「2001年」の新しき幕開け
更埴市の宮坂博敏市長は、12月14日(火)の更埴市議会12月定例会の和田英幸議員の一市二町(更埴市・戸倉町・上山田町)の合併問題に関する一般質問の答弁で、更埴市と埴科郡戸倉町、更級郡上山田町が合併を視野に設置をめざす任意の合併協議会について、「個人的な希望としては、平成12年度中のなるべく早い時期に立ち上げたい」との考えを明らかにした。
一市二町の首長、議長、合併促進特別委員長らは、12月初め、任意の合併協議会設置を目的とした準備会を、年明けにも立ち上げる方針で合意した。準備会では、合併の必要性や三市町の行政水準などの基本調査、合併協議会での検討内容について調査・研究を始めることになる。
準備会のまとめ役になる宮坂市長は、来年度の協議会設置を念頭に、「来年度予算への経費計上や事務局体制の整備も必要になる」と答弁した。
合併までの期間については、財政支援が盛られた合併特例法の期限である二〇〇五年3月までの間に、「積極的に調査・研究を進め、住民に広く情報を提供して意見を聞いていきたい」と述べた。
また、宮坂市長は、広域行政での結び付きが深い埴科郡坂城町も含めた「一市三町が一緒になることが望ましいとの考えは変わらない」とし、「坂城町に準備会などでの検討内容や経過を報告し、早い時期に合流してもらえるよう願っている」と述べた。
(12月15日付信濃毎日新聞記事一部訂正引用)
議会における確認事項
一市三町合併問題に対しての経過確認事項はつぎのとおり。
@一市三町の合併問題について は、今まで議会や首長間で検 討を重ねてきたが、地域事情 から坂城町が積極的ではなく 具体的論議に入れなかった。
Aこのような中、一市二町議会・ 首長間で、将来の合併をめざ し、先行して調査・研究・住 民啓発等を進めることについ て、合意し坂城町もこれを了 承した。
B地方分権の本格化と合併特例 法の期限(平成17年3月31日) を見据えて、一市二町間では、 今後も行政サービスの水準を 維持・向上させていくための 行財政力強化の観点から、合 併の必要性についての認識で は一致しており、まず、任意 の合併協議会設立を目標に準 備会議を設置することで合意 された。
C今までの取り組みの経過を踏 まえ、更埴地域の将来を考え ると、平成7年の議会決議に よる一市三町の合併が理想的 であり、坂城町には、機が熟 したらいつでも参加してもら えるよう窓口を開けておくこ とで当事者間では了承されて いる。
(平成11年12月14日、更埴市議 会合併促進特別委員会)
☆私の一言
昨年暮れ、政府は平成12年度予算大蔵原案を内示した。この予算は景気回復をねらいとした「積極型」といわれる大型予算となっている。
一般会計予算は84兆9871億円。歳入の内、国債は32兆6100億円を新規発行する。国債依存度(歳入に占める国債の比率)は、過去最悪の38.4%。平成13年3月末での国と地方の長期債務残高は647兆円にも膨らむ。国債以外の税収等は、52兆3771億円である。
数字が大きすぎて、我々国民には大きさがピンとこないので、1000万分の1(ゼロを7つとる)で考えるてみると。
年収523万円の人が、6470万円の長期債務(借金)がある。生活費に困っているので、更に銀行から326万円借りなければならない。そのうえ、この中から長期債務の返済(元利償還)に219万円を歳出しなければならないという、かなり深刻な数字であるということはなんとなく分かってきます。
もっとも、国債については、東大教授の野口悠紀雄氏のように、債務が内国債であれば、心配はないという見方もありますが。
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「地方分権推進一括法」が成立し、住民に身近な行政は地方が担っていく「地方の自己決定と自己責任」という方針が示されたことにより、地方自治体はその受け入れ態勢を整えなければなりません。国の財政悪化については、申すまでもありませんが、地方自治体が住民に対する行政サービスを向上させるには、われわれも足腰の強い財政基盤の整備をしていかなければなりません。
