「日本の物理学--明日への展望」に異議あり!:  戦後の日本におけるアカデミズムの問題点 井口和基:基礎科学特別研究員、理化学研究所 1. はじめに  中島貞雄率いる第15期物研連委員会による報告書「日本 の物理学---明日への展望」とその要約「明日への展望」が最近公表 された[1]。 これは物理学のほぼ全分野をカバーした労作であるが、 その内容からして、これほど我々を取り巻く厳しい現実から背を向 け、明日というより過去への回顧で終始したレポートも珍しい。こ の手のレポートは米英仏物理学会からも毎年出版されていて、我々 もよく目にすることがある。それらと比べても、何一つ新しいとこ ろや我々をはっとさせるところがない。これでは国民のだれが見て も、平和ボケした日本の官僚の作文にすぎないと見なすにちがいな い。とてもこんな人々に我々の税金を使って欲しくないとだれもが 考えるだろう。これはアメリカ物理学会がSSCの失敗に導いたのとまっ たく同じ理由である。アメリカ国民はSSCの予算の天文学的規模に対 してというよりはむしろアメリカの物理学者たちのはなもちならな いエリート意識に反発したのである。このような意味で、上記の 「明日への展望」が、日本の物理学のレベルの低さと日本における アカデミズムの弱さを奇しくも全世界に露呈した感はいなめない。 それがどのように我々の現実から目をそらし、過去への回顧で終始 しているか示すとともに、そして我々にとっての本当の問題は何な のかを以下に議論したい。本文中敬称が省略されているがご了承い ただきたい。  2. 日本における物理学と社会    まず「明日への展望」の内容がいかに我々のおかれた現実から 目をそらしているか示したい。この中の記述、特に「2.物理学と社 会」、「3.文化としての物理学」、「5.ボーダーレス時代の物理 学」の記述は一つの見解としての価値はある。しかしこれらは ちょっとした文献や科学ジャーナルを読んだ人ならだれでも知って いることで、ことさら書くほどのものではない。    戦後における核戦争の可能性は全世界の人々にとっての脅威 であり恐怖である。いまだにそれが解決されたわけではない。しか し核や宇宙開発競争は、あくまで米ソの問題であった。そして勝敗 はすでについている。これに日本の物理学が参与した歴史はない。 むしろ、日本の物理学がこれまで参与してきたものはビッグサイエ ンスではなくスモールサイエンスの分野である。米ソのビッグサイ エンスの規模からすれば、日本のビッグサイエンスは皆スモールサ イエンスに属するからである。また日本の物理学がこれまで貢献し てきた分野は、日本復興を目指しそれに直結する分野であった。そ れらは基礎科学ではなく応用科学であり、基礎技術ではなく応用技 術である。それが証拠に、もし日本の物理学者が基礎物理学に寄与 しているなら、もっとノーベル賞受賞者がいていいはずである。し かし現実には大物理学者が大勢育つ代わりに、逆にソニーなどの大 企業が多数育っただけである。しかしこれも今の中国のように、敗 戦国日本が戦後アメリカから最恵国待遇を得て、アメリカから手厚 く育てられたからできたにすぎない。それは独裁者の国々しかなかっ たアジア地域に少なくとも一つ民主国家のモデルを作りたいという アメリカの目的に適っていたからである。これは中東におけるイス ラエルの立場と同様である。    こういう状況下で戦後の日本の物理学を含めた科学は出発し た。したがって日本の物理学も含めたすべての科学分野は同様にア メリカのアカデミズムの庇護の下に育まれた。それが証拠に、今だ に日本からアメリカへ日本の物理学者や医者たちが日本政府からの 国費留学生として旅立つ一方、アメリカからポスドクとして手厚く 取り扱われているからである。この逆は理研のポスドク制度を除き、 今だに基本的にはないからである。    以上で述べた戦後の日本の物理学を含めた科学にとって何が 本当の問題か考えてみることは価値があるだろう[2]。以下にそれら の主要なものの一部を考察したい。    3. パイオニアとソフィスト    日本の物理学者が研究者や科学者をイメージしたとき、何を 思い浮かべるだろうか?また彼らが自身の成功を夢見るとき、何を もって物理学者として成功したと考えるだろうか?日本物理学会会 長になること、あるいは基研や物性研の所長になることだろうか? それとも科学史に不滅の名を残すことだろうか?たいていの人はま ずできるなら不滅の業績をもって科学史に名を残したいと考えるだ ろう。それが無理ならせめて研究所の所長位にはなりたい、学部長 位にはなりたいと思うかもしれない。ここに我々戦後教育を受けた 日本の物理学者の陥った罠が潜んでいたのである。    戦前の教育、とりわけ明治に教育を受けた人々は偉かった。 旧制高校でまずデカルト、カント、ショウペンハウワー(デカン ショ)を学び、それから大学で研究生活に入ったと聞く。そして彼 らは明治を決して文化革命の時代とは呼ばず文明開花の時代と呼ん だ。彼らが目指した西洋文明はまぎれもなく、このデカルト、カン トに始まり、ショウペンハウワーで完成された近代科学哲学の流れ をくむからである。    ショウペンハウワーは言う、「学者とは書物を読破した人、 思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界と いう書物を直接読破した人のことである。」と[3]。つまり現代の我々 の言葉では、思想家、天才とは真のパイオニアのことを指し、学者 とはいわゆる専門家のことを意味するといえる。また彼は次のよう に言う[4]、「一般に思想家を、第一に自分のために思索する者と、 いきなり他人のために思索する者の二つに分類できるが、第一のタ イプに入る人々が真の思想家であり、二重の意味で自ら思索する者 である。それは彼らが真の哲学者、知を愛する者だからである。す なわち第一に彼らのみが真剣に自分を打ち込んで事柄を知ろうと努 めており、第二にまたこの知を得る努力、言い換えれば思索にこそ 彼らの存在の楽しみも幸福もあるのである。第二のタイプの思想家 はソフィストである。彼らは世間から思想家であると思われること を念願し、かくして世人から得ようと望むもの、つまり名声の中に 幸福を求める。」つまり、真の思想家、天才とは、純粋に何かを知 ることを愛し、そのためにのみ努力する者であり、なおかつそれに 成功した者のことである。これに対し、社会的に学者として成功す ること、有名になることやエリートやリーダーになることを求めて 研究する人々はソフィストに属するということである。そしてこの 二つは本質的に互いに相容れないものである。