Critical Comments on the Peer Review Practices

「チビクロさんぽ」はどう評価されたか

『教育心理学研究』『読書科学』編集委員会の不当な審査に抗議する

守 一雄


T.はじめに

 本稿は、『教育心理学研究』誌および『読書科学』誌に投稿された守(1994)論文に対する両誌編集委員会の審査過程について、@そのお粗末な審査の実状をありのままに報告し、さらに、A学会誌の審査における問題点を指摘したものである。同じような趣旨の論文に麓(1986)がある。麓(1986)が批判している学会誌は『体育学研究』であるが、日本の多くの学会誌に同じような「体質」があると思われる。本稿や麓(1986)のような問題提起が、もっと頻繁に行われるようになれば、学会誌編集の「体質改善」にいくらかでも役立つのではないかと考える次第である。


U.守(1994)論文の概要


 ヘレン・バナマン (Helen Bannerman) 原作の『ちびくろサンボ(原題 The Story of Little Black Sambo)』は黒人に対する差別本であるという理由で日本語版のすべてが絶版となっている。その主たる理由は、西欧社会において歴史的に黒人への蔑称であった「サンボ」という言葉が使われていることであった。
 一方で、この物語が日本の子どもたちに大変人気があり親しまれてきたことから、絶版を惜しむ声も多い。そこで、「サンボ」という蔑称を使わずに、主人公を「チビクロ」という名の犬に置き換えて、物語を書き換えた改話を作った。しかし、改話を作っても、原作の持っていたおもしろさが損なわれたのでは、意味がない。そこで、改話が、原作と同様のおもしろさを保持しているかどうかについて実験的に検証を試みた。
 被験者には幼稚園4歳児54名(男子26名、女子28名)を用い、27名ずつ以下の2条件に割り振った。
 「サンボ」群:原話『ちびくろサンボ』と『ぐりとぐら』を比較する
 「チビクロ」群:改話『チビクロさんぽ』と『ぐりとぐら』を比較する
 その際、3つのお話は、紙芝居にしたものを用いた。どちらの条件でも、紙芝居を見せる順序は、『ぐりとぐら』を先にし、2つの紙芝居が終わった直後に、被験者一人ずつに次の質問をし、どちらがおもしろかったかを口頭で回答させた。
 実験の結果、『ぐりとぐら』に比べ原話または改話をよりおもしろいとする子どもの数にはほとんど差がなかった。Cohen(1988)の検定力分析法によれば、改話『チビクロさんぽ』が原話のおもしろさを著しく損ねた(w=.50)という対立仮説は95%以上の確率で棄却されることがわかった。つまり、どちらの話もほぼ同程度のおもしろさであると子どもたちに判断されたわけである。
 この結果から、少なくとも子どもたちは『ちびくろサンボ』のおもしろさを「黒人に対する差別心」や「『サンボ』という言葉そのもの」から得ているわけではないことも判明した。


V.『教育心理学研究』編集委員会の頑なさ


 守(1994)論文は、1993年3月にまず『教育心理学研究』誌に投稿された。『教育心理学研究』誌は、日本教育心理学会の機関誌として、学校教育や子どもの発達などに関する諸現象について、心理学的な研究論文の発表の場となっている。

1.『教育心理学研究』編集委員会とのやりとりの概要
@1993年3月   『教育心理学研究』への投稿
 (1993年3月18日付け「原稿お預かり証」ハガキ)
A1993年4月22日 「不採択」という審査結果と審査者3名のコメント
B1994年1月27日 審査結果への異議申し立て
 「審査委員が重大な事実誤認をしていたり、学会誌の審査委員の権限を逸脱する判断をしていたりすること」への異議申し立て
C1994年3月19日 編集委員長(高橋恵子聖心女子大学教授)からの返事
 「「不採択」の理由が委員会側の事実誤認に基づくか否かを審議いたしました。」「「不採択」の根拠は、研究方法、並びに、結果の不十分さによるものとの判断が3審査者で一致しているとの結論を再確認いたしました。」
D1994年3月28日 各審査者への反論を添えて、再投稿
E1994年5月21日 編集委員長からの返事
 「(審査委員への)ご異議は当編集委員会への異議として受けとめ、慎重審議し、事実誤認がなかったことを再確認致しました。」
F1994年6月15日 編集委員会への質問状送付
 各審査者への反論を編集委員会がどう考えるのかなど18項目の質問を送付
G1994年7月28日 編集委員長からの返事
 「「不採択」という結論には変わりがないことを再確認いたしました。」とあるだけで18項目の質問への回答なし
H1994年8月1日 18項目の質問に回答するよう督促
I1994年11月現在、編集委員会からの返答なし

