学会誌審査のあり方をめぐって 企画者・司会者:守 一雄 (信州大学 kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp) 話題提供者:麓 信義 (弘前大学 fumoto@fed.hirosaki-u.ac.jp) 佐藤達哉 (福島大学 a096@mail.ipc.fukushima-u.ac.jp) 坂野雄二 (早稲田大学 wasbt@human.waseda.ac.jp) 指定討論者:市川伸一 (東京大学 ichikawa@educhan.p.u-tokyo.ac.jp) 岩立志津夫(静岡大学 s-iwatate@ed.shizuoka.ac.jp) 自主シンポジウム企画の経緯 論争が成立する条件:私の投稿経験から             守 一雄(信州大学) 麓 信義(弘前大学)  昨年の教育心理学会第37回総会において、「編   審査員と投稿者の論争を一般論としてみると、 集委員会はなぜ論争を忌避するのか:『教育心理 投稿者は投稿論文を完全だと思い、不採用とした 学研究』誌の論文審査の問題点」という発表を行 審査員はその審査結果を完全だと思っているので った。そこでは、『教育心理学研究』誌に投稿さ どちらかが間違っていることになる。新知見に関 れた守(1994)論文に対する編集委員会の審査過程 する議論であるから客観的物差しは存在せず、論 について@審査の実状をありのままに報告し、さ 争はどちらかが否を認めて合意になるか、主観的 らにA審査における問題点を指摘した。その問題 判断の相違だと双方が認めるかのどちらかに行き 点とは結局のところ「編集委員会が投稿者・審査 着くはずだ。たとえば、審査員が「被験者があと 者間の議論を忌避すること」である。投稿者であ 5人はほしい」と主張する場合は、後者の結末と る私は、学会員当然の権利として審査委員や編集 なる。この時は審査員の判断が優先されてよいが 委員会に質問状を提出し論争を挑んだが、論争は それ以外の論争は対等な立場で行われるべきであ ことごとく忌避されてしまった。 る。しかるに『教育心理学研究』への守論文の投 私の発表後の拡大編集委員会ではこの問題が議 稿の場合は「回答する必要がない」、筆者の『体 論されたらしい。それでも、丸1年たった今でも 育学研究』の論文の場合は「再回答しないことに 編集委員会からの直接の回答は得られないままで 決まった」という内容の文書で論争が途切れてし ある。その際、「編集委員と投稿者が参加し、シ まった。論争を通じて投稿論文の質を高めようと ンポジウムを行ってはどうか等の建設的な提案も する姿勢よりも、評価しようという姿勢があるか あった」(第43巻p.466)とのことであるが、編集 らではないか。そのためか「目的や方法が不十分」 委員会がイニシアチブをとってシンポジウムを企 というような、反論のしようがないコメントが付 画する様子がないので、投稿者が編集委員の一部 く場合がある。 の協力を得て、今回の自主シンポジウムを企画し 上の最後のコメントは、論争を進める上で障害 た次第である。 となる一例である。判断のみでその根拠が示され 本シンポジウムでは、審査者と投稿者間の論争 ていないので、投稿者は反論ができない。ポパー の不備をかねてから問題としてきている麓さんに の言うように反証可能性が科学理論だとすると、 「論争の成立する条件」について話題提供をお願 このようなコメントは科学的ではない。海外に投 いし、さらに、佐藤さんに学会誌審査における「 稿したとき、投稿者の論文を要約してそれにコメ エディター・ジャッジ・レフリー・コメンター」 ントを付けてきた例があったが、審査員が誤解し の違いについてお話をいただく。最後に、『教心 て読んでいないかがチェックできよい方法と思っ 研』の常任編集委員であり、他の多くの学会誌の た。日本の学会には論争しにくい体質があると感 編集長・編集委員をしている坂野さんに、編集す じる。 る側からの意見を述べていただく。  その根元は日本文化に根ざしている。「審査員  指定討論者にお招きしたお二人も『教心研』や は誤りを犯さない」という神話を維持したい学会 他の学会誌の編集委員の中心となって活躍してい の体質は「官僚は間違わない」という神話を維持 る方々である。大論争が起こることを期待する。 したいがために非論理的対応をする住専問題やエ イズ問題と同根であろう。