私の好きな数学者で 言えば、アーベル、ガロア、グラスマン、グリーン、リーマン、ル ベーグなどが真のパイオニアであり、コーシーやフーリエらはソフィ ストに属すると言える。前者はほとんどその時代に不遇の生活を送っ た。しかし後者は時代の寵児となり政治的な力を得た。日本の物理 学者で言えば、湯川秀樹が前者に属し、長岡半太郎が後者に属する と言える。    このように西洋において、パイオニアとソフィストは明確に そして意識的に区別される。この事実をデカンショを学ばなくなっ た戦後の日本の科学者はほとんど理解していないように見える。認 識が甘いのではないだろうか。そのため、ある分野で世界的に有名 になるとすぐにでもノーベル賞が取れると考える者まで現われてく る。また周りもそう期待したがる。しかし西洋においてノーベル賞 は真のパイオニアにのみ与えられるものと見なされているのである。 例えば、かつての超伝導現象解明競争のとき、フレーリッヒは敗れ、 バーディーン、クーパー、シュリーファーがそれに成功した。そし て彼らがノーベル賞をとった。フレーリッヒは優秀な物理学者だっ たが、一つの分野で何かをやり遂げた者と、それに肉薄したがなし 得なかった者との差は大きい。これは最近の高温超伝導現象発見で も同じであった。ベッドノーツ、ミュラーがノーベル賞を取り、田 中昭二やチューはそれに敗れ去った。ソフィストになることは比較 的簡単だが、真のパイオニアになることは想像以上に難しい。そし て欧米では、これら真のパイオニアの中でさらに人格や指導力に優 れた者たちからのみ、後のリーダーを選ぶ。決してソフィストから ではない。シュリーファーは後に、サンタバーバラ理論物理学研究 所の所長となった。そして数多くの優れた研究がそこから生みださ れている。イギリスでもモットがキャベンディッシュ研究所の所長 になったとき、歴代の所長たちの中で自分だけがノーベル賞を取っ ていないことを恥じ、60歳過ぎてからノーベル賞を取るために頑 張ったというのは有名な話である。しかし日本では、科学史の専門 家が東大先端科学研の所長になっている現状である。科学史の知識 があれば科学上の新しい大発見できるのなら、だれも苦労しない。    パイオニアとソフィストのこの違いについて、日本の物理学 教育の中で明確に定義され教えられているのだろうか?実際、現代 は科学者の数も前世紀と比べて莫大なものとなり、真のパイオニア も生前に認められ易い傾向にある。真のパイオニアを目指すように 学生たちを導いているのだろうか?少なくとも明治の人々はその違 いについて明確に認識していたことは事実である。その結果、明治 の科学者の中には独創性に富んだ真のパイオニア、例えば高峰譲吉 や野口英世のような人々が数多く輩出した。そして湯川秀樹、朝永 振一郎はその流れをくむ。我々科学者はパイオニアになって初めて その存在を永遠に認知されるのである。それ以外は皆、時とともに 忘れ去られる。ちょうどモーツアルトに対するサリエリの運命のよ うに。    日本ではこの点は極めてあいまいである。私の知る限り、東 京大学はほとんどの学生を無駄にすることなく、常に日本における 物理学の権威を作ろうと努めてきている。一方、京都大学は、ほと んどの学生をオシャカにするが、たまに現われる天才、真のパイオ ニアを待っている。つまり、東京大学はソフィストを目指し現世に おける成功を求めるが、京都大学はパイオニア指向であるというこ とである。したがってこの教育方針の差から、東京大学出身者は皆 一様にスマートな学者タイプとなるのに比べ、京都大学出身者はと もすれば一風変わった変人奇人タイプになるように見えるが、その 一方でノーベル賞やフィールズ賞が京都大学出身者に多いという理 由なのである。東京大学のソフィストたちはいずれ忘れ去られる。 しかし京都大学のパイオニアたちは我々の記憶に永遠に刻まれる。 長岡半太郎の名は今や国民のだれも知らないが、湯川秀樹や朝永振 一郎の名はだれもが今も覚えている。Yukawa力やTomonaga- Luttinger液体のように。それは長岡の原子モデルのような誤った知 識ではなく、湯川や朝永が真の知識を生み出したからである。    科学の世界はこういう厳しい世界であり、それだからこそ同 時にやりがいのある世界であると学生たちに教えているのだろうか? 少なくとも私はユタ大学において、Ph.D.を取ることは専門分野の一 つでブレイクスルーをすることだと甲元真人、サザーランド(Bill Sutherland)、ウー(Yong-Shi Wu)などから教えられた。西洋世界 ではこの点は今もってはっきりと厳格に守られている。リーマン、 ベイユ、グロタンディエク、ドリーニュ、コンヌなど大数学者は皆 Ph.D.Thesisレベルで世界を変えるような研究を行っている。一方日 本では、残念なことに、最近の物理学Ph.D.に対してこの点がほとん ど考慮されていないように見えると思うのは私だけではないだろう。 毎年、D3になると必ずPh.D.が取得できるような仕組みになってい る。しかし、ブレイクスルーは一長一短にできるものではなく、博 士課程の3年間でいつも生まれるとは限らない。運がよければ1年 で起こるだろうし、運がなければいつまでたっても起こらず、3年 間を超えることも当然あるだろう。(育英)奨学金が3年間で切れ るから、Ph.D.も3年間で与えるということには本来ならないはずで ある。    このような現実に対して、私は以下の提案をしたい[5]。    提案1:Ph.D.は真のブレイクスルーに対してのみ与えること。 その代わり、(育英)奨学金は十分な額を与え、期間は最長8年間 に延長し、ブレイクスルーのチャンスを増やすこと。    これにより、日本社会における博士号の価値が必ず高まるこ とが期待できる。また学生たちは、心から勉学と研究に打ち込める ようになるだろう。    提案2:アメリカなどで普通に行われている、共通試験 (Common Exam)、適性資格試験(Qualifying Exam)を大学院に設 置すること。    これにより、今まで日本の大学院においてしばしば見受けられ る、理論と実験の大学院生の間に目立って現われている学力差をな くし統一できる。その結果、日本の実験家が全く理論の論文が読め ないという状況をなくすことが可能となる。また一般に日本の大学 院では、欧米の大学院におけるように物理学全般の広範囲にわたる 知識の要求(共通試験)がないめ、講座制である研究室に関係する 学問分野しか学ばないで博士になる場合が多い。こうした日本の大 学院生の学力レベルを欧米に合わせることができる。これで欧米へ 出て行っても恥ずかしい思いをしなくてもすむようになるだろう。    