人文学報(東京都立大学)第278号pp.123-141掲載論文 (著者及び出版元から許可を得て転載) わが国心理学界における学会誌の論文差読のあり方を巡って ー心理学論の挑戦(2)ー 佐藤達哉*1 0 はじめに  本稿は教育心理学会第38回総会で行われた自主シンポジウム『学会誌審査のあり 方をめぐって(企画者・守 一雄;信州大学)』において口頭発表した内容(佐藤、 1996b)に基づいている。この自主シンポジウムは文字どおり、学術論文の審査のあ り方について検討するために行われたものであるが、その経緯については発表論文集 に掲載された企画者自身による経緯説明に詳しい(資料1)。 (資料1)自主シンポジウム企画の経緯(守,1996)  昨年の教育心理学会第37回総会において、「編集委員会はなぜ論争を忌避する のか:『教育心理学研究』誌の論文審査の問題点」という発表を行 った。そこで は、『教育心理学研究』誌に投稿された守(1994)論文に対する編集委員会の審査 過程について@審査の実状をありのままに報告し、さらにA審査における問題点 を指摘した。その問題点とは結局のところ「編集委員会が投稿者・審査者間の議 論を忌避すること」である。投稿者である私は、学会員当然の権利として審査委 員や編集委員会に質問状を提出し論争を挑んだが、論争はことごとく忌避されて しまった。 私の発表後の拡大編集委員会ではこの問題が議論されたらしい。それでも、丸 1年たった今でも 編集委員会からの直接の回答は得られないままである。その際、 「編集委員と投稿者が参加し、シンポジウムを行ってはどうか等の建設的な提案 もあった」(第43巻p.466)とのことであるが、編集委員会がイニシアチブをとっ てシンポジウムを企画する様子がないので、投稿者が編集委員の一部の協力を得 て、今回の自主シンポジウムを企画した次第である。 本シンポジウムでは、審査者と投稿者間の論争の不備をかねてから問題として きている麓さんに「論争の成立する条件」について話題提供をお願いし、さらに、 佐藤さんに学会誌審査における「エディター・ジャッジ・レフリー・コメンター」 の違いについてお話をいただく。最後に、『教心研』の常任編集委員であり、他 の多くの学会誌の編集長・編集委員をしている坂野さんに、編集する側からの意 見を述べていただく。  指定討論者にお招きしたお二人も『教心研』や他の学会誌の編集委員の中心と なって活躍している方々である。大論争が起こることを期待する。  この自主シンポジウムのパネリスト等は、企画者・司会者として守一雄(信州大 学)、話題提供者として、麓信義(弘前大学)・佐藤達哉(福島大学)・坂野雄二( 早稲田大学)の3名、指定討論者として市川伸一(東京大学)、であった。指定討論 者として予定されていた岩立志津夫(静岡大学)は所用のため欠席した。  つまり、この自主シンポジウムは、守が『教育心理学研究』に投稿した論文の取 扱いをめぐり、投稿者である守が編集委員会に質問状を出すなどして議論を喚起した にもかかわらず、それに対する返答がほとんどない、ということに端を発したもので ある。今ここで、守の投稿論文の内容や質問状の内容とその後の展開について論じる 余裕はないが、若干の情報提供をしておきたい。まず、守の投稿論文は『季刊窓』第 22号に「『チビクロサンボ』と『チビクロさんぽ』」として掲載された(企画経緯の 中の守(1994)がそれにあたる)。また、守と編集委員会とのやりとりや質問状の内 容については守(1995a,b)で参照することができる。  さて、なぜ私がこの自主シンポジウムに声をかけられたのかという経緯を説明す れば、第37回大会時にたまたま守(1995a)の発表と同会場であり、その発表の際に発 言したからである。おそらくそれがもとで、参加を呼びかけられ、必ずしも守や麓の 問題意識と接点があるわけではないが、学術誌の審査のあり方については考えるとこ ろが多かったので参加させていただくことにしたのである。  なお、この自主シンポジウムで守は教育心理学会の機関誌である『教育心理学研 究』を念頭においた問題設定をしているが、話題提供者は必ずしも『教育心理学研究 』のことだけを話しているわけではなく、また、私自身の経験や関心は心理学界全般 にあるため、本論文の題名は標記のようになった*2。  以下では、当日の発表および質疑の内容によって私が考えたことを元に執筆を行 う。したがって本稿は、先の自主シンポジウムの発表原稿ではないことをお断りして おく。 1 研究と学術誌と学界  私たち研究者の役割のひとつが、研究及びその成果の公表であることは論をまた ない。私たちは、ある学問体系の中で、問題を設定し、研究を行い、問題を解決(時 には新しい問題の発見)し、その成果を発表する。研究は個人的なものかもしれない が、その成果は広く共有されるべきなのである。私たち研究者の多くは学会の会員で あるが、なぜ会員になっているのだろうか?