■相田平左衛門(6代目1823〜1897 基翁院南窓直方居士)
 火付盗賊改奉行(上田藩)
 (作者の祖祖祖父)


★上田藩家臣団名簿


相田平左衛門の墓(上田市月窓寺)。
お家騒動により、
現在は、川崎市長善寺へ転寺。
相田家は、横浜市青葉区桜台在住(菓子製造会社経営)。


明治初期の相田一族

今の作者の宗家&本家(長野県上田市)分家(貞雄)は、東京阿佐ヶ谷。


中央:相田直方(相田平左衛門の嫡男嫡子)

右端:荻原作右衛門(作三の父:瑞光院南山得壽居士(菩提寺:上田市腰越 嶺南山全芳院))

左端:相田直方の姉(賑)(作右衛門の妻: 瑞雲院徳光永壽大姉(菩提寺:上田市腰越 嶺南山全芳院))

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■相田秀方:(満州鉄道の社長)


昭和30年頃上田駅の前にて。子供(後妻の子)は、相田秀方(後妻)の孫。

[相田秀方の書]

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■日本領(昭和17年:ピンク枠 平成27年:黒枠)


当時の満州鉄道本社 当時の満州鉄道 当時の、日本から満州への物資の輸送艦


■江戸時代の相田家(火付盗賊改奉行)の古文書

上記古文書の訳(1)


上記古文書の訳(2)


上記古文書の訳(3)


上記古文書の訳(4)


上記古文書の訳(5)


上記古文書の訳(6)


上記古文書の訳(7)


上記古文書の訳(8)


上記古文書の訳(9)


上記古文書の訳(10)


上記古文書の訳(11)


上記古文書の訳(12)


上記古文書の訳(13)


上記古文書の訳(14)


検証:

武士の藩主からの待遇には、家格と家督( 報酬 )の二つがあり、家格はその家臣の格付であり、

奉行格であればその家は、代々奉行格の家格が与えれました。いわゆる世襲方式でした。

又、藩に対して、家臣の功労により格が上位に役付けが上がりました。

家督( 報酬 )とは、いわゆる給料の事で、石数(米の)と人扶持で支給されました。

この他に金給と称し、金○○両などと示されました。

一石(米)=2.857俵=8万円(現在の円に換算)

一人扶持 = 1.75石

一両 (現在の約15万円)
 
江戸時代の武士の各階級による生き様を検証すると、江戸の火付盗賊改役

長谷川平蔵

の一生において、彼の若い時代の放蕩ぶりも、地方の藩の同職の武士の放蕩ぶりも、

何の因果があるのかわからないが、

あまりに似たとこがあるので実に不思議なものであります。人間その職業により、生き様の共通点そして

職業から洗脳される特性というものが存在するのは、否めないものだと、つくづく感じる次第です。
 
江戸時代から今日に至るまでの、信州上田の遊興界について検証してみると、

現在の上田市のいわゆる「 飲みや街 」は袋町という町名で

町のほぼ中心にあります。明治から昭和の終戦後までは、遊郭の町でした。

江戸の吉原に匹敵します。

江戸時代は、上田のその一帯(袋町)は足軽長屋であり、

その隣道は医者町( 仙石氏時代は馬場町といい馬舎の町 )でありました。

いわゆる「 士農工商 」身分制度により、職種(商、工)・家格(武士)により、

住宅配置が区分されていたわけです。

鷹匠町( 鷹匠がいたのは、松平氏の前の仙石氏時代でした )は御奉行クラスの武士の町でした。

化石館宅地( 藩からの拝領地 役宅 )は1706年から約300年間代代世襲で維持し、

今日に至っております。

家老・側用心クラスは、大手町に住宅がありました。

花町の話になりますが、江戸時代の上田の今流にいう「 飲みや街 」は、今の別所温泉エリアが、

遊興の場所でありました。

武士は馬で遊びにいき、町方町民は歩きで上田中心部から歩いて行ったものです。

遊興となると、ニ、三里の道のりはなんのそのの時代でした(^o^)。

又、街道筋の大きな宿場町には、遊女(飯盛り女)がいる宿と本陣宿がありました。

本陣宿は大名が宿泊しました。

そして宿場町の入り口、出口には関所が設けられていました。

上田近辺では、海野宿(鎌倉時代源義仲(木曾義仲)が陣を構えた所です)、

和田宿

が有名です。余談ですが、海野氏は、真田幸隆( 昌幸の父 )の母方の祖であり、

武田信玄正室の次男(盲目)龍宝が婿養子入りしています。

武田信玄がでましたので、余談をもう一つ。川中島の上杉、武田の合戦以後武田氏により、

信州全域を支配されましたが、その時、信玄は長野市の善光寺の本尊を甲斐(甲府市)に移動し、

甲斐に長野と同じ造りの、甲斐善光寺を造り安置しました。

その後織田信長が、元の善光寺に本尊を返したのは、あまりに有名な話です。

善光寺へ参拝すると、大勧進と大本願がありますが、大勧進の寺紋は武田菱(武士系)で、

大本願の寺紋は24菊花紋(天皇系)です。

寺、城 を訪れる時は、寺紋と城の鬼瓦の家紋を見ると、その寺、城の歴史を紐解いてくれます。

ちなみに、上田の芳泉寺は、葵紋(徳川)・六文銭紋(真田)・永楽通宝紋(仙石)の3紋を使っています。

これは徳川家康の養女小松姫が真田信之正室であり、又仙石氏の墓所でもある由縁です。

基本的に江戸時代の寺は、藩の寺社奉行が取りしきっていました。

上田城の鬼瓦の家紋は、松平家の「 五三の桐 」です。