提案3:大学院の博士課程、前期(修士)、後期(博士)の区 別を撤廃し、一本に統一すること。    これにより、大学院は正規に5年間となり、学生たちは安易 な気持ちで大学院に入学できなくなる。同時に今まで企業内研究職 は修士号取得者によって占められてしまったが、それらを博士号取 得者のためのものに解放できる。これがオーバードクター問題の解 決につながることは明らかである。    提案4:論文博士制度を撤廃すること。    一般に欧米ではPh.D.の仕事は私的な行為とされる。したがっ て、大学院に在籍して、ホームワーク、試験、共通試験、適性資格 試験などのすべてのハードルを超えなくてはならない。まして研究 費など付かず、経費はすべて自分持ちである。これが世界の常識で ある。にもかかわらず、日本ではPh.D.の仕事は公的な行為とされる ため、大学院生に研究費も付き、経費は公費で落とせる。方や企業 や国公立研究所内で給料をもらって研究し、大学院に在籍もせず、 授業にも出ず、試験も受けず、それでいて博士号だけは自身の出世 のために欲しいというのはあまりに虫のいい話ではないだろうか。 またこの制度のせいで、大学と官僚と企業の間に談合やインサイダー 取り引きを生みやすい。この提案により、修士号を持って企業内研 究職に入っても、産官学共同研究などを通じて博士号を取れなくな る。したがって大学院の社会的地位が飛躍的に増大し、大学院の意 義が社会的に認知されるようになると期待できる。産業界も政府官 僚界も社会における大学、大学院の存在を無視できなくなるだろう。 その結果、おのずと大学人の社会における発言力が増すと期待でき る。その代わり、その責任も当然重くなる。    かつて1948年ブラウンはアメリカの看護教育とその実態 を調査した有名なブラウンレポート[6]の中で次のような発見を報 告した:  (1)一つの専門職にいくつかの異なるレベルの人々が職を得る とき、その中の最も高いレベルにある人々の職が失われる傾向にあ る。  (2)一つの専門職の価値は、需要と供給のバランスで決まる。   つまり、質の低い看護婦をたくさん世に送り出しても、看護婦不 足を解消することにはならず、むしろ看護婦の価値を下げる結果に なる。逆に数は少なくとも優れた看護婦を世に送り出すことが看護 婦不足を解消することにつながる。つまり、悪貨は良貨を駆逐する ということである。この50年間にアメリカの看護教育はいわゆる 看護学校のレベルから、総合大学内の看護学部として学部、大学院 を持つまでに至っている。その結果、すでにPh.D.を持つ看護婦まで 出現している。    この例が語ることは、専門職のレベルの統一と過剰供給しな いことが一つの専門職のレベルと待遇の維持にとって極めて大切で あるということである。我々日本の物理学者にとってこれは耳の痛 い話であろう。なぜなら、大学院をどんどん作って大量の大学院生 を入れ、物理学者のあたま数だけを増やそうとしているからである。 これは文部省の意向による。しかし、もともと日本には研究職は少 ないのだから、これでは修士号取得者が増えるだけでますます産業 界にある博士号取得者のための職を食うことになる。その点、日本 弁護士会や医師会は偉い。彼らは基本的にバースコントロールを行っ ているからである。その結果、物理学者と比べて信じられないほど の高給を取る。考えて欲しい。仮に日本で博士号はノーベル賞を取 らないともらえないとしよう。こうなるとほとんどの人々は博士号 は取れない。しかしその取得者は稀少価値となる。現在海外のノー ベル賞学者が日本で一般講演すると、一回で1500万円近い金額 を手にできるという。したがって彼ら博士号取得者の待遇は想像を 絶する程に向上する。このように専門職のバースコントロールは極 めて重要である。はたして日本物理学会は日本の物理学者の権利と 待遇を守っているのだろうか?少なくとも日本弁護士会や医師会や アメリカ物理学会はそれを行っている。以上の提案はこうした現実 を変えうるに十分なものであると私は考える。  4. Equal Opportunity/Affirmative Actionの採択    我々日本の物理学者が欧米の研究職にアプライするとき、真っ 先に欧米の大学から送られてくるものがある。それがEqual Opportunity/Affirmative Action Formと呼ばれるものである。 Equal Opportunityは機会均等法と直訳できるもので、大学内におけ る、学生の入学や様々な職が、応募者の人種、年齢、性別、宗教、 政治的所信などによって差別されないように定めたものである。ま たAffirmative Actionは、アメリカにおける様々な人種構成に合わ せて、白人、黒人、アジア系、ヒスパニック系など、その人口にほ ぼ比例するように応募者の中から選ばなくてはならないという法律 である。これらは、あの ケネディー(J. F. Kennedy)時代に始まっ た。    現在、世界の主要な大学や企業はすべて、この法律に合わせ て運営されている。ところが、日本ではEqual Opportunityが、意 識的に男女雇用機会均等法とねじ曲げられて定着させられてしまっ た。誠に遺憾なことである。これは日本政府の責任であるが、それ を見過ごしてきた日本の大学人の責任でもある。また、我々が日本 物理学会誌上で見る求人広告には、ほとんど年齢に何らかの制限が 見られる。このように日本の現実には、世界からとの間に大きなず れが見られる。これは欧米人には極めて前近代的で奇異に映ること だろう。実際、アメリカでは、年齢による差別を行うと違法行為で あり、学位剥奪、刑務所行きである。これを無視していると今に痛 い目に会うことを日本の物理学者や科学者は覚悟しておくべきだろ う。自分が欧米へ留学するときには、この法律に守られて人種差別 を受けずにすむのに、日本に帰ってきたらそれを忘れてしまうとい うのは、あまりに虫のいいことではないだろうか。また、 Affirmative Actionは、日本では在日朝鮮人、被差別部落民、アイ ヌ人問題などを解決する鍵であると考えられる。我々日本の物理学 者もこの法律をもっと積極的に利用して行くべきである。    そこで私は以下の提案をしたい[5]。    提案5:大学、大学院はEqual Opportunity/Affirmative Actionを採択すること。    これにより、企業内の研究者や高校までの教職者たちが、再び 学生として大学や大学院に入ってくることが可能となる。現在、日 本の人口構成の最後のピークを迎え、これ以降決して高卒の若い学 生数が増えることはない。