 これらの経緯をまとめてみると、論文の内容について実質的な論争がなされたのは@の投稿に対してAの審査結果が送られてきたときだけである。編集委員会は著者の働きかけに形式的には回答をしているものの、その回答は基本的に「審査者全員が不採択と判断したのだから最終結果は不採択だ」ということを繰り返しているだけで、編集委員会みずからが内容に立ち入った判断をすることを避けている。つまり、『教育心理学研究』誌における審査とは基本的に1回限りのもので、そこで「不採択」となった場合には、どのような形で反論しようが、編集委員会は内容的な再審査を行おうとしないのである。

2.各審査者のコメントとその問題点
 実質的な審査はすべて審査委員に任せてしまうという編集方針自体も問題であるが、審査委員の審査が適正に行われていれば、現実には問題は生じない。しかし、審査委員の審査もお粗末なものである。以下では、審査結果(A)とともに送られてきた各審査者のコメントを原文のまま公開する。

(1.1)審査委員Aのコメント全文
 1.問題(改話と原作の面白さの比較)の意義について納得できない。
 2.納得がいかなくても充分な証拠が得られていれば、資料として採択に賛成するが、充分な証拠が出ていると思えない。

 1.問題について
 1)「ちびくろサンボ」は多くの子どもを楽しませたお話しだが、問題点が指摘され、消えてしまった。これの改作を子どもに与える必要はない。オリジナルで子どもの喜ぶお話しが沢山あるし、「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話しを作るだろう。
 2)子どもたちは差別的な要素に基づいて面白がっているわけではないことを実証するというのが目的となっている。差別的な要素にもとづいて面白がっているのではないが、知らず知らずのうちに差別観を植え付けるものである(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。たとえば、ダッコちゃん人形も差別を面白がって持って歩いていたわけではないが、差別的な扱いであると気づいた人からそのような指摘がなされ、多くの人がそれに気づくに至った。
 3)口調の良さは大切な要素の一つであることは認めるが、だからと言って、タイトルを語感のよく似た「チビクロさんぽ」とするのは反対。語感だけは似ているが、タイトルの具えるべき条件を満たしていない。この話しのタイトルとして、「チビクロさんぽ」が適しているとはいえないし、そうするとしても「チビクロのさんぽ」というのが、日本語での自然な表現であろう。

 2.証拠について
 1)表1を見ると、「サンボ」も「さんぽ」も「ぐりとぐら」も差がない。つまりこの年齢、このやり方ではどのお話しを聞かせても同じ様な結果がでるのではないか。
 2)おもしろさのとらえ方もおおざっぱに過ぎる。(村瀬孝雄氏は「ちびくろサンボ」の面白さを幾つか挙げて分析している。注(1):所在不明)少なくとも、繰り返し読んで欲しいとリクエストがあるかどうかなどは調べる必要があろう。

