くにをさん(77)=松川町=は、敗戦の悲惨な逃避行の中で家族を相次いで失い、「1人になり、死ぬことだけを考えていた」が、親切な中国人女性に助けられて現地で結婚し、96年に永住帰国。「ひとの国の土地を取り上げてまで何のために満州に行ったのか。もう二度と戦争をしてはいけない」と平和の大切さを切々と訴えました。残留孤児1世の池田充さん(59)=長野市=は、あの罪深い戦争を教訓に、日中両国が互いに仲むつまじく新しい時代を開いてほしいと語りました。92年に帰国した残留孤児2世の宮下多美子さん(62)=上田市=は、中国で医療に従事していたのでその経験を活かそうと努力したことを振り返り「はじめは日本語がわからず大変だったが、目的を持って勉強に励めば乗り越えられる」と話しました。また3世の配偶者の郝延波さん(27)=長野市=と朱振海さん(26)=駒ヶ根市=は、若者の視点から日本社会に溶け込んで前向きに生活している様子を紹介しました。

 第2部の春節交流会ではアトラクションとして三宅島太鼓の力強い演奏に続き、臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。懇親会に入って、大正琴の生演奏をバックに会場のいたるところで交流が行なわれました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちがたくさんの景品を受け取ってにっこり。上田や飯田、松本の日本語教室に通う帰国者の皆さんが「北国の春」や「ふるさと」「草原情歌」などを一生懸命歌い大きな拍手を受けました。中国の伝統的な楽しい踊りも披露されました。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。帰国者の皆さん本当に楽しそうに踊っていました。

 飯田下伊那、伊南、松本、上田、飯山、長野からおおぜいの帰国者や支援者が参加しました。井出正一県日中会長や青木一男県地域福祉課長、戸井田一成長野市保健福祉部次長、永原今朝男県開拓自興会会長、竹松亨信濃教育会事務局次長、西堀正司県日中帰国者交流センター所長らも出席し帰国者にエールを送り、交流しました。長野市日中女性委員会の皆さんは友好の黄色のハッピ姿で、交流会の企画進行盛り上げに大活躍でした。
上田日中、帰国者新春餃子パーティー(2/4)2010

 2月4日、上田市室賀基幹集落センターで中国帰国者日本語教室新春餃子パーティーが開かれました。日頃、上田中国帰国者日本語教室で学んでいる帰国者の皆さんや友好協会、上田市、地元自治会役員など40名が参加しました

 帰国者の皆さんは慣れた手つきで次々と具を刻み麺を伸ばして皮を作り、見事に具を包み込みます。無駄のない手さばきに見とれているといつの間にか食べきれないほどの餃子が並べられていました。大鍋に湯を沸騰させ餃子を入れ亜麻色になって浮かびあがってくると水餃子の出来上がりです。次々と皿に盛り付け、懇親会場に運びます。熱い内に召し上がってくださいとすすめられ、乾杯して早速ほおばりました。「おいしい」「ハオチィ(好吃)」本当においしい本場の手作り水餃子でした。

 交流懇親会では、成沢捨也・上田日中友好協会会長が日頃高齢帰国者の皆さんが上田市やささら温泉のご配慮のもと頑張って日本語を学び、楽しく交流してきたことを振り返り、おいしい水餃子をいただきながら、交流を深めましょうとあいさつしました。帰国者を代表して白永安さんが、「皆さんの支援協力をいただき、楽しく日本語を学び暮らしています。今日は私たちの作った餃子をおなかいっぱい召し上がってください」と述べました。帰国者一人ひとりから日本語で自己紹介などあいさつがなされ拍手が送られました。会には、中国国際放送局の劉非さんも参加し、帰国者のみなさんと交流しました。
第20回中国帰国者日本語弁論大会、感動の拍手に包まれる(11/8)2009

 第20回県中国帰国者日本語弁論大会(県や県日中友好協会など実行委員会主催)が11月8日長野市の信濃教育会館で開かれました。県内で暮らす帰国者やその家族9人が、帰国までの苦労や日本語習得に努力した体験を語りました。

 県知事賞を受賞した長野市の池田愛子さん(26)は、帰国2世の夫(26)と結婚して昨年12月に来日。日本語を学ぶ中で、日本では高齢者になっても働き続ける人が多いことを知るなど、中国とは異なる文化に関心を深めたことを話しました。
 県日中友好協会長賞を受けた吉越美月さん(14)は08年3月に一家で帰国し阿智村に定住。4月に中学2年に編入したが言葉も歴史も教科内容も違う中で悩んだが、日本語教室に通いながら日本語をひらがなから学び半年後には学校に友達もできた。来年3月卒業するが阿智高校入学も決まった。感謝と努力あるのみです、と結びました。

 信濃教育会長賞を受けた長野市の陳梅さん(23)も帰国3世の夫(29)と結婚して07年10月に来日。当初は言葉が通じないなどで孤独だったが、派遣社員として働いた工場で周囲の人たちの優しさに触れ、前向きに仕事をする意欲がわいたと発表しました。
 県開拓自興会長賞を受けた飯山市の中村蓉子さん(61)は「安定した生活のために頑張った14年」と題して、95年81歳の母とともに帰国以来の苦労と努力の様子を語りました。
 努力賞を受賞した池田照美さん(48)は現在県日中帰国者交流センター長野教室に通って勉強しています。所沢センターの思い出や、現在身元引受人の茂木博ご夫妻のあたたかい配慮を受けながら日本語を学びいろいろな友好活動に参加している様子を発表しました。

 東御市の松沢盛子さん(77)は「私の歩んできた道」を振り返り、13歳で敗戦、悲惨な逃避行の末に現地の人に救われて生きながらえ18歳で結婚し6人の子供ができた。里帰りと父との再会別れがあり、81年に永住帰国した。さまざまな苦労があったが、現在は近所の皆さんが親切にしてくれるので幸せに暮らしている、と語りました。駒ヶ根からは朱振海さん(36)と小池向華さん(56)が、松本からは有田桂子さん(59)が出場し、それぞれ「味噌汁」「母と私」「ボランティアから学んだもの」と題して発表しました。

 皆さんの発表はいずれも胸打たれる内容で、100名の参加者は静かに聞き入り感動の拍手を送っていました。
映画『嗚呼 満蒙開拓団』長野で上映
体験者の発表や清水まなぶさんの特別出演も(10/16)2009


 映画「「嗚呼 満蒙開拓団」の上映会が10月16日長野市の若里市民文化ホールにおいて開かれ、600人が観賞しました。満蒙開拓団の悲劇を描いた映画に観客は熱心に見入りました。「お国のため」と送り込まれた満州開拓団員は敗戦によって遺棄されました。体験者の語るその実態のむごさ悲惨さは想像を超えています。見る人の心に深く刻まれました。世代を越えて、若者から年配者まで満蒙開拓の悲劇を知って平和の大切さを語り継いでいきたいと決意を新たにしました。

 第1回上映後、体験者の滝澤博義さん(高社郷)と三井寛さん(黒台信濃村)のお二人から悲惨な逃避行などの様子をお話いただきました。また、シンガーソングライターとして活躍している長野市出身の清水まなぶさんも、先ごろ発表した満蒙開拓団の悲劇をうたった「沈まぬ夕陽」を披露してくれました。

 戦前、満蒙開拓団を全国一3万人あまりを送り出した長野県でしたが、うち半数の1万5千人が敗戦前後の混乱の中、悲惨な最期を遂げました。また現在県内には、中国残留孤児と婦人及びその家族4300人あまりの方が暮らしています。
 戦後64年を経過する中で、満蒙開拓団の悲劇も当事者の高齢化が進み風化していくことが懸念されています。体験者の取材を柱に満蒙開拓団の実態をドキュメンタリーとして描いたこの映画は封切り以来、多くの人々の注目を集めております。このたび関係者の努力により長野での上映が実現しました。県内ではすでに、松本(7/25/26)、飯田(10/10)などで上映され、12月6日には上田でも計画されています。

満蒙開拓団とこの映画について--演出/羽田澄子(はねだ すみこ)
 私は旧満州の一部と見られていた関東州の大連に生まれ、小学校も女学校も旅順。そして戦後引き揚げてきました。しかし、同じ満州でも最南端の都会に暮らしていた私は、戦後満州の奥地で起きていたことを知りませんでした。知ることになったのは1981年、「中国残留日本人孤児」の訪日調査がはじまり、さらに2002年に中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟が始まったことがきっかけでした。裁判がどうなるかと見守っている間に、中国東北地区の方正(ほうまさ)県にある「方正地区日本人公墓」のことを偶然知ることになりました。
 方正地区には、ソ連の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が亡くなっているのです。「この人たちの遺骨をお墓に」と願った、ある残留婦人の思いを受け止めたのは中国の周恩来総理でした。周恩来の指示によって、中国方正県政府が建設したのが「方正地区日本人公墓」なのです。「お国のため」と送り込まれた満州移民は敗戦によって、遺棄されたのも同然となりました。その体験者の多くはすでに亡くなっていますが、多くの方に取材し、日本の近現代史を振り返り、日中友好が大切であることを考えました。

満蒙開拓団とは/1931年の満州事変以後、当時の日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州(現在の中国東北部)、内蒙古に入植させられた日本移民のこと。1945年の太平洋戦争敗戦までに送り込まれた開拓団員は約27万人と言われている。しかし、その内の約8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦によって、帰国できずに亡くなっている。

映画の証言から/妹は最後に「お芋食べたーい、お芋食べたーい」と言っている間に連れて行かれた。
満州に行くときは、皆「国のため」と行ったのに、あんな遺骨を見ると残念で。
開拓団の人たちが、トラックの窓に手をかけて「乗せてってくれ」って、それを振り払って行っちゃうんだから。 
長野びんずる祭り『日中友好連』で参加(8/1)2009

 長野市日中友好協会は8月1日の第39回長野びんずる祭りに「日中友好連」を組んで参加しました。女性委員会・青年委員会のメンバーらとともに中国帰国者や留学生・研修生もそろいのハッピやTシャツを着て熱心に踊りました。

 1日雨模様だったこの日、夕方6時には雨も上がり、いよいよ提燈に火がともされ6時半踊りがスタート。1ー、2-、3-、4-、5-、6-、7-、8-。1、2、3、4、5、6、7、8。シャモジを両手に、調子の良い踊りが長野の中心街を埋め尽くしました。

 初めて参加した留学生や帰国者の皆さんも汗だくになりながら、コツをつかむと踊りに没頭して2時間、若さを発散させていました。

 途中差入れのビールやジュースで乾杯したり、日中友好の出し車をバックに記念撮影したり、楽しい交流ができました。
第44回日中友好キャンプ、美ヶ原・桜清水コテージに80人が集う(7/25~26)2009

 7月25・26日美ヶ原高原の山麓、標高1400mにある涼しい水源林の中にたたずむ桜清水コテージで、第44回日中友好キャンプが開かれました。長野県日中友好協会青年委員会と女性委員会の主催で、中国留学生・河北省農業研修生・帰国者・一般合わせて80名が参加し楽しい2日間を過ごしました。

 今回は『ゆったりとスローライフをたのしみながら、森の静かなリゾートライフを満喫しよう』をコンセプトに、友好王国が建国され、参加者は5つの村に分かれ、班活動で岩魚つりやバーベキュー、カレー作りで食を確保したり、キャンプファイヤーでの踊り、コテージでの夜半までの語らいや早朝の凛とすみきった空気の中でのラジオ体操など、団体行動での楽しさを知りました。2日間、国や世代を越えて、相互理解と友好の絆を深めることができました。
長野市で中国帰国者のつどい(7/19) 2009

 7月19日長野市飯綱高原アゼリアにおいて恒例の中国帰国者のつどいが開かれ、長野市在住の帰国者ら約100名が参加しました。長野市や市日中友好協会・帰国者の会で構成される三者連絡会が主催したもので日頃地域でお世話になっている区長さんや民生委員さんも来賓として参加し交流を深めました。

 北島良一会長(市日中理事長)が主催者を代表してあいさつし帰国者の日頃の活躍にエールを送りました。引き続き地域社会に溶け込んでルールを守って生活して行くことの重要性につき市の担当者から講演がおこなわれました。講演の後、懇親会が行われました。カラオケなど楽しいひと時を過ごしました。

残留孤児ら 重い体験や夢を発表、春節も祝って交流
中国残留邦人への理解を深める県民の集い(2/1) 2009

 「中国残留邦人への理解を深める長野県民の集い」が2月1日、長野市のサンパルテ山王で開催され、帰国者や一般市民ら360人が参加し、東京中国歌舞団による歌と演奏を堪能した後、帰国者の体験発表に耳を傾けた。第2部の春節交流会では餅つきや獅子舞などを楽しみながら交流した。

 第1部では主催者を代表して、最初に(財)中国残留孤児援護基金の中澤勝義常務理事が帰国者が困難を乗り越えて日本社会の一員として懸命に努力している状況を広く理解していただき国県自治体と地域住民一体となって帰国者の皆さんを支えて安心した老後を送っていただくよう理解を呼びかけました。また斎藤恭一中国孤児等対策室室長が大村秀章厚生労働副大臣からのメッセージを披露。

 地元協賛団体を代表して、長野県日中友好協会の井出正一会長が「戦前のあやまった国策の犠牲となった残留孤児や残留婦人の皆さんは敗戦時の悲惨な逃避行をはじめ言い知れぬ苦難を体験し、帰国後も言葉や習慣の違いという困難のなかで懸命に生きてこられた。全国一満州開拓団を送り出した長野県は、帰国者支援に力をいれ、帰国者の皆さんが安心して地域の一員として暮らしていけるよう官民協力して努力して行きたい」とあいさつした。

 続いて、日頃中国帰国者や養父母慰問活動に取り組んできた東京中国歌舞団の演奏会が行われた。中国民族楽器の演奏をバックに陽二蓮(ヤンアーレン)さんの軽やかな歌声に聞き入った。最後に全員で「大海阿故郷(海はふるさと)」と「ふるさと」を大合唱した。

 続いて、県内で暮らす残留婦人や残留孤児ら4人が、自らの体験や、将来の夢などを発表。参加者は真剣に聞き入り、深くうなずきながら拍手を送った。

 8歳のときに下伊那郡泰阜村から家族で満州に渡った中島千鶴さん(76)=飯田市=は、極限状態での逃避行の様子や望郷の念に駆られた中国での体験を話した。45年後の1985年にようやく帰国。「戦争をして困り、悲しむのは普通の国民。二度と戦争をしないでください」と強調。公民館で中国語の講師をするなど、地域と前向きにかかわるようになった近況を紹介した。

 残留孤児一世の石坂万寿美さん(65)=松本市=はこの数年間熱心に学習し身につけたしっかりした日本語で次のように発表した。2歳で敗戦、養父母は困難な中で自分を師範学校に出してくれ、教師になった。文化大革命の混乱を機に帰国の思いが強まり平成6年帰国。しかし言葉がわからず孤独と不安のなかで暮らした。5年前残留孤児訴訟に加わった。昨年支援法が成立し、ようやく1人の日本人として認められ思いがした。現在の私は、地元の支援グループ・ナルクと出会い、活発に料理・マレットゴルフ・ハイキングなどに参加し、四川大地震募金活動に参加したりNHKのど自慢にも出場した。元気で前向きに生きていこうと決意している。

 残留孤児二世の坂井太郎さん(34)=長野市=は帰国者自立研修センターで日本語を身につけた後、就職し、現在ではヘルパー2級の資格をとって活躍している様子を紹介した。スペシャルオリンピックスでのボランティアの体験などを活かして今後も社会のために貢献したいと語った。

 発表者で最も若い残留孤児三世の野村霞さん(20)=下伊那郡高森町=は9歳でおじいちゃんとともに日本にやってきたが小中学校では言葉がわからず友達ができなくていじめられたり授業についていくことができなくてつらい思いをしたが、卒業後は良い職場の仲間に助けられ定時制高校にも通い高校検定試験に合格し半年早く卒業できた。不況のため派遣会社は首になったが、新しい会社に就職できた。「通訳になって日中両国の懸け橋になりたい」と決意を語り、会場から盛んな拍手を浴びた。

 第2部の春節交流会は、長野市日中女性委員会のメンバーが日頃の帰国者支援活動の腕前を発揮して準備と運営に当たった。350人の会場移動が完了すると、まず青年委員会メンバーが用意した臼と杵で餅つき。昨年帰国したばかりの池田充さん夫妻も餅つきを体験して大喜びだった。宮沢信代女性委員長の開会あいさつ、西堀正司県日中理事長のあいさつに続いて青木一男県地域福祉課長の音頭で乾杯。立食パーティー方式で懇親交流が行なわれた。続いて、富竹神楽保存会の皆さんによる獅子舞、ワールドキャッツの子供たちによる軽快なダンス、琴伝流大正琴・やまなみの皆さんによる日中両国の歌の演奏が披露。友情出演の皆さんの熱演に拍手が送られた。豪華景品も当たるくじ引きには真剣な眼差し。続いて上田と松本の高齢帰国者日本語教室のメンバーが「さくら」や「ふるさと」を元気に歌うと大きな拍手が送られた。最後は中国の東北で盛んなヤンコー踊りを帰国者の皆さんのリードで踊った。会場は春節にふさわしい盛り上がりとなり、あっという間に2時間余りが過ぎ去った。最後に北沢久県日中帰国者留学生委員会委員長の音頭で帰国者の皆さんの活躍を祈念して万歳。つきたてのお餅をいただきながらお互いにエールをかわし帰途に着いた。

 今回の集いは厚生労働省の委託を受けた(財)中国残留孤児援護基金が全国3箇所(東京・長野・福岡)で計画した残留邦人への理解を深めるシンポジウム事業の一環。県日中友好協会が協賛した。


中国残留邦人への理解を深める県民のつどい(2/1)2009

 長野県には4300名の中国帰国者の皆さんが暮らしています。(財)中国残留孤児援護基金と長野県日中友好協会では厚生労働省の委託を受けて中国帰国者(中国残留邦人)への県民の皆さんの理解を深めるために下記により「中国残留邦人への理解を深める県民のつどい」を開催することとなりました。(全国で東京・長野・福岡の3箇所で行われます) お誘いあって多数ご参加ください。


日時:2月1日(日)午前10時~午後3時 
場所:ホテル サンパルテ山王(長野市岡田町)
次第:第1部 ・東京中国歌舞団による歌と演奏
         ・帰国者の体験発表(中国残留婦人・残留孤児1世・2世・3世)
    第2部 春節交流会 餅つきや獅子舞・日本舞踊・大正琴の友情出演、ゲームなどを通じて帰国者の皆さんと交流
参加費:無料。

◎参加ご希望の方は、所定の申込用紙にて、1月26日までにお申し込みください。お問合せは県日中友好協会(TEL026-224-6517)へ。
主催:中国残留孤児援護基金
協賛:長野県日中友好協会
後援:長野県・長野市


中国帰国者、日本語で弁論大会(9/28)2008

 県や県日中友好協会でつくる中国帰国者弁論大会実行委員会は9月28日、第19回県中国帰国者日本語弁論大会を長野市旭町の信濃教育会館で開きました。県内で暮らす10人が終戦から帰国するまでの体験や日本語を学びながら生活している様子を語りました。

  「消えない戦争の傷跡」と題して弁論発表した滝沢ケイ子さん(77)=坂城町=は1943年に家族7人で旧満州に渡り終戦後の避難生活を振り返りました。「飢えや寒さで子供や妊婦、老人らが亡くなった。戦争で家族は生き別れ、父と再会したのは戦後30年がたっていた」と話しました。96年に祖父母、父母と5人で帰国した岩本銘美さん(19)=下伊那郡松川町=は祖母から体験を聞くなど戦争の歴史を学んだと述べ、「生まれた中国と、成長した日本はかけがえのない国。両国の友好に貢献したい」と語りました。石坂万寿美さん=松本市=は地域のボランティアとともに老後を元気に楽しく生活している様子を紹介し、前向きに生きていくことの大切さを訴えました。

 入賞者は次の通り。①県知事賞:岩本銘美、②県日中友好協会長賞:秦治樹、③信濃教育会会長賞:滝沢ケイ子、④県開拓自興会会長賞:小宮山勇男、⑤努力賞:酒井麗子、⑥奨励賞:中村みどり。

中国帰国者支援研修講演会(8/8)


 8月8日、長野市生涯学習センターにおいて長年にわたり中国残留孤児問題に関心を寄せ、帰国者支援に深く係わってこられた井出孫六先生を講師に県内の関係市町村担当者80名が出席して研修講演会が開かれました。井出先生は「中国残留邦人の終着駅が幸福であるために」と題し、歴史的経緯を踏まえて帰国者問題に積極的に取り組んでいくことの重要性を訴えられました。

長野びんずるに「日中友好連」で参加(8/2)
2008

 長野びんずる祭りに「日中友好連」として今年も参加しました。そろいのハッピやTシャツに身を包み、シャモジさばきも軽やかに帰国者や研修生の皆さんとともに60余名で楽しく踊りました。女性委員会のリードで踊りのコツを覚えると、日中友好の提燈と飾りつけただし車をとともに、4人縦列で長野大通りを練り歩きました。長野に永住帰国したばかりの池田さん一家も「本当に楽しかった」と大喜びでした。




日中友好
海水浴交流会in鯨波、皆さん大喜びでした(7/21)2008

7/21(海の日)中国留学生・河北省研修生・帰国者の皆さんとともに夏の1日を柏崎・鯨波の海で泳いで、浜辺でバーベキューを食べて楽しく交流しました。海が始めての留学生や研修生、帰国者の皆さんはじめ80余名が参加しました。記念撮影のあと準備体操をして海に入りました。海水に体が楽に浮く感覚を実感しながら海水浴?を楽しみました。海を見ながらの昼のバーベキューも女性委員会の皆さんが事前に準備しておいてくれた新鮮な材料とあわせて肉を焼きながら心行くまで堪能しました。スイカ割りは子供たちが活躍し、みんなでおいしくいただきました。参加者は真っ黒に日焼けしながら、帰りのバスの中でも自慢ののどを披露しながら帰路につきました。


長野市で中国帰国者のつどい(6/29) 2008

6月29日長野市飯綱高原アゼリアにおいて恒例の中国帰国者のつどいが開かれ、長野市在住の帰国者ら120名が参加しました。長野市や市日中友好協会・帰国者の会で構成される三者連絡会が主催したもので日頃地域でお世話になっている区長さんや民生委員さんも来賓として参加し交流を深めました。北島良一会長(市日中理事長)が主催者を代表してあいさつし帰国者の日頃の活躍にエールを送りました。引き続き入国手続きの講演の後、懇親会が行われました。ビンゴゲームやカラオケなど楽しいひと時を過ごしました。


北京オリンピック聖火リレーに声援送る(4/26)2008

 4月26日、北京オリンピック聖火リレーが長野市で行われました。井出正一会長をはじめとした友好協会会員は、早朝から中国帰国者の皆さんや県議会日中友好促進議員連盟の皆さん(倉田竜彦会長はじめ超党派の16名の県議)とともに約200名で出発式・到着式会場付近で友好協会旗や日本と中国両国旗、長野県旗などを振って応援しました。
 また「祝北京オリンピック聖火リレー・長野県日中友好協会」と印刷された袋に入れ友好協会女性委員会の皆さんが前もって準備した紅白の一口饅頭1000袋を沿道の応援に訪れた市民や全国から集まった中国留学生の皆さんに振舞い大変感謝されました。
 星野仙一監督や野口みずき選手の走りに「ようこそ長野へ・北京五輪聖火リレー」の横断幕を掲げて声援を送りました。中国留学生の皆さんとも有意義な交流ができました。参加者はまた、北京オリンピックの大きな旗に寄せ書きをして、北京市友好協会の馬恵麗さんに託しました。
 友好協会会員の山岸重治さんと雪入忠司さんは10倍もの倍率の中でリレーランナーに選ばれて無事受け持ち区間を完走しました。またMウエーブ友の会で日ごろボランティアとして活躍している会員メンバーはMウエーブで崔天凱駐日中国大使を歓迎しました。長野市太極拳メンバーや各自治会で役員を務めている会員も率先して沿道整理のボランティアを引き受けリレーの成功に貢献しました。また石川県日中友好協会の皆さん13人も遠路応援に駆けつけてくれました。 
 長野オリンピックから10年、歴史的に中国と全国一深いかかわりを持つ長野県として、私たちは、多くの長野市民の皆さんとともに、アジアの友邦中国北京で開かれるオリンピックの聖火をあたかかく迎えることができました。長野での聖火リレーは沿道で85,000人余りが声援を送りました。全国からやってきた3000人を超える中国留学生の皆さんも整然と声援を送りました。聖火は東京経由で韓国のソウルに向かいました。全国から応援していただいた皆さんありがとうございました。


第31回日中友好スキー交流会Ski and Friendship in 斑尾高原(3/1~2)
2008

3月1~2日の両日飯山市の斑尾高原スキー場において、中国留学生・大使館・帰国者ら50名余を招いて110名の恒例の日中スキー交流会が開催されました。初日はあいにくの吹雪でしたが、2日目は絶好のスキー日和、スキー教室で初心者も初級者もボーゲンなどをマスターしてリフトを使って幾度か滑り降りれるようになりました。夜の交流会は、地元飯山市日中友好協会の強力な支援もあり、バンドの生演奏、フラダンス、歌や踊りと参加者一体となったすごい盛り上がりとなりました。