したがってこの法律を用意し、もっと広 い年齢構成を学生としての対象にしなくては、多くの大学、大学院 は生き延びられないだろう。さらに在日朝鮮人、被差別部落民、ア イヌ人などの人々が、普通の日本人と同様の権利の下で大学、大学 院に入学できるようになり、国民としての権利を得ることができる ようになると考えられる。彼らの中からノーベル賞やフィールズ賞 を得るものが現われれば、彼らに対する人々の認識も変化し、この 制度の価値も認められるようになるだろう。      5. 公正な人事を求めて:インサイダー取り引きと天下りの禁止    私は高校生のとき、山梨県代表の国体高校選抜に主将として ノミネートされるほどのサッカー選手であった。早稲田大学からの レセプションの誘いも受けた。私は物理学も好きで、サッカーで行 こうか物理学で行こうか本当に迷った。しかし今から20年前の当 時は、Jリーグの計画も設立の可能性もなく、結局私は物理学者に成 ろうと決心した。それは、サッカーは選手として一生できるもので はないが、物理学者ならば一生できるだろうと考えたからであった。 そして、私は物理学校が前身である、東京理科大学理工学部へ進ん だ。さらに大阪大学基礎工学部の大学院へ進んだ。しかしそこで出 会ったものは、日本の物理学に蔓延した権威主義と不公正な人事の 世界であった。学生は少しでも自分の興味が研究室の教授と異なれ ば、中ぶらりんの状態になり、下手をするとオーバードクターになっ てしまう。またその間だれも指導してくれない。教授のポケットに 収まるような人物でない限り、助手の職は得られない。独学以外何 も得ることなく、私は就職した。しかし、もはや年齢的にサッカー 選手として生きる道もなく、物理学者としての道も失った私は完全 に社会の中で袋小路に追い詰められてしまった。犯罪者になっても 全くおかしくない状況であった。そして考え抜いた末、アメリカ留 学の道を選んだ。幸い、本当に幸運にもユタ大学留学ができ、最終 的にサザーランド の下でPh.D.が取れた。そして現在までなんとか 物理学者として生き延びてきている。これは全く4.で述べたアメリ カの大学、大学院制度のおかげである。    では、私が現在の高校生だったらどうだろうか?私は迷うこ となくJリーガーになる方を選ぶに違いない。なぜなら、Jリーグは 実力だけの世界であるからである。自分の本来の才能を示せば、そ れがそのまま自分の社会におけるステイタスや高給につながって行 くからである。多くのファンがつき、女の子にモテ、英雄になれる。 人々を心から感動させられる。確かにプロサッカー選手は将来に不 安がある。しかしサッカーが本当に好きな私は決して悔いはしない だろう、現在物理が本当に好きな私が物理学者であることを悔いは しないように。それにJリーグのようなしっかりした組織ができると、 現役選手としては無理でも、一生サッカーに関係して生活していく が可能である。また私は科学界においても真のパイオニアになるこ とは難しく、物理学者の寿命も実はサッカー選手と変わらないくら い短いということを今は知っているからである。    これが、科学離れ、物理離れの本当の理由であると私は思う。 現在、物理教育などで、どうしたら物理離れを防げるかという議論 が耐えない。多くの人々がカリキュラムの見直しなど真面目に努力 されているのを私は知っている。しかし、真に学生の権利や公正な 人事が保証されていない日本の科学の分野に、真のパイオニアを目 指すような、真の才能の持ち主たちが魅力を感じるだろうか?自分 の命をかけて学問に取り組もうとするだろうか?ノーベル賞も持た ない者が研究所の所長になったり、学会の会長になったりしている ところへ、頭の良い本物の学生たちが集まってくるだろうか?    世界的には最もレベルの低いと言われるJリーグですら、優勝 経験のない監督は代表監督にはなれない。場合によっては海外のワー ルドカップ優勝経験者を監督に持ってくることもある。こういう努 力があって初めて優秀な、将来を感じさせる若者たちが集まってく るのである。その結果、Jリーグのレベルは年々上がってきている。 このような努力を我々日本の物理学者はやっているだろうか?内外 のノーベル賞物理学者を大学の学長や研究所の所長に迎え入れてい るだろうか?私の知る限り、筑波大学の江崎玲於奈と基礎化学研究 所の福井謙一の場合を除き、そうした努力を日本の科学界が率先し て行っているようには見えない。    そしてやる気のある日本人学生たちはすでにアメリカの大学、 大学院にたくさんいる。例えば、甲元真人はシカゴ大学、和達三樹 はニューヨーク州立大学、広田良吾はノースウェスタン大学出身の Ph.D.たちである。これらの人々がどれほどユニークでオリジナルな 研究をしているか周知の事実である。今や東京など日本国内で生活 するより欧米で生活するほうが安くつく。このような状態では、学 生たちは日本の大学、大学院に入る必要はなく、欧米の大学、大学 院に入れば良いではないか。ウィッテンやアンダーソンやハルデー ンに直接指導してもらえばよいではないか。私も自分の息子たちは そうして欲しいと思っている。すなわち、今やアメリカ物理学会が あれば、日本物理学会は必要ないのではないだろうか?実際、APS会 員であれば、今や論文投稿においても、日本物理学会参加において も何も問題ない。強いて言えば、日本物理学会誌上で意見できない というだけである。このように日本物理学会の置かれている立場は 極めて弱く、厳しい状況にある。中島貞雄の言うような平和な世界 からは程遠い。    また日本では物理学者の出発は助手から始まる。しかし講座 制の下で選ばれ、教授や助教授のお手伝いばかりする助手が将来ノー ベル賞を取るような大学者に育って行くだろうか?例はあるのだろ うか?そういう助手は助教授、教授になっても所詮中身は助手のま まではないだろうか?欧米では、アシスタントプロフェッサーは研 究に関してプロフェッサーと全く同等である。したがってそれは独 立した存在である。呼び名はともかく、このように助手、助教授を 独立したものにしないと、これらの中から将来ノーベル賞を取るよ うな大学者が育つとは実に考えにくい。にもかかわらず、日本物理 学会誌上で見る限り、助手の採用などに当たって未だに学問的達成 度に基ずいて選考されてはいないように見える。全く学問的に名の 知られていない者が次々と助手になっている。これは本当に恥ずべ きことである。この風潮は早急に是正されるべきである。    これらの点について私は以下の提案をしたい[5]。    提案6:人事は講座制の上のレベルで行い、助手、助教授の職 を教授と独立したものとすること。    