多少視点をずらして言うと、私たちは学 会を組織しているが、なぜこのような組織が必要なのだろうか?ということにもなる 。わが国の代表的心理学関連学会として財団法人日本心理学会や教育心理学会がある が、これらの会は何のために設立され、今なお存在し続けているのだろうか?  会の目的などは会則を読めばわかることだが、私見によれば、学会というのは学 問の愛好者(アマチュア)たる各人が、お互いを高め合うために組織するものだと思 う。そして、その運営のための費用を各人の責任のもとに拠出して、会に必要な活動 を行うのである。学会の主な活動としては、相互交流、成果の刊行、社会活動、など があげられるだろう。私たちは、これらの活動を行うために、学会を組織し、研究を 遂行し、ひいては広い意味での社会貢献を目指していると言えるだろう。  研究者の目的が研究とその成果公表にあるのだとすれば、学会が独自の言論メデ ィア(媒体)を持つことは非常に重要だと考えられる。学会誌の役割は自然科学系と 社会科学系とでは多少異なると考えられるし、また学会以外の学術誌が存在するか否 かなどによっても異なると考えられるが、学会が独自の公表の手段を確保するために 学会誌を発行することの重要性が低まることはない。  人文・社会科学系の学問においては、各大学の学部内で学会を組織して、学術誌 を刊行する場合がある(これは、1つの学部で1つの学問体系がすべて網羅されてい るという事情によるかもしれない)。あるいは、学会を組織しないまでも学部の紀要 に研究成果を発表することが励行されている場合もある。  自然科学系の学問においては、学部内で学会を作ることは稀で、また、学部の紀 要よりも、審査の行われる学術誌(学会誌、商業誌を含む)での発表が望まれる傾向 にある。さらに英語が事実上の公用語になっている状況があり、国際的に流通する雑 誌に英語で発表された論文の価値が高いとされる傾向にある。  ちなみに、わが国心理学界の場合は、一般的に言えば学会誌に掲載された論文の 方が紀要に掲載された論文よりも価値が高いとされる傾向にある。つまり、心理学に おいては自然科学系の学問とやや同様の傾向が認められるが、必ずしも英語論文が励 行されているわけでもないと言える。一言で心理学と言っても、生理心理学のような 分野と臨床心理学とではその内容もディシプリンも異なるのだから、分野によっての 違いも大きい。  さて、このような状況のもと、今はどうだか分からないが、権威があると言われ ている雑誌がわが国心理学界にはいくつか存在する。それはたとえば『心理学研究』 であり、『教育心理学研究』である。これらの雑誌は学会が発行している雑誌であり 、会員が投稿した論文を随時掲載するものである。権威があるというのはどういう意 味かというと難しいが、とにかくそのように言われている雑誌が存在することは確か である*3。  ところが、これらの雑誌に掲載された論文が必ずしも読者に好評だというわけで はないという一種のパラドックスが存在することもまたよく知られた事実である。  一部の熱心な読者以外は、これらの雑誌の中味を通読することはない。これらの 雑誌の内容があまりに広くなりすぎて、全てを読むことが読者の興味・関心にフィッ トしなくなったのがその原因の1つだろう。だが、それ以上に読者を誘うような論文 が存在しないということが大きいだろう。海外の雑誌で権威のある雑誌には大抵それ なりに面白い論文や研究の参考になる論文が掲載されており、それが新しい研究の進 展を促すものだが、わが国の心理学界の学術誌がそのような舞台となったことは寡聞 にして知らない*4。このような状況は研究者の日本の学会の学術誌離れを引き起こす ことになり、日本人研究者の行った日本語による研究が日本人にさえ(当然海外の人 びとにも読まれないだろう)、読まれにくいという明らかな弊害を生んでいる。ここ で敢えて弊害という語を使ったが、研究者の成果が他人に読まれないという事態は研 究のあり方から言っても望ましくない事態であることは明らかである。   2 心理学界におけるミニ学会の設立と学術誌    わが国では1980年以降、様々な学会(いわゆるミニ学会)の成立を見、その結果 学術誌の数も飛躍的に増大した。心理学関係諸学会連絡会議に参加している学会だけ でも、1993年3月の時点で21を数える*5。  心理学徒であっても、全ての心理学関係学会に加入するわけではないが、その反 対に関連分野の学会に加入する必要がある時もある。筆者の場合は少なくとも13の学 会に所属している。他人からは「学会の会費払うの大変でしょ」などと言われたりす る。確かに自分でもそうだと感じないわけでもないが、筆者が学会に所属している理 由は、実は学会費を払うためである。  なぜか?  研究者が資金を出し合って会を運営し、その一部として学術誌を発行して広い意 味での言論の自由を確保することが重要だと考えているからである。