(1.2)審査委員Aのコメントの問題点
 審査委員A氏は、「問題(改話と原作の面白さの比較)の意義について納得できない。」として、3つの論点を提示している。その第一は、「1)@「ちびくろサンボ」は多くの子どもを楽しませたお話しだが、問題点が指摘され、消えてしまった。Aこれの改作を子どもに与える必要はない。Bオリジナルで子どもの喜ぶお話しが沢山あるし、C「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話しを作るだろう。(丸数字は引用者が加筆)」というものである。
 ここには、少なくとも4つの問題発言が含まれている。まず、@「ちびくろサンボ」が絶版となった経緯について、現状を無条件に肯定してしまっている。投稿論文は、この絶版となった理由の一つに異議を唱えるために行なった研究である。異論が出されている問題に対して、現状を単に肯定する態度は科学者足り得ないものである。
 次に、A「改作を子どもに与える必要はない。」と言い切っている。誰がどんなものを子どもに読んで聞かせようと自由なはずである。『教育心理学研究』の審査委員は、何を子どもに与えるべきかの絶対的な判断力を持っていると自認しているのだろうか。
 第Bに、他に良い話があることは、特定の話の存在意義を認めないことの理由にはならない。この論理に従うと、新しい童話や絵本を創作する意義はまったく認められないことになる。
 第4に、C「「ちびくろサンボ」で育った世代がどんどん新しいお話しを作るだろう。」とのことであるが、それでは「ちびくろサンボ」が与えられなかった世代は、次の世代にどんなお話を作り出せるのだろう。また、「ちびくろサンボ」で育った世代は、「ちびくろサンボ」が「知らず知らずのうちに差別観を植え付けるものである」から、差別観いっぱいの話を作ってしまうのではないだろうか。(「そんな心配はない」というのが投稿論文の研究結果であり、審査委員Aは、まさにそのコメントで「差別的な要素にもとづいて面白がっているのではないが、知らず知らずのうちに差別観を植え付けるものである(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。」と述べて、「ちびくろサンボ」の差別性を消極的ながら肯定しているのであるから、自己矛盾である。)
 この「差別的な要素にもとづいて・・・(かもしれぬ)ことが懸念されているのであろう。」という第二の論点も、上述と同じ理由で問題である。「(かもしれぬ)」とか「懸念されているのだろう」とか、確定されていない部分こそを実証的に研究しようとしているにもかかわらず、根拠もなしに、「ちびくろサンボ」が悪書であるという立場を取り続けている。
 第三の論点は、研究の意義を評価する上でまったく的外れである。「タイトルを語感のよく似た「チビクロさんぽ」とするのは反対」と言われても、そういうタイトルで現に実験が行なわれているのである。出版社で市販する絵本のタイトルを決めるための会議に出席しているのとはわけが違う。審査委員の好みを押しつけられても困るのである。
 A氏は、「「チビクロのさんぽ」というのが、日本語での自然な表現であろう」と述べているが、そんなことは「百も承知」である。投稿者は、あえて『ちびくろサンボ』との類似性の方を重視したというだけのことである。投稿者の日本語能力を疑われているようで不愉快でもある。
 審査委員A氏は、また、「[問題の意義について]納得がいかなくても充分な証拠が得られていれば、資料として採択に賛成するが、充分な証拠が出ていると思えない。」として、新たな2点を論点として挙げている。その第1は、「この年齢、このやり方ではどのお話しを聞かせても同じ様な結果がでるのではないか。」というものである。確かに、こうした疑問が残される余地がある。しかし、4・5歳児を用いた研究において、こうした疑問がまったくないような実験を行なうことはほとんど不可能である。(疑問の余地が残らないような実験データは、そもそも実験するまでもなく分かりきったことを「形だけ厳密に」調べてみたに過ぎない。)
 この点に関して、審査委員A氏は、第2に、「おもしろさのとらえ方もおおざっぱに過ぎる。少なくとも、繰り返し読んで欲しいとリクエストがあるかどうかなどは調べる必要があろう。」とも述べている。この点は、表現こそ違え、他の審査委員からも共通して指摘されている点である。(他の審査委員は、「素朴でシンプル」「あまりに単純」と表現している。)しかし、審査委員は、誰も、この研究が先駆的な研究であることを忘れている。改話された童話が、原話と同程度の面白さを持っているかどうかを調べるという研究目的そのものが「素朴でシンプル」であるために、「あまりに単純」に見えたり、「おおざっぱ過ぎる」ように見えたりするのである。研究目的が単純な研究をあえて複雑にしなければならない必然性はない。(あるとすれば、いかにもスゴイ研究をしましたヨという「体裁づけ」のためだけである。)
 審査委員A氏は、この研究の背景となる社会現象について、あまりに無頓着で、現状を無批判に肯定してしまうなど、およそ物事の審査に向いていないように思われる。

(2.1)審査委員Bのコメント全文
  斬新なテーマを取り上げた論文であり、教育心理学研究誌に新たな領域の内容を示すという意味での意義を認めます。ただし、研究の背景、実験そのものはあまりにも単純で、納得させる手続きで実施されたものとは思えません。以下の点をご検討下さい。
*「問題」部分で「ちびくろサンボ」をめぐる論争のみを取り上げているが、その背景として、言葉と差別・偏見などについての言語社会学的な研究、「おもしろさ」について取り上げた秋田喜代美氏の教育心理学研究誌論文(注(2)秋田喜代美(1991)物語の詳しさがおもしろさに及ぼす効果(『教 育心理学研究』第39巻第2号pp.133-142.)と思われる。)など、参照すべき論文はあるにもかかわらず、それらを全く取り上げていない。少なくとも研究のキー概念である「面白さ」をどう定義づけるのかは明示すべきです。
*面白さを検討するのに「どちらが面白いか」のみを聞いただけというのは、あまりにもお粗末な研究と言わざるをえません。これでよいのなら、意欲を検討するのに「意欲がありますか?」、理解を検討するのに「理解してますか?」で済んでしまうことになります。そんな研究が認められないのはおわかりと思いますが。 *どちらが面白いかを比較する際に「ぐりとぐら」との比較で、双方とも大差ないから同程度の面白さだとしていますが、乱暴な議論ではないでしょうか。他の話と比較するのと、「サンボ」と「さんぽ」を直接比較した場合とで同じような結果が出る保証があるでしょうか?とてもそうとは思えないのですが。