助手、助教授、教授職などの人事をアカデミックな達成度、研 究業績、教育実績、人間性のみに基ずいて行うことは、アカデミズ ムの理想である。決して年齢や学閥や政治的信条などで人を選ぶべ きではない。なぜなら、これは4.で述べたEqual Opportunity/ Affirmative Action法に反するからである。また人事は講座制の下 で行われるべきでない。なぜなら、もしそうなら、助手、助教授の 職はたった一つの学問分野のみからしか選べなくなるため、他の分 野の人々はいくら優秀であっても皆あぶれてしまうからである。我々 はアカデミックな達成度の高い人から職につけるべきである。こう したことを行うことで、講座のメンバーの知識の幅も広がるだろう。 というのは、教育においてたまたまその講座を受け持っているとい う形になるからである。実際、アメリカの大学、大学院では、教授 たちが毎年異なる教科を教えることもよくあることである。こうし た教科の交替が、教授たちの知識を格段に幅広く伸ばすことになる。 定年まで一教科しか教えないというようなシステムは考えものであ ると言えるだろう。    提案7:日本物理学会規約に人事におけるインサイダー取り引 きと天下りの禁止条項を設定すること。そして違反者には罰則を設 けること。    日本における多くの公募において、実はすでに内定が決まって いるのだというようなことをよく耳にする。では何のために公募す る必要があるのか?したがって、我々はまずインサイダー取り引き を明確に定義する必要があるだろう。私はそれを次のように定義し たい。    定義1:学問分野におけるインサイダー取り引きとは、因果律 を破った取り引きのことである。    例えば、新しい大学が発足するとき、それ以前に人事が決まっ ているというような場合や、公募の前に内定が決まっている場合や、 審査が行われている最中にお礼参りするというような場合である。 こうしたことを禁じて、公正な人事のための審査をすることが望ま れる。こうしたことを平気で行う人々には、懲戒免職、降格、研究 費の凍結、場合によっては博士号剥奪などの厳しい罰則を設けるべ きである。    また天下りは日本の官僚の悪習だが、日本の科学者も皆これに 習っている。国立大学で学長や学部長になれなかった者が平気で私 立大学の学長や学部長に天下る。日本の物理学者はまだましである が、日本の医学においてはもっとひどい。これらを禁止しないで、 まともな若者たちが日本で学問を目指すことはまずないだろう。こ の提案はそれを是正する。もしノーベル賞を取ったり、学問的に優 れた業績をあげた、年をとっていても人材として価値あると思われ る人々がいるのなら、彼らを天下りという形ではなく、大学内に、 名前付き(冠)教授、Distinguished Professor、 Professor Emeritusなどの(定年のない、死ぬまで勤められる)永久職を設置 し、それなりの待遇を保証するべきである。そのために私は次のよ うな提案をしたい。    提案8:大学内に、名前付き(冠)教授、Distinguished Professor、Professor Emeritusなどの(定年のない、死ぬまで勤め られる)永久職を設置すること。 これに付随して、次の提案も意味を持つだろう。    提案9:大学内にシニア、ジュニア教授制度、研究教授と教 育教授の区別を設けること。    ここでは助手、助教授や若い教授をジュニア教授と呼び、大 学、大学院における経験豊かな、研究教育実績のある教授たちをシ ニア教授と呼ぶ。これにより、助手、助教授や若い教授が学部内に おける人事などの雑用から解放され、純粋に研究、教育に専念でき る。実際、新任の若い助教授や教授が学部内の人事などに加わって も、しばらくの間は実質的役割を果たせないのだから、それは無意 味である。むしろ、研究や教育に専念させたほうがいい。一方、シ ニア教授たちは、ジュニア教授たちを含む大勢の教授たちに対して コンセンサスを形成する必要なく、シニア教授たちの間だけで短時 間で意志決定できる。また、研究教授と教育教授を区別することは きわめて重要である。これにより、研究教授は大学院中心に受け持 ち、研究に専念できる。一方、教育教授は学部を中心に受け持ち、 教育に専念できるようになる。一般に日本ではこの区別がないため、 教育を受け持つ者は研究を受け持つ者から軽んじられ、研究を受け 持つ者は逆に教育を受け持つ者から非協力的だと見なされる傾向に ある。これはナンセンスである。これらシニア、ジュニア教授制度、 研究教授と教育教授の区別は欧米ではごく普通に行われていること である。    最後に次のことを指摘しておこう。大学人が社会の中で最も フェアーであるべきなのに、実際は彼らが最も非常識でアンフェアー であるというのはおかしいのではないだろうか?こうした状況で、 国民のだれが大学人を尊敬することができるのだろうか?東京大学 や物性研などで、助手の任期が切れても平然と居座っている者や Ph.D.も持たずに助手になれる者もいる。何の科学的業績もないのに 助手になれる者もいる。こうした人々、それを許す人々はルールと いうものをどのように考えているのだろうか?優秀であれば何をやっ てもよいというのだろうか?自分が大変になれば背に腹は変えられ ないというのか?それでは犯罪者と何も変わらない。殺人者といえ ども四六時中人殺しを考えているのではない。自分が大変な状況に 追い込まれたとき犯罪に走るのである。殺人者も普段はいい人であ るというのが相場である。    西洋には昔から良く知られたケーベスの絵馬[7]という話が ある。この中に、次のような記述がある。「.....  生きることそ のことが悪いのではなく、悪く生きることが悪いことなので す。」、「思慮も正義も悪い行為から得られるものではない。同様 に、不正や無思慮は善い行為から得られるものではありませ ん。.....  ただ思慮のあることのみが善であり、思慮のないこと のみが悪なのです。」ルールを守らない優秀な物理学者が生きるこ とは善いことだろううか?こういう人々が人を教育する価値はある のだろうか?インサイダー取り引きによって職を得た物理学者に教 えられる学生たちは善いことをしているのか、悪いことをしている のか、どちらだろうか?  6. 学生の権利は保証されているか?    次に、日本の大学、大学院において、学生の権利は保証され ているかという問題を考えて見たい。ここで問題になるのは、日本 の学生たちに様々な意味で自由が与えられているかということであ る。私は大阪大学とユタ大学の両方の大学院を出たわけだが、これ ら二つの経験を比較するとすぐにいくつかの問題点が浮かび上がっ てくる。    