ここで言論の自 由などという大げさなコトバが出てくるが、これは、学会の中で認められれば、たと え外部の第三者から批判されてもとりあえず公表する機会がある、という意味での自 由である。何でもかんでも自由という意味ではない。筆者は、年次大会にも出なけれ ば論文も発表しないにもかかわらずいくつかの学会に所属しているが、それはアマチ ュア精神のなせるわざとしてあえてそうしているのである。一部の学会では、運営を 円滑にするために学会員以外の人や団体から寄付や援助を受けているとこもろもある が、そのようなことをした場合にはスポンサーに対して批判精神を発揮できないとい うデメリットが生じる怖れがある。学問の成果がスポンサーの意図にそぐわないこと は考えられないことではなく、そのようなジレンマに陥らないためには、たとえ苦し くても会員が自助努力として会費を払うしかないと考える(ただし、現在の心理学関 連学会の賛助団体がこのようなジレンマを起こしているわけではない。念のためつけ 加える)。きれいごとかもしれないが、究極の意味での学問の自由を支えるためには 自分たちのみの拠出が重要である。  さて、なぜ1980年代に日本の心理学界においてミニ学会の設立ラッシュとなった のであろうか。  今、試しにこういった学会を羅列すれば資料2のようである。 資料2を挿入  理由の一つとして、学界全体として研究に関与する人間が増えたということがあ げられるだろう。人が増えれば関心も広がっていく。同じ興味を有する人たちが会を 作ろうとするのは当然の成りゆきである。だが、その場合に、アメリカ心理学会方式 *6に、1つの上部団体の下に小さな学会(部門)を作っていくことも可能だったはず で、それが何故できなかったのかという疑問がわく。  科学社会学的に考察するならば、学会設立による名誉職就任を目指す人や、影響 力を確保したい人たちの存在が考えられる。おそらく多くの人は一笑に付すだろうが ー実際教心学会自主シンポでこの点に触れたときもウケをとったー、このことを無視 することはできない。  また、戦前から設立されていた日本心理学会や日本応用心理学会に下部組織を作 るような柔軟な組織構造が無く*7、その一方で後発ではあるが会員数の多い日本教育 心理学会や日本心理臨床学会などが連合方式の心理学会を志向しなかったことも要因 の1つであろう。  さらに、専門的論文として学問の成果を発表する際の重要なメディアたる学術誌 の刊行が学会を作る以外に考えにくいという状況があったものと思われる。商業誌の 参入が見込まれるわけでもなく、「1学会=1雑誌形式」が崩れそうにないのであれ ば、あるテーマについての学術誌を刊行するには学会活動を始めるのが有望な選択肢 として浮かびあがったのかもしれない。日本社会心理学会がそれまでの『年報』に代 えて『社会心理学研究』を刊行したのが1982年であることを考えれば、この時期に学 会誌によって専門論文を発表する意欲が高まっていたことはそれほど間違っていない と思われる。  筆者が大学院に入学したのは1986年であったが、誤解をおそれずに言えば、先輩 たちの間で権威があるとされていた日本の学術誌でのは『心理学研究』『教育心理学 研究』『心理学評論』『実験社会心理学研究』といった雑誌であった。繰り返しにな るがこれらの雑誌にそれほど魅力的な論文が掲載されていたわけではなかったわけで はないにもかかわらず、である*8。   3 学会誌と関わってきた超私的な経験  筆者は学生の頃は学会誌の単なる読者(読み手、リーダー)であった。修士課程 修了までは主に、いわゆる育児ノイローゼ、育児関連ストレスの研究を行っており、 『発達心理学研究』などが発刊されていなかったこともあり、読む雑誌は専ら海外の 発達心理学や精神医学関連のものであった。日本語の論文を読んでそれを参考にした 記憶はあまりない。  そのうちに書き手(ライター)として学会誌に関わるようになった。だが、そこ には苦難の道が待っていた。  筆者が血液型性格判断ブームの社会心理学的研究に手を染め、論文をA誌に投稿 したところ、「大学生の一部にしかおきていない現象を研究する意義はない」という ようなコメントを頂戴し、それだけの理由ではないが、見事不掲載になった。また、 血液型性格判断ブームの歴史を大正時代の教育心理学の状況に見いだした論文をB誌 に投稿した時は「血液型気質相関説に現代的意義があるとは思えない」というコメン トを頂戴し、それだけの理由ではないが、見事不掲載になった。  論点先取で言えば、研究の価値を云々するのは止めてほしいと思ったが、(今回 の教心の自主企画に参加した守や麓のように)編集委員会の採否に論争を挑もうとい う発想が無かったため、筆者はすごすごひきさがった*9。  なお、落ちた落ちたという話だけでは不公平かもしれないので、逆の例をあげて おくと、心理学史に関する共著論文をC誌に投稿した際は、「論文としての完成度は 高いとはいえない」「論文の質のレベルは高いとは言えない」とされながらも「貴重 な論文」とされて掲載を許可されたこともあった。 