そのために、国も地方も行政改革を進めることが必要になりました。その改革の最たるものが、市町村の合併であります。
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去る12月3日の1市2町の首長・議会代表者の会議において「合併に向けての協議会設置について」合意されたことは、この地域ばかりでなく、長野県をはじめ全国にも報道されました。
これまでは、議会が中心となり一市三町による議論がされてきましたが、坂城町においては、結局「住民が盛り上がっていない」ということで、今回は、参加しませんでした。
しかし、「事情が変化した場合は、いつでも参加できる道を開けておく」ということが、確認されておりますので、早い時期に坂城町が合流することを願うところです。
◎県地方課長「大きな一歩である」と歓迎
北海道に次いで全国で2番目に市町村の数が多い長野県においては、これから地方分権の時代に向かって、合併が推進されなければならない。
県では、諏訪地方・伊南地域等合併の機運のある地域に対する「波及効果」を期待している。
◎住民に対する啓発を
合併の枠組みやメリット・デメリットについてはまだ住民に情報が流されていない。今後は、行政が積極的に情報を公表し、住民の意思を問うていかなければならない。
行政レベルのメリット・デメリットと住民生活者の見たメリット・デメリットは異質のものである。違う観点から合併問題を考えないと話が違うということになってしまう。
しかし、デメリットを最小限にしていく調整をするのが、行政であり、議会の役割であるので、今後、幾多の論議が繰り返されることになりそうだ。
◎一市三町の枠組みを 坂城町を含めた一市三町の枠組みは、この地域の将来を見据えるとき必要なことである。坂城町の合流がいつになるのかが、任意の合併協議会の設立に大きく関わる。
◎更埴地域の政治行政課題が大きく前進する
新市建設計画には、
@新幹線中間駅の駅周辺整備
A新国道バイパスや道路の整備
B野球場や総合体育館の建設
C福祉環境・施設の充実
D議員の大幅な減員・質の向上
E行政職員の縮減や専門技術職 員の採用
F広域情報ネットワークの構築
G商工農・観光業等の産業振興
Hしなの鉄道新駅建設
I自然災害等環境対策事業 …などが考えられます。
☆一流人のあの選択、この決断!(どのようにしてピンチを脱したのか)
「あなたの好きな経営者は」というアンケートで必ず上位に上がるのが本田宗一郎。生涯をものづくりに賭けた生き方と天衣無縫の言動が、多くの人の共感を呼ぶからだろう。本田ほど「率先垂範」を生涯のモットーとして生きた経営者も少ない。技術者として開発に熱中しだすと、飲まず食わずで、一晩、二晩の徹夜は当たり前だった。そのため、部下は本田に隠れて食事をとらねばならなかったという。
こんな本田には人間味豊かな、愉快なエピソードがいくらでもあったが、ホンダの歴史をたどると、「山あり谷あり」であった。なかでも1954年(昭和29年)は、本田にとって一番思いでの深い年だったかもしれない。この年は会社存亡の危機が待ち受けていたのである。
というのは、それまでホンダのドル箱だったオートバイの「カブ」の人気が、他メーカーの急追で急速に低下していたところに、年頭に発売したスクーターの「ジュノオ」が全くの失敗作だったからだ。他の主力オートバイ「ベンリー」や「ドリーム」も販売不振に陥ったから、在庫は山となった。
しかし、この苦境も全社一丸となっての経営建て直し策と技術開発で、翌30年までには、何とか乗り切ったのである。
本田宗一郎のすごいところは、マスコミにも会社倒産の危機と書き立てられた状況下で、有名な「マン島TTレース出場宣言」を公表したことである。それも「優勝」するために精魂を傾けると宣言したのだ。このレースは「2輪のオリンピック」と呼ばれていたので、本田はここで勝つことができれば、ホンダが世界に認知されると、読んだのである。