我々が大学生や大学院生になるときのことを考えて見よう。 すぐに分かることは、第一に日本と欧米における入学時期の違いで ある。第二に日本と欧米の間で授業構成や単位取得構成がまったく 異なるということである。これらは留学に関するものである。次に 国内で学ぶ場合に関するものとして、第三に指導教官の選択の自由 の問題、第四に教科書の選定とレベルの問題などがある。    第一の日本と欧米における入学時期の違いの問題を考えて見 よう。日本では4月に入学し、3月に卒業する。欧米では9月に入 学し、6月に卒業する。これを単に文化や伝統の違いとすることも できる。しかしそれは浅はかである。というのは、この差による我 彼の学生たちの被る時間的、金銭的損失は計り知れないものがある からである。もし日本の学生が欧米へ留学する場合、4月から9月 まで半年ほどブラブラしていなくてはならない。そして、学生が欧 米の大学を卒業し日本国内で職を得るとき、6月から次年度の4月 まで一年近く失業していなくてはならない。さもなくば、中途採用 しかない。一方、欧米の学生が日本へ留学する場合、日本ではすで に新学期が始まっているため、やはり6月から次年度の4月まで一 年近く待つか、あるいは途中から始めなくてはならない。このよう に留学生たちは不当に時間的、金銭的に損させられているのである。 これは明らかに、日本と欧米の学生たちがどの国で学ぶかというと きに生じる基本的権利を損なうものである。同時に、自国内で学ぶ 学生たちと他国で学ぶ留学生たちとの間の不公平であるといえる。 つまり一個人の学生としての権利が不当に犯されているということ である。    第二に、日本の学生が欧米へ留学する場合に困ることは、日 本と欧米の間で授業構成や単位取得構成がまったく異なるというこ とである。この結果、我々が日本で取得した単位を欧米の大学院へ ほとんどの場合トランスファーできず、新たに単位を取得し直さな くてはならない。これまた留学生たちにとっては大きな時間的、金 銭的損失である。    さらにはソニーや富士通などの日本の大企業では、海外で日 本人が苦労して取得した学位を認めない。これは文部省の意向によ る。欧米人にはそれを認め、高額の給与を支払うのに、同じ学位を 持つ我々日本人を不当に差別しているのである。実際、私の最終学 歴は修士号のみとされ、何ら給与や待遇に差はなかった。    以上を是正するために、私は以下の提案をしたい[5]。    提案10:日本の大学は学期、授業構成を欧米型に合わせ、学 科単位のトランスファーを国際的に行いやすくし、欧米の9月入学 6月卒業に合わせること。日本人が海外で取得した学位を認めるこ と。    次に第三の問題を考えて見よう。私が大阪大学の大学院を終了 して後にユタ大学の大学院に入って知ったことだが、一般に日本の 大学院では学生が指導教官を選択する自由はない。たいていの場合、 大学院入試の成績によって自動的に研究室配属が決まる仕組みになっ ている。成績が良ければ理論、悪ければ実験というように。一応、 第一、第二、第三志望というように学生の志望はあるが、これはあ まり機能しない。一度研究室配属が決まってしまうと、それ以後配 属を変えることはきわめて難しい。もし学生が教授を替えたいとい うような意向を示すと、そこの人間関係にまで響くことがしばしば ある。これは日本の大学院にシステムとしての指導教官を選択する 自由がないことと、日本の教授たちの人間的成熟度の低さによる。    一方、アメリカの場合、共通試験にパスすると、学生に指導 教官を選択する自由が与えられる。それにパスできなかった場合は、 パスするまでずっと勉強し続けることになる。一般に共通試験は3 回のチャンスがある。アメリカでは講座制はないので、研究室配属 というようなものはない。学生個人が研究を指導してもらいたいと 思う教授と個人的に面談して決める。同時に、委員会の他のメンバー 4人も同様に決める。共通試験にパスしてから委員会メンバーを決 めるまでは、1、2年の余裕があり、その間に何人かの教授たちと 仕事することもできる。そして最終的に自分の興味に合う、ウマの 合う教授を選択できるシステムである。 このように、日本では学生に教授選択の自由がない。これ は信じられないほど前近代的なシステムと呼ばざるを得ない。これ も学生の基本的権利を奪っていると考えられる。これを是正するた めに、私は次の提案をしたい[5]。 提案11:学生に指導教官を選択する自由を認めること。 そして委員会メンバーは5人まで増し、他分野、他大学の教授も含 められるようにすること。 第四の問題として、教科書の問題がある。これは基本的には 二つある。一つめはだれが教科書を選択するのかという問題であり、 二つめは教科書のレベルの問題である。    教科書選択の問題は、授業というものをどのように考えるか という古くからの問題---学問の自治---に深く関係している。この 世界には基本的に二つの考え方がある。第一は戦前のドイツに端を 発する考え方で、授業は教授の権利であり、何を教えるかは教授の 自由意思に任せるべきであるという考え方である。第二はアメリカ の考え方で、授業は学生の権利であり、何を教えるかは現実を踏ま えた上で、学生のニーズに答えたものでなくてはならないという考 え方である。    この二つの考え方は結果として全く逆方向に進んだ。第一の ものは、研究室制や講座制に適していて、ドイツ、日本がこれを採 用した。しかし、この問題点は授業が教授の独壇場となり易く、そ の教授の考えに反するものを学生たちは学びにくくなるということ である。戦前のドイツにおいては、学生たちは教授の政治信条や理 論のみを絶対視する、いわゆるシンパとなってしまった。日本にお いても似たようなものであった。これに対し、アメリカ型では、授 業は学生に様々な考え方を学ばせ、それらの中から学生自ら取捨選 択するように指導する場であるとされた。したがって、教授一個人 で教科書を選ぶことはできない。アメリカでは、たいていの場合学 部レベルで教科書を選ぶ。しかし、これは教授一個人が政治的に中 性でなくてはならないということではない。教授個人はどんな政治 信条や理論を持っても構わないが、教授が授業を自分の独壇場にす ることができないということである。つまり授業ジャックできない という意味である。    戦後世界は、ソ連、中国などの共産圏を除き、すべてアメリ カ型---つまり、政治は民主主義、経済は資本主義、アカデミズムは 自由主義---に移行した。ドイツ、イタリアもそうであった。そして 現在、旧ソ連はすでに解体して新制ロシアとなり、中国も香港返還 とからんで米英型に移行していく最中にある。