さようなら、長野県中国帰国者自立研修センター
  2008

                   井出 正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長

国残留邦人への「新支援法」が施行されようとするなか、長野県中国帰国者自立研修センターは、老後のサポート、2・3世への支援などの課題を残したまま、ここ数年中国からの帰国者がないとの理由で、「その使命を終えた」として今月末開所20年を目前に閉鎖される。新法は、“満蒙開拓”という国策によって生じた彼らの「特別の苦難」に対して「特別の措置」を講じる必要性を国に求め、国のこれまでの対応は十分ではなかったと指摘している。その通りだと思う。94年に「中国残留邦人帰国促進・自立支援法」が施行された。それに伴って国民年金法の「特別措置」により、日本に帰国して25年経っていない孤児らも国民年金を受ける資格を持てるように、中国での在住期間は「免除期間」とし、保険料の国庫負担分3分の1に相当する受給額を加入期間に関わらず受け取れるように改正した村山内閣の厚生大臣だった私も、当時はそれが精一杯ではあったが、決して十分とは思っていなかった。

んななか、当センターは開設以来、立派にその任務を果たし、多くの帰国者及び家族に感謝されてきた。全国20カ所に設けられたセンターが国、県、法人格の団体への委任事業であるなか、長野県は唯一任意団体である県日中がその運営を引き受けた。満蒙開拓に全国で最多の人たちを送り出したという歴史的事実があるにせよ、特筆に値する事例といえる。長野県日中友好協会編『紅の架け橋(2)』によれば、自立研修センター構想が打ち出された87年11月協会は知事に対し、「中国帰国者自立援護対策に関する要望書」を提出、知事もその実現を約束したが、帰国者の定住希望地が大都市に集中しているため、長野県は対象外になりそうなので厚生省に陳情してほしいとの要請が社会部長からあった。そこで部長ともども花岡堅而会長(前日本医師会会長)以下協会幹部が厚生省へ押しかけ、当県の官民挙げての熱意が実現にこぎつけたと記されている。改めてボランティアを含め歴代の関係者の皆さんの献身的なご苦労に感謝の意を表したい。

年秋の「日本語弁論大会」、暮の「交流会」で、帰国者やその家族が懸命に頑張っている姿や、それを支援する方々の心優しい活動に接することは、私たちにとっても忘れ難い思い出だ。センターとしての活動が幕を閉じるのは残念かつ淋しいが、協会としての支援活動はこれで終るわけではないし、終ってはならない。県や国へ働きかけながら、これからも出来る限りの応援をしていこうと考えている。(「日本と中国」08.2/5)


帰国者や研修生招き日中友好新春餅つき大会(2/3)  2008

 長野市日中友好協会女性委員会は2月3日、長野市更北公民館で中国の春節を祝う「日中友好新春餅つき大会」を開きました。今年で22回目で、市内に住んでいる中国帰国者や中国からの研修生ら約100人が参加、つきたての餅を味わいました。
帰国者や研修生が交代で杵を持ち、餅をつきました。なれない様子の研修生らに、友好協会メンバーが「もっと腰を入れて」などとアドバイス。つきあがった餅はあんこやきな粉で食べました。また女性委員会が用意した豚汁も好評でした。女声ゴスペルや太極拳の披露、参加者全員のヤンコー踊りなど楽しいひと時を過ごしました。
 会を企画した西沢よしえ委員長は「北京五輪の年に更なる交流を深めたい」と述べました。


中国帰国者ら近況語り合う、帰国者年末交流会(12/2)  2007


県中国帰国者自立研修センターは、12月2日、恒例の年末交流会を長野市内のホテル、サンパルテ山王で開催しました。帰国者家族や関係者60名が出席して、食事をしながら、近況を語り合うなど交流を深めました。席上、同センターで日本語を学んだ修了生がスピーチを披露。10年前に天津市から帰国した中村啓さん(64)は「この10年間仕事を続けながら、日本語を学ぶことを最優先に頑張った。今は孫に中国語を教え、孫からも日本語を教わっている」と話しました。
13年前に瀋陽市から帰国した井沢紀代子さん(67)は「11月28日に成立した中国残留邦人に対する改正支援法はありがたい。清掃の仕事を辞め、来年からは日本語をさらに勉強したい」と話しました。

◇中国残留孤児・婦人新支援法が成立(11/28)  2007

 中国残留孤児・婦人の生活支援を目的にした改正中国残留邦人支援法が11月28日、参院本会議で全会一致で可決、成立した。
 生活保護に代わる特別給付金(最高で月額8万円)の支給と、特例による国民年金月額6万6000円の満額支給が柱。対象となるのは日本に永住帰国した残留孤児・婦人約6000人。改正法の成立で、中国残留孤児約2200人が国を相手に10地裁6高裁で係争中の集団訴訟は終結に向かう。
 (社)日中友好協会はことし2月に、厚労相あてに帰国者支援策の成立を求める要望書を平山郁夫会長名で提出、各地の協会が支援活動を繰り広げ、7月に政府与党の支援策を孤児側が受け入れていた。


拝啓 与党「中国残留邦人支援PT」メンバー各位  2007


                    井出 正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長

 ご健勝のことと存じます。召集直後に首相が替わるという前代未聞の臨時国会、ご苦労多きかと思いますが、ご活躍のほどお祈り申し上げます。
 さて、満蒙開拓という国策によって生じた問題ゆえに国の責任は重いと、かねて要請して参りました帰国した中国残留邦人への“新たな支援策”につきましては、皆様方のご尽力により、お蔭様で原告・弁護団も受け容れられる内容になり政治決着をみましたこと、改めて深謝申し上げます。私の周囲におります該当者も大変喜んでいてくれます。
 来年1月に支援策をスタートさせる関連法案が、この臨時国会で審議されるわけですが、その際もう一点ご高配いただきたく一筆認めた次第であります。
 申しますのは、永住帰国時の国籍取得の際、「帰化」手続きで取得した人は外国人と同じ扱いとなり、国民年金の特例措置の対象外の期間(難民条約が批准された1982年まで)を有しており、このことで新支援策でも不利な状況になるのではないかと案じられる方が、長野県飯田地区に2人存在することが地元紙に報じられたからです。
  紹介されている中島千鶴さん(75)は、飯田日中友好協会が展開している“満蒙開拓語り部の会”のメンバーとして、若い世代に歴史を語り継ぐ役を担っていてくれるおひとりです。終戦時13歳だった中島さんは、49年に中国人男性と結婚。57年に中国籍を取得。85年に帰国したが法務局で中国籍取得の経緯を詳しく説明したため、自らの意思で取得したと理解され帰化扱いになったとみられます。そのため難民条約が批准されるまでの9年余について特例措置の対象外とされ、対象期間の保険料は追納したものの、月に受け取る国民年金の額は4万6千円と一般より少なく、このことが新支援策でも不利に働くのでないかと危惧されているわけです。
 労省の中国孤児等対策室の担当官は「戸籍・国籍に関することは管轄外なので」と発言したと地元紙は報じています。元厚相として遺憾ではありますが、縦割行政のなか、一室長の裁量の範囲を超えているようにも考えます。中島さんのような例の他に、肉親が不明、証拠もないことから、永住のために「帰化」手続きによって就籍=戸籍取得をした人たちもいるかもしれません。全国でどの位の数になるのか掌握してはいませんが、この人たちが他の残留邦人に比べて不利にならないよう、どうかこの分野でも「政治」の力を発揮して下さいますようお願い申し上げます。  敬具      (「日本と中国」10/15号)


切実な訴えに涙、第18回中国帰国者日本語弁論大会(10/14) 2007
 

 長野県中国帰国者自立研修センターは、10月14日信濃教育会館において、第18回中国帰国者日本語弁論大会を開きました。
 1世の部、2・3世の部、学生の部に別れ、計12人が出場しました。敗戦後の悲惨な逃避行の様子や祖国への思いを語った1世や言葉の面で苦労し子育てやリストラ、地域との付き合いなど困難な状況におかれている2世の現状を訴えた発表に会場は静まり返って聞き入っていました。また、言葉がわからず学校でのいじめや差別に絶望したがそれを乗り越え働きながら定時制高校に通い1級日本語検定合格に挑み通訳を目指したいとの野村霞さん(19)=高森町=の「私はがんばり続けます」の発表には感動の拍手が寄せられました。

 入賞者は、次の通りです。
 ◎県知事賞 野村霞(学生①)、◎県日中友好協会長賞 坂井馨(2・3世①)、◎信濃教育会長賞増田初子 (1世①)、◎県開拓自興会長賞 牧内春重(1世②)、◎県中国帰国者採用企業連絡会長賞 北原陽江(2・3世②)、◎県中国帰国者自立研修センター所長賞 米山紀佳(学生②)◎各部門3位 西山明子(1世)・中原綾美(2・3世)・赤羽香(学生)

 入賞した2人の発表を紹介します。

  <私は、頑張り続けます>       野村 霞

私は、九歳で日本に来ました。日本に来られたことがすごくうれしかったです。しかし、思ってもなかった残酷な現実が私を待っていたのです。学校でみんなと言葉が通じないので友達は一人も居なくて寂しい思いをしました。そこで私は日本語の勉強に励みました。親切で優しい先生のお陰でようやくスムーズに日本語を話せるようになりましたが、六年生になると授業にもついていけなくなってしまい悲しかったです。そんな中で日本語の先生と担任の先生が私を支えて守ってくれました。先生たちが居てくれたから私は中学校に進む事が出来ました。心から感謝しています。でも中学校の生活はますます辛くなりました。イジメや差別もされるようになり毎日の日々が地獄のようでした。助けてくれる人も無く親に心配させたくないから自分で耐え忍ぶしかなかったのです。私は恨みました。どうしてお祖父さんは、私をこんな苦しい所に連れてきたの。日本人は、まだ幼い私をどうして傷つけるの。私は日本の全てに反感を持ち、日本に来なきゃ良かったと思いました。日本から逃げ出したくなりました。急に中国がすごく懐かしくなり、中国の友達にも、会いたくなりました。中国で過ごした自由で楽しい日々を返してほしいと願いました。そんな苦しい日々を耐え続けてやっと中学を卒業することが出来ました。こんな辛い学校生活はもう嫌だから、高校に進学せず、就職することにしました。職場では、イジメや差別をされる事は無く、優しい人達ばかりでした。やっと笑うことができるようになり、友達も出来ました。その時、私は思いました。「恨み」の中で生きるより寛容の心で生きた方がよっぽど楽しい人生を送る事ができる。だから私はもう逃げたり、避けたりはしないようにしようと。二年遅れになりましたが、勇気を出して高校の定時制に入学しました。最初の時は、イジメや差別されたりしないかと心配しました。しかしお蔭さまで今は順調に勉強する事が出来ています。免許を取るまでの一年間、毎日放課後、夜遅くに迎えに来てくれた両親に感謝しています。私は今一生懸命勉強しています。少人数のクラスですが、いつもトップの成績をとる事ができました。私は今「通訳」になる夢を持っています。日中両国の為に、何か役に立ちたい。言葉で困っている人を助けてあげたいと思っています。そのためにもっと言葉の勉強をしなければいけないと思います。二ヶ月後の、日本語検定(一級)の合格をめざしています。簡単に叶えられない夢ですが、私にとって人生最大の目標ですから、諦めません。お祖父さんを恨んだりしてゴメンなさい。初は、確かに苦しくて辛かったけれど、でもこんな経験が有ったからこそ私は成長しました。せっかくの人生を無駄にしたくないのです。だからこの先色々の困難や失敗を恐れず私は頑張り続けます。

  <帰国者二世の現状>      北原 陽江

        私たちの親である、一世の帰国は遅かったため、多くの方がまだ日本の社会の事を勉強していないうちに、もうこの年齢になりました。いま、社会中に一生懸命頑張っている人はほとんど二世です。特殊な家庭で一世の面倒を見る、三世の教育、二世自身の色々事など、すべてが二世の肩に掛けられて、これが、今の二世の現状です。
 先ず、二世自身の事を見ると、一世たちと同じように年金を貰えない生活を繰り返さないようにしたいと思っています。しかし現在日本の教育を受けない状況の中で、いきなり社会に働きに行かなければならない状況が迫っています。私たちは言葉の壁を背負ったまま、色々な人間、色々な事にぶつかったりしました。また、時には立ち上がったり。まるで歩き始めたばかりの赤ちゃんでした。片言日本語の二世たちの仕事は、一番安い賃金にも関わらず、リストラでは最優先になっています。コミュニケーシュンを取れないので、周りが見えず、間違えたたり、誤解されたり、何処に居っても一人でした。
 50代以上の帰国者二世なら、いくら頑張っても、老後の年金生活は無理ですね。ですから私達がまだ若いうちに老後の生活をよく考えて、自分の生活が困らないように、子どもの生活にも迷惑を掛けないように、医療保険と厚生年金をきちんと払いましょう。一時の手取りは少ないけど、長い目で見ればそうした前向きの姿勢が最も大切と思います。
 私達の子どもは三世として、二世の生活を繰り返さないように、日本の子どもと同じような教育受けることができたら、将来社会において認められる可能性が私達より高いと思います。そう考えると二世が親として、子どもの教育を真剣に考えることが最も重要でかつ大変なことになります。また文化、教育、習慣、社会環境が中国と違うため、子育ては更に難しいと思います。子どもの躾、地域の行事、学校の活動、子どもの親間の付き合い、先生との意見交流等様々な所に、日本人の親なら、簡単にできる事が、私達にとって大変難しい事なのです。また、仕事のため、子どもの面倒が見られないということは日本の国の働くお母さんたちと共通の問題です。面倒不足の子どもは先生に迷惑をかけるので、先生も不満になる。または、外国人の親のせいで子どもがいじめられて、色目で差別され、親の心が子どもよりもっと辛いと言うこともあります。私が自分の息子一人の姿をみても、とても悲しかったです。子どもに「御免なさい」心の中で叫んでいます。遠いところみると、別の外国人の親が一人います。もしかして、私と同じ気持かと思います。
 勤労、誠実、楽観、真摯、前向きな二世たちは、社会中から見えない処の狭い隅で頑張って生きています。


中国帰国者楽しい老後を、1世ら上田で「日本語教室」(8/27) 2007


 上田日中友好協会(成沢捨也会長)は8月27日、上田市の室賀温泉ささらの湯で高齢の中国帰国者一世と配偶者を対象に初の高齢帰国者向け日本語教室を開いた。上田市、東御市、坂城町から約20人が参加し、健康作り体操や日本語学習をした。地域に溶け込めるよう支援する目的で今後も継続的に開いていく。
 参加した1世は、残留孤児や残留婦人が中心で、主に六、七十代。1980-90年代に帰国した人が多い。自己紹介の後、保健師の指導で指先や体を動かす体操をして交流。さらに4、5人ずつのグループに分かれ、県帰国者自立研修センターの日本語講師の指導で日本語で日常会話をした。
 13歳で旧満州に渡り、89年に帰国した滝沢ケイ子さん(76)=坂城町=は「同じ経験のある人と友達になれる」と喜び、96年に残留孤児の夫と来日した女性(58)は「日本語を勉強するいい機会。楽しかった」と話していた。
 成沢会長は「まだ日本語が上手に話せない人もいるが、心を大きく持って、老後を楽しく生きていただきたい」とあいさつした。「日本語教室」は中国帰国者支援・交流センターから県協会に委託された事業の一環。

飯田中国帰国者サロン教室紹介(飯田日中友好協会)  2007


 全国で一番多くの満蒙開拓団を送出した私たち「いいだ・下伊那」地方には、多くの中国帰国者が暮らしております。
現在、本人とその配偶者のおよそ110名が暮らしており、平均年齢も71歳になっております。これらの人たちが集まりやすいように7つの地域で教室を開いております。
 教室では、無理なく、楽しくをモットーに帰国者同士の交流・健康づくりを考えマレットゴルフや絵手紙なども取り入れて日本語の勉強を行っています。また、飯田日中友好協会と常に連携して、満蒙体験者の「語り部の会」「語りつぐ会」などを共同ではじめ、多くの市民による帰国者支援活動や長野県独自の愛心使者事業と相俟って、ようやく自らの体験を語りはじめ市民といっしょに自己を見つめる活動が始まっています…。

教室風景(1)

教室風景(2)

桜の木の下で


マレットゴルフ

語り部の講話

語り部の講話(小学校で)


絵手紙を楽しむ

餃子交流会

介護施設見学

長野びんずる「日中友好連」で帰国者とともに踊る(8/4)  2007


8月4日長野市で開かれた、長野びんずるに長野市日中友好協会は「日中友好連」を組んで参加しました。友好連には中国帰国者や友好協会会員など50名が参加し、びんずるのリズムに合わせてそろいのハッピ姿で楽しく踊りました。

飯田日中友好協会総会、「満州開拓平和記念館」実現へ募金活動(7/8)  2007

 飯田日中友好協会(河原進会長)は7月8日、飯田地場産センターで約60人が参加して定期総会を開いた。飯田下伊那地方に2009年の会館を目指している「満蒙開拓平和記念館」実現に向け、募金活動の実施を決めた。またシベリア抑留の引き揚げ港だった京都府舞鶴市にある「舞鶴引揚記念館」の山田昌道館長や、NPO法人「舞鶴・引揚語りの会」の豊田信明理事長による基調講演もあり、建設の意義や運営面を考えあった。
 平和記念館は、旧満州開拓に関する歴史資料を展示し研究調査の拠点となるように建設する計画で、事業費は約4億円の見込み。そのうち2億円を目標に募金で充てようと、募金活動を始めることにした。
 基調講演で山田館長は「過去にどういうことがあったのか、末永く若い世代に伝わるように努力して行きたい。満州平和記念館も、そういう役割を果たしてほしい」と呼びかけた。
 講演を聞いた河原会長は「(記念館建設には)地域住民を動かす熱意が必要など、共感するところが多い。シベリアと満州の違いはあるが、平和希求の気持ちは一緒。今後も交流して行きたい」と話していた。

楽しく長野市帰国者激励交流会(6/24)2007


 長野市・長野市日中友好協会・長野市中国帰国者の会は6月24日(日)、長野市飯綱高原の「アゼリア飯綱」で長野市中国帰国者のつどいを開きました。帰国者120人と市日中の関係者など40人が参加し交流を深めました。三者連絡会の会長を務める北島良一市日中友好協会理事長と下条長野市福祉部長が帰国者の皆さんの、日ごろの自立の努力に敬意を表し、1日交流しゆっくりと楽しんでほしいと述べました。町田伍一郎市議や西堀正司県帰国者自立研修センター所長が来賓としてあいさつをしました。西堀所長は、日本政府の帰国者への年金満額支給の方針等援護施策の充実に触れ、高齢化している帰国者1世には幸せな老後を送っていただきたいと述べました。
 第2部は神田忠亥前県開拓自興会会長が満州開拓団の悲惨な歴史と残留孤児や残留婦人の生まれた経緯を話しました。
 第3部の懇親交流会では、関係者の協力でたくさんの景品が集まり、ビンゴゲームの当たり番号とにらめっこしながら楽しい時間をすごし、またカラオケのど自慢で盛り上がりました。最後に全員で「ふるさと」を合唱し、再会を楽しみに解散しました。

上田日中友好協会が中国帰国者激励交流会を開催
  2007

 上田日中友好協会は5月13日、上田市別所温泉「相染閣」において恒例の中国帰国者激励交流会を開催しました。上田市内と近郷の帰国者家族約100名が招かれ、温泉に入浴した後、友好協会会員ら50名と交流しながら楽しいひと時を過ごしました。
 成沢捨也・上田日中友好協会会長は「戦後62年をむかえたが、敗戦時の悲惨な逃避行は想像に絶するものがあったとお聞きしている。幸い皆さんは、養父母に育てられ無事成長されたが、帰国後も言葉や習慣の違いによるご苦労など厳しい環境の中で過ごしてこられた。帰国者の皆さんには是非、安心した老後を送ってほしいと心から願っている。政府の支援策もまもなくまとまると聞いているが援護施策の充実を要請したい。上田日中としては、市当局の支援のもと、この間、帰国者の共同霊園の整備にも力を入れてきた。日ごろのご苦労を癒し、今日はゆっくり楽しんでほしい」とあいさつしました。
 交流会には母袋創一上田市長や布施県日中友好協会事務局長らも出席して帰国者を激励しました。懇親会の中では、真田陣太鼓の皆さんが、真田武者のいでたちで和太鼓を演奏し、その迫力に大きな拍手が起きました。また日本舞踊のグループが友情出演し見事な演舞を披露してくれました。帰国者の皆さんも、太鼓の手ほどきを受けたり、一緒に踊ったり、ビンゴーゲームなどを楽しんだりしました。女性委員会のみなさんの手作りの豚汁も振舞われ好評でした。最後に藤原邦彦さん(64)が帰国者を代表して、しっかりした日本語で「大変楽しく過ごせました。皆さんのご好意に感謝し、私たち帰国者も地域の一員として頑張って行きたい」と述べました。


臼田日中・「春節をともに祝う会」開催  2007


  中国のお正月「春節」をお祝いして、臼田日中友好協会(井出正一会長)は、2月11日、佐久市臼田の総合福祉センターあいとぴあにおいて、恒例の「春節をともに祝う会」を開きました。臼田日中友好協会の役員・会員、日本語教室の関係者、佐久在住の帰国者や中国からの花嫁さんら70名が参加しました。
 井出会長は、日中関係が好転してきている中で、帰国者の皆さんにとって良い一年になることを祈念しながら、政府の帰国者援護の特別措置を早急に実現するように訴えました。帰国者お手製のおいしい中国料理と水餃子をいただきながら交流会が和やかにおこなわれました。日本語教室で学ぶ皆さんで「故郷」、「北国の春」を合唱、頭を使ったクイズゲーム、みんなで楽しむビンゴゲーム、のど自慢など楽しい3時間でした。


2007年、日中友好新春女性のつどい


 長野県日中友好協会女性委員会(村山ひとみ委員長)は、2月5日ホテル信濃路において、恒例の「日中友好新春女性のつどい」を開きました。
 第1部として満州開拓団に加わり中国に残留、1994年に帰国した唐澤寿美さん(81)=下伊那郡高森町=を招き、約70人が体験談に聞き入りました。唐澤さんは「長春の収容所で発疹チフスにかかり収容所を出て、死の寸前中国の婦人に救われ一命を取り留めた」などと敗戦後の逃避行の体験を説明。また望郷の念に駆られながらも身元引き受け人がいないため帰国できなかった頃の辛さを語り、「このような悲惨な体験を繰り返さないためにも戦争は二度と起こしてはいけない」と訴えました。参加者は、平和と友好の大切さを心に刻むことができたと唐澤さんに心からの感謝の拍手を送りました。
 第2部の新春交流会では、芸達者な女性委員会の皆さんから踊りや歌が次々と披露され、またビンゴゲーム・ヤンコー踊りなど楽しい交流がおこなわれ一年の友好のエネルギーを大いに感じさせる楽しい会となりました。

中国帰国者招き旧正月「春節」祝う、長野で150人交流深める
  2007

 長野市日中友好協会女性委員会(西沢好江委員長)は2月4日、長野市の更北公民館で、中国の旧正月「春節」を祝う「新春もちつき大会」を開きました。中国帰国者やその家族、友好協会会員ら150人余が参加し賑やかにおこなわれました。
 帰国者の皆さんに日本の正月と中国の「春節」を楽しんでもらおうと始めて、今年は21回目。開宴前にはロビーで2つの臼で餅つきがおこなわれ、子供たちや青年たちは大張り切り。各テーブルの上には女性委員会メンバーが腕を振るった水餃子とお餅・おでんなどが所狭しと並び日中両方のやり方で春節を祝いました。
 長野市古里の子供たちが太鼓や獅子舞を披露すると、その迫力に大きな拍手がおこりました。また帰国者も和太鼓を一緒に演奏するなど交流もできました。女性同好グループのハワイヤンにも歓声が上がりました。BINGOゲームでは、多くの皆さんから寄せやれた景品が次々と配られました。最後に、中国のヤンコー踊りを踊って会場全体が「春節」ムード一色となりました。
 「餅つきや太鼓、獅子舞など大変楽しかった、と喜んでいただき苦労の甲斐がありました」とは女性委員長の感想でした。


満蒙開拓平和記念館を長野県飯田に

 飯田日中友好協会では昨年の第44回定期総会において、長年の懸案であった「満蒙開拓平和記念館」を飯田に設置することを決定し取り組みをスタートさせました。長野県日中友好協会のバックアップも得て、12月22日村井仁県知事に建設協力要望書を提出しました。また、本年1月25日の社団法人日中友好協会全国本部第14回通常総会では新年度の事業方針に組み入れていただきました。関係者一同精力的に実現に向けて活動を展開しています。

ここで飯田日中友好協会が作成した計画の概略をご紹介します。 

下の図は、旧開拓地の集落をイメージした記念館構想参考図です。
         
◆ いまだ全国何処にもない、「まんもう」の歴史資料を集め展示と学習をする「満蒙開拓平和記念館」。この「まんもう」の歴史を風化させることなく次世代に語り継いでいくことを願い、全国一の開拓団を送り出した飯田・下伊那の地方の小さな友好協会である「飯田日中友好協会」が、平和と共生のシンボルとして、「日本中に・アジアに・そして世界に向けて、平和を発信する拠点施設として活用する「満蒙開拓平和記念館」を建設しよう!、と立ち上がりました。
 この設置運動に全国のみなさんのご理解・ご声援・ご協力を心よりお願いいたします。