(2.2)審査委員Bのコメントの問題点
 審査委員B氏は、A氏と違い、本研究の意義を基本的には認めているようである。B氏は、もっぱら、研究の内容の方に難点を見つけ、3つの論点を挙げている。
 その第一は、@「参照すべき論文が全く」引用されていないこととA「研究のキー概念である「面白さ」をどう定義づけるのか[が明示されていない]」ことである。@に関して言えば、全く引用されていないというのは、事実誤認である。「言葉と差別・偏見などについての言語社会学的な研究」に関しては、そのまとめとなっている杉尾・棚橋(1990)を引用している。B氏は、この本を読んでいないのではないだろうか?また、『教育心理学研究』に掲載された秋田論文(1991)が引用されていないことも批判しているが、秋田論文は引用に値しないと投稿者が判断したからこそ引用しなかったものである。秋田論文と投稿論文とは、被験者も題材も研究目的も異なる論文であり、参考までに引用しても構わないが、引用することが不可欠な論文ではない。「面白さが明示的に定義されていない」とB氏が批判するAに関して言えば、まさにB氏が参照すべきであると推奨している秋田論文にもおもしろさの定義は明示されていない。そもそも、「おもしろさ」といった基本的な感情を定義することは簡単ではないし、定義したところでその定義が適切であることの保証は何もない。
 B氏が指摘する第二の論点は、「面白さを検討するのに「どちらが面白いか」のみを聞いただけというのは、あまりにもお粗末な研究と言わざるをえません。」というものである。これは、まさしく事実誤認である。投稿論文では、どちらが面白いかのみを聞いたわけではない。@どちらがおもしろかったかAおもしろかった紙芝居で、一番おもしろかった場面はどこか、の少なくとも2点を、幼児一人一人に聞いているのである。B氏はまた、「これでよいのなら、意欲を検討するのに「意欲がありますか?」、理解を検討するのに「理解してますか?」で済んでしまうことになります。そんな研究が認められないのはおわかりと思いますが。」とも書いている。一読するともっともなようにも思えるが、意欲や理解とおもしろさとが安易に同列に並べて論じられていることや、被験者の年齢が考慮されていないことがこの主張の難点である。幼児に「意欲がありますか」と聞いても、幼児の意欲を調べることはできない。しかし、幼児に「どちらがおもしろかったか」を尋ねることは可能であり、しかも、4・5歳の幼児ならば、この直接的な質問がいちばん効果的である。(有名なピアジェの保存の実験でも、幼児に「どちらが長いか」「どちらが重いか」を聞いているが、「あまりにもお粗末な研究と言わ」れたりしていないではないか。長さの判断は言語的な質問でよくて、面白さの判断はいけないと言うのであろうか。)
 B氏は、第三の論点として、「どちらが面白いかを比較する際に「ぐりとぐら」との比較で、双方とも大差ないから同程度の面白さだとしていますが、乱暴な議論ではないでしょうか。他の話と比較するのと、「サンボ」と「さんぽ」を直接比較した場合とで同じような結果が出る保証があるでしょうか?とてもそうとは思えないのですが。」とも言っている。B氏は、心理学的測定法の初歩も知らないらしい。登場人物以外は、まったく同じ話を直接に比較することは幼児には無理であり、だからこそ、こうした測定方法が取られたのである。こうした測定方法の工夫は、肯定的に評価されることはあっても、B氏のように否定的に評価する理由にはならない。

