(資料)小泉単辺主義への危惧
     船橋洋一(朝日新聞 4/25 日本@世界)  

 「行くも地獄、行かぬも地獄だ」
 去年8月、靖国神社を参拝するに当たって、小泉純一郎首相は、そう親しい人に漏らした。行くべきか行くべきでないのか、悩みに悩んだ末、8月15日は避け、13日に行った。自民党総裁選の際大見えを切った参拝の公約を果たすことだけが目的であるかのような行為だった。
 春の例大祭に合わせたこのたびの突然の靖国神社参拝は、再び、あのような地獄の苦しみを味わいたくないための「電撃参拝」(韓国主要紙)だったのか。
 韓国と中国の両国は早速、外交担当局が日本大使を呼んで、それぞれ「遺憾と抗議」「強い不満と断固たる反対」を表明した。中国政府は27日から予定されていた中谷元・防衛庁長官の訪中と5月中旬に予定されてた中国海軍軍艦の日本寄港をいずれも延期すると日本政府に通告した。
 もっとも、両国政府とも問題を拡大させたくはないようだ。小泉首相が少なくとも8月15日の首相参拝を避けようとした配慮はそれなりに認めている。なによりもこの問題を外交問題化するとそれぞれワールドカップの日韓共催と日中国交正常化30周年行事を台無しにしてしまいかねない、それは避けたい。

 しかし、日本の植民地化と侵略の被害を受けた国民からすれば、問題は春・秋か夏かの時期ではない。靖国参拝がここに合祀されているA級戦犯に対する参拝を包摂することともかかわる日本の為政者の歴史認識のあり方である。その問題の本質に取り組まず、形式だけの新機軸−−それも既成事実の積み上げ−−を打ち出そうとしているかに見える小泉流への不信感が強まっている。
 しかも、両国とも対日関係を改善し、安定させようと努めている時だけに、相手の足元を見透かしたようなやり方には反発を感じている。首相がこの1カ月間、ソウルと海南島・博鰲を訪れ、韓国、中国の首脳と親しく会談したのはこのための仕掛けだったのか……「謀られた」とういう感情さえよぎるのだ。

 やりきれないのは、日本の首相がこんなぎこちない形でしか戦死者に追悼の意を捧げることのできないことである。思いついたように行ったり、抜け駆け的に行ったり、これが死者に向かい合う姿勢だろうか。
 日本国民は戦後長い間、「哀しむ能力」を奪われてきた。愛するものが喪われた悲しみを、それをもたらした現実を直視し、洞察することによって克服し、残されたものたちの内面を豊にするための、そうした「哀しむ能力」の回復を、日本は必要としている。だが、こんな毎度のドタバタ劇はそれも望むべくもない。首相は「内外の人々のわだかまりなく追悼の誠をささげるにはどうすればよいか」(昨年の靖国神社参拝の談話)との問題意識から、懇談会を設け、戦死者や殉職者に対する国民の追悼のあるべき姿と形を検討してきたのではないのか。なぜ、その答申を待った上で行動しなかったのか。
 もう一つやりれないのは、歴史問題を克服できないことが日本のアジア外交、なかでも近隣外交をいともたやすく突き崩してしまうことである。
 昨年夏の靖国神社参拝前、首相は訪仏しシラク大統領と会談したが、その際、大統領は「靖国神社に参拝すれば日本のアジアとの関係は難しくなり、世界の中で日本は孤立する危険がある、注意して欲しい」と、「友人として」忠告した。この問題では、欧米もアジアもなく、日本は孤立しやすい。
 その危険を的確に指摘した日本の指導者が中曽根康弘氏である。86年、中曽根首相はその1年前の靖国神社参拝に対する内外の強い反発を踏まえて、国会で次のように述べた。 「国際関係におきましては、我が国だけの考えが通用すると思ったら間違いでありまして一方的通行といものは危険であります。特にアジア諸国等々の国民感情も考えまして、国際的に通用する常識あるいは通念によって政策というものは行うのが正しい……アジアから日本が孤立した場合に、果たしてアジアのために戦死したと考えているまじめなあの将兵たちが、英霊がよろこぶであろうか」
 この「一方的通行」のことを外交では「一国主義」と呼ぶ。中国では単辺主義と言う。往々にしてそれは独りよがりにつながり、孤立をもたらす。
 小泉首相の政治手法に潜む単辺主義が、この政権の命取りとなりかねないことを、いま深く危惧する。

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