(参考) 飯田下伊那地方はかつて全国一の満蒙開拓団を送出しました。郡下の最も多い町村では全人口の20%もの(郡平均でも実に8%)満州移民が送出されていきました。全国平均では、人口比0.4%であるのに対して実に20倍もの送出率です。
 戦後60年の歳月が流れるなか、この地域では満蒙開拓体験者から聞き取り、語り継いでいく活動が地道に行われておりますが、一方で体験者も、歴史保存に努力されている関係者も高齢化しており、このままでは風化されてしまいます。
 この地方にとってひとつの「社会運動」でもあったといわれる「満蒙開拓移民」にかかわる資料保存とその開示は、今や焦眉の急を要する重要な問題であります。
「自らの歴史と取り組まない人は、自分がどこにいるかを理解できません。過去を否定する人は、過去を繰り返す危険を犯しているのです」(ワインゼッカー元ドイツ大統領)。かつての満蒙開拓移民の歴史にとっても、また飯田下伊那地方にとっても、満蒙開拓移民は過ぎ去った歴史的事柄として風化させてはならない現在もつづく問題であります。現在全国に満蒙開拓そのものに特化した資料館、記念館はありません。このことから、かつての満蒙開拓に関する研究や教育に関して広く社会で活用されることを目的に、この地域に全国規模の「満蒙開拓平和記念館」設置の運動を起こしていかなくてはならないと考えます
 地域のみなさんと一緒に、広く県・国にも働きかけてその実現に努力します。

 ◎満蒙開拓団送出数 
  (全国で一番多い飯田下伊那地域) 
     全    国   270、000人
     長  野  県    32、992人 (全国の12%)
     飯田・下伊那   8、389人 (長野県の25%)
  (全国ランキング)
    一位  長野県32,992人(全国の12.2%)  
    二位  山形県14,200人(全国の 5,3%)  
    三位  熊本県12,700人(  〃  4.7%)

中国帰国者援護充実に関する請願書を県議会が採択  2006

 長野県議会(萩原清議長)は12月25日、本会議において長野県日中友好協会(井出 正一会長)から提出されていた「中国帰国者援護充実に関する請願書」を全会一致で採択しました。その全文は以下の通りです。

 中国帰国者援護充実に関する請願書>
 長野県は、戦前・戦中、国策に従い旧満州(中国東北地区)に全国最多の開拓団員約3万3千人を送り出し、内半数が敗戦後の混乱の中で犠牲となりました。県内には現在約270人の中国帰国者一世(残留孤児・残留婦人)をはじめ約4300人の帰国者が暮らしております。これは47都道府県の中で3番目に多いものです。帰国者援護施策の充実は、長野県民の等しく関心を寄せている事柄であります。

帰国者一世は高齢化に伴い、少ない年金や言葉・生活習慣の相違、健康不安など多くの困難を抱えております。また、二・三世についても就労が困難など地域社会からの孤立に起因する問題が指摘されています。

神戸地裁は12月1日の帰国者訴訟の判決で、国の責任を認める判決を下し、改めて国の帰国者支援対策強化の必要性を世に示しました。

2003年10月2日県議会では当協会が請願した「中国帰国者援護充実に関する請願書」を採択いただき、それを受けて長野県は2004年4月から帰国者一世への月3万円の支援金支給を実施し、帰国者から感謝されております。しかしこの問題は本来国の責任において実施すべきことであり、高齢化の著しい中、帰国者援護施策の一層の強化が強く望まれるところであります。

本年春には、与党中国残留邦人支援に関するプロジェクトチームによる月額13万円支給などを骨子とした「帰国者老齢給付金」制度の創設構想が報ぜられました。これに対し大きな期待が寄せられていますが、いまだ実現に至っておりません。 
  一方、国は、帰国5年を経過した帰国者支援のため日本語学習支援事業・相談事業・交流事業などをおこなうための拠点として、「帰国者支援・交流センター」を5か所設置しております。県内においては、今まで帰国者自立研修センターが帰国者の精神的よりどころとしての役割を果たしてきましたが、平成19年末をもって閉所の方針と伝えられております。県当局は厚生労働省社会援護局に自立研修センターの役割を引き継いでいくために、県内に「帰国者支援・交流センター」を開設されるよう要望されておられるそうですが、この実現が強く望まれるところであります。
  つきましては次の事項について国に対して働きかけられたく要望いたします。

1.帰国者一世世帯の高齢化に伴う老後保障の充実対策として「帰国者老齢給付金制度」をすみやかに実現していただきたい。

2.高齢化の著しい帰国者一世ならびに二・三世世帯に対して、引き続き地域での支援活動が必要であり、その拠点としての「中国帰国者支援・交流センター」を全国で3番目に多い帰国者が暮らす長野県に是非開設していただきたい。

帰国者援護の充実を知事・議会に要請  2006

 12月12日、井出正一会長をはじめ県協会帰国者留学生委員会役員など12名が村井仁知事に面会し、中国帰国者援護の充実を国に働きかけるよう要望しました。帰国者一世は平均年齢も70歳を超え、高齢化に伴い、少ない年金や言葉・生活習慣の相違、健康不安など多くの困難を抱えています。長野県内では、2003年10月の県議会の請願書採択を受けて04年4月から月額3万円の支援金が支給され帰国者から感謝されていますが、国の責任において帰国者支援対策を強化すべきとの声は強く、12月1日の神戸地裁の判決は改めてその必要性を世に示しました。要望の内容は①与党プロジェクトチームが提言している「帰国者老齢給付金制度」の早期実施、②全国で3番目に多い4300人の帰国者が暮らす長野県に帰国者自立研修センターの後を継いで帰国者支援・交流センターを是非開設されるよう国に要望していただきたいというものです。知事は自らも幼い頃中国で過ごしたことがあることを紹介し、帰国者問題に深い関心を寄せているとのべ前向きに取り組んで行きたいと述べました。

恒例の帰国者年末交流会和やかに開催、援護施策の充実に期待  2006
 12月3日、ホテル・サンパルテ山王において恒例の第16回中国帰国者年末交流会が開催されました。県帰国者自立研修センターの主催で、センターの受講生や修了生ならびに県厚生課や日中友好協会、信濃教育会など関係者62名が出席し、楽しいひと時を過ごしました。西堀正司所長は日ごろの帰国者の労苦にエールを送るとともに、12月1日の神戸地裁の判決にふれ「帰国者一世の皆さんが安心して老後を過ごせる援護施策の充実が必要」と述べ、与党のプロジェクトチームが提言した月13万円の支給の早期実現や、長野県への帰国者支援交流センターの招致実現など4300名の帰国者が地域で安心して暮らしていける制度的充実を訴えました。県厚生課の小林厚課長補佐や井出正一県日中友好協会会長、油科淳太郎信濃教育会事務局次長らが来賓として励ましのあいさつをされました。
 石坂政敏さんと劉愛軍さんが受講生を代表して日本語学習の決意を語りました。帰国者一世の浦野喜久美さんが「私の半生を語る」と題して、中国残留のいきさつや生々しい体験を語りました。懇親会の席上、日本の歌、中国の歌が次々と披露されました。また3組の新婚カップルが紹介され大きな拍手が起こりました。帰国者採用企業連絡会の吉原文典会長より帰国者の家庭に記念品が贈られました。
第17回中国帰国者日本語弁論大会  2006
 長野県中国帰国者自立研修センター主催の第17回帰国者日本語弁論大会が10月15日(日)信濃教育会館講堂において開催されました。弁論大会には、県下各地の代表14名が出場し、1世の部、2・3世の部、学生の部に分かれて弁論を競いました。戦時中の体験や、苦労して日本語を学んだ経験などが発表されると、応援聴講の皆さんから感動の拍手が贈られていました。3歳で来日した宮本敏江さん(18)=長野市=は「普段はけちな両親だと思っていたが、苦労して中国で生きてきた。今は家族をとても尊敬している」と述べました。浦野喜久美さん(84)=駒ヶ根市=は「戦争が無かったら孤児なんてものは無かった」と訴えました。
主な受賞者は次の通りです。
◎県知事賞 中島千鶴(飯田市)◎県日中友好協会長賞 宮本敏江◎信濃教育会長賞 馬場田正美(飯田市)
第37回サロン教室  2006
合併し安曇野市(あずみのし)となった旧明科町には、信州随一を誇る150種5万株を数える花菖蒲園があります。
今回は二世も参加できるように、サロン教室を6月25日の日曜日に計画しました。遊歩道沿いに植えられた色鮮やかなあやめの間を縫って公園を散策しました。
園内で催されていた野点にも参加し、いっとき優雅で風流な時間を過ごしました。
犀川(さいがわ)のせせらぎを聞きながら、例年より遅咲きで満開になったあやめ公園を散策しながら、マイナスイオンをいっぱい浴び帰国者の皆さんも心身ともにリフレッシュした一日になりました。
中国残留邦人支援に思う   2006
     井出正一・長野県日中友好協会会長・(社)日中友好協会副会長・元厚生大臣

 協会の第12回通常総会の翌1月27日早朝、長野に帰るべく私は世田谷公園前のバス停で、寒さに身を震わせながら1番バスを待っていた。するとジョギング中なのだろう、スポーツウェアに身を包んだ年輩の女性から突然声をかけられた。聞けば彼女は、私が村山内閣の厚生大臣だった平成6年11月、第25次訪問調査に来日した中国残留孤児のひとり張桂芝さんで、私が代々木の青少年センターや九段会館で、学生時代かじった中国語で語りかけたことをよく憶えていてくれた。すぐ近くのアパートに住んでいるので、是非寄っていけといわれたが、ちょうどバスが到着したので次回上京の際の再会を約束して別れた。この広い東京で11年ぶりの対面、偶然としか言いようがない。それにしてもよく見つけてくれたものだ。バスの中で私は無性に嬉しかった。
 現在私が会長をしている長野県日中友好協会は、中国帰国者自立研修センターの運営を国・県から委託されている。専従職員が各地区の日中友好協会と連携して活動している。長野県が知事の英断で支給している月額3万円の「愛心使者事業」もこの活動から生じたものである(因みに帰国者の生活保護世帯の割合は全国7割に対して長野県は3割)。だがこのセンターもあと1年余で閉鎖を言い渡されている。ここ数年中国からの帰国者がいなくなっているからだ。全国20箇所あった同施設も、同様の理由ですでに8箇所がなくなっている。
 厳しい財政事情もあって使命を終えたということらしい。しかし、1世の帰国対策は第2段階として、老後のサポート(引きこもり防止の生涯教育的支援の提供、介護や墓地問題の支援等)、また2世の日本語習得や就労の支援、3世の教育現場での差別問題の解決支援等なすべきことは多い。
 2月15日東京地裁は中国残留婦人の訴えを、「国の怠慢」を指摘しながらも棄却した。「祖国とは何なのか」と涙する彼女たち・・・。一方帰国孤児の8割を越す約2100人の国家賠償訴訟も、全国最多の原告を抱える東京地裁の第1次訴訟がこの5月に結審する。
 「満蒙開拓」という国策にやって生じた残留邦人問題の国の責任は重い。日本の戦後はまだ終わっていない。昨夏大阪地裁の敗訴の後、一部の国会議員の中にも放っておけないという動きが出てきている。自立研修センターの存続や、老後の生活安定の方策に対しては、世論の喚起と国会議員への働きかけが急務になってきている。
 張さんは私に何を語りかけてくるのだろうか。             (「日本と中国」06.3/5号)
中国帰国者の皆さん飯山雪祭りを見学、飯山市日中の皆さんと交流(2/12) 2006
 飯山市日中友好協会では2月12日、「いいやま雪まつり」に長野県中国帰国者自立研修センターで研修している帰国者やOBのなど13名の皆さんを招待し、雪まつりの見学と交流会を行ないました。今年はまれに見る豪雪で雪まつりの開催が心配されましたが、実行委員会の熱意で開催されることになりました。午前10時57分飯山駅着のJR飯山線でセンターの皆さんが到着すると、駅前で清水飯山日中副会長の歓迎のあいさつがあり、飯山日中の旗を先頭に市内の雪像を見学しました。途中甘酒をいただいたり、雪像の前で記念撮影をし、お昼は本会場近くの食堂で交流会を行い楽しい半日を過ごしました。
06年、日中友好新春女性のつどい    2006
    帰国者の体験談を聞く
(2/11)
 長野県日中友好協会女性委員会(清水えい子委員長)は、2月11日ホテル信濃路において、恒例の「日中友好新春女性のつどい」を開きました。第1部として満州開拓団に加わり中国に残留、1999年に帰国した相沢千代子さん=下伊那郡阿智村=を招き、約70人が体験を聞きました。相沢さんは「水たまりの泥水を飲んで生き延びた」などと敗戦後の逃避行の体験を説明。衰弱した子どもを母親たちが川に投げ捨てる悲劇を目撃したといい、「戦争は二度と起こしてはいけない」と涙ながらに訴えました。
 続いて各地から参加した中国からの8名の花嫁さんが紹介されました。三線の友情出演、ビンゴゲーム・ヤンコー踊りなど楽しい有意義な交流がおこなわれ盛り上がりました。 
 
「春節」祝い、日中友好新春もちつき大会  2006

 長野市日中友好協会女性委員会は2月5日、長野市更北公民館で春節を祝う日中友好新春もちつき大会を開きました。中国帰国者やその家族、企業の中国人研修生など約100人が参加しました。
 帰国者らは初めにもちつきを体験。用意されたギョーザやおでんを味わいながら、ハワイアンダンスや三線(さんしん)の演奏を楽しみ、最後に全員で輪になって、中国のヤンコー踊りで賑やかに締めくくりました。来日して19年になる帰国2世の寺嶋伸一さん(59)は「毎年本当に楽しい」と笑顔で語りました。
 持ちつき大会は、女性委員会ができた20年前から続いています。西沢よしえ委員長は「帰国者との交流のいい機会になっている」と話していました。
臼田日中・「春節をともに祝う会」開催  2006

  中国のお正月「春節」をお祝いして、臼田日中友好協会(井出正一会長)は、2月5日、佐久市臼田の総合福祉センターあいとぴあにおいて、恒例の「春節をともに祝う会」を開きました。
 臼田日中友好協会の役員・会員、日本語教室の関係者、佐久在住の帰国者や中国からの花嫁さんら120名が参加しました。帰国者お手製のおいしい中国料理と水餃子をいただきながら交流会。日本語教室の先生と生徒さんが準備に運営に大活躍。二胡の合奏、こんなに違う中国語と日本語クイズ、合唱、ビンゴゲーム、のど自慢、ヤンコー踊りなどなど楽しい3時間でした。
近況を報告・交流
恒例の帰国者年末交流会  2005

  第15回帰国者年末交流会が県中国帰国者自立研修センタ-主催で12月4日開かれました。現在北信をはじめ東信や松本在住の一世がセンタ-に通い熱心に学習していますが、この研修生を含め帰国者とその家族、支援者など約80名が参加しました。
 帰国者全員が舞台に立ち日本語で近況報告をしました。井澤紀代子さんが自己紹介を終えた後、同じ開拓団にいたという県開拓自興会の永原今朝男事務局長が、60年前の井澤さん家族との旧満州での逃避行の様子を語ってくれました。また坂井昌子は、自分は中国で生まれましたが、孫二人は日本で生まれとても嬉しいと話しました。
 西条先生のハーモニカの演奏に合わせて「ふるさと」「北国の春」やセンタ-の歌「明日に向かって」を全員で斉唱し交流を楽しみました。

 
第16回中国帰国者日本語弁論大会
18名の帰国者が熱き思いを語る    2005

 県中国帰国者自立研修センターは10月2日、第16回中国帰国者日本語弁論大会を長野市の信濃教育会館で開きました。1世の部、2・3世の部、学生の部に6人ずつに別れ、計18人が出場し、敗戦後の悲惨な逃避行の様子や平和を強く願っていること、言葉の面で苦労した体験や、支えになった人への感謝の気持ちを発表しました。

 10歳から日本で暮らす3世の林雪さん(16)=佐久穂町=は高校演劇班でせりふのイントネーションの違いに苦労しながらも、初舞台では「わくわくした」ことなどを発表。2世で3年前に帰国した熊谷美貴さん(20)=泰阜村=は「はじめは日本語がわからず後悔したが、勤めはじめてからはだんだんと言葉を話せるようになり、日本で生きていく自信が持てるようになった」と話しました。

 入賞者は、次の通り。
 ◎県知事賞 林萌(学生①)◎県日中友好協会長賞 唐沢寿美(1世①)◎信濃教育会長賞 熊谷美貴(2・3世①)◎県開拓自興会長賞 丹羽千文(1世②)◎県中国帰国者採用企業連絡会長賞 坂井太郎(2・3世②)◎県中国帰国者自立研修センター所長賞 林雪(学生②)◎各部門3位 山崎教子(1世)・張麗波(2・3世)・小島由佳(学生)◎奨励賞 宮嵜静子


*各部門1位の皆さんの弁論内容を紹介します。

(長野県知事賞=学生の部1位)

  前向きに生きること (林 萌)

  私は、中国残留孤児三世です。私の祖母は六十年前に中国で生れ、平成八年日本へ帰国できました。その三年後、私が十歳のときのことでした。日本のことは何も知らない、日本語も話せないまま、私の両親は私と姉、兄をつれて日本へやって来ました。
 その時の私は、なぜ日本へ行くのか、日本へ行ったらなにができるのか、どんな生活が待っているのか、全く考えられませんでした。ただ、親に付いてきました。
   日本に来た頃の私は何も知らなかったんです。だから、自分の将来のこと、学校のこと、生活のこと、全て人に任せることが多かったです。
 日本の生活が少し分かるようになって、いつまでも人に任せるのではいけないと思い始めました。どんな小さなことでもよいから自分からやってみようと決心しました。中でも言葉が人と人をつなぐ大切なことだと気付き、先ず、日本語の勉強をしようと思いました。  祖母は、中国でも学校教育を受けたことがありません。それでも、祖母は日本に帰国後、自分が努力をして覚えた五十音図と簡単なあいさつ言葉を教えてくれました。
  私は一つ一つの言葉をゆっくり覚えてきました。少しずつ日本語であいさつが言えるようになり、気持ちが楽になりました。
 一カ月ぐらい経ちました。小学校四年生に編入することができました。それでも言葉の問題が大きかったです。まだまだ日本語が分からなくって、先生やクラスメ-トにも伝えたいことが伝わらないし、やりたいことも進まないし、クラスの人が何言っているのかも良く分からない、毎日の学校生活はとても苦しかったです。
  家に帰っても祖父母を含め家族の中では日本語を話せる人はいません。両親は仕事と日本でのこれからの生活のことで精一杯でした。私のことを考えることができませんでした。私は孤独感と自分の無力さを感じ、泣きたいときもありました。
  しかし、「悩んでいても、泣いていても、なにも変わらない。前には進まない。私が、自分の今の状況を変えていくしかない。前向きにやるしかない」と思いました。
  そこで、考えたことは、友達と交流するときは、漢字や絵などを書いて、言いたい事を伝えるようにしました。時間がかかりましたが、友達が分かってくれるまで一生懸命絵を描いて伝えました。本気になって、私の言うことを聞いてくれた友達が何人もいて、とても嬉しかったです。そのおかげで、私は日本語をだんだん分かるようになり、自分の気持ちを伝えられるようになりました。友達も増えました。
  二年が過ぎて中学生になりました。勉強も難しくなり、授業に追いつけませんでした。テストもだんだん点数が下がりました。勉強が大変で、息抜きの時間もないと不満を感じることが多くなってきました。自分が無力なことにもどかしさを感じていました。
  しかし、一つ一つのことを日本の人達と一緒にやっていくことが大事だと思い、私は、毎日卓球部のお友達といろんな大会に勝つため仲良く部活動を休まずに頑張っています。  それから高校受験に合格するために、夜遅くまで勉強もしています。
  今の私は、日本のことは分からないことがまだまだいっぱいあります。だから、日本の大学や高校で日本の文化をしっかり学びたいです。
  それから、忘れかけた中国語も、もう一度やり直したいと思います。そうして、将来は日本語と中国語を自由に使えるようになって言葉で困っている人たちの役にたちたいと思います。
  高校受験まであと数カ月しかありません。一日一日無駄のないように努力していきたいと思います。前向きに考えてやっていけば、どんな困難があっても乗り越えられると信じて、自分の夢に向かって頑張っていきたいと思います。


(長野県日中友好協会長賞=一世の部1位)

    聞いて下さい、満蒙開拓団の叫びを (唐沢寿美)

 皆さん今日は。下伊那郡高森町に住んでいます唐沢寿美と申します。どうぞ宜しくお願い致します。私は十年前に帰国し、年齢はこの六月で満八十才になりました。
  昭和二十年七月九日、開拓団本部から「一ケ月の食料と衣類等を準備し、直ちに避難せよ」という命令が出ました。団には、若い男性は兵役で、残っているのは老人と子供だけで、やっとのことで準備をして避難が始まりました。直後から空からはB29の攻撃、前後には匪賊の待ち伏せ、中でも匪賊の襲撃は酷く、金目の物から着ている物まで奪われ、中には銃で打ち殺されてしまう人さえいました。食料も無くなり子供達は衰弱するばかり、ついには母親が、我子の中で一番元気と思われる子だけを背負い、他の子供を荒野に置き去りにして進むのです。夜になると荒野のあちこちから、力のない声で母親を呼び求める泣き声がきこえてきました。この子達の中には、運良く中国人に拾われ育てられた子供もいましたが、殆どの子供は狼の餌食か飢え死にでした。
 幾日か過ぎ無人の集落に着きました。一軒の家に入った時です。婦人が横たわる傍らに四才位の男の子が座り、前には僅かばかりの食べ物が置かれていました。婦人を見ると口と鼻から、ウジが出入りしていました。「僕、お母さんどうしたの」と聞くと、「お母ちゃんねんね」と言って、母親の手を握ったのです。母親の死が分らず、起き上るのをじっと待っていたのです。母親は我が子の生き延びることを願って自分は食べずに、残り少ない食べ物を子供に添えてから、息を引き取ったのでした。罪もない子供達が何でこんな目にあうのか、お国の為にと言われて来た満蒙開拓団の悲惨な姿を目の前にして、皆涙が涸れるまで泣きました。結局は、その子を助けることができませんでした。私達は、その日一日を生きることに必死だったからです。今になっても、あの母子の光景が目に浮ぶ度に、心の優しい人に拾われたらよいがと、心の中で祈るばかりです。
  ある大きな村に着いた時でした。村の入口の看板に、日本が負けたという内容が書いてありました。この時点での私の家族はと言いますと、父はソ連の捕虜収容所で死亡、兄の子供四人は全滅、残るは私と姉嫂、そして弟三人となっていました。幾つかの収容所を点々とした後、十一月に奉天の収容所に入れられ、そこで冬を越すことになりました。酷寒の地での収容所生活で、多くの難民が伝染病に罹り亡くなりました。とうとう私も病に倒れ、連日四十度の高熱に苦しみ飢にも耐えられず、外に出て雪を食べている時、親切な中国のお祖母さんに助けられました。死ぬ一歩手前の私を、貧しい中どこからかお米を取りよせ、お粥を作ってくれる等、三カ月間我が子のように介護して頂いたお陰で、病気が治り元気になりました。その後迷いましたが、命の恩人への恩返しと考え、お祖母さんの息子と結婚しました。以後二人の子供に恵まれ、貧しいながらも幸せに過ごして参りました。  戦後六十年、平和になったと言われていますが、六十年前の悲惨な出来事について、私たちは訴え続けていく義務が有ると考えています。そのことが真の平和日本の建設に生かされるのではないかと考えるからです。その為にも残された人生を、精一杯生きたいと考えています。

(信濃教育会長賞=二世・三世の部1位)

   三年間を振り返って (熊谷美貴)

  皆さんこんにちは。私は、下伊那郡泰阜村の熊谷美貴です。どうぞ宜しくお願いします。私は、平成十四年に、中国黒竜江省から、父母と兄の四人家族で、日本に来ました。私のおばあさんは、日本人です。残念ながらおばあさんは、一九六九年に、中国で三人の子供を残して病死しました。そしておじいさんも一九九三年に亡くなりました。おばあさんがまだ元気だった頃父に、お前達を連れて、一度日本へ行って見たいなあと、言っていたそうです。父はその言葉をずっと、胸の奥にしまってあったそうです。おばあさんは、時々自分が小さい頃、中国へ家族と一緒に行った時の事と、終戦後家族がバラバラになり、自分一人になってしまった時の事を、涙を流しながら聞かせてくれたようです。数年後父は結婚しましたが、どうしても母親が残した遺言を忘れる事ができず、日本にいるおじさんにお願いして、身元保証人になって頂き、日本へ来ることができました。私は、中国にいた時は中学生でしたので日本に来て、すぐ学校へ編入学してくれるのかと、思っていましたが言葉が分からない事もあり、学校へ行けませんでした。私は、どうしても学校へ行きたくて、毎日悲しくて泣いてばかりいました。「日本はもういや中国へ帰りたい」と言って親を困らせたことが何度もありました。それから少し経つと、父母と兄は仕事にいくようになりました。昼間は、私一人でいる時が多くなって、とうとう学校へ行けない悲しさで、日本での、生活する希望を失ってしまいました。と、その時、泰阜村に日本語教室が、ある事を知りました。でもこの教室は、一週間に一回、二時間しか勉強ができないので、困っていました。そんな時家の近くに電機会社がある事を聞き、早速、保証人の案内で面接に行きました。ところが、その会社側が、まだ、学生なので無理ですと断られました。これを聞いた私は、本当に大きな衝撃を受け、頭が真っ白な状態になりました。それでも、私は何としても働きたいと、保証人にお願いしましたら、その社長さんの好意で勤める事になりました。それからは少しでも日本語を覚えようと、日曜日は、日本語の勉強、普通の日は仕事をして一生懸命頑張りました。そのうちに自分の気持が少しずつ変ってきて、親を困らせないようになってきて、楽しく毎日を過ごせるようになりました。教室の先生が教科書の本だけではなく、近所の人との会話や日本の生活習慣も大事な事だと教えて下さいました。それから私は、会社へ行って大きな声で「おはようございます」と、挨拶をしますと社員達からも「おはようございます」と、返事がきました。その時の喜びは、私にとって、一生忘れる事ができません。こうして、毎日繰り返して挨拶しているうちに、会話も徐々にできるようになりました。私は十八才になり、自動車の免許証を取得する為、自動車学校へ通いました。一生懸命勉強した成果がでまして、自動車免許の試験に一発で合格しました。今後は悲しい事や困った事を克服して、少しでも、日本の社会に貢献したいと思います。今日、長野県日本語弁論大会に参加させて頂いた事は、私にとって、本当に良い励みになりました。皆さん、ご清聴ありがとうございました。