(3.1)審査委員Cのコメント全文
 本研究の意義は十分に認めますが、以下の二つの理由により、内容的に教育心理学研究に掲載するのは不適当であると判断いたします。
(1)理論的にも方法論的にも、教育心理学ならではの切り口(専門性)が認められない。例えば「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけて研究が計画され、それ相応の専門的な分析と論議がなされていれば話は別ですが、この程度の素朴でシンプルな研究なら、教育心理学者でなくても(例えば短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない)行なえるのではないでしょうか。
(2)とは言え、社会問題にもなったシリアスな問題にも関心を持ち、それについて教育心理学の立場からも発言しようとする積極的な姿勢には共感を覚えます。しかし、その場合のメッセージは、教育心理学会の外側に向けて発せられるべきではないでしょうか。だとすれば、「教育心理学研究」のような同業者の専門誌よりも、例えば「読書科学」のような学際的雑誌に発表されるほうが適切ではないかと考えます(本研究の一部は日本読書学会で報告されている、とのことでもあるし)。

(3.2)審査委員Cのコメントの問題点
 審査委員C氏が、この論文を『教育心理学研究』に掲載不適当と判断する理由は2点である。
 その第一は、「@理論的にも方法論的にも、教育心理学ならではの切り口(専門性)が認められない。A例えば「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけて研究が計画され、それ相応の専門的な分析と論議がなされていれば話は別ですが、Bこの程度の素朴でシンプルな研究なら、教育心理学者でなくても(例えば短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない)行なえるのではないでしょうか。(丸数字は引用者が加筆)」というもので、辛辣なコメントである。
 @に関して言えば、「教育心理学ならではの切り口(専門性)が認められない」という判断はきわめて残念である。「差別だ」「差別でない」という不毛な水掛論だけが横行している中で、「実証性」を基礎に実験的にその差別性を検証しようとしたこの研究は、まさに「教育心理学ならでは」のものではないだろうか。C氏は、あまりに狭い観点からものを見ていないだろうか?「ちびくろサンボ」問題は、言語社会学、児童文学、人権教育、道徳論など広い領域にわたる問題である。そうした問題に、国語教育者や児童文学者にはない「実証性なデータを出して論じる」という視点を持ち込んだことこそが、「教育心理学ならではの切り口」であることに気づかなかったようである。
 Aに関しては、「研究の目的が違う」としか答えようがない。確かに、本研究を「「ユーモア感覚の発達」とか「愛他行動(人権意識)の発達」などのテーマと関連づけ」たならば、素晴らしい研究となるに違いない。いずれ投稿者自身や他の研究者がそうした研究に発展させていくことが望まれる。しかし、この研究の目的は、「『ちびくろサンボ』における差別性の無さの検証」であって、「ユーモア感覚の発達」や「愛他行動(人権意識)の発達」ではない。
 Bの指摘に関しては、怒りを覚えたが、ここでは笑って「それはコロンブスの卵です」とお答えしたい。「こんな研究なら私にもできるさ」と思わせるような研究も、それを初めにやるのは、それなりの苦労と工夫が必要なのである。バカにしないでもらいたい。「短大か高校の児童文化研究会の学生が文化祭で発表していても不思議ではない」とのことであるが、全国どこででもそうした発表はなされていないはずであると、投稿者は確信している。
 C氏がこの投稿論文を「不採択」と判断するもう一つの理由は、「@しかし、その場合のメッセージは、教育心理学会の外側に向けて発せられるべきではないでしょうか。Aだとすれば、「教育心理学研究」のような同業者の専門誌よりも、例えば「読書科学」のような学際的雑誌に発表されるほうが適切ではないかと考えます。(丸数字は引用者が加筆)」である。
 ここでは、基本的に投稿論文が公刊に値するものであるとの肯定的な評価が与えられている(これはウレシイ)。しかし、ここにも、2つの大きな問題点がある。第1に、@に関して、なぜこうしたメッセージが「教育心理学会の外側に向けて発せられるべき」なのであろうか。外側にも内側にも発せられてしかるべきではないか。第2に、Aにおける『教育心理学研究』の性格づけは、あまりに内輪主義すぎないか。C氏の主張には、『教育心理学研究』は同業者だけに読まれていればよいといった響きが感じられる。『教育心理学研究』がもっと広く教育に関係する人々に読まれるよう努力すべきであるし(ちなみに、投稿者の所属する大学では、『教育心理学研究』は『科学』や『文芸春秋』といっしょに附属図書館の雑誌閲覧室に置かれ、教官・学生誰もが自由に読むことができるようになっている。)、そのためにも当該投稿論文のような論文を「同業者」向きでないという理由だけで拒絶しない編集方針が取られることを強く希望するものである。

