<新春対談> 中国の対日″新思考″論争が意味するもの
 論争は日中新時代のプロローグ
              出席者   高井潔司   北海道大学大学院教授
                        
劉    傑   早稲田大学社会科学部教授
                          (「日本と中国」2004年1月25日号より)

 中国では一昨年、馬立誠・人民日報評論員と時殷弘・中国人民大学教授が、日中関係に関する新しい発想の論文を発表。専門家の間で「対日″新思考″」として話題になったが、中国では大論争となった。この対日新思考の論争は何を意味するのか、高井潔司・北海道大学大学院教授と、劉傑・早稲田大学社会科学部教授に話し合ってもらった。

@中国に台頭するナショナリズム、両国政府間の″空気″を反映

高井 中国の西安で昨年末、日本人留学生のふざけたパフォーマンスに対し、中国人を侮辱するものだとデモが一部、暴動化しました。また一方では、トヨタ自動車の広告がやはり中国を侮辱しているという反発が起こりました。中国では最近、こういった個別の問題に対して、強く反発する現象が起こっています。これらの現象をどう見ていますか。
 近年は、まったく首脳交流がない状態で日本と中国の政治関係が推移し、両国の距離がどんどん広がっているというのが、ひとつの理由だと私は見ています。この底流には、中国が非常に気にしている歴史認識の問題があるわけですが、それらをどうして解決できないのかといういらだちがあります。
 西安の事件は、非常に複雑です。西安は歴史の古い都市で、日本の文化に影響を与えた都市であると同時に、1936年の西安事変で日中全面戦争のきっかけとなった都市でもあります。いずれにしても、日本との関係が深い都市ですが、しかし中国の沿岸部と内陸部には、まだかなりの格差があります。沿岸部の開放的な大学と違って、内陸部の大学は保守的です。そういうところに、現在の日本と中国の間の″空気″が伝わっていくと、あのような極端な反応になるのではないかと思っています。
高井 私は作年の11月下旬、北京で日本企業の人たちを対象にシンポジウムを開いたのですが、そのなかで西安の学生たちが主張している″日本製品ボイコット″についての話になりました。しかし中国の先生は「それは無意味なことです」と一蹴されました。「現実的には日本製品といっても、それは中国の労働者がつくっているかもしれないし、部品は中国製かもしれない。例えば、その動きを報道している中央電視台からすべての日本製品を取り除いてしまったら、放送さえできなくなります」と。
 しかし、日本企業にとっては、中国の対日感情に火がつけば西安事件のような行動になってしまいそうですから、それにどう対応したらいいかを考えなければなりません。
 ホンダが中国に進出するに当たって、中国の人たちは日本のことや歴史の問題をどう考えているのか調査したいと、私のところにきて、実際に中国各地でアンケート調査をしてきました。企業の進出に当たっては、非常に繊細な国民感情を配慮する必要があるかもしれませんね。
高井 日中間には歴史問題があるというくらいは認識しておかなければなりません。
 その点、トヨタの新聞広告にはいかにも配慮がなかった。中国のシンボルである獅子像がトヨタの車に土下座しているようなスタイルにしたり、中国製のトラックをトヨタのランドクルーザーが引っ張って、いかにも中国のトラックが古くさいといわんばかりのデザインにする。これはいくら何でもまずい。それくらいの歴史認識と配慮は、中国だけではなく必要だと思うのですよ。
 それはそうです。