帰国17年、念願の「餃子屋」開店  2005

 中国黒龍江省方正県出身で北安曇郡松川村東細野に住む馬渕喜則さん(43)が7月23日、自宅に中華料理店「喜美餃子屋(よしよしぎょうざや)」を開店。中国残留孤児だった義理の母とともに来日して17年目。「いつか自分の店を持ちたい」という来日以来の夢を実現した。
 喜則さんの妻美江さん(41)の母親、美智子さん(故人)は戦前、旧満州に家族で渡り、敗戦の混乱で残留孤児となった。美智子さんは1988年に喜則さん、美江さん夫妻とともに帰国。来日後は名古屋の定着センターで4ヶ月日本語を学び、残留孤児で先に帰国していた美智子さんの弟の保男さん(69)の暮らす松川村に住んだ
 喜則さんは方正県で、衣料品や農薬、肥料の販売店を経営していたが、松川では
近くの生鮮食料店で働きながら、独学で日本語を学んだ。今年3月に勤務先が閉店したため、自分の店を開業することを決意。子供のころから家の料理を手伝っており、6月には方正県を訪れ、地元の餃子店で調理方法を研究した。
 メニューは餃子や肉まん、ラーメンなど「中国の家庭で作る味をそろえた」という。価格は500円から700円。
店の名前は喜則さんと美江さんの名前から名づけた。喜則さんは「店の名前のようにお客さんに喜んでもらえるようにしていきたい」と張り切っている。

スペシャルオリンピックス冬季世界大会-長野
中国選手団も参加
帰国者もボランティアで大活躍   2005

 スペシャルオリンピックス冬季世界大会-長野が2月26日から3月5日まで8日間長野・白馬・野沢温泉・山の内・牟礼において開催されました。84カ国・地域から約2600名(選手1800名、コーチ800名)が参加。中国からも92名、香港42名、マカオ8名などが参加しました。中国選手団は、スピードスケート(Mウェーブ)、フィギュアスケート(ビッグハット)、フロアホッケー(ホワイトリング)=以上長野市やクロスカントリー(白馬)、スノーシューイング(野沢)に出場し活躍しました。
 大会期間中、帰国者の皆さんが通訳などボランティアとして活躍しました。
 写真はフロアホッケー競技に出場し全力でプレーする中国選手たち、金メダルを獲得し喜ぶ中国選手とボランティアに参加した中国帰国者の若手メンバーです。


飯伊で中国帰国者歓迎新年会  2005
 喬木老人福祉センターで2月19日、飯伊中国帰国者歓迎新年会が開催されました。飯田日中友好協会、喬木村などが共催する恒例行事で帰国者の皆さんが「1日も早く日本の社会にとけこむように」と毎年この時期に開いています。当日は、中国帰国者や関係者ら60人が参加し、餃子を作ったり芸能を発表したりして交流を深めました。
 午前9時には帰国者、友好協会員、喬木村婦人会が会場の調理室に集合。餃子や豚汁、五目飯などを作りながら、日本語と中国語で会話をかわし、和気あいあいと笑い声が絶えませんでした。
 正午から始まった新年会で大平利次喬木村長は「日中双方にとっても相手なくしては考えられない。両国はアジア、世界の平和と安定に寄与しなくてはならない責任がある」とあいさつし、「皆さんは帰国してからの年月の差こそあれ、一層のご努力、地域に溶け込んだ中でのご活躍を期待します」と帰国者を励ましました。
 河原会長は「自信を持ってより主体的に活躍されていくことが楽しい人生につながるものと信じております」と激励の言葉を贈りました。
 この後、3年前に帰国した喬木中学乞う年生の北沢玲娜(れいな)さん(15)が「今日は私たち中国帰国者のために、このようなすばらしい会を開いていただきありがとうございます。昨年は、長野県帰国者日本語弁論大会で学生の部第1位・信濃教育会長賞をいただくことができました。これも皆様のおかげだと感謝しています」と返礼しました。
 参加者全員で「新年の歌」歌った後、懇親交流を深めました。
 飯山市日中、飯山雪祭り中国帰国者交流会  2005
 飯山市の雪祭りにあわせて、飯山市日中では毎年中国帰国者を招待して交流会を開いています。2月13日は、帰国者40名が招待されました。天候にも恵まれ、市内の見事な雪像に感心しながら参観した後、公民館で交流昼食会が和やかにもたれました。

 
 第22回サロン講座
 臼田町の「春節をともに祝う会」に参加  2005

 中国の旧正月「春節」にちなんで、「春節をともに祝う会」が2月13日、臼田町総合福祉センタ-「あいとぴあ」で開かれました。
 臼田町日中友好協会が運営する日本語教室に通う中国帰国者や中国からの花嫁さんとその家族や教室を支える友好協会のスタッフや来賓など約120名が参加しました。
 昨年11月に行われた中国帰国者自立研修センタ-主催の年末交流会に参加した何人かの帰国者とも再会し近況を報告しあいました。
 テ-ブルに並んだ料理はすべて中国帰国者皆さん達が前日から準備したもので、馴染みの水ギョ-ザをはじめ普段あまり目にすることのない珍しい料理も振る舞われました。また教室の生徒が、授業が始まる前にいつも歌っているという「野に咲く花のように」や「北国の春」の合唱には盛んな拍手が送られました。また、手品の友情出演やビンゴゲームなどもあり楽しいひとときを過ごしました。
  帰国者招いて新春餅つき大会  2005
                                  <長野市日中友好協会女性委員会>

 中国帰国者を激励しようと長野市日中友好協会女性委員会は中国帰国者や研修生・中国からの花嫁さんら70名を招待して、1月23日「長野市日中友好新春餅つき大会」を更北公民館で開きました。臼ときねでもちをつき、きな粉やあんこをまぶして振る舞い、更にテーブルの上にはおでんや水餃子が並べられました。交流会の中では手品やダンスも披露され盛んに拍手を浴びていました。最後に全員で中国のヤンコー踊りを踊りました。




 喬木教室でもサロン講座
  50名が参加して、マレットゴルフと温泉で交流  2004

 喬木教室のサロン講座12月例会は、12月16日(木)午前10時30分から、下伊那郡の信州松川温泉、清流苑マレットゴルフ場に、42名の帰国者と、ボランティアの飯田日中友好協会員ら、合わせて50名が参加して盛大に行われました。
 本年最後のサロン講座ということで、帰国者の中には長野県最南端の泰阜村や、県西部の阿智村からも、バスや電車を乗りついで、伊那大島駅に到着、清流苑の特別の計らいで、バスの送迎をして頂き、紅葉の残る初冬のゴルフ場で、楽しそうに競技に熱中していました。
 日頃は家の中にとじこもっていて、人前に余り出たがらなかったお年寄りや、病気がちで家にこもっていた人達も、この日の小春日和の快晴に恵まれて、大声で中国語の会話もはずみ、初めてボ-ルにさわった人、ホ-ルインワンを達成して喜ぶ人など、帰国してからの積もる話に花を咲かせました。
 また、飯田日中友好協会からは、帰国者一世の方々の交流に使ってほしいと、マレットゴルフの道具12セットが寄贈され、毎月のサロン講座に役立てられて来ました。そして、この日も参加者全員に温泉入浴券がプレゼントされ、昼食を共にしながら親睦会、サロン講座の反省会や、参加者による手品の披露などが行われ、午後3時、来年度の講座を期待しながら、会を終わりました。
 恒例の帰国者年末交流会   2004
      近況報告・音楽・手品など楽しいひとときを過ごす

 県中国帰国者自立研修センタ-は11月28日、市内のホテルで恒例の年末交流会を開きました。センタ-修了生などの帰国者や支援者ら約90人が参加し、円卓を囲んで料理や音楽を楽しみ交流を深めました。今年は臼田町日中友好協会の協力により、佐久地域在住の帰国者も参加しました。
 センタ-の修了生を代表し、93年に中国天津から帰国した、長野市在住の山崎教子さん(69)が、「七歳で両親を亡くした後、合わせて五軒の家を転々とし苦しみの涙で生きてきた。今は生活保護と年金に加え、長野県がこの春から始めた中国帰国者への支援金で安心して暮らせるようになった。政府には感謝をしている」とあいさつしました。また上田市から参加した赤尾静男さんは、困難だと思うことでも努力すれば道は開けますと語っていました。
 席上、友情出演として中国の弦楽器二胡の演奏や、男声歌手によるミニコンサ-トが行われました。またピエロの格好をし、風船を使って動物などの形にしていくショ-では、スピ-ド感と手先の起用さに会場の視線が注がれました。帰国者は近況報告をしあいながら交流を深め楽しいひとときを過ごしました。

 中国帰国者のための介護学習会、介護施設見学会を開催  2004
                           <飯田日中友好協会・飯伊中国帰国者連絡会>
                          
 戦前、満蒙開拓団としてお父さんやお母さんに連れられ、中国(旧満州)に渡り、敗戦の混乱の中で帰国が叶わず、残留孤児・婦人となった、いわゆる中国帰国者の方々の平均年齢も70歳になろうとしています。言葉の問題を抱え、介護の必要な方も現れて来ております。 
 そんな中、11月14日(日)に健和会病院会議室にて、介護保険制度を中心に介護制度の学習会を行い、続いて市内の介護施設、ディサービス施設等の見学を行いました。 見学先の介護施設の中には、帰国者の子供さんが介護士として活躍をされているところもあって、当日は中国語と日本語が飛び交う実のある学習会・見学会となりました。
 第19回帰国者サロン講座   2004
   小学生にギョーザ作りを指導、交流深める

 県中国帰国者自立研修センタ-は11月11日、北信地方在住の帰国者14名が信州大学付属長野小学校4年3組の児童に水ギョ-ザ作りを教えるサロン講座を開きました。
このクラスとの交流は今回で3回目になり、前回までは帰国者が児童から絵手紙を教えてもらい、そのお礼に水ギョ-ザ作りを教えることになりました。児童たちは小さな手で一生懸命皮をのばし、具を包む作業に挑戦しました。
給食の時間にはギョ-ザを一緒に食べながら中国語で自己紹介をするなどし交流を深めました。ほとんどの児童が家では焼きギョ-ザしか食べたことがなく水ギョ-ザは初めての味でした。  交流会ではPTAのお母さんも応援に来て、準備や後片付けを手伝っていただきました。また参加した帰国者全員に絵手紙とクラスのお母さんが手作りした心のこもったアクセサリ-をプレゼントしていただき大変感激し去りがたい思いで学校を後にしました。

第15回中国帰国者日本語弁論大会   2004
   ふるさと帰還の思い中国帰国者弁論大会

 第15回中国帰国者日本語弁論大会が9月26日(日)、信濃教育会館にて開催されました。10-70代の15名が、参加。念願だったふるさとへの帰還を果たした思いや社会、学校での日本語習得の苦労、将来の夢などを語りました。
 帰国一世、二・三世、学生の三部門。一世の部で一位となり、県知事賞を受けた飯田市の松下庄松さん(71)は「失われた50年の思い出」と題し話しました。10歳の時に両親とともに中国に渡り、敗戦時の混乱の中で中国人に引き取られた。1992年、飯田市に永住帰国。「今は大勢の孫に囲まれ幸せ。日本がいつまでも戦争のない国であってほしい」とよく通る声で訴えました。
このほか政府の帰国者対策の遅れを指摘したり、地球環境問題を取り上げる参加者もいました。二・三世の部では宮澤明梅さん(下伊那郡喬木村)、学生の部は北沢玲娜さん(同)が一位となりました。


   知事賞(一世の部1位)
 
 失われた五十年の思い出
                            松下 庄松

 私は飯田市の松下庄松です。よろしくお願い致します。
 私は十才の時両親に連れられて中国へ渡りました。当時家族六人でしたが、半年もたたぬ内に、弟や妹が次々と病気で亡くなり、その内に父親も無理がたたって病気になり、とうとうその翌年亡くなってしまいました。
たった二人だけ残された母と私は、父の分まで働くため、学校へも行かずに必死で開拓の仕事を続けました。生活も何とか楽になってきた昭和二十年、私が十二才の時です。
 突然ソ連軍が攻めてきて、日本は敗戦となりました。ソ連兵を恐れて山の中を逃げ回っていた私達は、食べ物もなく寒さに追われ、濃河鎮の収容所に集まってきました。そこでは一緒にいた日本人の仲間が次々に亡くなり、お互いに助け合ってきた人達が、見る見る内に家族がバラバラになって別れていきます。 毎日死んでいく人を見るのはどれほどつらい事か、私にとって、一生忘れられない悲しい思い出です。そんな時でした。収容所にいた私達を一人の中国人が迎えに来てくれました。命を助けられた私と母は、その後ずっとお世話になり、成人するまでそこで働くことができました。
 一九七九年、四十七才の時です。妻が癌で入院し、私は一時帰国の旅費まで使って看病しましたが、遂に二人の息子と娘を残して亡くなりました。私は政府へ行って「帰国旅費は全部使ってしまいました。もう日本へは帰りません」というと「日本政府からお金がでるから」と言われ、お陰様で長男と二人一時帰国しました。
 その時五才だった娘が「お父さん行ってはいや、私を捨てないで」とはげしく泣いて取りすがった時には、死んでいった妹達を思い出してつらい別れでした。
 私は急いで娘の所へ帰り、それから十年以上子ども達のために働いて、やっと祖国日本へ帰れたのは、平成四年九月、六十才の時でした。
 娘と二人の息子の家族八人、毎日夢に見たわが故郷飯田へ帰った時は、今までの苦労もいっぺんに忘れ、嬉し涙が止まりませんでした。あれからもう十二年の年月がたちます。 お陰様で私達家族は、理解ある会社の社長さんや、まわりの方々のご親切で、子ども達もそれぞれ自宅を建て、私も娘家族と一緒に暮らしています。そして今、大ぜいの孫たちに囲まれて幸せです。
 今年四月からは、長野県の知事さんのお計らいで、毎月お金をいただけるようになり、ほんとうに喜んでいます。日本がいつまでも戦争のない平和な国で、子どもや孫達が幸せに暮らしていけるように願って、残り少ない人生を一生懸命生きていきたいと思っています。


  弔 辞-田中永和さんの死を悼む   2004

 長野県中国帰国者自立研修センターの第3期修了生であった田中永和さんの葬儀・告別式に当たり、氏のご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈りし、追悼の言葉を捧げます。
 田中さんは日中戦争とその後の長い日中間の交流断絶という中で残留孤児として半生を中国の内蒙古で過ごし、1988年47歳にして家族と共に祖国日本に永住帰国されました。その半生は私達の想像を超えるものであったに違いありません。
 帰国後も言葉と習慣の違いという新たな大きな困難が待ちうけていました。所沢のセンターで4ヶ月間の研修の後、長野県更埴市に定着し、県帰国者自立研修センターに通いながら、8ヶ月間日本語を学び、風俗習慣を学びました。50を目前にして一から新しい言葉を学ぶ苦労は並大抵のものではありません。また中国で国営企業の幹部であった田中さんは誇り高い人でありました。それがゆえに、悩みも人知れず大きかったと思います。自分の置かれた理不尽な境遇に対して強く日本政府に対し物申さずにはいられないといった使命感のようなものを感じさせるところがありました。ある時は厚生大臣に、ある時は総理大臣に対して、(更には天皇陛下にまで)数枚の便箋にびっしり丁寧な字体で書き込んだ嘆願書をしたため送りました。私たちはその様子を見て、同情もし、感動もし、しかしその道は険しく当面報われる事のない到達点の見えない道であることを奥さんを交えて何度か話し合ったことが思い出されます。センター修了後は夫妻とも会社に勤務されました。半年後、センターを訪れた田中さんの顔からは、以前見られた険しさが消え、「一生懸命働き、自力更正で頑張ってみずからの前途を切り開く事にしました」とにこにこしながら語ってくれました。本当に嬉しい言葉でありました。
 やさしくしっかり者の奥さんと優秀な子供さんと共に、懸命に働き、自立してこのような立派な家を建て本当に良かったねと肩をたたいて喜んだのに、そして、今年4月から長野県が全国に先駆けて月3万円の給付金支給が決まった時、自分達残留孤児の切ない思いが通じたとあんなに喜んでいたのに、不治の病に侵されていたとはあまりに無情であります。本人もさぞかし無念であったと思います。
 しかし、田中さんの残された足跡は、地域に、帰国者の仲間の胸に、そして何よりも優秀な田中さんの子供さんや奥さんの胸の中に消える事なく銘記されています。あなたの意志と願いはきっと子供達に帰国者に受け継がれていく事でしょう。
 日中両国の平和友好を願ったあなたの意志は受け継がれ、田中家の繁栄を願ったあなたの思いは、きっと実を結ぶ事でしょう。この度のご逝去は田中さんを知るすべての者にとって大きな悲しみであり、また大きな損失であります。生前の田中さんのお姿を思い起こしながらその波乱万丈の人生に今一度思いを致し心からご苦労様でしたと申し上げたいと思います。
 最後に、重ねて氏のご冥福をお祈りするとともに、奥様をはじめご遺族の皆様に対し心からお悔やみ申し上げ追悼の言葉とさせていただきます。
   2004年8月7日   長野県中国帰国者自立研修センター次長 布施正幸   
長野県独自の「中国帰国者愛心使者事業」実施を決定!   2004
   (長野県社会部厚生課より3月25日、決定通知がありました) 

 長野県社会部厚生課より3月25日、県議会での議決を踏まえて、長野県独自の「中国帰国者愛心使者事業」実施の決定通知が県日中友好協会・県帰国者自立研修センター・県開拓自興会あてありました。
 今回の支援金給付は、「中国帰国者愛心使者事業-中国帰国者の皆様への慰藉事業-」として、全国で最も多くの満蒙開拓団を送り出した長野県の責務として、福祉の増進、自立助長をはかることを目的に残留孤児および残留婦人ら帰国者一世を対象に一律月額30,000円を給付するものです。
 この度の決定は帰国者の皆さんから大変喜ばれております。実現のためにご尽力いただきました関係の皆様方に厚く御礼を申し上げます。
◎ 長野県独自の帰国者支援制度、「愛心使者」事業と命名!  2004
  
自立研修センターに帰国者が集まり県担当者と懇談・説明を受けました。

 長野県は今回の支援金給付を、「中国帰国者愛心使者事業-中国帰国者慰謝事業-」とし位置づけています。2月23日には長野の自立研修センターで、26日には喬木のセンターで県担当者との懇談が行われ、事業計画の説明を受けました。それによると、(背景)「中国帰国者は先の大戦の終戦直後の混乱期に不幸にも肉親と死別あるいは生別して中国に残され、戦後の長い間、自己の意思に反して中国に残留を余儀なくされ、しかも幾多の苦難と辛苦を経てようやく帰国した方々」とし、(現状)[昭和47年の日中国交正常化以降に本格的に帰国が始まったため、日本での生活基盤を十分築くことが出来ず、そのほとんどが高齢化し、年金生活者となり、日常的に健康の不安を抱えたり、経済的に困っている方が多くなってきている」との認識のもとに、(対策)「上記の実情は、国策に起因することであるものの、全国で最も多くの満蒙開拓団を送り出した長野県の責務として「中国帰国者愛心使者事業給付金」を給付し福祉の増進、自立助長をはかる」とし(事業内容)「長野県に居住する帰国者本人(一世)270人に一律月額30,000円の「中国帰国者愛心使者事業給付金」を支給する」としています。今後、県議会の議決を経て申請手続きなどの事務処理の後、新年度から支給される予定になっています。
  長野県は、県内在住中国帰国者に
     月3万円の支援金支給方針を決める!   2004

 2月13日、長野県は先の大戦中、旧満州(中国東北部)に全国最多の開拓団員(約3万3千人)を送り出した県として、現在も苦難の中にある中国帰国者に対して、「戦後補償」の意味も込めて、日中国交正常化(1972年)後に帰国した270人の帰国者一世全員に04年度から一律月3万円を支給する方針を決めました。
 
県は 、既に1月8日、来年度予算の概算要求の中で帰国者一世に対して支援金を支給していく方針であることを明らかにしていました。これは10月2日県議会が県日中友好協会から提出された「援護充実に関する請願書」を採択し、12月7日田中知事が喬木村における飯田日中友好協会と飯伊中国帰国者連絡会との懇談の中で中国帰国者に対し県独自に支援策を行うとの約束を具体化するものとして、帰国者から歓迎されました。
 今回の県の決定はこれを更に増額したものです。2月県議会で承認されれば、実行に移されます。帰国者一世の皆さんが老後を幸せに暮らせる一定の支えになればと願っております。
 私達は引き続き、国に対して
国民年金の老齢給付の全額支給の働きかけを強めていきたいと思います。あわせて一世の引きこもり対策の強化、二世に対する日本語教育と就労支援強化等を柱とした援護施策の充実を求めていきたいと思います。(ちなみに二世・三世を含めると県内在住の帰国者は4000名を越えます。)
 今後とも、県民の皆さんの暖かいご支援をお願い致します。  


(社)日中友好協会全国本部
<中国帰国者に対する援護施策充実の取り組み>採択   2004

社)日中友好協会全国本部は1月29日東京で開催された第15回通常総会において採択された、2004年度事業・活動計画12項の中で、<中国帰国者に対する援護施策充実の取り組み>を取り上げています。「帰国者のおかれている現実を踏まえて国民年金の全額給付、一世の引きこもり対策の強化、二世に対する日本語教育と就労支援強化等を柱とした援護施策の充実を求めていく」としています。

(1)戦後すでに58年が経過した現在、中国帰国者一世(いわゆる中国残留孤児・婦人)の高齢化に伴い、国家賠償請求訴訟などの動きも起きるなど帰国者援護の課題は新しい局面を迎えている。
(2)国は「中国帰国者援護法」に基づき残留孤児・婦人の帰国促進と自立定着のための援護施策を実施してきたが、中国残留孤児ら一世はすでに大方定年を迎えつつある現実に対応できていない。国民年金などの受給額はわずかで、困難な状況におかれている。
(3)帰国者のおかれている現実を踏まえて協会は、引き続き日常的な支援交流活動に取り組むとともに、国および地方自治体に対し国民年金の全額給付、一世の引きこもり対策の強化、二世に対する日本語教育と就労支援強化等を柱とした援護施策の充実を求めていく。


中国帰国者支援交流センターのホームページ

中国帰国者定着促進センター(所沢)のホームページ


 
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  中国帰国者だより
中国帰国者の体験に耳を傾け、餅つき春節交流会(2/21)2010

 長野県日中友好協会・中国帰国者交流センターと長野市日中友好協会は2月21日長野市内のホテル、サンパルテ山王にて中国帰国者から体験談を聞く「中国残留邦人への理解を深める県民の集い」を開きました。県内各地から170余名が参加し、残留婦人や残留孤児1世など帰国者の話に耳を傾け、続いて餅つきなど春節を祝ってにぎやかに交流しました。

 1941年(昭和16年)に両親やきょうだいとともに満州に渡った岩本くにをさん(77)=松川町=は、敗戦の悲惨な逃避行の中で家族を相次いで失い、「1人になり、死ぬことだけを考えていた」が、親切な中国人女性に助けられて現地で結婚し、96年に永住帰国。「ひとの国の土地を取り上げてまで何のために満州に行ったのか。もう二度と戦争をしてはいけない」と平和の大切さを切々と訴えました。残留孤児1世の池田充さん(59)=長野市=は、あの罪深い戦争を教訓に、日中両国が互いに仲むつまじく新しい時代を開いてほしいと語りました。92年に帰国した残留孤児2世の宮下多美子さん(62)=上田市=は、中国で医療に従事していたのでその経験を活かそうと努力したことを振り返り「はじめは日本語がわからず大変だったが、目的を持って勉強に励めば乗り越えられる」と話しました。また3世の配偶者の?延波さん(27)=長野市=と朱振海さん(26)=駒ヶ根市=は、若者の視点から日本社会に溶け込んで前向きに生活している様子を紹介しました。

 第2部の春節交流会ではアトラクションとして三宅島太鼓の力強い演奏に続き、臼と杵を使って、帰国者の皆さんが次々と餅つきを体験しました。懇親会に入って、大正琴の生演奏をバックに会場のいたるところで交流が行なわれました。抽選会も行われくじを引き当てた人たちがたくさんの景品を受け取ってにっこり。上田や飯田、松本の日本語教室に通う帰国者の皆さんが「北国の春」や「ふるさと」「草原情歌」などを一生懸命歌い大きな拍手を受けました。中国の伝統的な楽しい踊りも披露されました。最後に中国の東北地方に伝わるヤンコー踊りを会場いっぱいににぎやかに踊りました。帰国者の皆さん本当に楽しそうに踊っていました。