3.まとめ
 投稿された論文が、審査者に不当に審査され、「不採択」となった。そして、その審査の不当性を個々のコメントに反論しながら、編集委員会に訴えたのに対し、編集委員会は、頑なにその審査結果を見直そうとしなかった。投稿論文が学会誌論文として採択されるべきであるかの最終判断は編集委員会がなすものであることは認める。しかし、そうした判断がなされる前には、編集委員会と投稿者との間で充分な論議が尽くされるべきである。こうした論議をとおしてこそ学問の進展が期待されるのであり、学会は研究発表の場であるとともに論争の場であるはずである。ところが、『教育心理学研究』編集委員会のこうした対応は、論争をできるだけ避けようとしているものである。しかも、編集委員会への直接の質問(F)にもまったく回答していない。


W.『読書科学』編集委員会のお粗末さ


 守(1994)論文は『読書科学』誌にも投稿された。『読書科学』誌は、日本読書学会の機関誌で、読書教育や読書研究などの研究発表にあてられている。なお、守(1994)論文の概要は、日本読書学会第36回研究大会(1992)において口頭発表もされている。

1.『読書科学』編集委員会とのやりとりの概要
@1993年5月   『読書科学』への投稿
A1993年10月27日「修正再審査」という審査結果と「査読者の意見」と題するコメント
B1993年11月3日 「査読者の意見」に反論を添えて、基本的に@を変更せずに再投稿
C1993年11月29日再投稿論文は「不採択」との審査結果と審査者2名のコメント
D1993年12月3日 審査者2名のうち、1名は「採用」としていたので、残りの1名のコメントについて反論を添えて、審査結果への異議申し立て
E1994年1月22日 編集委員長(鳴島甫筑波大学助教授)名で「登載する以上はこの論争[今日の差別の問題を科学的根拠のあるなしで論ずること:引用者]を誌上でも引き受ける覚悟をしなければなりません。はたして今後どれだけ「読書の科学」として有効な論争が期待できるか、混乱をひきおこすだけではないのか、等を考えた時、採択に踏み切ることはできませんでした。」と回答。つまり「論争を誌上でも引き受ける覚悟がない」というなさけない理由で「不採択」にしたことを自ら認めた。

 『読書科学』誌の審査方法には不透明な部分が多い。査読者が何名であるのかさえはっきりしない。また、上述のやりとりの中でも最初の審査結果の連絡(A)では、編集委員長が査読者の意見をまとめて「査読者の意見」としていた。しかし、再投稿後の連絡(C)では、査読者2名のコメントが添付されていた。その内の一人は、「本投稿論文もひとつの視点を提供していると思いますので、「採用」と判定いたしました。」と評定している。どうやら、少なくとも数人で行われた審査過程で相反する判定が出たために、編集委員長が最終的な決定をしたようである。

2.各審査者のコメントとその問題点
 『読書科学』の査読者の複数が当該投稿論文に批判的なコメントをしている。しかし、これらのコメントも『教育心理学研究』の審査委員と同様に、お粗末なものである。そこで、以下にその全文を掲載し、その問題点を指摘する。(ただしここでは、『教育心理学研究』の審査委員への反論と重複する部分も多いため、反論の一部は省略した。)

(1.1)査読者αのコメント(査読者αは個人ではなく、複数の査読者の意見を編集委員長がまとめたものであるという)
@この論文は、学生の卒論(卒業研究)をまとめたものである。指導教官であっても、これを個人論文の形で発表するのは、例え注で断わったとしても好ましくない。二名連著の論文とするのが「読書科学」誌の方針である。
A「ちびくろサンボ」は日本の子供にとって差別的意味を持っていない。差別的なおもしろさを子供が喜んでいるのではないのは明らかで、「差別だ」というのは一部の大人が騒ぎ立てているだけである。従って「改話」が原作と同様に喜ばれるかどうかという研究は査読者にはあまり意味がないように思われる。それをなぜ実証的データで証明しようとするのか、もっとはっきり書いてほしい。
B9ページに書かれているように、年配者の中にこのような差別をおもしろがっている人々がいるとするならば、(これも黒人差別をおもしろがっているのかどうか断定できないと思うが)、一連の「ちびくろサンボ」論争の一資料として記録を残しておくことは、消極的ではあるが、意味のあることであろう。また、調査方法などはよく出来ている。
Cそこで「著者はなぜこのような分かりきったことを実験的に検証しようとしているんだろう」と思わせないような文章をもっとたくさん挿入して、読み手が最後まで読みつづけてくれるような論文に編成しなおしてほしい。