論争の成立条件として  のではないか。もちろん、論文のライターや学会 は相互の対等性と問題点の指摘の具体性だが、そ  誌のリーダーの自覚的なリアクションも必要だろ れを阻んでいるものは日本社会にどう生きている  う。端的に言うとライターとリーダーの立場が弱 か(生きて行くか)に関する個々の研究者の姿勢  いということだが、自分たちで会費を負担してい であると思われる。シンポジウムでは具体例を挙  る側なのだから、もう少し積極的になってもいい げて問題提起したい。 だろう。   エディター・ジャッジ・レフリー・コメンター: 学会誌の斬新性と独自性:学会誌編集をめぐって 学会誌に関係するいくつかの方法             坂野雄二(早稲田大学)             佐藤達哉(福島大学)  『教育心理学研究』誌を始めとして、学会誌に  学問の成果の公表の方法にはさまざまなものが は当該の研究領域における最新の情報を提供し、 あり得る。中でも、研究者(およびそのタマゴ) 斯界の発展に寄与する責務がある。演者はこれま が自主的に集って経費を自己負担して会を運営す で、『教育心理学研究』誌の常任編集委員の他、 るいわゆる「学会」なる組織が、研究水準を高め 国内学会誌の編集委員長、副編集委員長、編集委 たり維持するために言論メディア(学会誌)を持 員、および海外雑誌の常任編集委員として幾つか つ意義は小さくない。多くの学会誌では査読制度 の学会誌の編集に携わる機会を持つことができた。 が研究論文の性質を事実上決定しているが、わが そうした中で、学会誌の学会および社会に対する 国の心理学界では、第一線の研究が学会誌に常に 貢献という観点から、学会誌の審査・編集の過程 掲載されていると自信をもって言えるだろうか。 において重要であると思われる点をまとめ、学会 そうでないなら、それが何に由来するのかを真剣 誌の今後の方向性について論じてみたい。 に考える必要があるだろう。そのことを考える切  審査に付される論文において投稿者は、その個 り口としていくつかのタームを話題提供してみた 人なりに研究の斬新性を主張し、投稿を行ってい い。 る。この時審査のプロセスでは、当該の論文で投  私が投稿者や査読者といった役割を担う機会に 稿者が訴えようとしている斬新性を客観的に評価 恵まれた時、最も大きく感じた疑問は、「いった の対象とするとともに、そこで投稿者と審査者の い査読者は自分がどのような役割を担っていると 間での双方向的な意見交換のあることが斬新性を 考えているのか?」ということであった。このこ  正当に評価する重要なポイントとなる。審査は審 とは、自分が投稿した論文に対するコメントを見 査者の価値基準を優先させて審査するものではな た時も、編集委員として他の査読者のコメントを い。 見た時も共通に感じたことである。  ところで、演者自身がここ最近10年余りの間に  査読者は自分がエディターなのかジャッジなの 発表した論文の掲載雑誌の種類は邦文誌で17種類、 かレフリーなのかコメンテイターなのか分かって 英文誌で7種類となっている。雑誌の種類が何故 いない(と思われる)人が多かった。 多いかという理由は、研究の内容がどの雑誌のね  コメンテイターというのは、論文に対して自分 らいや読者に適合しているか、あるいは、どの雑 なりのコメントを付ける役割。レフリーとジャッ 誌に掲載されると情報を効果的に提供できるかと ジは、たとえばボクシングのことを考えてみれば 考えているところにある。心理学の領域が細分化 分かりやすい。レフリーはルールを守って試合を されるだけではなく、学術雑誌も小さな専門領域 進行し、ジャッジは採点をする。 に分かれて発行されるようになっている今日、単  エディターは、雑誌全体のことを考え、また読 に論文が掲載されれば良いというのではなく、研 者の利便を考えることも必要になるだろう。「て 究の成果を適切な媒体を通じて如何に社会的に還 にをは」や「訳語」への指摘は、エディターであ 元するかを考えると、論文内容と雑誌の適合性を ればこそ行い得ることである。 考えることはきわめて大切なことであると考えら  査読者の役割は、学会誌の性質や編集方針にも れる。また、論文内容と雑誌の適合性の問題を論 よるが、上記の役割が自覚されていれば投稿者と 文審査のポイントとすることは、当該の雑誌の独 の不要なアツレキ、査読者間の齟齬も少なくなる 自性を発揮する機会ともなると思われる。