 飯田下伊那、伊南、松本、上田、飯山、長野からおおぜいの帰国者や支援者が参加しました。井出正一県日中会長や青木一男県地域福祉課長、戸井田一成長野市保健福祉部次長、永原今朝男県開拓自興会会長、竹松亨信濃教育会事務局次長、西堀正司県日中帰国者交流センター所長らも出席し帰国者にエールを送り、交流しました。長野市日中女性委員会の皆さんは友好の黄色のハッピ姿で、交流会の企画進行盛り上げに大活躍でした。

日中友好春節交流会

中国残留邦人への理解を深めるつどい

 中国帰国者の皆さんと交流し、帰国者への理解を深めるため「中国残留邦人への理解を深めるつどい-日中友好春節交流会」を開催します。第1部は帰国者の意見発表、第2部は春節を祝って交流会・餅つき・アトラクション・懇親パーティーを計画しています。多数ご参加ください。



(日時)2月21日(日)
    11001500

(場所)サンパルテ山王
    (TEL026-228-3011

(次第)
  第1部 帰国者体験発表

   2部 春節交流懇親会
    餅つき・アトラクション
    懇親パーティー
(参加費)
  一般参加者 2000

   *帰国者は大人1000円、
   高校生以下500円です。

   *第1部は無料です。

ご存知ですか
      中国残留邦人のこと

 65年前、当時「満州」と呼ばれていた中国の東北地方では、突然のソ連参戦と日本の敗戦により、多くの日本人が混乱のうちに避難することになりました。多くの人が亡くなり、極限状態の中、親と別れ中国人に育てられた人たち、中国に生活の場を見いだした人たち、これらの方々が中国残留邦人と呼ばれる人たちです。

 1972年の日中国交正常化の後、多くの中国残留邦人が帰国しました。帰国した中国残留邦人の方々は、生活基盤を築こうと懸命の努力を続けていますが、長年中国で暮らしてきましたので、今もなお言葉の壁、文化の壁に戸惑い、悩んでいる方が少なくありません。

長野県は、戦前、当時の国策にそって3万人余りの「満州開拓団」を送り出し、うち約1万5千人が亡くなった県です。こうした歴史的経過を経て、現在、県内には約4,300名の中国帰国者が生活しています。

昨年、長野で、「中国残留邦人への理解を深める長野県民の集い」が(財)中国残留孤児援護基金の主催で開催され有意義なものとなりました。本年は日中友好協会が主催して同趣旨の集いを開催いたします。コンパクトに手作りでの内容となりますが、戦争を知らない世代の方を含む多くの県民の皆様方に、こうした中国残留邦人の問題について少しでも知っていただこうと、この催しを開くことといたしました。この催しが、中国残留邦人の方々が抱える様々な困難を解決する一助となることを願っています。

中国残留邦人の問題は長野県民にとって避けて通れない大切な課題です。お誘いあって多数ご参加ください。

中国残留邦人への理解を
深める長野県民の集い

≪プログラム≫       

第一部(11:00~12:00)
中国帰国者の体験発表

残留婦人、残留孤児、孤児二世及び孤児三世が、中国における労苦、養父母への想い、帰国した喜び、悩み、葛藤などを語ります。

第二部(12:15~15:00)
春節交流会

中国帰国者と近隣の方々などが中国のお正月である春節を祝い、餅つきや和太鼓や大正琴などを披露します。あわせて懇親交流を行ないます。

(申込み) 2月15日までに、申込書にてお申し込みください。
(主 催) 長野県日中友好協会 帰国者交流センター
          長野市日中友好協会 
         380-0936 長野市中御所岡田町166-1     TEL026-224-6517  FAX026-224-6518
(協 力) 上田・飯田・伊南・飯山・松本・千曲の各日中友好協会 他
(後 援) 長野県、中国残留孤児援護基金、長野市

上田日中、帰国者新春餃子パーティー(2/4)2010

 2月4日、上田市室賀基幹集落センターで中国帰国者日本語教室新春餃子パーティーが開かれました。日頃、上田中国帰国者日本語教室で学んでいる帰国者の皆さんや友好協会、上田市、地元自治会役員など40名が参加しました

 帰国者の皆さんは慣れた手つきで次々と具を刻み麺を伸ばして皮を作り、見事に具を包み込みます。無駄のない手さばきに見とれているといつの間にか食べきれないほどの餃子が並べられていました。大鍋に湯を沸騰させ餃子を入れ亜麻色になって浮かびあがってくると水餃子の出来上がりです。次々と皿に盛り付け、懇親会場に運びます。熱い内に召し上がってくださいとすすめられ、乾杯して早速ほおばりました。「おいしい」「ハオチィ(好吃)」本当においしい本場の手作り水餃子でした。

 交流懇親会では、成沢捨也・上田日中友好協会会長が日頃高齢帰国者の皆さんが上田市やささら温泉のご配慮のもと頑張って日本語を学び、楽しく交流してきたことを振り返り、おいしい水餃子をいただきながら、交流を深めましょうとあいさつしました。帰国者を代表して白永安さんが、「皆さんの支援協力をいただき、楽しく日本語を学び暮らしています。今日は私たちの作った餃子をおなかいっぱい召し上がってください」と述べました。帰国者一人ひとりから日本語で自己紹介などあいさつがなされ拍手が送られました。会には、中国国際放送局の劉非さんも参加し、帰国者のみなさんと交流しました。
第20回中国帰国者日本語弁論大会、感動の拍手に包まれる(11/8)2009

 第20回県中国帰国者日本語弁論大会(県や県日中友好協会など実行委員会主催)が11月8日長野市の信濃教育会館で開かれました。県内で暮らす帰国者やその家族9人が、帰国までの苦労や日本語習得に努力した体験を語りました。

 県知事賞を受賞した長野市の池田愛子さん(26)は、帰国2世の夫(26)と結婚して昨年12月に来日。日本語を学ぶ中で、日本では高齢者になっても働き続ける人が多いことを知るなど、中国とは異なる文化に関心を深めたことを話しました。
 県日中友好協会長賞を受けた吉越美月さん(14)は08年3月に一家で帰国し阿智村に定住。4月に中学2年に編入したが言葉も歴史も教科内容も違う中で悩んだが、日本語教室に通いながら日本語をひらがなから学び半年後には学校に友達もできた。来年3月卒業するが阿智高校入学も決まった。感謝と努力あるのみです、と結びました。

 信濃教育会長賞を受けた長野市の陳梅さん(23)も帰国3世の夫(29)と結婚して07年10月に来日。当初は言葉が通じないなどで孤独だったが、派遣社員として働いた工場で周囲の人たちの優しさに触れ、前向きに仕事をする意欲がわいたと発表しました。
 県開拓自興会長賞を受けた飯山市の中村蓉子さん(61)は「安定した生活のために頑張った14年」と題して、95年81歳の母とともに帰国以来の苦労と努力の様子を語りました。
 努力賞を受賞した池田照美さん(48)は現在県日中帰国者交流センター長野教室に通って勉強しています。所沢センターの思い出や、現在身元引受人の茂木博ご夫妻のあたたかい配慮を受けながら日本語を学びいろいろな友好活動に参加している様子を発表しました。

 東御市の松沢盛子さん(77)は「私の歩んできた道」を振り返り、13歳で敗戦、悲惨な逃避行の末に現地の人に救われて生きながらえ18歳で結婚し6人の子供ができた。里帰りと父との再会別れがあり、81年に永住帰国した。さまざまな苦労があったが、現在は近所の皆さんが親切にしてくれるので幸せに暮らしている、と語りました。駒ヶ根からは朱振海さん(36)と小池向華さん(56)が、松本からは有田桂子さん(59)が出場し、それぞれ「味噌汁」「母と私」「ボランティアから学んだもの」と題して発表しました。

 皆さんの発表はいずれも胸打たれる内容で、100名の参加者は静かに聞き入り感動の拍手を送っていました。
映画『嗚呼 満蒙開拓団』長野で上映
体験者の発表や清水まなぶさんの特別出演も(10/16)2009


 映画「「嗚呼 満蒙開拓団」の上映会が10月16日長野市の若里市民文化ホールにおいて開かれ、600人が観賞しました。満蒙開拓団の悲劇を描いた映画に観客は熱心に見入りました。「お国のため」と送り込まれた満州開拓団員は敗戦によって遺棄されました。体験者の語るその実態のむごさ悲惨さは想像を超えています。見る人の心に深く刻まれました。世代を越えて、若者から年配者まで満蒙開拓の悲劇を知って平和の大切さを語り継いでいきたいと決意を新たにしました。

 第1回上映後、体験者の滝澤博義さん(高社郷)と三井寛さん(黒台信濃村)のお二人から悲惨な逃避行などの様子をお話いただきました。また、シンガーソングライターとして活躍している長野市出身の清水まなぶさんも、先ごろ発表した満蒙開拓団の悲劇をうたった「沈まぬ夕陽」を披露してくれました。

 戦前、満蒙開拓団を全国一3万人あまりを送り出した長野県でしたが、うち半数の1万5千人が敗戦前後の混乱の中、悲惨な最期を遂げました。また現在県内には、中国残留孤児と婦人及びその家族4300人あまりの方が暮らしています。
 戦後64年を経過する中で、満蒙開拓団の悲劇も当事者の高齢化が進み風化していくことが懸念されています。体験者の取材を柱に満蒙開拓団の実態をドキュメンタリーとして描いたこの映画は封切り以来、多くの人々の注目を集めております。このたび関係者の努力により長野での上映が実現しました。県内ではすでに、松本(7/25/26)、飯田(10/10)などで上映され、12月6日には上田でも計画されています。

満蒙開拓団とこの映画について--演出/羽田澄子(はねだ すみこ)
 私は旧満州の一部と見られていた関東州の大連に生まれ、小学校も女学校も旅順。そして戦後引き揚げてきました。しかし、同じ満州でも最南端の都会に暮らしていた私は、戦後満州の奥地で起きていたことを知りませんでした。知ることになったのは1981年、「中国残留日本人孤児」の訪日調査がはじまり、さらに2002年に中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟が始まったことがきっかけでした。裁判がどうなるかと見守っている間に、中国東北地区の方正(ほうまさ)県にある「方正地区日本人公墓」のことを偶然知ることになりました。
 方正地区には、ソ連の満州進駐、日本の敗戦によって、満州の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が亡くなっているのです。「この人たちの遺骨をお墓に」と願った、ある残留婦人の思いを受け止めたのは中国の周恩来総理でした。周恩来の指示によって、中国方正県政府が建設したのが「方正地区日本人公墓」なのです。「お国のため」と送り込まれた満州移民は敗戦によって、遺棄されたのも同然となりました。その体験者の多くはすでに亡くなっていますが、多くの方に取材し、日本の近現代史を振り返り、日中友好が大切であることを考えました。

満蒙開拓団とは/1931年の満州事変以後、当時の日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州(現在の中国東北部)、内蒙古に入植させられた日本移民のこと。1945年の太平洋戦争敗戦までに送り込まれた開拓団員は約27万人と言われている。しかし、その内の約8万数千人が、ソ連参戦、日本の敗戦によって、帰国できずに亡くなっている。

映画の証言から/妹は最後に「お芋食べたーい、お芋食べたーい」と言っている間に連れて行かれた。
満州に行くときは、皆「国のため」と行ったのに、あんな遺骨を見ると残念で。
開拓団の人たちが、トラックの窓に手をかけて「乗せてってくれ」って、それを振り払って行っちゃうんだから。 
長野びんずる祭り『日中友好連』で参加(8/1)2009

 長野市日中友好協会は8月1日の第39回長野びんずる祭りに「日中友好連」を組んで参加しました。女性委員会・青年委員会のメンバーらとともに中国帰国者や留学生・研修生もそろいのハッピやTシャツを着て熱心に踊りました。

 1日雨模様だったこの日、夕方6時には雨も上がり、いよいよ提燈に火がともされ6時半踊りがスタート。1ー、2-、3-、4-、5-、6-、7-、8-。1、2、3、4、5、6、7、8。シャモジを両手に、調子の良い踊りが長野の中心街を埋め尽くしました。

 初めて参加した留学生や帰国者の皆さんも汗だくになりながら、コツをつかむと踊りに没頭して2時間、若さを発散させていました。

 途中差入れのビールやジュースで乾杯したり、日中友好の出し車をバックに記念撮影したり、楽しい交流ができました。
第44回日中友好キャンプ、美ヶ原・桜清水コテージに80人が集う(7/25~26)2009

 7月25・26日美ヶ原高原の山麓、標高1400mにある涼しい水源林の中にたたずむ桜清水コテージで、第44回日中友好キャンプが開かれました。長野県日中友好協会青年委員会と女性委員会の主催で、中国留学生・河北省農業研修生・帰国者・一般合わせて80名が参加し楽しい2日間を過ごしました。

 今回は『ゆったりとスローライフをたのしみながら、森の静かなリゾートライフを満喫しよう』をコンセプトに、友好王国が建国され、参加者は5つの村に分かれ、班活動で岩魚つりやバーベキュー、カレー作りで食を確保したり、キャンプファイヤーでの踊り、コテージでの夜半までの語らいや早朝の凛とすみきった空気の中でのラジオ体操など、団体行動での楽しさを知りました。2日間、国や世代を越えて、相互理解と友好の絆を深めることができました。
長野市で中国帰国者のつどい(7/19) 2009

 7月19日長野市飯綱高原アゼリアにおいて恒例の中国帰国者のつどいが開かれ、長野市在住の帰国者ら約100名が参加しました。長野市や市日中友好協会・帰国者の会で構成される三者連絡会が主催したもので日頃地域でお世話になっている区長さんや民生委員さんも来賓として参加し交流を深めました。

 北島良一会長(市日中理事長)が主催者を代表してあいさつし帰国者の日頃の活躍にエールを送りました。引き続き地域社会に溶け込んでルールを守って生活して行くことの重要性につき市の担当者から講演がおこなわれました。講演の後、懇親会が行われました。カラオケなど楽しいひと時を過ごしました。

残留孤児ら 重い体験や夢を発表、春節も祝って交流
中国残留邦人への理解を深める県民の集い(2/1) 2009

 「中国残留邦人への理解を深める長野県民の集い」が2月1日、長野市のサンパルテ山王で開催され、帰国者や一般市民ら360人が参加し、東京中国歌舞団による歌と演奏を堪能した後、帰国者の体験発表に耳を傾けた。第2部の春節交流会では餅つきや獅子舞などを楽しみながら交流した。

 第1部では主催者を代表して、最初に(財)中国残留孤児援護基金の中澤勝義常務理事が帰国者が困難を乗り越えて日本社会の一員として懸命に努力している状況を広く理解していただき国県自治体と地域住民一体となって帰国者の皆さんを支えて安心した老後を送っていただくよう理解を呼びかけました。また斎藤恭一中国孤児等対策室室長が大村秀章厚生労働副大臣からのメッセージを披露。

 地元協賛団体を代表して、長野県日中友好協会の井出正一会長が「戦前のあやまった国策の犠牲となった残留孤児や残留婦人の皆さんは敗戦時の悲惨な逃避行をはじめ言い知れぬ苦難を体験し、帰国後も言葉や習慣の違いという困難のなかで懸命に生きてこられた。全国一満州開拓団を送り出した長野県は、帰国者支援に力をいれ、帰国者の皆さんが安心して地域の一員として暮らしていけるよう官民協力して努力して行きたい」とあいさつした。

 続いて、日頃中国帰国者や養父母慰問活動に取り組んできた東京中国歌舞団の演奏会が行われた。中国民族楽器の演奏をバックに陽二蓮(ヤンアーレン)さんの軽やかな歌声に聞き入った。最後に全員で「大海阿故郷(海はふるさと)」と「ふるさと」を大合唱した。

 続いて、県内で暮らす残留婦人や残留孤児ら4人が、自らの体験や、将来の夢などを発表。参加者は真剣に聞き入り、深くうなずきながら拍手を送った。

 8歳のときに下伊那郡泰阜村から家族で満州に渡った中島千鶴さん(76)=飯田市=は、極限状態での逃避行の様子や望郷の念に駆られた中国での体験を話した。45年後の1985年にようやく帰国。「戦争をして困り、悲しむのは普通の国民。二度と戦争をしないでください」と強調。公民館で中国語の講師をするなど、地域と前向きにかかわるようになった近況を紹介した。

 残留孤児一世の石坂万寿美さん(65)=松本市=はこの数年間熱心に学習し身につけたしっかりした日本語で次のように発表した。2歳で敗戦、養父母は困難な中で自分を師範学校に出してくれ、教師になった。文化大革命の混乱を機に帰国の思いが強まり平成6年帰国。しかし言葉がわからず孤独と不安のなかで暮らした。5年前残留孤児訴訟に加わった。昨年支援法が成立し、ようやく1人の日本人として認められ思いがした。現在の私は、地元の支援グループ・ナルクと出会い、活発に料理・マレットゴルフ・ハイキングなどに参加し、四川大地震募金活動に参加したりNHKのど自慢にも出場した。元気で前向きに生きていこうと決意している。

 残留孤児二世の坂井太郎さん(34)=長野市=は帰国者自立研修センターで日本語を身につけた後、就職し、現在ではヘルパー2級の資格をとって活躍している様子を紹介した。スペシャルオリンピックスでのボランティアの体験などを活かして今後も社会のために貢献したいと語った。

 発表者で最も若い残留孤児三世の野村霞さん(20)=下伊那郡高森町=は9歳でおじいちゃんとともに日本にやってきたが小中学校では言葉がわからず友達ができなくていじめられたり授業についていくことができなくてつらい思いをしたが、卒業後は良い職場の仲間に助けられ定時制高校にも通い高校検定試験に合格し半年早く卒業できた。不況のため派遣会社は首になったが、新しい会社に就職できた。「通訳になって日中両国の懸け橋になりたい」と決意を語り、会場から盛んな拍手を浴びた。

 第2部の春節交流会は、長野市日中女性委員会のメンバーが日頃の帰国者支援活動の腕前を発揮して準備と運営に当たった。350人の会場移動が完了すると、まず青年委員会メンバーが用意した臼と杵で餅つき。昨年帰国したばかりの池田充さん夫妻も餅つきを体験して大喜びだった。宮沢信代女性委員長の開会あいさつ、西堀正司県日中理事長のあいさつに続いて青木一男県地域福祉課長の音頭で乾杯。立食パーティー方式で懇親交流が行なわれた。続いて、富竹神楽保存会の皆さんによる獅子舞、ワールドキャッツの子供たちによる軽快なダンス、琴伝流大正琴・やまなみの皆さんによる日中両国の歌の演奏が披露。友情出演の皆さんの熱演に拍手が送られた。豪華景品も当たるくじ引きには真剣な眼差し。続いて上田と松本の高齢帰国者日本語教室のメンバーが「さくら」や「ふるさと」を元気に歌うと大きな拍手が送られた。最後は中国の東北で盛んなヤンコー踊りを帰国者の皆さんのリードで踊った。会場は春節にふさわしい盛り上がりとなり、あっという間に2時間余りが過ぎ去った。最後に北沢久県日中帰国者留学生委員会委員長の音頭で帰国者の皆さんの活躍を祈念して万歳。つきたてのお餅をいただきながらお互いにエールをかわし帰途に着いた。

 今回の集いは厚生労働省の委託を受けた(財)中国残留孤児援護基金が全国3箇所(東京・長野・福岡)で計画した残留邦人への理解を深めるシンポジウム事業の一環。県日中友好協会が協賛した。


中国残留邦人への理解を深める県民のつどい(2/1)2009

 長野県には4300名の中国帰国者の皆さんが暮らしています。(財)中国残留孤児援護基金と長野県日中友好協会では厚生労働省の委託を受けて中国帰国者(中国残留邦人)への県民の皆さんの理解を深めるために下記により「中国残留邦人への理解を深める県民のつどい」を開催することとなりました。(全国で東京・長野・福岡の3箇所で行われます) お誘いあって多数ご参加ください。


日時:2月1日(日)午前10時~午後3時 
場所:ホテル サンパルテ山王(長野市岡田町)
次第:第1部 ・東京中国歌舞団による歌と演奏
         ・帰国者の体験発表(中国残留婦人・残留孤児1世・2世・3世)
    第2部 春節交流会 餅つきや獅子舞・日本舞踊・大正琴の友情出演、ゲームなどを通じて帰国者の皆さんと交流
参加費:無料。

◎参加ご希望の方は、所定の申込用紙にて、1月26日までにお申し込みください。お問合せは県日中友好協会(TEL026-224-6517)へ。
主催:中国残留孤児援護基金
協賛:長野県日中友好協会
後援:長野県・長野市


中国帰国者、日本語で弁論大会(9/28)2008

 県や県日中友好協会でつくる中国帰国者弁論大会実行委員会は9月28日、第19回県中国帰国者日本語弁論大会を長野市旭町の信濃教育会館で開きました。県内で暮らす10人が終戦から帰国するまでの体験や日本語を学びながら生活している様子を語りました。

  「消えない戦争の傷跡」と題して弁論発表した滝沢ケイ子さん(77)=坂城町=は1943年に家族7人で旧満州に渡り終戦後の避難生活を振り返りました。「飢えや寒さで子供や妊婦、老人らが亡くなった。戦争で家族は生き別れ、父と再会したのは戦後30年がたっていた」と話しました。96年に祖父母、父母と5人で帰国した岩本銘美さん(19)=下伊那郡松川町=は祖母から体験を聞くなど戦争の歴史を学んだと述べ、「生まれた中国と、成長した日本はかけがえのない国。両国の友好に貢献したい」と語りました。石坂万寿美さん=松本市=は地域のボランティアとともに老後を元気に楽しく生活している様子を紹介し、前向きに生きていくことの大切さを訴えました。

 入賞者は次の通り。①県知事賞:岩本銘美、②県日中友好協会長賞:秦治樹、③信濃教育会会長賞:滝沢ケイ子、④県開拓自興会会長賞:小宮山勇男、⑤努力賞:酒井麗子、⑥奨励賞:中村みどり。

中国帰国者支援研修講演会(8/8)


 8月8日、長野市生涯学習センターにおいて長年にわたり中国残留孤児問題に関心を寄せ、帰国者支援に深く係わってこられた井出孫六先生を講師に県内の関係市町村担当者80名が出席して研修講演会が開かれました。井出先生は「中国残留邦人の終着駅が幸福であるために」と題し、歴史的経緯を踏まえて帰国者問題に積極的に取り組んでいくことの重要性を訴えられました。

長野びんずるに「日中友好連」で参加(8/2)
2008

 長野びんずる祭りに「日中友好連」として今年も参加しました。そろいのハッピやTシャツに身を包み、シャモジさばきも軽やかに帰国者や研修生の皆さんとともに60余名で楽しく踊りました。女性委員会のリードで踊りのコツを覚えると、日中友好の提燈と飾りつけただし車をとともに、4人縦列で長野大通りを練り歩きました。長野に永住帰国したばかりの池田さん一家も「本当に楽しかった」と大喜びでした。




日中友好
海水浴交流会in鯨波、皆さん大喜びでした(7/21)2008

7/21(海の日)中国留学生・河北省研修生・帰国者の皆さんとともに夏の1日を柏崎・鯨波の海で泳いで、浜辺でバーベキューを食べて楽しく交流しました。海が始めての留学生や研修生、帰国者の皆さんはじめ80余名が参加しました。記念撮影のあと準備体操をして海に入りました。海水に体が楽に浮く感覚を実感しながら海水浴?を楽しみました。海を見ながらの昼のバーベキューも女性委員会の皆さんが事前に準備しておいてくれた新鮮な材料とあわせて肉を焼きながら心行くまで堪能しました。スイカ割りは子供たちが活躍し、みんなでおいしくいただきました。参加者は真っ黒に日焼けしながら、帰りのバスの中でも自慢ののどを披露しながら帰路につきました。


長野市で中国帰国者のつどい(6/29) 2008

6月29日長野市飯綱高原アゼリアにおいて恒例の中国帰国者のつどいが開かれ、長野市在住の帰国者ら120名が参加しました。長野市や市日中友好協会・帰国者の会で構成される三者連絡会が主催したもので日頃地域でお世話になっている区長さんや民生委員さんも来賓として参加し交流を深めました。北島良一会長(市日中理事長)が主催者を代表してあいさつし帰国者の日頃の活躍にエールを送りました。引き続き入国手続きの講演の後、懇親会が行われました。ビンゴゲームやカラオケなど楽しいひと時を過ごしました。