(1.2)査読者αのコメントの問題点
@通常の学会誌論文審査では、審査は投稿論文の著者が誰であるかがわからないようになっている「覆面審査」の手続きがとられる。しかし、『読書科学』の場合にはそうでないようである。もし「覆面審査」の手続きがとられているのならば、投稿論文が単独著者によるものかどうかが査読者にわかるはずがない。この点に関して、事務局に問い合わせたところ、事務局長から「「査読者の意見」は3人の査読者の意見が極端にばらばらであった為、編集委員長の判断で中央の意見を採用し、それに編集委員長としてのコメント(著者名の扱いについて)を加えたもの」である旨の回答を得た。しかし、その後のやりとりから考えて、編集委員長が査読者のひとりであることは間違いがない。実質的に「覆面審査」になっていないのである。
 卒業研究を発表する際に学生と指導教官の連名にするというのが『読書科学』誌の方針であるそうであるが、こうした方針が読書科学会会員に明示されたことはない。どうやら、編集委員長の見解がそのまま学会誌の方針になってしまうようである。もっとも、その後「こうした方針がどこに明示されているのか」を再三にわたって問い合わせた結果、『読書科学』第38巻第1号(平成6年4月1日発行とされているが実際には半年遅れで発行)に「編集公告」として「学生の卒業論文等を、指導教官が自らの単著論文として発表することは認めていません。指導教官と学生との共著論文として発表して下さい。」という1文が掲載された。日本読書学会は、こんなことを本当に発表してしまう不思議な学会である。
 A(反論略)
 B(反論略)
 C(反論略)

(2.1)審査者βのコメントの全文
1.本研究においては、「原作の差別性を排除し、改作を行なった」ことになっているが、予め原作の差別性(「ちびくろ」、「サンボ」などの意味)を、4歳児が認識または理解しているかを確認しているわけではない。仮に、予め調べたとしても、4歳児には、この種の差別性(語意味、絵、思想など)を理解することは困難である。つまり、原作と改作を比較するための「差別性の有無」は実験変数として設定されたことにはなっていない。著者は実験結果から、「子どもたちは、『ちびくろサンボ』のおもしろさを『黒人に対する差別心』や『サンボ』という言葉そのものから得ているわけではないことがわかった」と結論づけているが、上記の理由から、この解釈には根拠が認められない。
2.ある一つの物語に見られる差別的要素と、物語全体のおもしろさとは、本来次元が異なっている。被験者により、物語の中の「おもしろかった場面」に差別性のある部分が指摘されなかったからといって、物語全体のおもしろさと差別性との関連性を否定するような結論に導くことはできない。
3.わずか27名ずつ、2群の4歳児の言語報告をもとにして得た、統計的検定にも耐えられないような数値の本研究のデータは、「実験的・客観的データ」としての説得力を欠いている。
4.本研究の著者による「差別性」のとらえ方、および差別改善の態度が安易かつ軽薄である。
 著者は、「ちびくろサンボ」の差別的である点として、東郷(1990)らの指摘した3点、(1)西欧社会において歴史的に黒人への蔑称である「サンボ」が使われている (2)イラストにステレオタイプ化された黒人像が用いられている (3)ストーリーが黒人を野蛮人として描いている、を挙げているが、(2),(3)に対しては、「必ずしも差別的であるとは言い切れない」との見解をとり、主として「サンボ」しか問題にしていない。 そこで、主人公名の「サンボ」を「チビクロ」に、タイトルの「サンボ」を「さんぽ(散歩)」に置き換えている。「チビクロ」の「チビ」は、広辞苑によれば、「からだの小さいこと。また、その人を罵っていう語」とある。「クロ」は「くろんぼ」を連想させる語で、これも広辞苑には「黒人種の蔑称」とある。この点に関して、著者は「ちびまる子」や「のらくろ」を引用して、「サンボ」よりも「チビ」、「クロ」のほうが(差別性の)許容度が大だと主張している。「チビ」や「クロ」の差別用語も、イヌにつけるならかまわないのだろうか。また、「サンボ」を語呂合わせ感覚で「散歩」に改めれば、物語の連続性・関連性が確保され、「サンボ」のもつ差別性が改善されたことになるのだろうか。そこには、「ちびくろサンボ」がその差別性ゆえに絶版にまでなった歴史的、社会的事実の重みへの配慮が欠如している。
 特に、論文の最後に、50代後半の大学教官の手紙から「・・・サンボが、だんだん身ぐるみ剥がれてスッポンポンにされちゃうおかしさは、人間それもかわいいくろんぼの子どもでなくちゃ決まらない・・・」という一節を引用している点を問題としたい。著者はこれを「ある程度以上の年輩の人の中には、人種差別に基づくおもしろさを「ちびくろサンボ」の中に見いだしている可能性」のある証拠として示したつもりであろうが、大学教官でありながら、「ちびくろサンボ」を、このように明白な差別観でとらえている者がいる実態こそ、科学的に解明すべき重要な研究課題ではないだろうか。
 以上の判定理由(原著論文としての質的低レベルと人種差別に対する安易な姿勢)から本論文を「不採択」とした。最終の判定は編集委員会、あるいは常任理事会におまかせするが、もしもこの論文が「読書科学」に掲載されるとしたら、本学会自体の見識が厳しく問われる事態を招くのではないか、との危惧がぬぐえない。