その後筆者は、あいついでD誌とE誌という学会誌の常任編集委員に推挙される 事態となった。  それまでの、リーダー及びライターとしての経験から感じていた学術誌の矛盾を 無くすべく、意気込んで始めた仕事であったが、思うに任せないことが多く、ここで も考えることが少なくなかった。 4 学会誌に関係するいくつかの方法   さて、ここまできてやっと論文の本題である。  学会誌に論文が投稿されると、それが何人かの人に読まれることになる。査読者 である。  査読者の数は雑誌によって異なるが、たいていは2人か3人である。2人の場合 、意見が割れた場合に3人目の査読者をたてることもある。この場合は最後の人がま さに論文の生殺与奪の権利を握ることになる。査読者が3人の場合には、2人は普通 の査読者、もう1人がやや役割の重い査読者であるケースが多い。  もちろん、学会誌はたいていの場合、編集委員会によって運営されているので、 最終的には編集委員会の判断によって掲載の可否が決定されることになる。  ところが、こういったプロセスについてそれほど自覚的な運営がなされていると は思えないのがわが心理学界の現状なのである。私たちは研究者ではあるが、学会誌 査読の方法についてまで習った人はいないのが普通である。たいていは自分の経験を もとにいわばモデリングによって他人の論文を読んで何か反応することになる。そう いった意味では、学会誌の査読のシステムがやや曖昧であっても仕方ないのかもしれ ない。しかし、事は重大である。『社会心理学研究』においては、編集委員長が、独 断で印刷前の論文の語句修正を行っていることが明るみにでた(1996年)。これなども 、学会誌に携わる人間の役割意識の曖昧さが絡んでいると思う。  そもそも、わが国において、歴史もあって権威も大きいとされる2つの学術誌『 心理学研究』と『教育心理学研究』において、「編集委員会」という同じ言葉を違う 意味で使っているのだから、学会誌システムに関与するあり方についての整理もされ ないし、査読者の自覚も育たないはずである。『教育心理学研究』において編集委員 会は、編集委員と常任編集委員からなる組織であり、査読は編集委員2名と常任編集 委員1名が行い、常任編集委員会で可否を決定する。一方、『心理学研究』において 編集委員会は編集委員によって構成されるものであり、常任編集委員という名称はな い。それでは編集委員のみで査読をするのかというとそうではなく、審査協力者とい う形で会員の中からふさわしい人を委嘱するのである。  では、査読についていったい何が混乱しているのだろうか。今ここで、学会誌に 投稿された論文を査読する立場をいくつかのコトバで現してみようと思う。  コメンテイター  レフリー  ジャッジ  エディター  である。また、査読以外の関わり方という意味では、リーダー(読み手)、ライ ター(書き手)そしてパブリッシャー(出版者)の3者も忘れてはならない。  コメンテイターというのは、論文に対して自分なりの見解を開陳する役割。  レフリーとジャッジは たとえばボクシングのことを考えてみれば分かりやすい。 レフリーは試合を進行する役割であり、ルールに則って試合を円滑に進行する役割を 担う。ジャッジは採点をする役割であり、判定に結びつく*10。  エディターは編集者であり、「雑誌」という媒体のあり方を総合的に考える必要 があり、読者の利便を考えることも重要であろう。  では、1つの論文が送られてきたときに、それぞれの役割はどのように考えてど のようなレスポンスをするのが順当なのか、ということを考えてみよう。  コメンテイターの場合は、簡単な誤字などがあれば指摘することはあっても、基 本的には論文自体に加除修正を求めることをせず、論文内容についてのコメントをす る。著者はコメントに従って論文を修正するのではなく、必要ならば再コメントを行 うことが求められる。  レフリーの場合は、その内容や形式が概ね学術論文のルールに従っているか、内 容に極端な間違いや標窃(パクリ)などが無いか、といったことを念頭におきつつ、 かといって単なるコメントをつけるのではなく、いわば助言のようなコメントをつける。  ジャッジの場合は、むしろ細かいことにあれこれ注文をつける必要はなく、その 論文が良い論文であるか悪い論文であるか、端的に言えば当該論文が掲載に値するか 否かを全体的に評価すればよい。  エディターの場合は、論文の内容がその雑誌に適合的であるか、読み手にとって 読みやすい論文であるか、といったことにも気を配る必要がある。「てにをは」や「 訳語」への指摘は、エディターであればこそ行い得ることである。もっとも、学術誌 は会員の成果発表の場であるから、大胆な編集介入が望まれているわけではない。  このように整理してみると、わが国心理学界の学術誌では、査読者は全ての役割 を担いながら、最終的にジャッジとして何らかの判定を下しているようである。