北京オリンピック聖火リレーに声援送る(4/26)2008

 4月26日、北京オリンピック聖火リレーが長野市で行われました。井出正一会長をはじめとした友好協会会員は、早朝から中国帰国者の皆さんや県議会日中友好促進議員連盟の皆さん(倉田竜彦会長はじめ超党派の16名の県議)とともに約200名で出発式・到着式会場付近で友好協会旗や日本と中国両国旗、長野県旗などを振って応援しました。
 また「祝北京オリンピック聖火リレー・長野県日中友好協会」と印刷された袋に入れ友好協会女性委員会の皆さんが前もって準備した紅白の一口饅頭1000袋を沿道の応援に訪れた市民や全国から集まった中国留学生の皆さんに振舞い大変感謝されました。
 星野仙一監督や野口みずき選手の走りに「ようこそ長野へ・北京五輪聖火リレー」の横断幕を掲げて声援を送りました。中国留学生の皆さんとも有意義な交流ができました。参加者はまた、北京オリンピックの大きな旗に寄せ書きをして、北京市友好協会の馬恵麗さんに託しました。
 友好協会会員の山岸重治さんと雪入忠司さんは10倍もの倍率の中でリレーランナーに選ばれて無事受け持ち区間を完走しました。またMウエーブ友の会で日ごろボランティアとして活躍している会員メンバーはMウエーブで崔天凱駐日中国大使を歓迎しました。長野市太極拳メンバーや各自治会で役員を務めている会員も率先して沿道整理のボランティアを引き受けリレーの成功に貢献しました。また石川県日中友好協会の皆さん13人も遠路応援に駆けつけてくれました。 
 長野オリンピックから10年、歴史的に中国と全国一深いかかわりを持つ長野県として、私たちは、多くの長野市民の皆さんとともに、アジアの友邦中国北京で開かれるオリンピックの聖火をあたかかく迎えることができました。長野での聖火リレーは沿道で85,000人余りが声援を送りました。全国からやってきた3000人を超える中国留学生の皆さんも整然と声援を送りました。聖火は東京経由で韓国のソウルに向かいました。全国から応援していただいた皆さんありがとうございました。


第31回日中友好スキー交流会Ski and Friendship in 斑尾高原(3/1~2)
2008

3月1~2日の両日飯山市の斑尾高原スキー場において、中国留学生・大使館・帰国者ら50名余を招いて110名の恒例の日中スキー交流会が開催されました。初日はあいにくの吹雪でしたが、2日目は絶好のスキー日和、スキー教室で初心者も初級者もボーゲンなどをマスターしてリフトを使って幾度か滑り降りれるようになりました。夜の交流会は、地元飯山市日中友好協会の強力な支援もあり、バンドの生演奏、フラダンス、歌や踊りと参加者一体となったすごい盛り上がりとなりました。


さようなら、長野県中国帰国者自立研修センター
  2008

                   井出 正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長

国残留邦人への「新支援法」が施行されようとするなか、長野県中国帰国者自立研修センターは、老後のサポート、2・3世への支援などの課題を残したまま、ここ数年中国からの帰国者がないとの理由で、「その使命を終えた」として今月末開所20年を目前に閉鎖される。新法は、“満蒙開拓”という国策によって生じた彼らの「特別の苦難」に対して「特別の措置」を講じる必要性を国に求め、国のこれまでの対応は十分ではなかったと指摘している。その通りだと思う。94年に「中国残留邦人帰国促進・自立支援法」が施行された。それに伴って国民年金法の「特別措置」により、日本に帰国して25年経っていない孤児らも国民年金を受ける資格を持てるように、中国での在住期間は「免除期間」とし、保険料の国庫負担分3分の1に相当する受給額を加入期間に関わらず受け取れるように改正した村山内閣の厚生大臣だった私も、当時はそれが精一杯ではあったが、決して十分とは思っていなかった。

んななか、当センターは開設以来、立派にその任務を果たし、多くの帰国者及び家族に感謝されてきた。全国20カ所に設けられたセンターが国、県、法人格の団体への委任事業であるなか、長野県は唯一任意団体である県日中がその運営を引き受けた。満蒙開拓に全国で最多の人たちを送り出したという歴史的事実があるにせよ、特筆に値する事例といえる。長野県日中友好協会編『紅の架け橋(2)』によれば、自立研修センター構想が打ち出された87年11月協会は知事に対し、「中国帰国者自立援護対策に関する要望書」を提出、知事もその実現を約束したが、帰国者の定住希望地が大都市に集中しているため、長野県は対象外になりそうなので厚生省に陳情してほしいとの要請が社会部長からあった。そこで部長ともども花岡堅而会長(前日本医師会会長)以下協会幹部が厚生省へ押しかけ、当県の官民挙げての熱意が実現にこぎつけたと記されている。改めてボランティアを含め歴代の関係者の皆さんの献身的なご苦労に感謝の意を表したい。

年秋の「日本語弁論大会」、暮の「交流会」で、帰国者やその家族が懸命に頑張っている姿や、それを支援する方々の心優しい活動に接することは、私たちにとっても忘れ難い思い出だ。センターとしての活動が幕を閉じるのは残念かつ淋しいが、協会としての支援活動はこれで終るわけではないし、終ってはならない。県や国へ働きかけながら、これからも出来る限りの応援をしていこうと考えている。(「日本と中国」08.2/5)


帰国者や研修生招き日中友好新春餅つき大会(2/3)  2008

 長野市日中友好協会女性委員会は2月3日、長野市更北公民館で中国の春節を祝う「日中友好新春餅つき大会」を開きました。今年で22回目で、市内に住んでいる中国帰国者や中国からの研修生ら約100人が参加、つきたての餅を味わいました。
帰国者や研修生が交代で杵を持ち、餅をつきました。なれない様子の研修生らに、友好協会メンバーが「もっと腰を入れて」などとアドバイス。つきあがった餅はあんこやきな粉で食べました。また女性委員会が用意した豚汁も好評でした。女声ゴスペルや太極拳の披露、参加者全員のヤンコー踊りなど楽しいひと時を過ごしました。
 会を企画した西沢よしえ委員長は「北京五輪の年に更なる交流を深めたい」と述べました。


中国帰国者ら近況語り合う、帰国者年末交流会(12/2)  2007


県中国帰国者自立研修センターは、12月2日、恒例の年末交流会を長野市内のホテル、サンパルテ山王で開催しました。帰国者家族や関係者60名が出席して、食事をしながら、近況を語り合うなど交流を深めました。席上、同センターで日本語を学んだ修了生がスピーチを披露。10年前に天津市から帰国した中村啓さん(64)は「この10年間仕事を続けながら、日本語を学ぶことを最優先に頑張った。今は孫に中国語を教え、孫からも日本語を教わっている」と話しました。
13年前に瀋陽市から帰国した井沢紀代子さん(67)は「11月28日に成立した中国残留邦人に対する改正支援法はありがたい。清掃の仕事を辞め、来年からは日本語をさらに勉強したい」と話しました。

◇中国残留孤児・婦人新支援法が成立(11/28)  2007

 中国残留孤児・婦人の生活支援を目的にした改正中国残留邦人支援法が11月28日、参院本会議で全会一致で可決、成立した。
 生活保護に代わる特別給付金(最高で月額8万円)の支給と、特例による国民年金月額6万6000円の満額支給が柱。対象となるのは日本に永住帰国した残留孤児・婦人約6000人。改正法の成立で、中国残留孤児約2200人が国を相手に10地裁6高裁で係争中の集団訴訟は終結に向かう。
 (社)日中友好協会はことし2月に、厚労相あてに帰国者支援策の成立を求める要望書を平山郁夫会長名で提出、各地の協会が支援活動を繰り広げ、7月に政府与党の支援策を孤児側が受け入れていた。


拝啓 与党「中国残留邦人支援PT」メンバー各位  2007


                    井出 正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長

 ご健勝のことと存じます。召集直後に首相が替わるという前代未聞の臨時国会、ご苦労多きかと思いますが、ご活躍のほどお祈り申し上げます。
 さて、満蒙開拓という国策によって生じた問題ゆえに国の責任は重いと、かねて要請して参りました帰国した中国残留邦人への“新たな支援策”につきましては、皆様方のご尽力により、お蔭様で原告・弁護団も受け容れられる内容になり政治決着をみましたこと、改めて深謝申し上げます。私の周囲におります該当者も大変喜んでいてくれます。
 来年1月に支援策をスタートさせる関連法案が、この臨時国会で審議されるわけですが、その際もう一点ご高配いただきたく一筆認めた次第であります。
 申しますのは、永住帰国時の国籍取得の際、「帰化」手続きで取得した人は外国人と同じ扱いとなり、国民年金の特例措置の対象外の期間(難民条約が批准された1982年まで)を有しており、このことで新支援策でも不利な状況になるのではないかと案じられる方が、長野県飯田地区に2人存在することが地元紙に報じられたからです。
  紹介されている中島千鶴さん(75)は、飯田日中友好協会が展開している“満蒙開拓語り部の会”のメンバーとして、若い世代に歴史を語り継ぐ役を担っていてくれるおひとりです。終戦時13歳だった中島さんは、49年に中国人男性と結婚。57年に中国籍を取得。85年に帰国したが法務局で中国籍取得の経緯を詳しく説明したため、自らの意思で取得したと理解され帰化扱いになったとみられます。そのため難民条約が批准されるまでの9年余について特例措置の対象外とされ、対象期間の保険料は追納したものの、月に受け取る国民年金の額は4万6千円と一般より少なく、このことが新支援策でも不利に働くのでないかと危惧されているわけです。
 労省の中国孤児等対策室の担当官は「戸籍・国籍に関することは管轄外なので」と発言したと地元紙は報じています。元厚相として遺憾ではありますが、縦割行政のなか、一室長の裁量の範囲を超えているようにも考えます。中島さんのような例の他に、肉親が不明、証拠もないことから、永住のために「帰化」手続きによって就籍=戸籍取得をした人たちもいるかもしれません。全国でどの位の数になるのか掌握してはいませんが、この人たちが他の残留邦人に比べて不利にならないよう、どうかこの分野でも「政治」の力を発揮して下さいますようお願い申し上げます。  敬具      (「日本と中国」10/15号)


切実な訴えに涙、第18回中国帰国者日本語弁論大会(10/14) 2007
 

 長野県中国帰国者自立研修センターは、10月14日信濃教育会館において、第18回中国帰国者日本語弁論大会を開きました。
 1世の部、2・3世の部、学生の部に別れ、計12人が出場しました。敗戦後の悲惨な逃避行の様子や祖国への思いを語った1世や言葉の面で苦労し子育てやリストラ、地域との付き合いなど困難な状況におかれている2世の現状を訴えた発表に会場は静まり返って聞き入っていました。また、言葉がわからず学校でのいじめや差別に絶望したがそれを乗り越え働きながら定時制高校に通い1級日本語検定合格に挑み通訳を目指したいとの野村霞さん(19)=高森町=の「私はがんばり続けます」の発表には感動の拍手が寄せられました。

 入賞者は、次の通りです。
 ◎県知事賞 野村霞(学生①)、◎県日中友好協会長賞 坂井馨(2・3世①)、◎信濃教育会長賞増田初子 (1世①)、◎県開拓自興会長賞 牧内春重(1世②)、◎県中国帰国者採用企業連絡会長賞 北原陽江(2・3世②)、◎県中国帰国者自立研修センター所長賞 米山紀佳(学生②)◎各部門3位 西山明子(1世)・中原綾美(2・3世)・赤羽香(学生)

 入賞した2人の発表を紹介します。

  <私は、頑張り続けます>       野村 霞

私は、九歳で日本に来ました。日本に来られたことがすごくうれしかったです。しかし、思ってもなかった残酷な現実が私を待っていたのです。学校でみんなと言葉が通じないので友達は一人も居なくて寂しい思いをしました。そこで私は日本語の勉強に励みました。親切で優しい先生のお陰でようやくスムーズに日本語を話せるようになりましたが、六年生になると授業にもついていけなくなってしまい悲しかったです。そんな中で日本語の先生と担任の先生が私を支えて守ってくれました。先生たちが居てくれたから私は中学校に進む事が出来ました。心から感謝しています。でも中学校の生活はますます辛くなりました。イジメや差別もされるようになり毎日の日々が地獄のようでした。助けてくれる人も無く親に心配させたくないから自分で耐え忍ぶしかなかったのです。私は恨みました。どうしてお祖父さんは、私をこんな苦しい所に連れてきたの。日本人は、まだ幼い私をどうして傷つけるの。私は日本の全てに反感を持ち、日本に来なきゃ良かったと思いました。日本から逃げ出したくなりました。急に中国がすごく懐かしくなり、中国の友達にも、会いたくなりました。中国で過ごした自由で楽しい日々を返してほしいと願いました。そんな苦しい日々を耐え続けてやっと中学を卒業することが出来ました。こんな辛い学校生活はもう嫌だから、高校に進学せず、就職することにしました。職場では、イジメや差別をされる事は無く、優しい人達ばかりでした。やっと笑うことができるようになり、友達も出来ました。その時、私は思いました。「恨み」の中で生きるより寛容の心で生きた方がよっぽど楽しい人生を送る事ができる。だから私はもう逃げたり、避けたりはしないようにしようと。二年遅れになりましたが、勇気を出して高校の定時制に入学しました。最初の時は、イジメや差別されたりしないかと心配しました。しかしお蔭さまで今は順調に勉強する事が出来ています。免許を取るまでの一年間、毎日放課後、夜遅くに迎えに来てくれた両親に感謝しています。私は今一生懸命勉強しています。少人数のクラスですが、いつもトップの成績をとる事ができました。私は今「通訳」になる夢を持っています。日中両国の為に、何か役に立ちたい。言葉で困っている人を助けてあげたいと思っています。そのためにもっと言葉の勉強をしなければいけないと思います。二ヶ月後の、日本語検定(一級)の合格をめざしています。簡単に叶えられない夢ですが、私にとって人生最大の目標ですから、諦めません。お祖父さんを恨んだりしてゴメンなさい。初は、確かに苦しくて辛かったけれど、でもこんな経験が有ったからこそ私は成長しました。せっかくの人生を無駄にしたくないのです。だからこの先色々の困難や失敗を恐れず私は頑張り続けます。

  <帰国者二世の現状>      北原 陽江

        私たちの親である、一世の帰国は遅かったため、多くの方がまだ日本の社会の事を勉強していないうちに、もうこの年齢になりました。いま、社会中に一生懸命頑張っている人はほとんど二世です。特殊な家庭で一世の面倒を見る、三世の教育、二世自身の色々事など、すべてが二世の肩に掛けられて、これが、今の二世の現状です。
 先ず、二世自身の事を見ると、一世たちと同じように年金を貰えない生活を繰り返さないようにしたいと思っています。しかし現在日本の教育を受けない状況の中で、いきなり社会に働きに行かなければならない状況が迫っています。私たちは言葉の壁を背負ったまま、色々な人間、色々な事にぶつかったりしました。また、時には立ち上がったり。まるで歩き始めたばかりの赤ちゃんでした。片言日本語の二世たちの仕事は、一番安い賃金にも関わらず、リストラでは最優先になっています。コミュニケーシュンを取れないので、周りが見えず、間違えたたり、誤解されたり、何処に居っても一人でした。
 50代以上の帰国者二世なら、いくら頑張っても、老後の年金生活は無理ですね。ですから私達がまだ若いうちに老後の生活をよく考えて、自分の生活が困らないように、子どもの生活にも迷惑を掛けないように、医療保険と厚生年金をきちんと払いましょう。一時の手取りは少ないけど、長い目で見ればそうした前向きの姿勢が最も大切と思います。
 私達の子どもは三世として、二世の生活を繰り返さないように、日本の子どもと同じような教育受けることができたら、将来社会において認められる可能性が私達より高いと思います。そう考えると二世が親として、子どもの教育を真剣に考えることが最も重要でかつ大変なことになります。また文化、教育、習慣、社会環境が中国と違うため、子育ては更に難しいと思います。子どもの躾、地域の行事、学校の活動、子どもの親間の付き合い、先生との意見交流等様々な所に、日本人の親なら、簡単にできる事が、私達にとって大変難しい事なのです。また、仕事のため、子どもの面倒が見られないということは日本の国の働くお母さんたちと共通の問題です。面倒不足の子どもは先生に迷惑をかけるので、先生も不満になる。または、外国人の親のせいで子どもがいじめられて、色目で差別され、親の心が子どもよりもっと辛いと言うこともあります。私が自分の息子一人の姿をみても、とても悲しかったです。子どもに「御免なさい」心の中で叫んでいます。遠いところみると、別の外国人の親が一人います。もしかして、私と同じ気持かと思います。
 勤労、誠実、楽観、真摯、前向きな二世たちは、社会中から見えない処の狭い隅で頑張って生きています。


中国帰国者楽しい老後を、1世ら上田で「日本語教室」(8/27) 2007


 上田日中友好協会(成沢捨也会長)は8月27日、上田市の室賀温泉ささらの湯で高齢の中国帰国者一世と配偶者を対象に初の高齢帰国者向け日本語教室を開いた。上田市、東御市、坂城町から約20人が参加し、健康作り体操や日本語学習をした。地域に溶け込めるよう支援する目的で今後も継続的に開いていく。
 参加した1世は、残留孤児や残留婦人が中心で、主に六、七十代。1980-90年代に帰国した人が多い。自己紹介の後、保健師の指導で指先や体を動かす体操をして交流。さらに4、5人ずつのグループに分かれ、県帰国者自立研修センターの日本語講師の指導で日本語で日常会話をした。
 13歳で旧満州に渡り、89年に帰国した滝沢ケイ子さん(76)=坂城町=は「同じ経験のある人と友達になれる」と喜び、96年に残留孤児の夫と来日した女性(58)は「日本語を勉強するいい機会。楽しかった」と話していた。
 成沢会長は「まだ日本語が上手に話せない人もいるが、心を大きく持って、老後を楽しく生きていただきたい」とあいさつした。「日本語教室」は中国帰国者支援・交流センターから県協会に委託された事業の一環。

飯田中国帰国者サロン教室紹介(飯田日中友好協会)  2007


 全国で一番多くの満蒙開拓団を送出した私たち「いいだ・下伊那」地方には、多くの中国帰国者が暮らしております。
現在、本人とその配偶者のおよそ110名が暮らしており、平均年齢も71歳になっております。これらの人たちが集まりやすいように7つの地域で教室を開いております。
 教室では、無理なく、楽しくをモットーに帰国者同士の交流・健康づくりを考えマレットゴルフや絵手紙なども取り入れて日本語の勉強を行っています。また、飯田日中友好協会と常に連携して、満蒙体験者の「語り部の会」「語りつぐ会」などを共同ではじめ、多くの市民による帰国者支援活動や長野県独自の愛心使者事業と相俟って、ようやく自らの体験を語りはじめ市民といっしょに自己を見つめる活動が始まっています…。

教室風景(1)

教室風景(2)

桜の木の下で


マレットゴルフ

語り部の講話

語り部の講話(小学校で)


絵手紙を楽しむ

餃子交流会

介護施設見学

長野びんずる「日中友好連」で帰国者とともに踊る(8/4)  2007


8月4日長野市で開かれた、長野びんずるに長野市日中友好協会は「日中友好連」を組んで参加しました。友好連には中国帰国者や友好協会会員など50名が参加し、びんずるのリズムに合わせてそろいのハッピ姿で楽しく踊りました。

飯田日中友好協会総会、「満州開拓平和記念館」実現へ募金活動(7/8)  2007

 飯田日中友好協会(河原進会長)は7月8日、飯田地場産センターで約60人が参加して定期総会を開いた。飯田下伊那地方に2009年の会館を目指している「満蒙開拓平和記念館」実現に向け、募金活動の実施を決めた。またシベリア抑留の引き揚げ港だった京都府舞鶴市にある「舞鶴引揚記念館」の山田昌道館長や、NPO法人「舞鶴・引揚語りの会」の豊田信明理事長による基調講演もあり、建設の意義や運営面を考えあった。
 平和記念館は、旧満州開拓に関する歴史資料を展示し研究調査の拠点となるように建設する計画で、事業費は約4億円の見込み。そのうち2億円を目標に募金で充てようと、募金活動を始めることにした。
 基調講演で山田館長は「過去にどういうことがあったのか、末永く若い世代に伝わるように努力して行きたい。満州平和記念館も、そういう役割を果たしてほしい」と呼びかけた。
 講演を聞いた河原会長は「(記念館建設には)地域住民を動かす熱意が必要など、共感するところが多い。シベリアと満州の違いはあるが、平和希求の気持ちは一緒。今後も交流して行きたい」と話していた。

楽しく長野市帰国者激励交流会(6/24)2007


 長野市・長野市日中友好協会・長野市中国帰国者の会は6月24日(日)、長野市飯綱高原の「アゼリア飯綱」で長野市中国帰国者のつどいを開きました。帰国者120人と市日中の関係者など40人が参加し交流を深めました。三者連絡会の会長を務める北島良一市日中友好協会理事長と下条長野市福祉部長が帰国者の皆さんの、日ごろの自立の努力に敬意を表し、1日交流しゆっくりと楽しんでほしいと述べました。町田伍一郎市議や西堀正司県帰国者自立研修センター所長が来賓としてあいさつをしました。西堀所長は、日本政府の帰国者への年金満額支給の方針等援護施策の充実に触れ、高齢化している帰国者1世には幸せな老後を送っていただきたいと述べました。
 第2部は神田忠亥前県開拓自興会会長が満州開拓団の悲惨な歴史と残留孤児や残留婦人の生まれた経緯を話しました。
 第3部の懇親交流会では、関係者の協力でたくさんの景品が集まり、ビンゴゲームの当たり番号とにらめっこしながら楽しい時間をすごし、またカラオケのど自慢で盛り上がりました。最後に全員で「ふるさと」を合唱し、再会を楽しみに解散しました。

上田日中友好協会が中国帰国者激励交流会を開催
  2007

 上田日中友好協会は5月13日、上田市別所温泉「相染閣」において恒例の中国帰国者激励交流会を開催しました。上田市内と近郷の帰国者家族約100名が招かれ、温泉に入浴した後、友好協会会員ら50名と交流しながら楽しいひと時を過ごしました。
 成沢捨也・上田日中友好協会会長は「戦後62年をむかえたが、敗戦時の悲惨な逃避行は想像に絶するものがあったとお聞きしている。幸い皆さんは、養父母に育てられ無事成長されたが、帰国後も言葉や習慣の違いによるご苦労など厳しい環境の中で過ごしてこられた。帰国者の皆さんには是非、安心した老後を送ってほしいと心から願っている。政府の支援策もまもなくまとまると聞いているが援護施策の充実を要請したい。上田日中としては、市当局の支援のもと、この間、帰国者の共同霊園の整備にも力を入れてきた。日ごろのご苦労を癒し、今日はゆっくり楽しんでほしい」とあいさつしました。
 交流会には母袋創一上田市長や布施県日中友好協会事務局長らも出席して帰国者を激励しました。懇親会の中では、真田陣太鼓の皆さんが、真田武者のいでたちで和太鼓を演奏し、その迫力に大きな拍手が起きました。また日本舞踊のグループが友情出演し見事な演舞を披露してくれました。帰国者の皆さんも、太鼓の手ほどきを受けたり、一緒に踊ったり、ビンゴーゲームなどを楽しんだりしました。女性委員会のみなさんの手作りの豚汁も振舞われ好評でした。最後に藤原邦彦さん(64)が帰国者を代表して、しっかりした日本語で「大変楽しく過ごせました。皆さんのご好意に感謝し、私たち帰国者も地域の一員として頑張って行きたい」と述べました。


臼田日中・「春節をともに祝う会」開催  2007


  中国のお正月「春節」をお祝いして、臼田日中友好協会(井出正一会長)は、2月11日、佐久市臼田の総合福祉センターあいとぴあにおいて、恒例の「春節をともに祝う会」を開きました。臼田日中友好協会の役員・会員、日本語教室の関係者、佐久在住の帰国者や中国からの花嫁さんら70名が参加しました。
 井出会長は、日中関係が好転してきている中で、帰国者の皆さんにとって良い一年になることを祈念しながら、政府の帰国者援護の特別措置を早急に実現するように訴えました。帰国者お手製のおいしい中国料理と水餃子をいただきながら交流会が和やかにおこなわれました。日本語教室で学ぶ皆さんで「故郷」、「北国の春」を合唱、頭を使ったクイズゲーム、みんなで楽しむビンゴゲーム、のど自慢など楽しい3時間でした。


2007年、日中友好新春女性のつどい


 長野県日中友好協会女性委員会(村山ひとみ委員長)は、2月5日ホテル信濃路において、恒例の「日中友好新春女性のつどい」を開きました。
 第1部として満州開拓団に加わり中国に残留、1994年に帰国した唐澤寿美さん(81)=下伊那郡高森町=を招き、約70人が体験談に聞き入りました。唐澤さんは「長春の収容所で発疹チフスにかかり収容所を出て、死の寸前中国の婦人に救われ一命を取り留めた」などと敗戦後の逃避行の体験を説明。また望郷の念に駆られながらも身元引き受け人がいないため帰国できなかった頃の辛さを語り、「このような悲惨な体験を繰り返さないためにも戦争は二度と起こしてはいけない」と訴えました。参加者は、平和と友好の大切さを心に刻むことができたと唐澤さんに心からの感謝の拍手を送りました。
 第2部の新春交流会では、芸達者な女性委員会の皆さんから踊りや歌が次々と披露され、またビンゴゲーム・ヤンコー踊りなど楽しい交流がおこなわれ一年の友好のエネルギーを大いに感じさせる楽しい会となりました。

中国帰国者招き旧正月「春節」祝う、長野で150人交流深める
  2007

 長野市日中友好協会女性委員会(西沢好江委員長)は2月4日、長野市の更北公民館で、中国の旧正月「春節」を祝う「新春もちつき大会」を開きました。中国帰国者やその家族、友好協会会員ら150人余が参加し賑やかにおこなわれました。
 帰国者の皆さんに日本の正月と中国の「春節」を楽しんでもらおうと始めて、今年は21回目。開宴前にはロビーで2つの臼で餅つきがおこなわれ、子供たちや青年たちは大張り切り。各テーブルの上には女性委員会メンバーが腕を振るった水餃子とお餅・おでんなどが所狭しと並び日中両方のやり方で春節を祝いました。
 長野市古里の子供たちが太鼓や獅子舞を披露すると、その迫力に大きな拍手がおこりました。また帰国者も和太鼓を一緒に演奏するなど交流もできました。女性同好グループのハワイヤンにも歓声が上がりました。BINGOゲームでは、多くの皆さんから寄せやれた景品が次々と配られました。最後に、中国のヤンコー踊りを踊って会場全体が「春節」ムード一色となりました。
 「餅つきや太鼓、獅子舞など大変楽しかった、と喜んでいただき苦労の甲斐がありました」とは女性委員長の感想でした。