(2.2)査読者βのコメントの問題点
A.投稿論文は質的に低レベルかについて
 (ここでは反論は省略するが、査読者βは投稿論文の研究内容が理解できていない。)
B.投稿者の人種差別に対する態度が安易で軽薄であるかについて
 審査者が、「著者による「差別性」のとらえ方、および差別改善の態度が安易かつ軽薄である。」とする理由は、投稿者が言葉の言い替えによって差別を回避しようとしていると誤って考えたためであると思われる。投稿者は、そんな単純なことで差別問題が解決するとは考えていない。(以下の反論もここでは省略)
C.この論文を掲載したら学会の見識が問われるかについて
 審査者は、「もしもこの論文が「読書科学」に掲載されるとしたら、本学会自体の見識が厳しく問われる事態を招くのではないか、との危惧がぬぐえない」と述べている。これはおかしい。投稿論文は、日本読書学会第36回研究大会において研究発表され、「発表資料集」にも掲載されているが、その後「本学会自体の見識が厳しく問われる事態を招」いたであろうか?そうした事実があればぜひ教えていただきたい。むしろ、会則に「本会は読書に関する科学的研究を志す者の連携協力によって日本における読書文化の発達ならびに読書指導の進歩を図ることを目的とする。」とうたっていながら、子どもたちに親しまれてきた1冊の絵本が、科学的根拠もなしに「差別的であるという」理由で絶版にされた事態を黙視してきたことこそ、本学会の見識が問われるべきことであると思う。
 実は、この部分は、審査者が唯一この論文を肯定的に評価してくれている部分でもある。もし、この論文が審査者の言うように質的に低レベルのものならば、「この論文が「読書科学」に掲載されるとしたら」などと、危惧する必要はまったく無い。掲載されるはずがないからである。しかし、審査者は、本音ではこの論文が掲載可能であるという評価をしているのである。

3.まとめ
 以上のように、『読書科学』誌の場合には、そもそも学会誌としての編集体制がきちんと整備されておらず、編集委員長がその場しのぎの対応をしているだけである。そして、最終結論の理由が「差別の問題を取り上げる自信がない」ということなのであるから、言語道断である。
 上述の最終文書(E)において、編集委員長は文面を次のように結んでいる。「このような異議申立てによりまして、再度、審査のありかた、方法等について検討しなおすよい機会となりました。これからもさらに『読書科学』をより良いものにしていくべく努力していくつもりでおります。どうぞ、今後とも忌憚のないご意見をお寄せくださられるようお願いいたします。」少しは反省して審査方法を良いものに変えていくのかと思っていたところ、先日発行された『読書科学』第38巻第1号には、「編集公告」として、堂々と「審査の結果不採用と判定された投稿論文についての異議申し立てはいっさい受けつけません。」と述べられていた。反省などこれっぽっちもしていないのである。


【引用文献】


Cohen, J.(1988) Statistical Power Analysis for the Behavioral Sciences(2nd ed.) Academic Press.

麓 信義(1986)「もう少し学問的な議論を−体育学研究の論文審査に対する疑問−」『体育の科学』1986.2月号pp.161-164.

守 一雄(1994)『ちびくろサンボ』と『チビクロさんぽ』−差別表現をもつ絵本とその改話とのおもしろさの比較− 『季刊窓』第22号pp.39-53.