もち ろん、雑誌によってその重点は異なっているだろう*11し、人によっても異なるだろ う。査読者は限られた人数であるから、どんな査読者に当たるかは実は投稿者にとっ て大問題であるが、建て前として査読者に違いはないことになっている。  なお、『心理学研究』や『教育心理学研究』に掲載された論文のことをレフリー ペーパーと呼ぶときがあるが、現状ではむしろジャッジドペーパーと呼ぶべきだと思 える。レフリーペーパーという名に相応しいのは、大学の紀要に類する学術誌で査読 者(たいては同僚)がすることに近いのではないだろうか。 4 ピア・レフリーで学会誌査読を!  筆者は学会誌というメディアを用いて研究成果を発表することに大きな意義を認 めるものである。そして、その際には他の学会員が投稿された論文を査読した上で掲 載するのが望ましいと考えている。研究論文の質を高めることは、研究者だけのため ではなく、学会のためでもなく、広く社会一般に対して研究者集団たる学会が課せら れた使命であり、そのためには掲載前の事前チェックはいずれにせよ欠かせないと考 えるからである。  学会誌審査の問題点を筆者なりに一言で述べれば、査読者のそれぞれの査読行為 の意味づけが明確になっていない、ということになる。  では、どうなれば良いだろうか。先ほどの4つの役割から考えてみたい。  まず、査読者がコメンテーターの役割をとってしまうという方法が考えられる。 研究者は諾否に恐れることなく自由に研究を行い自Rに投稿することができる。だが 、この方法だと、本当の意味で研究論文を高めることになりにくい。適切な批判をコ メントとして行うことはそれほど簡単ではない。  次に、査読者よりもエディターが力をもって学会誌を編集してしまう方法もある 。だが、この場合は、研究の内容自体が、研究者個人個人の興味よりも、エディター の意向によって決定される怖れがある。また、誰のどの論文を載せるかということま で任せることになると権威主義になってしまうことはみやすい。  では、査読者がジャッジの役割をとる場合はどうだろうか。この場合は、いわば 合否判定をするわけであるから、一定水準以上の論文のみが掲載されるという利点が ある。だが、不見識な査読者に担当された論文は浮かばれない。ここで不見識とは、 端的に言えば、論文で扱っている研究内容の価値判断をすることである*12。  筆者の場合は、血液型性格判断という通俗な問題をテーマにしているからかもし れないが、研究する価値がないという理由で論文が不採択になったのではやはり問題 である。筆者が第38回大会でたまたまポスター発表の話を聞いたある大学院生の投稿 論文に対しても「そのような現象は研究する価値がない」というコメントが付されて いたというから*13、それほど突飛なことではないのかもしれないが、これはおかし いことなのである。  なぜなら、投稿者は学会員であり、学会は学会員が支えているからである。その 学会員が何らかの価値を見いだして研究を行い論文執筆を行って投稿しているのであ るから、そこで既に価値はあるものと考えるべきなのである。ジャッジといえば判定 者であるから、投稿者よりも上位にあると考えるかもしれないが、学問のアマチュア (愛好者)が組織している学会の会員に上下関係は本来ありえない。  これに関連して、投稿者に反論権が与えられなければジャッジ制度は会員にとっ て抑圧的に働く可能性が高い。守の経験のように、編集委員会に質問を出しているの に返答がこないというのは論外だが、そもそも質問を出そうと言う気になる人は少な いだろうから、とりあえず反論ができるような形式を整えることが必要だろう。  もちろん、投稿者の反論権を確保するには形式を整えれば良いのではない。査読 者は投稿者に対して、単なる判定だけではなく、その判定にいたった理由を説得的に 開示する必要がある。麓(1996)は「目的や方法が不十分」というようなコメントは、 反証可能性の点からすると科学的な態度ではないと指摘している。もちろん、学会誌 の査読者も会員であり、それは無償の行為であるから、全てを完全に行うのは難しい 。だからこそ、投稿者の反論権のようなものが保証されていなければいけないのである。  だいたい、研究論文というのは、それまでの研究をふまえた上で何らかの新しさ があって初めて研究として認められるものである。だが、心理学界の論文では研究内 容の新しさが認められているとは言いがたく、むしろ旧来の研究を多少焼き直しした 研究の方がすんなりと掲載されてしまうということがある。坂野(1996)は、研究の斬 新性を評価するためには投稿者と査読者に双方向の意見交換があることが必要であり 、審査は審査者の価値基準を優先させてはならない、と論じている。  さて、学会誌の査読者のあり方についてここまでコメンテーター、エディター、 ジャッジという可能性を見てきたが、いずれも問題をはらんでいるようであった。最 後にレフリーというあり方を検討してみたい。  