しかし、その宣言の3ヶ月後、マン島にレースを視察に言った本田は頭を抱えてしまう。イギリスやイタリアのオートバイは、日本車と比べてものにならないくらい強力な馬力があったのだ。このままでは、ホンダの上位入賞どころか、出場さえもおぼつかない。
「俺はえらいことを宣言してしまったものだ。いつになったら実現できるものやら。」と自分の発言を後悔した本田は、レースに勝つためにはどうしたらいいのかと必死に考えた。その結論が、エンジンの回転数を上げる、ということだった。
それまでのオートバイのエンジンの回転数は三千〜四千回転だ。それを一挙に一万回転にまで上げようというのである。当然、まわりの技術者たちがこぞって、「そんなものはできっこない」と大反対した。
だが、苦境のときこそ逆に燃えるのが本田宗一郎である。執念で高回転のエンジンの開発に成功する。そして、先の宣言の5年後のレース初出場では、それまでの最高の6位入賞を果たす。
さらに、参戦3年目の1961年(昭和36年)には、1位から5位まで独占するという完全優勝をなしとげ、「世界一のオートバイメーカー」の地位を不動のものにした。
そして、この完全優勝は、彼が願ったように敗戦を経験した日本の若者に夢と希望をも与えたのだ。
本田宗一郎は「宣言」の中で、
「私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった」と書いたが、その後、この夢までもF1レースで達成したことはよく知られるところである。
本田は73年に社長を退いたが、他の多くの経営者とは違って、会長に就かずに、経営の第1戦を潔く退いた。
「創業者といえども会社は個人のものではない」「社葬無用」の遺言を残すなど、日本的経営風土とは無縁の、スケールの大きな創業者だった。
☆「三省」とはどんな意味?
われ日に三たびわが身を省みる
―吾日三省吾身
▽わたしは、毎日、三つのことを反省する。
◎明治財界の指導者だった渋沢栄一は、この教えを座右の銘としていた。かれは、「三省とまではいかないにしても、わたしは、一日の仕事が終わって床についたとき、その日の行動を思い起こすことにしている。行動の点検と整理ができるばかりか、深い印象が頭にやきつき、記憶力の増進にも役立つ」といっている。
◎これは孔子の弟子である曽子のことばだ。「三省」は「三省す」「三つ省みる」などいろいろな読み方がある。その内容は、渋沢のように自分に合わせて決めればよいが、曽子のいう反省の内容は、次の3点である。
一 人のために尽くすと言いな がら、いいかげんにやらな かっただろうか。
二 友人に対して誠実さを欠く ようなことをしなかっただ ろうか。
三 自分が確かめもしないこと を人に吹聴しなかっただろ うか。
◇わたしは、毎月第2日曜日に、屋代駅前の西沢書店2Fで開催される、丸善食品工業渇長の吉川公介講師による「三楽塾」で中国古典を勉強しています。 孔子・韓非子・孫子・孟子の世界に入っていくことは、まるでタイムカプセルの中で歴史をさかのぼっていくような、不思議な時間です。
「孔子の時代から現代まで、約二千年、人間の考えはほとんど変わっていない」と吉川先生はおっしゃいました。
◇「三省」は「三政会」として、市議会のわが会派の名称として使用しております。
これも、吉川先生のご助言によるものであります。
「中国古典」は今やわたしにとっては、市議会議員としての政治姿勢を指し示す大事な羅針盤となっております。
まだまだ、浅学の身ではありますが、この言葉をいつも身近におきながら初心を忘れずに、議員活動をおこなっていく所存です。
今後とも会員皆様のなお一層のご指導ご鞭撻のほどをお願い申し上げます。
※「三楽塾」に関する問い合わせも、受け付けております。
日 程 内 容
1月上旬 会報発行
3月下旬 役員会
4月上旬 会報発行
4月中旬 総会(議会報告会)
6月下旬 役員会
7月中旬 会報発行
9月下旬 役員会
10月上旬 会報発行
10月中旬 議会報告会
12月下旬 役員会
▼詳しい事業の日程につきまし ては、会報やホームページ等 でご連絡いたします。
▼今年は、事業をやりたいと考 えておりますので、ご意見を お寄せください。