お知りになりたいこと ご  説  明 出典の分類 

 葵御前
  (あおいごぜん)


 (?〜1184)
 巴御前と共に木曽義仲に従い戦った女武者。太刀は無双男勝りの勇者。
5月21日の砺波山(となみやま)倶利伽羅峠の合戦て戦死。
富山県小矢部市に墓がある。

 
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 朝比奈義秀
  (あさひなよしひで)

(?〜?)
和田太郎義盛第三子。母は巴御前。
粟津ヶ原の合戦で,木曽義仲が敗れた後に巴御前が和田太郎義盛に嫁ぎ産んだ子。
安房(千葉県)の朝夷郡で養育さわれた。
義秀は武勇の猛者でしられる。1213(建保元年)和田合戦では勇名を轟かせ多数の敵を倒したがかすり傷一つ負わなかったという怪力の持ち主。曽我物語にも登場する。
だが合戦に敗れ,安房に逃亡。
義経同様の敗走伝説がある。
 1 人物
 朝日将軍
  (あさひしょうぐん)

 「木曾義仲(きそよしなか)」の別称。
寿永2年7月(1183)平家を京より追討。その功により院宣をうけ征夷大将軍を任ぜられ木曾義仲は「朝日将軍」と名乗った。

 木曽義仲は,朝日の昇るが如くに輝きグングンと勢いよく栄達を極めていったが,31歳という若さで生涯を終演させた。華々しくも儚い英雄の偉大な一生を人々は,羨望のまなざしと哀惜の念込めて朝日将軍と呼んだ。
 1 人物
 伊子
  (いし)

 木曽義仲の妻。才色兼備の類い稀な美人と謳われた。
関白を追われた藤原基房(ふじはらのもとふさ)が,日の出の勢いの木曽義仲に娘を与えたとされる。天下取りの木曽義仲に再び権力の座を夢見たのであろう。しかし,一端契りの木曽義仲との悲哀に満ちた別離は,命脈つきた悲運の恋として「源平盛衰記」に書き留められている。麗しい姫故に政争の具とされた悲哀の物語は古今東西にも知られる。
 巴御前,山吹姫と比較される,
 
 1 人物
 今井四郎兼平
  (いまいしろうかねひら)

 (?〜1184)
 中原兼遠の四男。巴御前の兄。
木曽義仲四天王の一人の部下であり親友でもある信州の武将。
幼少の頃から義仲と兄弟同然の生活を送り,挙兵から最期まで常に義仲に従った。
兼平を心配した義仲と
義仲を心配した兼平が出会ったのが粟津。
兼平が敵をひきつけている間に
自害しようとする義仲だったが、
ふと兼平の事が気にかかり、振り向いたその眉間に矢を受け最期を迎える。
これを見た兼平はその場で自害した。
 1 人物
 院宣
  (いんぜん)

奉書の一種。
上皇、法皇の仰せをうけて、院司の一人が奉じて書くもの。院の宣旨(せんじ)。
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 縁起
  (えんぎ)

社寺、仏像、宝物などの由来、または霊験などの伝説。また、それを記した文書。「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」
 2 図書文献

らっぽしょの歌 同じ木曽路の育ちじゃものを 彼等ばかりにいばらすものか。おみやげをどうぞ
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(2004/02/10)