NHK大河ドラマ「真田丸」

平成28年度NHK大河ドラマ「真田丸」にまつわる歴史的資料を、
回収中です。
戦国武将、「真田幸村」の生涯について、
平成27年1月より公開開始致します。
よろしく御来訪お願い申し上げます(^o^)


参考サイト:
@真田宝物館 A上田市 B砥石城 C真田丸
D上田城の歴史

■松代藩の諸役と役人名

  @寛文12年「御役人帳」(真田信之時代)
 A貞享4年「御役人帳」(真田幸道時代)
 B慶応3年「御役人帳」
 C明治元年「御役人帳」(真田幸民時代)

@真田信之時代








真田幸村(信繁)の画像


真田幸村の事跡


上田城大手門(長野県指定 県宝)


冬の上田城(長野県指定 県宝)


大手門裏側


巨大な真田石(上田市指定文化財)(当時の石組です)


戦国時代の村上義清の、城跡(原型復帰再現)(長野県埴科郡坂城町)
から、坂城町を望む。
流れる川は、「千曲川」。
手前の山の頂上には、村上義清の山城跡があります。

■「真田家文書」上巻の一部の紹介。

  著者:米山一政(長野市妻科)
  発行:長野市(松代支所振興課)

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-序文-

真田氏は信濃(長野県)に於ける古氏族茅野系海野氏の一族である。

海野氏は、長野県小県郡に発祥し、長野県東信地区の雄族として、

鎌倉・室町時代を通じ、信濃の歴史上に大きな力を及ぼしたが、

真田氏は海野広道16代目の棟綱の子、幸隆に始まり、

小県郡真田に住したるにより、真田を以って称するに至った。

棟綱は天文10年5月、武田・村上の両軍のために攻められて敗れ、

幸隆は、又上野(群馬県)に逃れたが、後、武田晴信に仕えた。

その後、村上義清を、長野県上田市の砥石城にて破り、

以来武功を重ね、長野県小県郡の故地を制覇して、以後は又

長野県東信地区に於いて勢力を張り、武田氏滅亡後の混乱を乗り越えて、

戦国武将から近世大名となり、その雄名を以って聞こえた家柄である。

信濃(長野県)の大名の殆んどは、他国に転じたが、真田家は近世を

通じて他国に転出する事もなく、上田(長野県)から、松代(長野市)*

に移って、以後は、1622年〜1867年(明治維新)まで10代に及んで

松代(長野市)城主として、長野市周辺地区を統治しました。

真田家の古文書及び古記録類は、信州(長野県)列藩中、最も保存がよく、

その量においても又勝れている。

このうち時代の古いもの及び特に歴史的価値の高いもの381通は、

既に長野県宝に指定されている。

これを中心に真田家文書中、重要と思われるものを刊行し、

公開することは、甚だ意義深いものがある。

今ここに、これを刊行するにあたり、早くから真田家文書の研究に当たって来、

これが編集に貢献的努力を払われた米山一政氏の苦労を多とし、

序と致す次第である。


ー真田宝物館長 矢沢頼忠ー

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真田幸村の事蹟
以下、田中誠三郎先生の書から抜粋 「真田一族と家臣団」ーその系譜をさぐるー   ・田中誠三郎 著  ・発行所&発売元 信濃路 ★田中誠三郎先生紹介  ・1907年 長野県長野市松代町にうまれる。  ・中央大学専門部商科卒業  ・詩集「敗北の倫理」。  ・研究「真田昌幸」「松代城」「松代の歴史」。  ・共著「続松代町」「続日本の名城」「歴史よもやま」     「長野市の文化財」「松代の史跡と文化財」 ■真田十勇士について 真田十勇士は、 戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将、 真田信繁(真田幸村)に仕えたとされる、10人の家臣のこと。 後世、小説やゲームの題材となり伝承上の架空の人物といえるが、 歴史的な由来を持つ人物もいる。 立川文庫以来、基本的な構成は、猿飛佐助、霧隠才蔵、 三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介(穴山小助)、 由利鎌之介(鎌之助)、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、 望月六郎の10人となっているが、小説の作品によって差異が見られる。 正規の真田家 家臣団名簿については、徐々に掲載していきます。 ■真田信繁(幸村)の事蹟  真田信繁(幸村)は、安房守昌幸と山の手殿(寒松院)の二男として、  永禄10年(1567年)に生まれたという。  幼名をお弁丸また源二郎と称した。  信繁(幸村)の性格については、「真武内伝」に、  伊豆守(真田信之:松代藩初代藩主)殿常々御物語に、左衛門佐天下に  武名をあらわしたるは道理なり、生得の行儀振舞平生体の人とは違いたる  処多かりしなり。  物事柔和忍辱にして強からず、言動少々にして怒り腹立つことなかりし。  くらべていはば左衛門佐は国郡を領する誠の侍と謂つべし。  我等は造り髭(ひげ)して眼をいららげ肩を張るたる道具持といふべき  程違いたると宣(のたまう)ひしなり。  この物語は故殿(信之)に小姓奉公したり島津権六、  又遁世したる伊木彦六入道信西が御側にて度々うけたまはりしとて  語り伝へしなり。とある。  天正13年(1585年)数え年19歳のとき、上杉景勝の人質となり、  矢沢但馬守頼幸を付人として春日山城に移った。    ( 続く 平成27年度中に完了予定 )