結論的には、ピアレフリーという言葉に象徴されるように、投稿者も査読者も仲 間なんだという意識をもって、判定・評価をするのではなく、レフリーをするのが一 番良いと考えられる。サッカーのレフリーでも、たとえば手がボールに触れる「ハン ド」という反則をいつどのようにとるかはレフリーにまかされている部分が多い*14。  何人かのレフリーが一致して「掲載は難しい」と考えるのであれば、その理由と ともに投稿者を説得すべきだし、そのような論文以外は掲載していくようにすれば良い。  学会誌の審査については、従来から、審査が加点法でなく減点法であることが問 題とされてきた。このような方式だと、穴の少ない研究論文が掲載されることになり 、ひいてはそのような研究が多く行われる結果をもたらす。具体的に言えば、外国の 研究で行われた問題意識を下敷きにして、少し条件を変えた研究である。このような 状況を打破するには加点法で論文を評価する必要があるが、結局のところ、「審査」 をする場合には、加点法でも従来的な論文が有利であり、斬新な研究は掲載されにく い。評価しようがない場合があるからである。既に述べたことではあるが、査読者が 審査や「判定」をやめなければ、加点法を用いてもその効果は薄い。筆者の乏しい経 験から言っても、「加点法を行ってほしい」というような要請は、結局のところ独創 的、意欲的、斬新な研究には適用されず、かえって従来的でオーソドックスな研究に 適用される結果になっていた。加点法は、評価する枠や基準が定まっているものに対 して有利に働らくことが多い。たとえば、わが国では現場心理学的な研究はやはり掲 載されにくい現状がある*15。  レフリーは審査しないという方針で査読し、その結果をうけて編集委員会が編集 上の観点から掲載の可否を判断するのが学会誌編集の1つのあり方だと思う。 5 学会誌でこそ研究を進展させよう  本論では、学会誌でよりよい論文発表するためのシステムのあり方を中心に論じ てきた。このような態度に対しては、いくつかの批判やあるいはより発展的な提案が 考えられるだろう。以下に3点を論じたい。  第一に、学会誌などに頼ることがそもそも権威主義的なのであり、勝手に研究し て勝手に論文発表すれば良いではないか、という意見も存在する。  確かに、学会誌にこだわる必要はないという意見には聞くべきところがある。実 際、研究発表が大事なのであって、それを発表する媒体(メディア)そのものが大事 なわけではないから、このような意見は妥当である。筆者自身も紀要への執筆や商業 誌からの執筆依頼に応えて書いたりすることが多くなってきた。だが、商業誌の問題 は脇におくとして、紀要の場合には、論文の情報が伝わりにくいという欠点がある。 大きな大学のそれなりに心理学に関連のある学部の紀要であればともかく、心理学者 の所属が多様に分散している現状では、心理学者が発表した紀要論文を網羅的に把握 することは不可能なのである*16。紀要論文は抜刷を多く印刷して、関連する分野の 人たちに送るのが通常であるが、この場合も、研究を始めたばかりの人たちはその和 から外れてしまうことになりがちである。  第二に、学会、学会と言っていることが問題であって、研究はひとりでやればい いではないか、という意見も同様に妥当ではあるが完全に正しいわけではない。確か に、学会誌に不掲載になったことを理由に学会を見限って去るという選択もありうる が、それはやはり本末転倒である。学会は学会員によって成り立っているのであり、 学会員の自助努力によって変化することこそが求められるのである。そうでなければ 、同じ思いをする会員が次々に去っていくことしか生み出さない。  一人一人の研究者がよりよい研究活動を可能にするために学会は存在しているの だし、そのことが広い意味での人類の発展に貢献できるのだと考えられる。システム 論議よりも、実際に研究をすることの方が重要だという指摘があるとすればそれには 賛同する*17。だが、システムのことを考えないがために、研究の方向がどこかおか しくなってしまうとしたらやはり問題なのである。  第三に、これは批判ではないが、原稿の学会誌編集が現に存在する以上、それの 改革は難しいので、むしろ学会内に複数の雑誌メディアを持つということが考えられ る。これは今回の自主シンポジウムで指定討論者の市川が提起したいことでもある。 具体的には、教育実践に関する論文について新しい学会誌を作るということであった かと思う。これは確かに魅力的であり、賛成する。メディアを多様にすることが研究 の多様性を確保することにつながることは論をまたない。ただ、1つの雑誌を構成し うるだけの論文が投稿されるかどうかという危惧が存在する。もちろん、雑誌が創刊 されれば投稿を喚起することになると思うが、雑誌ができて論文が少ない場合には、 現状より事態が悪化することになってしまうことに留意しなければならない。  