我らが在所日義の里の英雄「 木曽義仲 」を書かずばならまいのう。

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  木曽義仲は,日義の里の傑出した英雄である。
 天下に誉れ高く,朝日将軍の名を馳せ征夷大将軍までも上り詰めたのであった
 里人は遠い昔を偲び,木曽義仲を愛しみ郷土の誇りと思い纏わる史跡を大切に今に伝承している。

  木曽義仲は埼玉県嵐山町鎌形の地で生まれ,幼名を駒王丸と称した。
 久寿2年(1155)駒王丸2歳の時,父の帯刀先生(たてわきせんじょう) 源義賢 が甥の悪源太義平に大蔵
 の館で討たれた。 哀れ物心付かない乳飲み子であった。
  父を討たれ命危うい駒王丸が永らえたのは,畠山重能・重忠の父子や斎藤別当実盛等の温情に縋るもの
 であった。
 掬われた駒王丸は,母小枝御前と共に信濃の国権の守中原兼遠に庇護を求めた。

  感じやすい幼年期は,木曽の地の高潔者中原兼遠の袂に匿われて養育された。
 駒王丸いよいよ13歳の時,元服して名を改め木曽次郎義仲と称した。
  このころ,保元・平治の乱のより平家は興り,源氏一門は衰退して諸国に散った。
 平家は,これぞとばかりに時代を謳歌して「平家に有らずんば人でなし」「おごる平家は久しからず」と言わ
 れる程に権勢を恣しいままに世は乱れた。
 都の雅は,諸国の民の生活を喘ぐ犠牲を強要するものであった。 

  平家に追われて諸国に潜んでいた源氏は,世の中改革を目指した以仁王の令旨を賜り東国の源頼朝,木
 曽源氏の軍勢達が立ち上がった。
 木曽義仲の旗挙げは,日義の里「宮の原(柏原)」(現木曽町)の地でそこに旗挙八幡宮がある。
 木曽義仲は既に強者に成長して血気盛んなまでに27歳を迎えていた。
 
   旗挙げ間もなく,越後の平氏の城氏を横田河原で攻略したのを皮切りに,優れた軍略を駆使し以て倶利
 伽羅峠の戦い,篠原の戦い(燧の戦いともに初戦敗退)に勝利して駒を進め,朝日の昇るが勢いで比叡山
 をも平定。 怒濤のような勢いをかって平氏を追いやり京の都を目指して猛烈に進軍した。
 京の都を手中にした木曽義仲は,後白河法皇に謁見して朝日将軍の名を賜わり平家追討の院宣により
 西海へ出撃していった。

  木曽義仲は寿永3年1月10日征夷大将軍に任ぜられたが,後に木曽義仲を疎んだ後白河法皇は鎌倉の
 頼朝と相通じたために, 血縁の従兄弟同士の相打ちを余儀なくされ木曽義仲は頼朝の大軍と渋々の抗戦
 に下った。 とうとう武運拙く粟津辺りの叢露と消えた。
  この時寿永3年1月20日  哀れ木曽義仲は31歳の若さで討ち死にして波瀾万丈の儚い生涯を閉じた。
 共に苦楽の武将達も命運が尽きて戦場に散ったが,木曽義仲への愛と青春の情熱を燃やした女武者巴は
 優しい大将の命に従い生き存えることが出来た。

  木曽義仲は,火牛の策の如く類い希な武勇軍略は勿論のこと。
 世の中改革の令旨を忠実に反らさず,大義名分の戦い一筋であった。

  木曽義仲は最期に臨んでも,”我が身よりも家来の命を案じた”優しい思いの武将でもあり,後の
 文豪芥川龍之介にも感銘を与え,木曽義仲をモチーフにし大いに讃えている。
 諸国行脚の俳人松尾芭蕉も木曽義仲と共に眠ることを願い,義仲寺に肩を寄せて眠っている。