満蒙開拓平和記念館を長野県飯田に

 飯田日中友好協会では昨年の第44回定期総会において、長年の懸案であった「満蒙開拓平和記念館」を飯田に設置することを決定し取り組みをスタートさせました。長野県日中友好協会のバックアップも得て、12月22日村井仁県知事に建設協力要望書を提出しました。また、本年1月25日の社団法人日中友好協会全国本部第14回通常総会では新年度の事業方針に組み入れていただきました。関係者一同精力的に実現に向けて活動を展開しています。

ここで飯田日中友好協会が作成した計画の概略をご紹介します。 

下の図は、旧開拓地の集落をイメージした記念館構想参考図です。
         
◆ いまだ全国何処にもない、「まんもう」の歴史資料を集め展示と学習をする「満蒙開拓平和記念館」。この「まんもう」の歴史を風化させることなく次世代に語り継いでいくことを願い、全国一の開拓団を送り出した飯田・下伊那の地方の小さな友好協会である「飯田日中友好協会」が、平和と共生のシンボルとして、「日本中に・アジアに・そして世界に向けて、平和を発信する拠点施設として活用する「満蒙開拓平和記念館」を建設しよう!、と立ち上がりました。
 この設置運動に全国のみなさんのご理解・ご声援・ご協力を心よりお願いいたします。

(参考) 飯田下伊那地方はかつて全国一の満蒙開拓団を送出しました。郡下の最も多い町村では全人口の20%もの(郡平均でも実に8%)満州移民が送出されていきました。全国平均では、人口比0.4%であるのに対して実に20倍もの送出率です。
 戦後60年の歳月が流れるなか、この地域では満蒙開拓体験者から聞き取り、語り継いでいく活動が地道に行われておりますが、一方で体験者も、歴史保存に努力されている関係者も高齢化しており、このままでは風化されてしまいます。
 この地方にとってひとつの「社会運動」でもあったといわれる「満蒙開拓移民」にかかわる資料保存とその開示は、今や焦眉の急を要する重要な問題であります。
「自らの歴史と取り組まない人は、自分がどこにいるかを理解できません。過去を否定する人は、過去を繰り返す危険を犯しているのです」(ワインゼッカー元ドイツ大統領)。かつての満蒙開拓移民の歴史にとっても、また飯田下伊那地方にとっても、満蒙開拓移民は過ぎ去った歴史的事柄として風化させてはならない現在もつづく問題であります。現在全国に満蒙開拓そのものに特化した資料館、記念館はありません。このことから、かつての満蒙開拓に関する研究や教育に関して広く社会で活用されることを目的に、この地域に全国規模の「満蒙開拓平和記念館」設置の運動を起こしていかなくてはならないと考えます
 地域のみなさんと一緒に、広く県・国にも働きかけてその実現に努力します。

 ◎満蒙開拓団送出数 
  (全国で一番多い飯田下伊那地域) 
     全    国   270、000人
     長  野  県    32、992人 (全国の12%)
     飯田・下伊那   8、389人 (長野県の25%)
  (全国ランキング)
    一位  長野県32,992人(全国の12.2%)  
    二位  山形県14,200人(全国の 5,3%)  
    三位  熊本県12,700人(  〃  4.7%)

中国帰国者援護充実に関する請願書を県議会が採択  2006

 長野県議会(萩原清議長)は12月25日、本会議において長野県日中友好協会(井出 正一会長)から提出されていた「中国帰国者援護充実に関する請願書」を全会一致で採択しました。その全文は以下の通りです。

 中国帰国者援護充実に関する請願書>
 長野県は、戦前・戦中、国策に従い旧満州(中国東北地区)に全国最多の開拓団員約3万3千人を送り出し、内半数が敗戦後の混乱の中で犠牲となりました。県内には現在約270人の中国帰国者一世(残留孤児・残留婦人)をはじめ約4300人の帰国者が暮らしております。これは47都道府県の中で3番目に多いものです。帰国者援護施策の充実は、長野県民の等しく関心を寄せている事柄であります。

帰国者一世は高齢化に伴い、少ない年金や言葉・生活習慣の相違、健康不安など多くの困難を抱えております。また、二・三世についても就労が困難など地域社会からの孤立に起因する問題が指摘されています。

神戸地裁は12月1日の帰国者訴訟の判決で、国の責任を認める判決を下し、改めて国の帰国者支援対策強化の必要性を世に示しました。

2003年10月2日県議会では当協会が請願した「中国帰国者援護充実に関する請願書」を採択いただき、それを受けて長野県は2004年4月から帰国者一世への月3万円の支援金支給を実施し、帰国者から感謝されております。しかしこの問題は本来国の責任において実施すべきことであり、高齢化の著しい中、帰国者援護施策の一層の強化が強く望まれるところであります。

本年春には、与党中国残留邦人支援に関するプロジェクトチームによる月額13万円支給などを骨子とした「帰国者老齢給付金」制度の創設構想が報ぜられました。これに対し大きな期待が寄せられていますが、いまだ実現に至っておりません。 
  一方、国は、帰国5年を経過した帰国者支援のため日本語学習支援事業・相談事業・交流事業などをおこなうための拠点として、「帰国者支援・交流センター」を5か所設置しております。県内においては、今まで帰国者自立研修センターが帰国者の精神的よりどころとしての役割を果たしてきましたが、平成19年末をもって閉所の方針と伝えられております。県当局は厚生労働省社会援護局に自立研修センターの役割を引き継いでいくために、県内に「帰国者支援・交流センター」を開設されるよう要望されておられるそうですが、この実現が強く望まれるところであります。
  つきましては次の事項について国に対して働きかけられたく要望いたします。

1.帰国者一世世帯の高齢化に伴う老後保障の充実対策として「帰国者老齢給付金制度」をすみやかに実現していただきたい。

2.高齢化の著しい帰国者一世ならびに二・三世世帯に対して、引き続き地域での支援活動が必要であり、その拠点としての「中国帰国者支援・交流センター」を全国で3番目に多い帰国者が暮らす長野県に是非開設していただきたい。

帰国者援護の充実を知事・議会に要請  2006

 12月12日、井出正一会長をはじめ県協会帰国者留学生委員会役員など12名が村井仁知事に面会し、中国帰国者援護の充実を国に働きかけるよう要望しました。帰国者一世は平均年齢も70歳を超え、高齢化に伴い、少ない年金や言葉・生活習慣の相違、健康不安など多くの困難を抱えています。長野県内では、2003年10月の県議会の請願書採択を受けて04年4月から月額3万円の支援金が支給され帰国者から感謝されていますが、国の責任において帰国者支援対策を強化すべきとの声は強く、12月1日の神戸地裁の判決は改めてその必要性を世に示しました。要望の内容は①与党プロジェクトチームが提言している「帰国者老齢給付金制度」の早期実施、②全国で3番目に多い4300人の帰国者が暮らす長野県に帰国者自立研修センターの後を継いで帰国者支援・交流センターを是非開設されるよう国に要望していただきたいというものです。知事は自らも幼い頃中国で過ごしたことがあることを紹介し、帰国者問題に深い関心を寄せているとのべ前向きに取り組んで行きたいと述べました。

恒例の帰国者年末交流会和やかに開催、援護施策の充実に期待  2006
 12月3日、ホテル・サンパルテ山王において恒例の第16回中国帰国者年末交流会が開催されました。県帰国者自立研修センターの主催で、センターの受講生や修了生ならびに県厚生課や日中友好協会、信濃教育会など関係者62名が出席し、楽しいひと時を過ごしました。西堀正司所長は日ごろの帰国者の労苦にエールを送るとともに、12月1日の神戸地裁の判決にふれ「帰国者一世の皆さんが安心して老後を過ごせる援護施策の充実が必要」と述べ、与党のプロジェクトチームが提言した月13万円の支給の早期実現や、長野県への帰国者支援交流センターの招致実現など4300名の帰国者が地域で安心して暮らしていける制度的充実を訴えました。県厚生課の小林厚課長補佐や井出正一県日中友好協会会長、油科淳太郎信濃教育会事務局次長らが来賓として励ましのあいさつをされました。
 石坂政敏さんと劉愛軍さんが受講生を代表して日本語学習の決意を語りました。帰国者一世の浦野喜久美さんが「私の半生を語る」と題して、中国残留のいきさつや生々しい体験を語りました。懇親会の席上、日本の歌、中国の歌が次々と披露されました。また3組の新婚カップルが紹介され大きな拍手が起こりました。帰国者採用企業連絡会の吉原文典会長より帰国者の家庭に記念品が贈られました。
第17回中国帰国者日本語弁論大会  2006
 長野県中国帰国者自立研修センター主催の第17回帰国者日本語弁論大会が10月15日(日)信濃教育会館講堂において開催されました。弁論大会には、県下各地の代表14名が出場し、1世の部、2・3世の部、学生の部に分かれて弁論を競いました。戦時中の体験や、苦労して日本語を学んだ経験などが発表されると、応援聴講の皆さんから感動の拍手が贈られていました。3歳で来日した宮本敏江さん(18)=長野市=は「普段はけちな両親だと思っていたが、苦労して中国で生きてきた。今は家族をとても尊敬している」と述べました。浦野喜久美さん(84)=駒ヶ根市=は「戦争が無かったら孤児なんてものは無かった」と訴えました。
主な受賞者は次の通りです。
◎県知事賞 中島千鶴(飯田市)◎県日中友好協会長賞 宮本敏江◎信濃教育会長賞 馬場田正美(飯田市)
第37回サロン教室  2006
合併し安曇野市(あずみのし)となった旧明科町には、信州随一を誇る150種5万株を数える花菖蒲園があります。
今回は二世も参加できるように、サロン教室を6月25日の日曜日に計画しました。遊歩道沿いに植えられた色鮮やかなあやめの間を縫って公園を散策しました。
園内で催されていた野点にも参加し、いっとき優雅で風流な時間を過ごしました。
犀川(さいがわ)のせせらぎを聞きながら、例年より遅咲きで満開になったあやめ公園を散策しながら、マイナスイオンをいっぱい浴び帰国者の皆さんも心身ともにリフレッシュした一日になりました。
中国残留邦人支援に思う   2006
     井出正一・長野県日中友好協会会長・(社)日中友好協会副会長・元厚生大臣

 協会の第12回通常総会の翌1月27日早朝、長野に帰るべく私は世田谷公園前のバス停で、寒さに身を震わせながら1番バスを待っていた。するとジョギング中なのだろう、スポーツウェアに身を包んだ年輩の女性から突然声をかけられた。聞けば彼女は、私が村山内閣の厚生大臣だった平成6年11月、第25次訪問調査に来日した中国残留孤児のひとり張桂芝さんで、私が代々木の青少年センターや九段会館で、学生時代かじった中国語で語りかけたことをよく憶えていてくれた。すぐ近くのアパートに住んでいるので、是非寄っていけといわれたが、ちょうどバスが到着したので次回上京の際の再会を約束して別れた。この広い東京で11年ぶりの対面、偶然としか言いようがない。それにしてもよく見つけてくれたものだ。バスの中で私は無性に嬉しかった。
 現在私が会長をしている長野県日中友好協会は、中国帰国者自立研修センターの運営を国・県から委託されている。専従職員が各地区の日中友好協会と連携して活動している。長野県が知事の英断で支給している月額3万円の「愛心使者事業」もこの活動から生じたものである(因みに帰国者の生活保護世帯の割合は全国7割に対して長野県は3割)。だがこのセンターもあと1年余で閉鎖を言い渡されている。ここ数年中国からの帰国者がいなくなっているからだ。全国20箇所あった同施設も、同様の理由ですでに8箇所がなくなっている。
 厳しい財政事情もあって使命を終えたということらしい。しかし、1世の帰国対策は第2段階として、老後のサポート(引きこもり防止の生涯教育的支援の提供、介護や墓地問題の支援等)、また2世の日本語習得や就労の支援、3世の教育現場での差別問題の解決支援等なすべきことは多い。
 2月15日東京地裁は中国残留婦人の訴えを、「国の怠慢」を指摘しながらも棄却した。「祖国とは何なのか」と涙する彼女たち・・・。一方帰国孤児の8割を越す約2100人の国家賠償訴訟も、全国最多の原告を抱える東京地裁の第1次訴訟がこの5月に結審する。
 「満蒙開拓」という国策にやって生じた残留邦人問題の国の責任は重い。日本の戦後はまだ終わっていない。昨夏大阪地裁の敗訴の後、一部の国会議員の中にも放っておけないという動きが出てきている。自立研修センターの存続や、老後の生活安定の方策に対しては、世論の喚起と国会議員への働きかけが急務になってきている。
 張さんは私に何を語りかけてくるのだろうか。             (「日本と中国」06.3/5号)
中国帰国者の皆さん飯山雪祭りを見学、飯山市日中の皆さんと交流(2/12) 2006
 飯山市日中友好協会では2月12日、「いいやま雪まつり」に長野県中国帰国者自立研修センターで研修している帰国者やOBのなど13名の皆さんを招待し、雪まつりの見学と交流会を行ないました。今年はまれに見る豪雪で雪まつりの開催が心配されましたが、実行委員会の熱意で開催されることになりました。午前10時57分飯山駅着のJR飯山線でセンターの皆さんが到着すると、駅前で清水飯山日中副会長の歓迎のあいさつがあり、飯山日中の旗を先頭に市内の雪像を見学しました。途中甘酒をいただいたり、雪像の前で記念撮影をし、お昼は本会場近くの食堂で交流会を行い楽しい半日を過ごしました。
06年、日中友好新春女性のつどい    2006
    帰国者の体験談を聞く
(2/11)
 長野県日中友好協会女性委員会(清水えい子委員長)は、2月11日ホテル信濃路において、恒例の「日中友好新春女性のつどい」を開きました。第1部として満州開拓団に加わり中国に残留、1999年に帰国した相沢千代子さん=下伊那郡阿智村=を招き、約70人が体験を聞きました。相沢さんは「水たまりの泥水を飲んで生き延びた」などと敗戦後の逃避行の体験を説明。衰弱した子どもを母親たちが川に投げ捨てる悲劇を目撃したといい、「戦争は二度と起こしてはいけない」と涙ながらに訴えました。
 続いて各地から参加した中国からの8名の花嫁さんが紹介されました。三線の友情出演、ビンゴゲーム・ヤンコー踊りなど楽しい有意義な交流がおこなわれ盛り上がりました。 
 
「春節」祝い、日中友好新春もちつき大会  2006

 長野市日中友好協会女性委員会は2月5日、長野市更北公民館で春節を祝う日中友好新春もちつき大会を開きました。中国帰国者やその家族、企業の中国人研修生など約100人が参加しました。
 帰国者らは初めにもちつきを体験。用意されたギョーザやおでんを味わいながら、ハワイアンダンスや三線(さんしん)の演奏を楽しみ、最後に全員で輪になって、中国のヤンコー踊りで賑やかに締めくくりました。来日して19年になる帰国2世の寺嶋伸一さん(59)は「毎年本当に楽しい」と笑顔で語りました。
 持ちつき大会は、女性委員会ができた20年前から続いています。西沢よしえ委員長は「帰国者との交流のいい機会になっている」と話していました。
臼田日中・「春節をともに祝う会」開催  2006

  中国のお正月「春節」をお祝いして、臼田日中友好協会(井出正一会長)は、2月5日、佐久市臼田の総合福祉センターあいとぴあにおいて、恒例の「春節をともに祝う会」を開きました。
 臼田日中友好協会の役員・会員、日本語教室の関係者、佐久在住の帰国者や中国からの花嫁さんら120名が参加しました。帰国者お手製のおいしい中国料理と水餃子をいただきながら交流会。日本語教室の先生と生徒さんが準備に運営に大活躍。二胡の合奏、こんなに違う中国語と日本語クイズ、合唱、ビンゴゲーム、のど自慢、ヤンコー踊りなどなど楽しい3時間でした。
近況を報告・交流
恒例の帰国者年末交流会  2005

  第15回帰国者年末交流会が県中国帰国者自立研修センタ-主催で12月4日開かれました。現在北信をはじめ東信や松本在住の一世がセンタ-に通い熱心に学習していますが、この研修生を含め帰国者とその家族、支援者など約80名が参加しました。
 帰国者全員が舞台に立ち日本語で近況報告をしました。井澤紀代子さんが自己紹介を終えた後、同じ開拓団にいたという県開拓自興会の永原今朝男事務局長が、60年前の井澤さん家族との旧満州での逃避行の様子を語ってくれました。また坂井昌子は、自分は中国で生まれましたが、孫二人は日本で生まれとても嬉しいと話しました。
 西条先生のハーモニカの演奏に合わせて「ふるさと」「北国の春」やセンタ-の歌「明日に向かって」を全員で斉唱し交流を楽しみました。

 
第16回中国帰国者日本語弁論大会
18名の帰国者が熱き思いを語る    2005

 県中国帰国者自立研修センターは10月2日、第16回中国帰国者日本語弁論大会を長野市の信濃教育会館で開きました。1世の部、2・3世の部、学生の部に6人ずつに別れ、計18人が出場し、敗戦後の悲惨な逃避行の様子や平和を強く願っていること、言葉の面で苦労した体験や、支えになった人への感謝の気持ちを発表しました。

 10歳から日本で暮らす3世の林雪さん(16)=佐久穂町=は高校演劇班でせりふのイントネーションの違いに苦労しながらも、初舞台では「わくわくした」ことなどを発表。2世で3年前に帰国した熊谷美貴さん(20)=泰阜村=は「はじめは日本語がわからず後悔したが、勤めはじめてからはだんだんと言葉を話せるようになり、日本で生きていく自信が持てるようになった」と話しました。

 入賞者は、次の通り。
 ◎県知事賞 林萌(学生①)◎県日中友好協会長賞 唐沢寿美(1世①)◎信濃教育会長賞 熊谷美貴(2・3世①)◎県開拓自興会長賞 丹羽千文(1世②)◎県中国帰国者採用企業連絡会長賞 坂井太郎(2・3世②)◎県中国帰国者自立研修センター所長賞 林雪(学生②)◎各部門3位 山崎教子(1世)・張麗波(2・3世)・小島由佳(学生)◎奨励賞 宮嵜静子


*各部門1位の皆さんの弁論内容を紹介します。

(長野県知事賞=学生の部1位)

  前向きに生きること (林 萌)

  私は、中国残留孤児三世です。私の祖母は六十年前に中国で生れ、平成八年日本へ帰国できました。その三年後、私が十歳のときのことでした。日本のことは何も知らない、日本語も話せないまま、私の両親は私と姉、兄をつれて日本へやって来ました。
 その時の私は、なぜ日本へ行くのか、日本へ行ったらなにができるのか、どんな生活が待っているのか、全く考えられませんでした。ただ、親に付いてきました。
   日本に来た頃の私は何も知らなかったんです。だから、自分の将来のこと、学校のこと、生活のこと、全て人に任せることが多かったです。
 日本の生活が少し分かるようになって、いつまでも人に任せるのではいけないと思い始めました。どんな小さなことでもよいから自分からやってみようと決心しました。中でも言葉が人と人をつなぐ大切なことだと気付き、先ず、日本語の勉強をしようと思いました。  祖母は、中国でも学校教育を受けたことがありません。それでも、祖母は日本に帰国後、自分が努力をして覚えた五十音図と簡単なあいさつ言葉を教えてくれました。
  私は一つ一つの言葉をゆっくり覚えてきました。少しずつ日本語であいさつが言えるようになり、気持ちが楽になりました。
 一カ月ぐらい経ちました。小学校四年生に編入することができました。それでも言葉の問題が大きかったです。まだまだ日本語が分からなくって、先生やクラスメ-トにも伝えたいことが伝わらないし、やりたいことも進まないし、クラスの人が何言っているのかも良く分からない、毎日の学校生活はとても苦しかったです。
  家に帰っても祖父母を含め家族の中では日本語を話せる人はいません。両親は仕事と日本でのこれからの生活のことで精一杯でした。私のことを考えることができませんでした。私は孤独感と自分の無力さを感じ、泣きたいときもありました。
  しかし、「悩んでいても、泣いていても、なにも変わらない。前には進まない。私が、自分の今の状況を変えていくしかない。前向きにやるしかない」と思いました。
  そこで、考えたことは、友達と交流するときは、漢字や絵などを書いて、言いたい事を伝えるようにしました。時間がかかりましたが、友達が分かってくれるまで一生懸命絵を描いて伝えました。本気になって、私の言うことを聞いてくれた友達が何人もいて、とても嬉しかったです。そのおかげで、私は日本語をだんだん分かるようになり、自分の気持ちを伝えられるようになりました。友達も増えました。
  二年が過ぎて中学生になりました。勉強も難しくなり、授業に追いつけませんでした。テストもだんだん点数が下がりました。勉強が大変で、息抜きの時間もないと不満を感じることが多くなってきました。自分が無力なことにもどかしさを感じていました。
  しかし、一つ一つのことを日本の人達と一緒にやっていくことが大事だと思い、私は、毎日卓球部のお友達といろんな大会に勝つため仲良く部活動を休まずに頑張っています。  それから高校受験に合格するために、夜遅くまで勉強もしています。
  今の私は、日本のことは分からないことがまだまだいっぱいあります。だから、日本の大学や高校で日本の文化をしっかり学びたいです。
  それから、忘れかけた中国語も、もう一度やり直したいと思います。そうして、将来は日本語と中国語を自由に使えるようになって言葉で困っている人たちの役にたちたいと思います。
  高校受験まであと数カ月しかありません。一日一日無駄のないように努力していきたいと思います。前向きに考えてやっていけば、どんな困難があっても乗り越えられると信じて、自分の夢に向かって頑張っていきたいと思います。


(長野県日中友好協会長賞=一世の部1位)

    聞いて下さい、満蒙開拓団の叫びを (唐沢寿美)

 皆さん今日は。下伊那郡高森町に住んでいます唐沢寿美と申します。どうぞ宜しくお願い致します。私は十年前に帰国し、年齢はこの六月で満八十才になりました。
  昭和二十年七月九日、開拓団本部から「一ケ月の食料と衣類等を準備し、直ちに避難せよ」という命令が出ました。団には、若い男性は兵役で、残っているのは老人と子供だけで、やっとのことで準備をして避難が始まりました。直後から空からはB29の攻撃、前後には匪賊の待ち伏せ、中でも匪賊の襲撃は酷く、金目の物から着ている物まで奪われ、中には銃で打ち殺されてしまう人さえいました。食料も無くなり子供達は衰弱するばかり、ついには母親が、我子の中で一番元気と思われる子だけを背負い、他の子供を荒野に置き去りにして進むのです。夜になると荒野のあちこちから、力のない声で母親を呼び求める泣き声がきこえてきました。この子達の中には、運良く中国人に拾われ育てられた子供もいましたが、殆どの子供は狼の餌食か飢え死にでした。
 幾日か過ぎ無人の集落に着きました。一軒の家に入った時です。婦人が横たわる傍らに四才位の男の子が座り、前には僅かばかりの食べ物が置かれていました。婦人を見ると口と鼻から、ウジが出入りしていました。「僕、お母さんどうしたの」と聞くと、「お母ちゃんねんね」と言って、母親の手を握ったのです。母親の死が分らず、起き上るのをじっと待っていたのです。母親は我が子の生き延びることを願って自分は食べずに、残り少ない食べ物を子供に添えてから、息を引き取ったのでした。罪もない子供達が何でこんな目にあうのか、お国の為にと言われて来た満蒙開拓団の悲惨な姿を目の前にして、皆涙が涸れるまで泣きました。結局は、その子を助けることができませんでした。私達は、その日一日を生きることに必死だったからです。今になっても、あの母子の光景が目に浮ぶ度に、心の優しい人に拾われたらよいがと、心の中で祈るばかりです。
  ある大きな村に着いた時でした。村の入口の看板に、日本が負けたという内容が書いてありました。この時点での私の家族はと言いますと、父はソ連の捕虜収容所で死亡、兄の子供四人は全滅、残るは私と姉嫂、そして弟三人となっていました。幾つかの収容所を点々とした後、十一月に奉天の収容所に入れられ、そこで冬を越すことになりました。酷寒の地での収容所生活で、多くの難民が伝染病に罹り亡くなりました。とうとう私も病に倒れ、連日四十度の高熱に苦しみ飢にも耐えられず、外に出て雪を食べている時、親切な中国のお祖母さんに助けられました。死ぬ一歩手前の私を、貧しい中どこからかお米を取りよせ、お粥を作ってくれる等、三カ月間我が子のように介護して頂いたお陰で、病気が治り元気になりました。その後迷いましたが、命の恩人への恩返しと考え、お祖母さんの息子と結婚しました。以後二人の子供に恵まれ、貧しいながらも幸せに過ごして参りました。  戦後六十年、平和になったと言われていますが、六十年前の悲惨な出来事について、私たちは訴え続けていく義務が有ると考えています。そのことが真の平和日本の建設に生かされるのではないかと考えるからです。その為にも残された人生を、精一杯生きたいと考えています。

