木曽義仲早わかり「ま」行へジャンします。

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 松尾芭蕉
  (まつおばしょう)



 (1644~94)
 江戸前期の俳人。
本名忠右衛門,甚七郎宗房。幼名金作。通称甚七郎。
俳号ははじめ宗房のち桃青,芭蕉
伊賀国(三重県)上野の生まれ。藤堂良忠(俳号蝉吟)に仕えたが,良忠の病死とともに致仕。京にのぼり諸学を修め,のちに江戸に下り延宝八年深川の芭蕉庵に入居。蕉風をもって江戸俳壇の主流となる。
各地を行脚し紀行文を残し,俳諧の頂点をきわめた。さらに「高悟帰俗」の理念のもと晩年に「軽み」を提唱。
元禄7年西国行脚を志したがその途次,五一歳で病没した。句は
「冬の日」「曠野」「ひさご」「猿蓑」などに収められ,ほかに紀行文「笈の小文」「野ざらし紀行(甲子吟行)」「奥の細道」などがある。
 芭蕉は,義仲31歳の生涯にいたく共鳴し惚れ込み,自分の終焉を義仲の脇に葬るよう遺志をのこした。生き様を重ねたものであろう。
【芭蕉忌】 (ばしょうき)は,陰暦10月12日

 
義仲の寝覚めの山か月悲し
 木曾殿と背中合わせの寒さかな
(芭蕉門人,叉玄の句


 
1 人物
 源行家
 (みなもとのゆきいえ)
 源為義の10男 源義朝の弟(~1186)。
 平安末期・鎌倉初期の武将。本名義盛。  
 以仁王(もちひとおう)の令旨を諸国の源氏に伝えて、源氏挙兵のきっかけをつくった。平氏滅亡後義経と結んで頼朝とも対立し,和泉で殺された。
 (以仁王参照)
 1 人物
 源義賢
 (みなもとのよしかた)
木曽義仲の父者。
その名は前帯刀先生(さきのたてわきせんじょう:朝廷を護(こまおうまる)という。
 1 人物

 源義平

 (みなもとのよしひら)
 駒王丸(木曽義仲)が木曽へ送られた事件の発端を起こした人物で木曽義仲とは従兄弟の間柄。
 久寿2年父(義賢)が甥の源義平(悪源太とも言われた)に大蔵館で討たれため, 駒王丸時に2歳(吾妻鏡3歳)母小枝御前と共に木曽土豪中原兼遠の元へ落ち延びた。
 1 人物

 源頼朝

 (みなもとのよりとも)

(1147~99)
 鎌倉幕府初代将軍。
源義朝の三男。平治の乱で敗走中に捕らわれて伊豆に配流。治承四年挙兵して石橋山の戦いに敗れたが、間もなく勢力を回復、鎌倉に入り、武家政権の基礎を樹立。
弟範頼・義経に命じて木曾義仲を討たせた、続いて平氏を滅ぼした。のち不和となった義経追捕を口実に守護・地頭設置の許可を得て武家支配を確立。文治五年藤原氏を滅ぼして陸奥・出羽を勢力下に入れた。建久元年権大納言、右近衛大将に任ぜられ、同三年征夷大将軍となった。
同族一門の壮絶な果し合いを行った。
新宮十郎行家(叔父),源義経・源範頼(義兄弟)
木曽義仲(従兄弟)義高(義仲の子)を討取。
その他血で血を争い,源氏一門の多くを討ち取った。


 1 人物

 源義経
  (みなもとのよしつね)

 (1159~89)
 平安末期・鎌倉初期の武将。
 木曽義仲と義兄弟。義朝の第9子。母は白拍子の常磐御前。
幼名牛若。平治の乱で平氏に捕らえられ鞍馬寺に幽閉。脱走して陸奥平泉の藤原秀衡の下で養育。治承4年頼朝の挙兵に呼応し,義仲軍を追討。

 壇ノ浦に平氏を追滅。その後,頼朝と不和となり頼朝追討の院宣を得たが九州の布陣に失敗,再び安宅の関を超えて奥州へ下った。
秀衡死後,泰衡に襲われ衣川の館で敗走。
後に義経伝説を生む。
九郎判官義経。


 1 人物
 以仁王
 (もちひとおう)
 (1151~1180)
 後白河天皇第二皇子。母は権大納言藤原秀成の娘成子。高倉宮と称した。母が摂関家の出でないため親王宣下(せんげ)を得られずに成長。
 治承4年(1180)4月 皇子は頼政に勧められて諸国に同志を糾合しようと平氏討伐の令旨を発し自らも挙兵した。
令旨を携え諸国の源氏を回ったのは源行家(義朝の弟)。しかし企ては準備が整うまでに露見して既に挙兵していた以仁王と源頼政は,5月平家の大軍に宇治の戦いで敗れて戦死した。
 この令旨が契機として諸国源氏勃興の糸口となった。
 1 人物

らっぽしょの歌 同じ木曽路の育ちじゃものを 彼等ばかりにいばらすものか。おみやげをどうぞ
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(2004/02/10)