上田城

( 真田家40年 →仙石家85年→ 松平家166年 →明治 )

[上田藩家臣団名簿]

[上田藩屋敷割り地図]

[長野県地名研究所]
 


長野県宝: 上田城 3櫓

松平家: 譜代大名(5万8千石) 家紋(五三の桐)

藩格: 徳川幕府職 (老中)(京都所司代兼務) 上田城大手門 上田城の鬼瓦の松平氏家紋(五三の桐) 昭和60年 修復工事 ・各家の家紋: 真田氏:六文銭 紋 仙石氏:永楽通宝 紋 松平氏:五三の桐 紋 上田城大手門 平成6年 復元工事 冬の上田城(西櫓) 上田城西櫓 当時石垣の下は千曲川が流れ、敵の南側からの攻撃に対して、護りに利用していました。 上田城の別名を、「尼ヶ淵城」とも呼び、全国でも数少ない実戦経験を持つ城の一つです。 上田城内堀と桜並木から 太郎山 ( 海抜1160m 上田城北1km )を眺む。 西櫓前には、築城の折、城内から太郎山までの地下道抜け穴が掘られたが、 その入り口が今だ残存しています。実戦向け城つくりの 手法、又、戦い方手法は真田昌幸・真田幸村の名を天下に響き渡らせたのも うなずけるものです。太郎山は、北の守りの自然要塞であった。 ■上田藩歴代藩主(3大名) 1.真田氏(1582〜1622)40年間 上田城主 戦国時代末から江戸初期 ★上田城の実戦歴( 群雄割拠の戦国時代末 ) 1585年 徳川軍来攻、上田城頭の激戦(第1次上田合戦) 1600年 真田昌幸、幸村父子上田に籠城、徳川秀忠(徳川二代目将軍)軍を退ける(第2次上田合戦) 1603年 関が原天下分け目の戦い(1600年)で、徳川勢が豊臣勢を打ち負かす。そして江戸幕府(264年間)開幕。 1583年 武田信玄家臣真田幸隆の子昌幸が上田城築城(1583年)。 豊臣方についた昌幸、幸村は1600年に高野山に配流され、 徳川方についた信之(昌幸の長男)が1622年まで上田を統治する。 戦国の世、親子で敵、味方に別れ生き残りを考えた戦略は見事花を結んだ。 真田家は1622年に現長野市松代町へ移封( 松代藩 真田家 明治まで250年間統治。 この理由は真田信之の正室(妻)が、徳川家康の 養女「小松姫」であったため、家康の命で真田家は移封するべからずの「お墨つき」を拝領したため。 )。 ( 上図は当時の上田城の模型図 ) 上田城は天守閣は造られなかった。 戦術的に上田城の位置設定は、千曲川が南櫓のすぐ下を流れ、 南方からの敵の攻めに対し、格好の自然の防衛とした。 (このため「千曲川 尼が淵城」とも当時呼ばれた) 北方は、太郎山(城内には太郎山までの地下抜け道の入り口が残されている)が自然防衛フェンスであった。 東方は、防衛フェンスがないため、真田氏の知恵で、城下町の東外側に等間隔に寺(南から北に向け、日輪時、宗吽寺、 願行寺、月窓寺、本陽寺、大輪寺 西側は見方側なので堀と芳泉寺の一寺)と墓地の設置と、 道路のクランク化(枡型道)で、敵(徳川方)の進入に防衛した。 二度(一次(1585年)、二次(1600年)上田合戦)にわたり、東方からの徳川勢を撃退させている。 二次上田合戦では、徳川二代目将軍秀忠軍を真田勢が足止めして、天下分け目の関が原の合戦に、 間に合わせなくした話は、あまりに有名です。 2.仙石氏(1622〜1706)85年間 上田城主 江戸前期 [上田城と仙石氏 (上田市立歴史博物館ホームページへ)] 真田信之と交代に長野県小諸より仙石忠政が上田へ入封。忠政、政俊、政明と3代続き、 1706年に兵庫県出石へ移封。 3.松平氏(1706〜1872)166年間 上田城主江戸中期から明治維新まで [上田城と松平氏 (上田市立歴史博物館ホームページへ)] 仙石政明と交代に兵庫県出石より松平忠周が上田へ入封。 松平氏が忠周(江戸城老中)、忠愛、忠順、忠済、忠学、忠優(江戸城老中)、忠礼と7代にわたり、 1706年より幕末まで166年間上田を統治する。 ■譜代大名:徳川一族( 松平氏 ) ■上田藩の石数:5万8千石 ■上田藩の藩格:老中(江戸城) 京都所司代兼務(京都二条城(国宝)) 上田藩主となった松平氏は、藤井松平氏と呼ばれ、三河以来の徳川一族庶家で、 14松平氏の一つであり、家康より4代前の長親の五男利長をその祖とする。 利長は三河国碧海藤井(愛知県安城市)を本拠としたため、藤井の松平と呼ばれ、 宗家(徳川氏)の旗下にあって活躍した。 利長は永禄3年(1560)戦死しているが、その後の藤井松平氏は信一、信吉と継いでいる。 信一は天正18年(1590)の家康の関東入封にあたっては、下聡布川(茨城県利根町)5千石を宛行され、 関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)には、その戦後処理の恩賞としてであろうが、 一躍常陸土浦3万5千石に封ぜられている。その継嗣信吉は、元和3年(1617)上野高崎5万石へ 加増転封となり、同5年には丹波笹山へ転じている。この年、信吉の次男忠晴が別に常陸において 2千石を与えられ分家独立した。この忠晴が後に上田藩主となる松平氏の初代となるのである。 (上田市立博物館発行「松平氏史料展」より) ■ 上田藩の詳細説明(上田市立歴史博物館のサイトへ)