(信濃教育会長賞=二世・三世の部1位)

   三年間を振り返って (熊谷美貴)

  皆さんこんにちは。私は、下伊那郡泰阜村の熊谷美貴です。どうぞ宜しくお願いします。私は、平成十四年に、中国黒竜江省から、父母と兄の四人家族で、日本に来ました。私のおばあさんは、日本人です。残念ながらおばあさんは、一九六九年に、中国で三人の子供を残して病死しました。そしておじいさんも一九九三年に亡くなりました。おばあさんがまだ元気だった頃父に、お前達を連れて、一度日本へ行って見たいなあと、言っていたそうです。父はその言葉をずっと、胸の奥にしまってあったそうです。おばあさんは、時々自分が小さい頃、中国へ家族と一緒に行った時の事と、終戦後家族がバラバラになり、自分一人になってしまった時の事を、涙を流しながら聞かせてくれたようです。数年後父は結婚しましたが、どうしても母親が残した遺言を忘れる事ができず、日本にいるおじさんにお願いして、身元保証人になって頂き、日本へ来ることができました。私は、中国にいた時は中学生でしたので日本に来て、すぐ学校へ編入学してくれるのかと、思っていましたが言葉が分からない事もあり、学校へ行けませんでした。私は、どうしても学校へ行きたくて、毎日悲しくて泣いてばかりいました。「日本はもういや中国へ帰りたい」と言って親を困らせたことが何度もありました。それから少し経つと、父母と兄は仕事にいくようになりました。昼間は、私一人でいる時が多くなって、とうとう学校へ行けない悲しさで、日本での、生活する希望を失ってしまいました。と、その時、泰阜村に日本語教室が、ある事を知りました。でもこの教室は、一週間に一回、二時間しか勉強ができないので、困っていました。そんな時家の近くに電機会社がある事を聞き、早速、保証人の案内で面接に行きました。ところが、その会社側が、まだ、学生なので無理ですと断られました。これを聞いた私は、本当に大きな衝撃を受け、頭が真っ白な状態になりました。それでも、私は何としても働きたいと、保証人にお願いしましたら、その社長さんの好意で勤める事になりました。それからは少しでも日本語を覚えようと、日曜日は、日本語の勉強、普通の日は仕事をして一生懸命頑張りました。そのうちに自分の気持が少しずつ変ってきて、親を困らせないようになってきて、楽しく毎日を過ごせるようになりました。教室の先生が教科書の本だけではなく、近所の人との会話や日本の生活習慣も大事な事だと教えて下さいました。それから私は、会社へ行って大きな声で「おはようございます」と、挨拶をしますと社員達からも「おはようございます」と、返事がきました。その時の喜びは、私にとって、一生忘れる事ができません。こうして、毎日繰り返して挨拶しているうちに、会話も徐々にできるようになりました。私は十八才になり、自動車の免許証を取得する為、自動車学校へ通いました。一生懸命勉強した成果がでまして、自動車免許の試験に一発で合格しました。今後は悲しい事や困った事を克服して、少しでも、日本の社会に貢献したいと思います。今日、長野県日本語弁論大会に参加させて頂いた事は、私にとって、本当に良い励みになりました。皆さん、ご清聴ありがとうございました。

帰国17年、念願の「餃子屋」開店  2005

 中国黒龍江省方正県出身で北安曇郡松川村東細野に住む馬渕喜則さん(43)が7月23日、自宅に中華料理店「喜美餃子屋(よしよしぎょうざや)」を開店。中国残留孤児だった義理の母とともに来日して17年目。「いつか自分の店を持ちたい」という来日以来の夢を実現した。
 喜則さんの妻美江さん(41)の母親、美智子さん(故人)は戦前、旧満州に家族で渡り、敗戦の混乱で残留孤児となった。美智子さんは1988年に喜則さん、美江さん夫妻とともに帰国。来日後は名古屋の定着センターで4ヶ月日本語を学び、残留孤児で先に帰国していた美智子さんの弟の保男さん(69)の暮らす松川村に住んだ
 喜則さんは方正県で、衣料品や農薬、肥料の販売店を経営していたが、松川では
近くの生鮮食料店で働きながら、独学で日本語を学んだ。今年3月に勤務先が閉店したため、自分の店を開業することを決意。子供のころから家の料理を手伝っており、6月には方正県を訪れ、地元の餃子店で調理方法を研究した。
 メニューは餃子や肉まん、ラーメンなど「中国の家庭で作る味をそろえた」という。価格は500円から700円。
店の名前は喜則さんと美江さんの名前から名づけた。喜則さんは「店の名前のようにお客さんに喜んでもらえるようにしていきたい」と張り切っている。

スペシャルオリンピックス冬季世界大会-長野
中国選手団も参加
帰国者もボランティアで大活躍   2005

 スペシャルオリンピックス冬季世界大会-長野が2月26日から3月5日まで8日間長野・白馬・野沢温泉・山の内・牟礼において開催されました。84カ国・地域から約2600名(選手1800名、コーチ800名)が参加。中国からも92名、香港42名、マカオ8名などが参加しました。中国選手団は、スピードスケート(Mウェーブ)、フィギュアスケート(ビッグハット)、フロアホッケー(ホワイトリング)=以上長野市やクロスカントリー(白馬)、スノーシューイング(野沢)に出場し活躍しました。
 大会期間中、帰国者の皆さんが通訳などボランティアとして活躍しました。
 写真はフロアホッケー競技に出場し全力でプレーする中国選手たち、金メダルを獲得し喜ぶ中国選手とボランティアに参加した中国帰国者の若手メンバーです。


飯伊で中国帰国者歓迎新年会  2005
 喬木老人福祉センターで2月19日、飯伊中国帰国者歓迎新年会が開催されました。飯田日中友好協会、喬木村などが共催する恒例行事で帰国者の皆さんが「1日も早く日本の社会にとけこむように」と毎年この時期に開いています。当日は、中国帰国者や関係者ら60人が参加し、餃子を作ったり芸能を発表したりして交流を深めました。
 午前9時には帰国者、友好協会員、喬木村婦人会が会場の調理室に集合。餃子や豚汁、五目飯などを作りながら、日本語と中国語で会話をかわし、和気あいあいと笑い声が絶えませんでした。
 正午から始まった新年会で大平利次喬木村長は「日中双方にとっても相手なくしては考えられない。両国はアジア、世界の平和と安定に寄与しなくてはならない責任がある」とあいさつし、「皆さんは帰国してからの年月の差こそあれ、一層のご努力、地域に溶け込んだ中でのご活躍を期待します」と帰国者を励ましました。
 河原会長は「自信を持ってより主体的に活躍されていくことが楽しい人生につながるものと信じております」と激励の言葉を贈りました。
 この後、3年前に帰国した喬木中学乞う年生の北沢玲娜(れいな)さん(15)が「今日は私たち中国帰国者のために、このようなすばらしい会を開いていただきありがとうございます。昨年は、長野県帰国者日本語弁論大会で学生の部第1位・信濃教育会長賞をいただくことができました。これも皆様のおかげだと感謝しています」と返礼しました。
 参加者全員で「新年の歌」歌った後、懇親交流を深めました。
 飯山市日中、飯山雪祭り中国帰国者交流会  2005
 飯山市の雪祭りにあわせて、飯山市日中では毎年中国帰国者を招待して交流会を開いています。2月13日は、帰国者40名が招待されました。天候にも恵まれ、市内の見事な雪像に感心しながら参観した後、公民館で交流昼食会が和やかにもたれました。

 
 第22回サロン講座
 臼田町の「春節をともに祝う会」に参加  2005

 中国の旧正月「春節」にちなんで、「春節をともに祝う会」が2月13日、臼田町総合福祉センタ-「あいとぴあ」で開かれました。
 臼田町日中友好協会が運営する日本語教室に通う中国帰国者や中国からの花嫁さんとその家族や教室を支える友好協会のスタッフや来賓など約120名が参加しました。
 昨年11月に行われた中国帰国者自立研修センタ-主催の年末交流会に参加した何人かの帰国者とも再会し近況を報告しあいました。
 テ-ブルに並んだ料理はすべて中国帰国者皆さん達が前日から準備したもので、馴染みの水ギョ-ザをはじめ普段あまり目にすることのない珍しい料理も振る舞われました。また教室の生徒が、授業が始まる前にいつも歌っているという「野に咲く花のように」や「北国の春」の合唱には盛んな拍手が送られました。また、手品の友情出演やビンゴゲームなどもあり楽しいひとときを過ごしました。
  帰国者招いて新春餅つき大会  2005
                                  <長野市日中友好協会女性委員会>

 中国帰国者を激励しようと長野市日中友好協会女性委員会は中国帰国者や研修生・中国からの花嫁さんら70名を招待して、1月23日「長野市日中友好新春餅つき大会」を更北公民館で開きました。臼ときねでもちをつき、きな粉やあんこをまぶして振る舞い、更にテーブルの上にはおでんや水餃子が並べられました。交流会の中では手品やダンスも披露され盛んに拍手を浴びていました。最後に全員で中国のヤンコー踊りを踊りました。




 喬木教室でもサロン講座
  50名が参加して、マレットゴルフと温泉で交流  2004

 喬木教室のサロン講座12月例会は、12月16日(木)午前10時30分から、下伊那郡の信州松川温泉、清流苑マレットゴルフ場に、42名の帰国者と、ボランティアの飯田日中友好協会員ら、合わせて50名が参加して盛大に行われました。
 本年最後のサロン講座ということで、帰国者の中には長野県最南端の泰阜村や、県西部の阿智村からも、バスや電車を乗りついで、伊那大島駅に到着、清流苑の特別の計らいで、バスの送迎をして頂き、紅葉の残る初冬のゴルフ場で、楽しそうに競技に熱中していました。
 日頃は家の中にとじこもっていて、人前に余り出たがらなかったお年寄りや、病気がちで家にこもっていた人達も、この日の小春日和の快晴に恵まれて、大声で中国語の会話もはずみ、初めてボ-ルにさわった人、ホ-ルインワンを達成して喜ぶ人など、帰国してからの積もる話に花を咲かせました。
 また、飯田日中友好協会からは、帰国者一世の方々の交流に使ってほしいと、マレットゴルフの道具12セットが寄贈され、毎月のサロン講座に役立てられて来ました。そして、この日も参加者全員に温泉入浴券がプレゼントされ、昼食を共にしながら親睦会、サロン講座の反省会や、参加者による手品の披露などが行われ、午後3時、来年度の講座を期待しながら、会を終わりました。
 恒例の帰国者年末交流会   2004
      近況報告・音楽・手品など楽しいひとときを過ごす

 県中国帰国者自立研修センタ-は11月28日、市内のホテルで恒例の年末交流会を開きました。センタ-修了生などの帰国者や支援者ら約90人が参加し、円卓を囲んで料理や音楽を楽しみ交流を深めました。今年は臼田町日中友好協会の協力により、佐久地域在住の帰国者も参加しました。
 センタ-の修了生を代表し、93年に中国天津から帰国した、長野市在住の山崎教子さん(69)が、「七歳で両親を亡くした後、合わせて五軒の家を転々とし苦しみの涙で生きてきた。今は生活保護と年金に加え、長野県がこの春から始めた中国帰国者への支援金で安心して暮らせるようになった。政府には感謝をしている」とあいさつしました。また上田市から参加した赤尾静男さんは、困難だと思うことでも努力すれば道は開けますと語っていました。
 席上、友情出演として中国の弦楽器二胡の演奏や、男声歌手によるミニコンサ-トが行われました。またピエロの格好をし、風船を使って動物などの形にしていくショ-では、スピ-ド感と手先の起用さに会場の視線が注がれました。帰国者は近況報告をしあいながら交流を深め楽しいひとときを過ごしました。

 中国帰国者のための介護学習会、介護施設見学会を開催  2004
                           <飯田日中友好協会・飯伊中国帰国者連絡会>
                          
 戦前、満蒙開拓団としてお父さんやお母さんに連れられ、中国(旧満州)に渡り、敗戦の混乱の中で帰国が叶わず、残留孤児・婦人となった、いわゆる中国帰国者の方々の平均年齢も70歳になろうとしています。言葉の問題を抱え、介護の必要な方も現れて来ております。 
 そんな中、11月14日(日)に健和会病院会議室にて、介護保険制度を中心に介護制度の学習会を行い、続いて市内の介護施設、ディサービス施設等の見学を行いました。 見学先の介護施設の中には、帰国者の子供さんが介護士として活躍をされているところもあって、当日は中国語と日本語が飛び交う実のある学習会・見学会となりました。
 第19回帰国者サロン講座   2004
   小学生にギョーザ作りを指導、交流深める

 県中国帰国者自立研修センタ-は11月11日、北信地方在住の帰国者14名が信州大学付属長野小学校4年3組の児童に水ギョ-ザ作りを教えるサロン講座を開きました。
このクラスとの交流は今回で3回目になり、前回までは帰国者が児童から絵手紙を教えてもらい、そのお礼に水ギョ-ザ作りを教えることになりました。児童たちは小さな手で一生懸命皮をのばし、具を包む作業に挑戦しました。
給食の時間にはギョ-ザを一緒に食べながら中国語で自己紹介をするなどし交流を深めました。ほとんどの児童が家では焼きギョ-ザしか食べたことがなく水ギョ-ザは初めての味でした。  交流会ではPTAのお母さんも応援に来て、準備や後片付けを手伝っていただきました。また参加した帰国者全員に絵手紙とクラスのお母さんが手作りした心のこもったアクセサリ-をプレゼントしていただき大変感激し去りがたい思いで学校を後にしました。

第15回中国帰国者日本語弁論大会   2004
   ふるさと帰還の思い中国帰国者弁論大会

 第15回中国帰国者日本語弁論大会が9月26日(日)、信濃教育会館にて開催されました。10-70代の15名が、参加。念願だったふるさとへの帰還を果たした思いや社会、学校での日本語習得の苦労、将来の夢などを語りました。
 帰国一世、二・三世、学生の三部門。一世の部で一位となり、県知事賞を受けた飯田市の松下庄松さん(71)は「失われた50年の思い出」と題し話しました。10歳の時に両親とともに中国に渡り、敗戦時の混乱の中で中国人に引き取られた。1992年、飯田市に永住帰国。「今は大勢の孫に囲まれ幸せ。日本がいつまでも戦争のない国であってほしい」とよく通る声で訴えました。
このほか政府の帰国者対策の遅れを指摘したり、地球環境問題を取り上げる参加者もいました。二・三世の部では宮澤明梅さん(下伊那郡喬木村)、学生の部は北沢玲娜さん(同)が一位となりました。


   知事賞(一世の部1位)
 
 失われた五十年の思い出
                            松下 庄松

 私は飯田市の松下庄松です。よろしくお願い致します。
 私は十才の時両親に連れられて中国へ渡りました。当時家族六人でしたが、半年もたたぬ内に、弟や妹が次々と病気で亡くなり、その内に父親も無理がたたって病気になり、とうとうその翌年亡くなってしまいました。
たった二人だけ残された母と私は、父の分まで働くため、学校へも行かずに必死で開拓の仕事を続けました。生活も何とか楽になってきた昭和二十年、私が十二才の時です。
 突然ソ連軍が攻めてきて、日本は敗戦となりました。ソ連兵を恐れて山の中を逃げ回っていた私達は、食べ物もなく寒さに追われ、濃河鎮の収容所に集まってきました。そこでは一緒にいた日本人の仲間が次々に亡くなり、お互いに助け合ってきた人達が、見る見る内に家族がバラバラになって別れていきます。 毎日死んでいく人を見るのはどれほどつらい事か、私にとって、一生忘れられない悲しい思い出です。そんな時でした。収容所にいた私達を一人の中国人が迎えに来てくれました。命を助けられた私と母は、その後ずっとお世話になり、成人するまでそこで働くことができました。
 一九七九年、四十七才の時です。妻が癌で入院し、私は一時帰国の旅費まで使って看病しましたが、遂に二人の息子と娘を残して亡くなりました。私は政府へ行って「帰国旅費は全部使ってしまいました。もう日本へは帰りません」というと「日本政府からお金がでるから」と言われ、お陰様で長男と二人一時帰国しました。
 その時五才だった娘が「お父さん行ってはいや、私を捨てないで」とはげしく泣いて取りすがった時には、死んでいった妹達を思い出してつらい別れでした。
 私は急いで娘の所へ帰り、それから十年以上子ども達のために働いて、やっと祖国日本へ帰れたのは、平成四年九月、六十才の時でした。
 娘と二人の息子の家族八人、毎日夢に見たわが故郷飯田へ帰った時は、今までの苦労もいっぺんに忘れ、嬉し涙が止まりませんでした。あれからもう十二年の年月がたちます。 お陰様で私達家族は、理解ある会社の社長さんや、まわりの方々のご親切で、子ども達もそれぞれ自宅を建て、私も娘家族と一緒に暮らしています。そして今、大ぜいの孫たちに囲まれて幸せです。
 今年四月からは、長野県の知事さんのお計らいで、毎月お金をいただけるようになり、ほんとうに喜んでいます。日本がいつまでも戦争のない平和な国で、子どもや孫達が幸せに暮らしていけるように願って、残り少ない人生を一生懸命生きていきたいと思っています。


  弔 辞-田中永和さんの死を悼む   2004

 長野県中国帰国者自立研修センターの第3期修了生であった田中永和さんの葬儀・告別式に当たり、氏のご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈りし、追悼の言葉を捧げます。
 田中さんは日中戦争とその後の長い日中間の交流断絶という中で残留孤児として半生を中国の内蒙古で過ごし、1988年47歳にして家族と共に祖国日本に永住帰国されました。その半生は私達の想像を超えるものであったに違いありません。
 帰国後も言葉と習慣の違いという新たな大きな困難が待ちうけていました。所沢のセンターで4ヶ月間の研修の後、長野県更埴市に定着し、県帰国者自立研修センターに通いながら、8ヶ月間日本語を学び、風俗習慣を学びました。50を目前にして一から新しい言葉を学ぶ苦労は並大抵のものではありません。また中国で国営企業の幹部であった田中さんは誇り高い人でありました。それがゆえに、悩みも人知れず大きかったと思います。自分の置かれた理不尽な境遇に対して強く日本政府に対し物申さずにはいられないといった使命感のようなものを感じさせるところがありました。ある時は厚生大臣に、ある時は総理大臣に対して、(更には天皇陛下にまで)数枚の便箋にびっしり丁寧な字体で書き込んだ嘆願書をしたため送りました。私たちはその様子を見て、同情もし、感動もし、しかしその道は険しく当面報われる事のない到達点の見えない道であることを奥さんを交えて何度か話し合ったことが思い出されます。センター修了後は夫妻とも会社に勤務されました。半年後、センターを訪れた田中さんの顔からは、以前見られた険しさが消え、「一生懸命働き、自力更正で頑張ってみずからの前途を切り開く事にしました」とにこにこしながら語ってくれました。本当に嬉しい言葉でありました。
 やさしくしっかり者の奥さんと優秀な子供さんと共に、懸命に働き、自立してこのような立派な家を建て本当に良かったねと肩をたたいて喜んだのに、そして、今年4月から長野県が全国に先駆けて月3万円の給付金支給が決まった時、自分達残留孤児の切ない思いが通じたとあんなに喜んでいたのに、不治の病に侵されていたとはあまりに無情であります。本人もさぞかし無念であったと思います。
 しかし、田中さんの残された足跡は、地域に、帰国者の仲間の胸に、そして何よりも優秀な田中さんの子供さんや奥さんの胸の中に消える事なく銘記されています。あなたの意志と願いはきっと子供達に帰国者に受け継がれていく事でしょう。
 日中両国の平和友好を願ったあなたの意志は受け継がれ、田中家の繁栄を願ったあなたの思いは、きっと実を結ぶ事でしょう。この度のご逝去は田中さんを知るすべての者にとって大きな悲しみであり、また大きな損失であります。生前の田中さんのお姿を思い起こしながらその波乱万丈の人生に今一度思いを致し心からご苦労様でしたと申し上げたいと思います。
 最後に、重ねて氏のご冥福をお祈りするとともに、奥様をはじめご遺族の皆様に対し心からお悔やみ申し上げ追悼の言葉とさせていただきます。
   2004年8月7日   長野県中国帰国者自立研修センター次長 布施正幸   
長野県独自の「中国帰国者愛心使者事業」実施を決定!   2004
   (長野県社会部厚生課より3月25日、決定通知がありました) 

 長野県社会部厚生課より3月25日、県議会での議決を踏まえて、長野県独自の「中国帰国者愛心使者事業」実施の決定通知が県日中友好協会・県帰国者自立研修センター・県開拓自興会あてありました。
 今回の支援金給付は、「中国帰国者愛心使者事業-中国帰国者の皆様への慰藉事業-」として、全国で最も多くの満蒙開拓団を送り出した長野県の責務として、福祉の増進、自立助長をはかることを目的に残留孤児および残留婦人ら帰国者一世を対象に一律月額30,000円を給付するものです。
 この度の決定は帰国者の皆さんから大変喜ばれております。実現のためにご尽力いただきました関係の皆様方に厚く御礼を申し上げます。
◎ 長野県独自の帰国者支援制度、「愛心使者」事業と命名!  2004
  
自立研修センターに帰国者が集まり県担当者と懇談・説明を受けました。

 長野県は今回の支援金給付を、「中国帰国者愛心使者事業-中国帰国者慰謝事業-」とし位置づけています。2月23日には長野の自立研修センターで、26日には喬木のセンターで県担当者との懇談が行われ、事業計画の説明を受けました。それによると、(背景)「中国帰国者は先の大戦の終戦直後の混乱期に不幸にも肉親と死別あるいは生別して中国に残され、戦後の長い間、自己の意思に反して中国に残留を余儀なくされ、しかも幾多の苦難と辛苦を経てようやく帰国した方々」とし、(現状)[昭和47年の日中国交正常化以降に本格的に帰国が始まったため、日本での生活基盤を十分築くことが出来ず、そのほとんどが高齢化し、年金生活者となり、日常的に健康の不安を抱えたり、経済的に困っている方が多くなってきている」との認識のもとに、(対策)「上記の実情は、国策に起因することであるものの、全国で最も多くの満蒙開拓団を送り出した長野県の責務として「中国帰国者愛心使者事業給付金」を給付し福祉の増進、自立助長をはかる」とし(事業内容)「長野県に居住する帰国者本人(一世)270人に一律月額30,000円の「中国帰国者愛心使者事業給付金」を支給する」としています。今後、県議会の議決を経て申請手続きなどの事務処理の後、新年度から支給される予定になっています。
  長野県は、県内在住中国帰国者に
     月3万円の支援金支給方針を決める!   2004

 2月13日、長野県は先の大戦中、旧満州(中国東北部)に全国最多の開拓団員(約3万3千人)を送り出した県として、現在も苦難の中にある中国帰国者に対して、「戦後補償」の意味も込めて、日中国交正常化(1972年)後に帰国した270人の帰国者一世全員に04年度から一律月3万円を支給する方針を決めました。
 
県は 、既に1月8日、来年度予算の概算要求の中で帰国者一世に対して支援金を支給していく方針であることを明らかにしていました。これは10月2日県議会が県日中友好協会から提出された「援護充実に関する請願書」を採択し、12月7日田中知事が喬木村における飯田日中友好協会と飯伊中国帰国者連絡会との懇談の中で中国帰国者に対し県独自に支援策を行うとの約束を具体化するものとして、帰国者から歓迎されました。
 今回の県の決定はこれを更に増額したものです。2月県議会で承認されれば、実行に移されます。帰国者一世の皆さんが老後を幸せに暮らせる一定の支えになればと願っております。
 私達は引き続き、国に対して
国民年金の老齢給付の全額支給の働きかけを強めていきたいと思います。あわせて一世の引きこもり対策の強化、二世に対する日本語教育と就労支援強化等を柱とした援護施策の充実を求めていきたいと思います。(ちなみに二世・三世を含めると県内在住の帰国者は4000名を越えます。)
 今後とも、県民の皆さんの暖かいご支援をお願い致します。  


(社)日中友好協会全国本部
<中国帰国者に対する援護施策充実の取り組み>採択   2004

社)日中友好協会全国本部は1月29日東京で開催された第15回通常総会において採択された、2004年度事業・活動計画12項の中で、<中国帰国者に対する援護施策充実の取り組み>を取り上げています。「帰国者のおかれている現実を踏まえて国民年金の全額給付、一世の引きこもり対策の強化、二世に対する日本語教育と就労支援強化等を柱とした援護施策の充実を求めていく」としています。

(1)戦後すでに58年が経過した現在、中国帰国者一世(いわゆる中国残留孤児・婦人)の高齢化に伴い、国家賠償請求訴訟などの動きも起きるなど帰国者援護の課題は新しい局面を迎えている。
(2)国は「中国帰国者援護法」に基づき残留孤児・婦人の帰国促進と自立定着のための援護施策を実施してきたが、中国残留孤児ら一世はすでに大方定年を迎えつつある現実に対応できていない。国民年金などの受給額はわずかで、困難な状況におかれている。
(3)帰国者のおかれている現実を踏まえて協会は、引き続き日常的な支援交流活動に取り組むとともに、国および地方自治体に対し国民年金の全額給付、一世の引きこもり対策の強化、二世に対する日本語教育と就労支援強化等を柱とした援護施策の充実を求めていく。


中国帰国者支援交流センターのホームページ

中国帰国者定着促進センター(所沢)のホームページ


 
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