なお、日本教育心理学会には1989年以来『教育心理学フォーラム・レポート』と いう制度がある。これは「研究成果の迅速な交換を助け」「既存の学会誌・大学紀要 などとしてはまとめにくい研究」などに「発表の場」を与える目的で行われているも のである(詳細は教育心理学フォーラム・レポート委員会規定=1994年日本教育心理 学会名簿p269を参照されたい)。  第四に、これも市川が発言したことだが、学術論文を読み査読をする力を養うこ とである。これについては大賛成である。詳しくは市川(1996)を参照されたい。 6 おわりに:心理学にこだわりつつ自由な立場で  何もそんなに「心理学」にしがみつく必要はないのではないか、という意見もあ りうるが、個人的には心理学のパラダイムはまだ捨てる必要はないと思っている。研 究もできるし、それに基づいて広い意味での人類の繁栄に貢献できると考えていると いうことである。  しかるに現在の学界状況を見ると、資格、ミニ学会並立(乱立)、学会誌査読( これは本論の主題であるが)、と多くの混乱(問題)を抱えていることが分かる。資 格のことで言えば、心理学関連の資格はこれから一体いくつになるのか見当もつかな い。もちろん、個々の資格には固有の歴史がありそれぞれに必要だと思われるが、そ れぞれが「心理学」とか「心理」という名前を使っているのであれば、そのキーワー ドが意味する本質をもっともっと考える必頼vがあると思われる。これらの問題は社会 とも直結する問題であるから、私たち一人一人が考える問題なのである。だが、こう いった混乱の根源には、心理学とは何かという根本的な問いが欠けているというのが 筆者の認識である。  資格を世に問うのもいいし、学会をいくつも作って研究を盛んにするのもいい。 だが、その時に、心理学とはいったい何であるのかという問題を考えていなければ、 事態は混乱するばかりだし、社会的な信用も失うだろう。学会誌のあり方を問うこと は、当然研究内容の問題とも関わってくるし、心理学全体の問題ともかかわってくる。  今回は、学会誌の問題のみをとりあげたが、制度が研究を規定しているというこ とについて、もっと自覚的になる必要があると思われるし、あるいは心理学的論文を 書くとはどういうことかについて分析することも必要だろう(尾見・川野、1996参照 )。不満ばかり言っていても仕方がない。  学問をするという営為を多少なりとも反省的に考えて、よりよい研究ができるよ うにと、心理学論の挑戦は続いていく(勝つと信じたい、今は)。   文献 麓信義 1996 論争が成立する条件:私の投稿経験から 教育心理学会第38回総会 、S100。 市川伸一 1996 『認知心理学者教育評価を語る』 北大路書房。 児玉斉二 1994 日本の心理学 梅本・大山(編) 『心理学史への招待』 サイ エンス社。 松田薫 1991 「血液型と性格」の社会史 河出書房新社。 溝口元 1994 昭和初頭の「血液型気質相関説」論争 詫摩・佐藤編『血液型と性 格』現代のエスプリ、324、67-76。 守一雄 1994 『チビクロサンボ』と『チビクロさんぽ』 季刊窓、22、41-53。 守一雄 1995a 「チビクロさんぽ」はどう評価されたか 信州大学教育学部紀要、 84、29-41。 守一雄 1995b 編集委員会はなぜ論争を忌避するのか:『教育心理学研究』誌の論 文審査の問題点 教育心理学会第37回総会、50。 尾見康博・川野健治 1996 納得の基準ー心理学者がしていること 人文学報(東 京都立大学)、269、31-58。 大村政男 1991 血液型と性格 福村出版。 坂野雄二 1996 学会誌の斬新性と独自性:学会誌編集をめぐって 教育心理学会 第38回総会、S101。 佐藤達哉 1996a わが国心理学界における現場心理学のあり方を巡って 発達心理 学研究、7、73-77。  佐藤達哉 1996b エディター・ジャッジ・レフリー・コメンテイター:学会誌と関 係するいくつかの方法 教育心理学会第38回総会、S101。 *1現所属 福島大学行政社会学部 *2ここで本論文における用語の説明を若干すれば、審査という言葉ではなく査読と いう言葉を使ったのは、審査には「判定」「評価」というニュアンスが強いからであ る。また、学会誌とは具体的に1996年時点で心理学関連の学会が発行している諸学会 誌と『心理学評論』のことをさしている。また、学会誌ではなく各大学(や学部)や 研究所が発行している紀要、学報、論集、論叢といったものは紀要と総称する。学術 誌と言う場合には学会誌と紀要を含むものとする。 *3たとえば、大学教員の人事採用をする立場の人が、『心理学研究』や『教育心理 学研究』に掲載された論文が少なくとも一定数以上ない場合には対象にならない、な どということを公言する人がいたりするのでいやが上にも権威が高まるのだと考えら れる。こういった発言の背景は分からないでもないが、論文についてその内容よりも パッケージで判断すると言っているわけであるから、本当に不誠実だと思う。 *4古い話をすれば、昭和初期に古川竹二によって投稿された論文「血液型による気 質の研究」によって、心理学はもちろんのこと、医学、教育学、遺伝学など広い範囲 で総計300本以上の研究論文が発表された大論争が起きている。なお、論争の結果古 川の提唱は否定されてしまった(松田、1991、溝口、1994、大村、1991)。 *5日本教育心理学会は現在この会議に参加していない。 *6アメリカ心理学会は1892年に設立され、1930年代には1000人ほどの規模となった 。だが、その後にアメリカ応用心理学会が、部会としてアメリカ心理学会に加わり、 ついで社会問題についての研究会である社会問題のための心理学研究会もまた傘下に 入ったために、1949年には会員数が10000万人に達し、1970年には30000万人を超え、 現在では49の部門と約40000人の会員を数えるにいたっている。 *7この点について、1972(昭和47)年の第20回国際心理学会議の準備や開催が、アメ リカ心理学会のような連合体方式が模索されかかったようだが、実現することはなか った。 *8なお、これらの雑誌のうち『心理学評論』は学会によって発行されているのでは なく、京都大学心理学研究室によって発行され、読者会員を募っている雑誌であり、 内容的にも評論的論文や特集論文を掲載しており、他の雑誌とはやや性格が異なる。 *9ちなみに、筆者はこれらの論文を書き直して他の雑誌に投稿して掲載可となった 。A誌に投稿した論文は書き直して2つに分け、A1誌とA2誌に投稿して採択され た。B誌に投稿した論文は(執筆枚数に余裕がでた分だけ詳しく書き直してB2誌に 投稿して採択された。 *10ボクシングというスポーツのメタファーで考えると、論文の投稿者と査読者の間 に闘いが存在するように思われるかもしれないが、そうではない。闘いということで 言うなら、研究者が闘っているのは現象・事象であり、査読者はその成果たる論文を レフリー、ジャッジとして扱う、ということになる。査読者は投稿者の闘う相手では ない。どちらかといえば仲間であるはずだ。 *11査読を委嘱される時には、査読の手引きのようなものが添付され、求められる行 動についての説明があるのが普通であるので、それなりに一致するはずである。 *12他にも不見識の例は多々ある。たとえば守(1994)の投稿論文は、短大か高校の児 童文化研究会の学生が発表するような研究だ、というコメントが付されていたという (守、1995a)。このほか、自分が常任編集委員をしていた時のこともいくつか書きた いが、職業上の守秘義務があると考えられるので具体的には書けない。こういっては なんだが、むちゃくちゃな話は少なからず存在する。強いて例をあげれば…、やはり 言えない。 *13自他の乏しい経験からすると、日常的な現象、若年者だけが行うような現象など を研究テーマとするとこのようなコメントがかえってくるようである。今ならばさし づめ、プリクラやルーズソックスなどをテーマにした研究をすればこのようなコメン トがかえってくるだろう(反証可能な問い)。このようなコメントでは、読者の価値 観が投稿者に押しつけられてしまっていて、学界における研究の新たな展開の芽をつ む可能性が高いと考えている。 *14数年前のワールドカップにおいてアルゼンチンのマラドーナはあろうことかジャ ンプしたときにボールを手にいれてゴールを奪ってしまった。 *15筆者はかつて、従来的な研究を「先行知見重視的・人工的・定量的・仮説検証的 ・反復的・データ主義的」であるとし、これらのうち1つでも異なる態度で研究する 姿勢が重要だとした(佐藤、1996aを参照)。 *16筆者のこの論文は『人文学報』に掲載されるためにそれなりに心理学徒の目にふ れると思うが、「心理学論(へ)の挑戦」と題して『行政社会論集』に掲載した拙稿 には誰も気づいていないだろう。また、筆者は現在日本の心理学史についての研究に 手を染めているが、先行研究の存在すらつかめなくて往生している。せっかく自分で 調査したと思ったら、既に紀要に書かれていた、などということが分かったりすると なおさら疲れが増す。紀要論文や研究報告書を網羅的に探すのは不可能だし時間的に も効率的とは言えない。 *17それなりに自由に研究ができ執筆するメディアも用途に応じて複数確保できてい るという筆者自身の今の立場を考えれば、本論文執筆の時間を研究時間、論文執筆時 間にあてた方が生産的だという気持ちは確かに自分にもある。だが、システムに抑圧 的な部分があるとしても、それは全員に対して働くのではなく、むしろ選択的に機能 する場合が多い。学会誌の査読システムの場合には、多くの場合若い研究者(=院生 )に対して機能するだろう。だから、自分が今自由に研究ができることをもって、こ のような問題に関与することを避けるのではなく、こういう時期だからこそ、この問 題を喚起する必要があると考えている。