A過剰な民族主義を批判した馬論文
      多様な意見の出現に大きな意味が


高井 そこで本論の対日″新思考″ですが、これに対して中国の日本研究者からの批判が強かったのには、驚きました。
劉 私は、対日新思考がひとつの新しい考え方として出されたことに、大きな意味があると思います。つまりそれは、政策について多用な意見が出始めていて、従来のようにひとつの意見しかないような状況ではなくなってきていることを表しています。中国にこれほどの変化が起こっているということは、国内政策や外交の柔軟性につながるという意味で、私は評価したいと思います。
 日本研究者からの批判が多いのは、歴史認識のとらえ方が甘いのではないかということです。歴史認識は日本研究の重要なポイントで、それが対日政策の基本を形成しているものです。それを否定されると対日政策を修正しなければならなくなる。時殷弘さんは「外交革命」という言葉を使っていますが、これはまさに革命的な発想かもしれません。
高井 私は、時殷弘さんの論文より、むしろ馬立誠さんの論文を評価しています。この論文は、対日新思考というよりもむしろ、中国国内にある過剰なナショナリズムを批判しています。とくに中国はこれから、大国としての役割を果たさなければなりませんが、新しい外交政策には過剰な民族主義は必要ないという意味で、この主張はすばらしいと思うのです。まさに馬立誠さんが心配しているようなことが西安事件ではないかと思うのです。 
 そのとおり。彼が強調しているのは国内でのナショナリズムの台頭の問題です。中国の日本研究者がその点をなぜ意識しないのかということですが、それはその日本研究を支えているのが、まさにナショナリズムだからです。それを基盤に、日本の右翼的な流れとか侵略戦争を否定する動きに、いつも警鐘を鳴らしている。つまり自分たちの研究を支えてきたものが否定されることになる、と。
高井 私は北京から上海にも足をのばしたのですが、そのとき台湾の住民投票が話題になっており、街で売っている新聞ではもう、台湾との戦争が近いという大きな見出しで、写真も中国の艦船や台湾軍の上陸演習を載せ、煽っていました。
 私が日本研究者に、これをどう思うか聞きますと、これは商業主義のジャーナリズムだから仕方がない、というのですよ。だから、あなたたちが″日本の声″として批判している『サンケイ新聞』や『SAPIO』も商業ジャーナリズムで、同じことですよと。
 それに、対日新思考を批判している人民日報評論員の林治波さんと、中国社会科学院日本研究所教授の金煕徳さんの共著の本『日中「新思考」とは何か』が日本僑報社から出ました。これには驚きました。右翼が日本を支配しているとか、歴史問題にしても日本の謝罪がないなど過大にとりあげ、新思考を批判している。日本は最初に謝罪したから、それを前提に国交が正常化したわけです。
 それではこの30年間の日本と中国の関係が、説明できなくなりますよね。
高井 この30年間には教科書の問題や靖国神社の問題などがあったのですが、しかし一方では経済発展や人的往来などすばらしいものもあった。だから、中国の大国化という新しい問題が生じ、日本と中国ひいては東アジア全体の共同体を、お互いに考えようとしているわけです。この30年の協力の歴史を無視して、歴史問題だけを議論しても、協力も話も前向きに進まない。

B見方の偏りは日本研究者の怠慢、
歴史と現実の総合的な視点が必要

 同感です。中国の日本研究がナショナリズムに支えられている限り、そこから新しい発想は出てこないし、その見方が固まってしまうと、恐ろしい一面もあると思います。後発のアメリカ研究やヨーロッパ研究では、広範囲に新しい視点がどんどん紹介されていますが、日本研究の進化が少し足りないことを意味しているのかもしれませんね。
高井 私が劉さんとお話したいのは、まさにこの点にあります。日本研究者だけを批判するというのもおかしいのですが、これまでの日本研究が持っている問題。つまりこれまでの日本研究は、ひとつの対日工作というか、日本をある方向に導くという形で政治的に研究されているところになかなか対応できない一面があると、私は思っているのです。
 劉さんが『中国人の歴史観』という本を出版された時にそれを元にお話したのですが、その著書のなかで日本研究者の怠慢、ということをズバリ指摘されていました。その問題が、まさにここにきて表れてきたという感じがしましたね。
 中国の日本研究の重要な柱になっているのは、日本と中国の近代史です。アメリカ研究は外国の文献を基本にしていますから見方も非常に複眼的になるのですが、日本研究は中国の文献だけである程度はできます。これが怠慢につながっていると思うのです。
 また、研究者の人的分散、つまり歴史を知らないという状態が、見方が偏ってしまうひとつの理由です。総合的な歴史の視点をもった現代研究や、現代を理解したうえでの歴史研究をやっていかないと、日本に対する認識はいままでのワク組みを脱することはできません。つまり、研究の質をどう引き上げていくかというのが、大きな課題だと思っています。