しかし日本は戦後、 経済は資本主義へ、政治は民主主義へ移行したが、学問、アカデミ ズムは全く戦前のままであった。この結果、前述のように、学生の 権利が全く保証されないままなのである。    また、授業のレベルも欧米のレベルからかけ離れたものとなっ ている。欧米で教科書としてごく普通に使用されているものが、日 本では研究室の輪講の材料とされている。それも研究室ごとバラバ ラである。欧米の学生たちは毎日必死でそれらの教科書の章末問題 を宿題として解いているのに、日本の学生たちはまるで英語のリー ダーのような輪講で英文解釈するのが精一杯というのが実情である。 これでは、学生の基礎知識レベルは研究室ごとに異なることになっ てしまう上、さらには、欧米の学生たちから日本の学生たちは大き く取り残されてしまうことにもつながってくる。これは緊急を要す る問題であると思う。    以上の問題点を取り除くために、私は以下の提案をしたい [5]。    提案12:教科書の選定は学部(あるいは学科)レベルで行い、 欧米一般の共通レベルに合わせること。    今までの議論から解ることは、日本におけるすべての問題は、 時代遅れな講座制度、研究室制度に起因しているということである。 したがって、戦後の日本の科学社会の問題点は、旧ドイツ型の講座 制度、研究室制度から、現代の米英型へ移行することでのみ解決さ れると考えられる。こういうわけで我々は最終的に次の提案に導か れる。    提案13:日本の大学、大学院は講座制度、研究室制度を廃 止すること。   しかし、研究所などにおいては必ずしもその必要はないというこ とを注意したい。原則的にそこには学生がいないからである。  7. 日本の物理学者は日本のリーダーになり得るか?    以上で述べてきたことは、日本の他の科学の分野にも共通して 言えることである。物理学はまだ良いほうだが、医学や看護学や建 築学などはもっとひどい状況にある。    私がユタ大学にいるとき、ある医学部の留学生から、日本の 医学部ではPh.D.の論文を他人に作ってもらうというのは本当か?と 聞かれたことがあった。これは理学部や医学部などで、助手などの 公募に合わせて博士論文を作ろうとするため、後輩などの他人の手 を借りてそれを間に合わせようとする、日本で良く見かける風習の ことを言っているのだと思う。これは欧米では、3.で論じたように、 Ph.D.の論文を他人の手を借りて作ってはいけないことになっている ことから来た素朴な疑問である。しかし、私にとってこの質問がい かに恥ずかしいものであったことか今もよく覚えている。 さらに別の医学部の留学生から聞いたことに、日本のある 医学部の人々が、アメリカの国際学会へ行ったときのことがある。 その晩バーで遊び、さあ今日は皆独身だ、楽しもうと平気で売春し て帰ってくるというものであった。おまけに、その準備に若い助手 や助教授などが老学者たちのために使い走りさせられているのだ。 これではまるでマフィアだ。日本のビジネスマンや政治家に対して は、こうした話をしばしば聞くが、医者や科学者がこういったこと をしているとは思いも寄らなかった。まだ彼らが若い独身者なら解 らんでもないが、そうではなかった。こうしたことを日本の物理学 者が行なっているとは思わないが、アメリカ人の場合、その人が追 放され、職を失う可能性は十分にある。その位に厳しいものである。    また、医学や法学においては、日本医師会や弁護士会というも のがあり、日本の医師や弁護士の権利を守っている。これらのおか げで、彼らは物理学者や化学者などの科学者よりもずっと良い給料 を取る。さらには、患者個人から、さまざまなプレゼントや袖のし た---賄賂---をもらう。これが違法行為であることは明らかである。 しかし逆に、大きな金に絡んで彼らの組織は政治家たちのものに似 てきている。医師個人としての自由が失われ、政治閥のような学閥 が形成されている。その結果、医師個人として自由に職を得ること が極めて難しい状況になってきている。したがって、これも4.で述 べたようにEqual Opportunity/Affirmative Action法に反するもの である。 我々日本の物理学者の置かれている状況も、物理学がビッ グサイエンスになるにつれ、似たようなものになってきている。我々 はこうした状況を解決できるだろうか?事態は極めて深刻で難しい 状況にあると言える。しかし、本論文で私が提案してきたものを一 つ一つ実施すれば、いずれ解決されると私は信じている。そこで、 我々物理学者がまずこれらを実施して見るべきである。そして徐々 に他の分野へ波及させて行くべきだと私は考える。このようにして、 日本の物理学者が日本社会のリーダーになる道があると思う。    以上をまとめて、次の提案をしたい。    提案14:日本の大学、大学院は、理系、医系、文系の分野 に限らず、同一の大学、大学院システムに統一すること。  8. 現代文明としての物理学    中島貞雄の「明日への展望」では、「3.文化としての物理学」 とあるが、私が3.で論じたように、物理学はその定義からして、文 化ではなく文明に属するものである。物理学には日本人の物理学な るもの、アメリカ人の物理学なるものはない。物理学は人類に普遍 的な知識を生み出そうということが目標である。したがって、「時 間、空間、宇宙」、「因果律と不確定性」、「必然と偶然」、「相 転移と対称性」などの物理概念[8]は、単に物理学者だけが所有す る文化だけではなく、この世界に生きる万人が所有し得る現代文明 に属するものである。それを物理学者だけが持つ、物理学者だけが 理解可能な高級な文化と思うこと自体、物理学者の思い上がりであ る。この思い上がった意識がしばしば見え隠れしているのが、「明 日への展望」の特徴である。これは日本の物理学者が欧米社会を良 く知らないことが原因であるように見える。    もし我々物理学者が一般人は物理学を理解不可能であると考 えるなら、そして物理学は物理学者に任せなさい、あなた方一般人 は我々物理学者に投資だけしなさい、財政援助だけしなさいと考え るなら、これこそ物理学者のはなもちならない思い上がりと言える だろう。物理学者は一般人より頭がいい。だから物理学者は一般人 より価値があり、よりよい生活をしていいのだと考える者もいるだ ろう。しかし、これこそアメリカのSSCプロジェクトの失敗に導いた ものだった。実際、多くのアメリカ国民や議員たちは、物理学者は なに様のつもりだと怒ったのであった。世の中には他にいっぱいや ることが山積みされているのである。もしそういうことが可能な場 合は、それは科学者たちが真のパイオニアとなり、社会に本当の豊 かさや価値をもたらした者たちに限られる。 