☆中国訪問日本青少年交流代表団(外務省主催)に参加して☆
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昨秋に江沢民中国国家主席来日時、小渕首相と共同宣言を交わされた 「青少年交流協力計画」 に基づく初年度の中国訪問日本青少年交流代表団(10月23日〜31日)100名の一員として、 松本日中友好協会より推薦され、 有り難いことに今回この両政府の国家プロジェクトに参加させて頂くことが出来ました。

廬溝橋での青年友好植樹や李鵬首相との会見など、北京での全団行動のあと、3班に別れ、 西安・南京・貴陽の3都市でホームステイを含む地元青少年との肌のふれあう交流をしました。
私は今回で5回目の訪中でしたが、 中国の事をいままで全然理解していなかったと思うくらい新鮮な体験をいろいろとさせて頂き、 大変勉強になりました。

中国の正式名は中華人民共和国ですが、この「人民」という文字をわざわざ国の名称に入れたり、 政府をあえて人民政府」と呼ぶのは非常に意味のある事だと今回考えさせられました。

中国の民衆は、数千年の歴史の中、戦乱に巻き込まれ奴隷にすらなれなかった時代と、 安らかに奴隷でいられた時代の2つしかなかったようです。

義和団事件の際、 松本出身の川島浪速が命がけで守ったという紫禁城(現故宮)は600年前に14年かけて1億の人が働いて出来たものだそうです。 その権力の巨大さは想像を絶します。
19世紀世紀半ば以降、中国は列強の侵略の下に蹂躙され、国内の圧政に苦しんでいましたが、 それでも数億の民は諦めていたのです。

この無気力・無感動・無感覚の民衆の魂を覚醒し、 「諦めの闇から立ち上がれ」と命がけでペンをふるったのが魯迅でした。

やがて弟分だと思っていた日本人の「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」という恐ろしい軍国主義政策に敢然と立ち向かい、 女子供も一丸となって抗日戦争を庶民の団結で押し進めて行ったのでした。

私は、いままで日本は連合軍からの原爆2個とソ連軍の東北進出で負けたのかと思っていましたが、 あくまでそれはトドメに過ぎず、主な敗因は中国民衆の抵抗戦線のためだったようです。

日本の軍隊の7割の勢力が中国人と戦っていたことからもそれは窺えます。
立ち上がり勇敢に戦った民衆は、やがて魯迅の宿願であった「民衆が主人になる時代」を創りあげました。
一口に共産、社会主義といっても他の国の例とはまた違うような気がします。

真の民主主義とは何なのかいろいろと考えさせられます。

1972年の日中共同声明では「戦争賠償の請求権」の放棄が明確に宣言されましたが、 それは「日本の人民も、間違った軍国主義の犠牲者であるから、賠償を求めて、 日本の人民を苦しめたくはない」という終戦から中国の一貫した考えだったようです。

国家のために人民があるのでなく、人民のために国家があるという発想、国家主義よりも人間主義、 が世界平和には不可欠であると思います。

オウム真理教以上の残虐行為を中国で堂々とやっていた日本の「国家主義」が、 ここ数年なにげなく復活してきていると言われています。

戦後50年たった今こそ注意しなければならないでしょう。

そして、「民衆」という存在を国の指導者たちはどう見ているか。
「官は上、民は下」という封建的な考え方がまだまだ日本にはあると思います。
どんなに官僚が腐敗した記事が新聞に出ても「お上には逆らえない」ので黙って税金を納めている。
こんなことは欧米人にはとても考えられないそうです。

せめて経済面は、まだまだ中国より進んでいるつもりでしたが、今回全団が最後に集結し、 4年ぶりに訪れた上海のその摩天楼の聳える巨大な経済都市の興隆ぶりはすでに東京を何倍にも上回って活気に溢れ、 ニューヨークをも凌ぐ勢いを感じました。

日本人は、いま無気力・無関心・無感覚になっていないでしょうか。

私は、この日本の長期に渡る不景気の根本原因は、戦後偏った学歴競争教育、 流行・陳腐化作戦による経済発展に踊らされ、 日本の文化そのものがバブルになって弾けてしまったせいではないかと思います。

文明の国中国に憧れ、おとなしく漢字や仏教を学んだ頃のように、 もう一度この大国に頭を下げて学ぶべきこと、非常に多いということを、今回の訪中で感じました。

そして、貴陽でのホームステイを通じ、中国の人々は普段私達が考えているよりも、 はるかに心が広くおおらかでストレートで、あったかいということをあらためて痛感しました。

そんな中国に国をあげて抱き締めてもらった。
この感動、この恩をどう返せばよいのか、じっくりと考え行動して参りたいと思います。
文:高山浩一 (松本市日中友好協会青年委員長)


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