C到達点に立った従来型の日中関係
お互いが「新思考」探る努力を

高井 日本研究だけではなく、報道も日本の現状を伝えていないのでは。日中間で対立するような問題は報道されていますが、日常的な日本の姿は中国の新聞ではなかなか拾えない。そのへんに、両国とも再考の余地があるのではないですかね。
 インターネットなどでお互いに情報を取ることが可能になりましたが、新聞を見た場合、どうしても限られた情報だけと言えますね。たとえば、西安の事件にしても、日本の学園祭はそういうものだという情報があったなら、あれほど大きな問題にならなかったかも知れませんね。
高井 逆に言うと、日本の留学生たちもあのようなパフォーマンスが中国で通用するがどうかを知らなかった。お互いが現実を理解していないから、こういうことになる。
 もうひとつ、中国の政治や文化は、一種の緊張感のなかにあるような気がします。外国との緊張関係をつくることによって、国内の安定を図るという時代はすでに過ぎ去っています。中国はそういう時代を乗り越えてきたわけですから、国民も政治ももっとリラックスした雰囲気のなかで、新しい発展の道を探るというような余裕が、そろそろ必要だと思いますね。
 上海で吉本興業の新喜劇が大うけだったといいますが、上海の人たちはリラックスして世界の文化に溶け込んでいる。そういう環境づくりが大事になってきます。
高井 それが当然だという馬立誠さんのような人が出てきました。だが一方では、その流れに取り残された人がいます。しかし、この両極端の存在は、次の発展につながる問題という気がします。その中には、伸ばすべき側面と、お互いに気をつけなければならない側面があります。それを整理するのが、日本研究者であり中国研究者であると思うのです。
 いまは次のステップに踏み出すための準備段階にあると思いますね。この30年で発展の限界や停滞が見え始め、従来型の日中関係が到達点に立った。そこで新しいステップにどう踏み出すかを考えた場合、従来型の思考を捨てて新思考を導入することによって初めて、次の発展が可能になります。
 しかし私がちょっと気になるのは、対日新思考に対する日本の対応がなかなか見られないことです。つまり、対中国新思考というものを日本側が構築していくのも、ひとつの課題だと思いますね。
高井 お互いが新思考を開発していくというムードを、つくっていかなければならないと思いますね。

D協会の課題−若者にも分かりやすい両国のあり方を伝えていくこと

高井 この30年間の発展を踏まえて、新たな段階に踏み出そうとする時、これからの協会活動の新思考はどうなるのでしょうね。
 友好協会はこれまで、日中友好に関心のある人たちが中心になって活動されてきたわけですが、その伝統的な活動に携わってこられた人たちも世代交代しています。これからはいかに若いひとたちに関心を持たせるかというのが大きなテーマではないかと思います。
 それには、若い人たちにも分かりやすい日中関係のあり方を伝えていくことが大きな課題だと思います。
 いま若い人たちの中には、お互いに言うことはキチンと主張する、といことが言われているようですが、これは従来の日中関係の反省の立場に立ってのことです。しかし、歴史的な要素を考えた場合、日本と中国の間には言ってはいけないことがあるわけです。そういう問題をうまく処理していかなけれがなりません。
高井 私は、言うことは言う、だけれども聞くこともキチンと聞く、ということが大事だと思います。歴史問題にしても話し合いで解決のつかない問題ではないし、この30年の歴史をもっと大事にしていきたい。この30年間には、お互いに協力して発展してきた歴史があるわけで、中国にODAを供与する時、大平(正芳)首相が言った言葉が、それを象徴しています。
劉 やはり否定できないのは、若い人たちの間に中国離れ、日本離れが起こっていることです。
高井 しかしちょと面白いと以外に簡単に受れ入れてしまう。少しややこしい問題はイヤだと。それが若い人たちの特徴だと思うのだけれど、我々はその間をつなぐ作業をして、お互いがどうあるべきかを考える関係になりたいと思いますね。

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