ちなみに、一般人が物理学を理解しないのは、日常生活で 手一杯であるため物理学に関心がないことや理解する必要を感じな いからにすぎない。つまりモティベーションがないからにすぎない。 決して彼らに能力がないからではない。ましてや彼らが東大の教授 や東大生たちより偏差値が低いからではない。法律や医療知識など のように、彼ら自身がそれを必要とすれば、十分理解することがで きる。したがって、我々の問題は、我々物理学者や科学者の見い出 した新しい知識をどのようにして若者たちや一般人に伝えるかとい うことである。つまり、いかに啓蒙するかということである。これ が我々の生きる現代文明の共通の課題である。   ユタ大学などのアメリカの大学では、定期的に一般講演を主 催している。大体1、2ヵ月に1回ほど大小さまざまな一般講演が ある。日本のように年に1、2回という程度ではない。こういうシ ステムによって、現代文明とはどんなものであるか、若者や一般人 を啓蒙しているのである。イギリスでも有名な、ファラデー講演は 現在も続けられている。最近、日本のBS放送でこれが見られるよう になった。これは実に素晴しいことである。    しかし、これを見て科学者になりたいと考えた日本の若者た ちはどうするだろうか?彼らは皆、日本ではそれは難しいと考える だろう。これはこの論文で私が論じてきたような困難を彼らがいず れ発見するからである。そして結局、今は欧米の大学でなければ駄 目だと悟るだろう。もしそれが無理なら、彼らは科学者になること を諦めるだろう。こんな現実を欧米の学生たちが見たら、ただちに "Fuck You!"と怒るに決まっている。実際、日本と似た状況にあるフ ランスで、学生たちの暴動が最近起きている。しかしこれが我々の 置かれた現実である。  9. まとめ     まとめとして、最初に、パイオニアとソフィストの違いにつ いて議論した。これは戦後、日本の科学者が忘れてしまったもので ある。これに応じて、私は大学院制度に対していくつかの提案を行っ た。第二に、Equal Opportunity/Affirmative Action法について説 明した。ここで私は日本の大学、大学院もこれを採用するように提 案した。第三に、日本における科学者の人事に対して、アカデミッ クな業績に基づいて公正な人事がなされるように、インサイダー取 り引きや天下りの禁止を扱う法律を制定するように提案した。第四 に、学生の権利が保証され、守られるようにいくつかの提案を行っ た。第五に、以上の提案を日本の物理学の分野だけでなく、他の科 学の分野へも波及させることを提案した。日本の物理学者は日本の リーダーとしてこの運動を進めるべきであると私は主張した。第六 に、物理学は単なる文化ではなく、現代文明に属するものであるこ とを説明した。    以上のように私は日本の物理学者、さらには日本の科学者を 取り巻く厳しい現実について議論した。これらは日本のアカデミズ ム全体に共通に見られる問題である。これらは重要なもののほんの 一部にすぎない。ここで述べられた事柄の多くは、現実の物理学者 にとっては実に耳の痛い話であると思う。しかし、これらを解決し ない限り、日本の物理学を含めた科学に本当の意味の将来はないと いうのが私の結論である。もっともアメリカ科学界さへしっかりし ていればなにも問題ないのだが。   このように我々を取り巻く現実は大変難しい局面に置かれて いる。日本の科学が良い方向へ進むか、あるいはまったく駄目にな るかの境目にあると言える。決して中島貞雄の言うようなバラ色の 未来の世界とはほど遠いと感じるのは私だけではないだろう。    実際、私がこの論文を書いている間に、神戸で大震災が起こっ た。これへの対応振りを見てもこのことが良く解る。東大地震学研 究所のある物理学者は、この地震が起こるちょうど2、3日前に、 阪神地区は地震活動は不活発で安全だとテレビで言ったことを良く 覚えている。ある物理学者は、ほら見たことか、ずっと自分が予言 してきたとうりだと、地震の後になってテレビに出てきた。またあ る専門家たちは、よほどテレビに出れてうれしかったのか、四六時 中にやにやしたり、へらへらした顔を見せていた。方や五千人もの 人々が死に、三十万もの人々が難民になってしまったというのにで ある。こうした物理学者たちは、自分の責任というものをどう考え ているのだろうか?私の妻のような一般人がこういう学者たちを見 て、彼らから受け取るメッセージは、日本の学者は変な奴らだとい うことである。実際、私もテレビを見ていてそう思った。これが日 本の科学者の素顔である。素顔というものはちょっとしたときに、 はっきり現われるものである。日本の科学者のそれは、正直最も頼 りにならず、吐き気をもよおすようなものだった。    最後に、次の疑問を呈して終りとしたい。もし大地震が来た ら、あなたはだれと逃げたいか?東大の学者とか?アメリカ人学者 とか?いったいだれとならあなたは安心か?  文献  [1] 中島貞雄、「明日への展望」、日本物理学会誌50、 (1995)2。  [2] 井口和基、「日本社会の構造的問題とその解決の方向:3 セクター分立の概念」、「科学、社会、人間」 37号, (1991) 10。井口和基、「大学院改組の小特集を読んで」、日本物理学会 誌48、(1993)137。井口和基、三セクター分立の概念: 日本社会の構造的問題とその解決の方向、(近代文芸社、東京、 1995)。  [3] アーサー.ショーペンハウアー、読書について、(岩波書店、 東京、1983)。7ページ。  [4] 同上。22ページ。  [5] これらの提案は、すでに以下の講演で提案された。井口和 基、「日米の大学システムを論じる際のいくつかの注意とコメン ト」、物理教育4p-P4、日本物理学会、秋の分科会、(静岡大学、 1994)。予稿集と本講演参照。この講演はビデオに録画されて いる。  [6] E.L.Brown, Nursing for the Future, (Russel Sage Foundation, New York, 1948). 邦訳、エスター.L.ブラウン、これ からの看護、(日本看護協会出版会、1966)。  [7] 神谷三恵子、人間をみつめて、(みすず書房、東京、 1980)。付録、「ケーベスの絵馬」を見よ。    [8]「時間、空間、宇宙」はアインシュタイン、ワイルによる、 「因果律と不確定性」はボーア、ハイゼンベルクによる、「必然と 偶然」はモノーによる、「相転移と対称性」は、ランダウ、ヤン、 アンダーソンによるというように、これらの概念は皆、日本の科学 者によるものではなく、受け売りだと思うが。