第12巻第10号              1999/7/1
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毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]

(kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp)


【これは絶対面白い】

日垣隆『敢闘言』

太田出版\1550


 世の中に理不尽なことは多い。にもかかわらず、ほとんどの人々はその理不尽さに気がつかないか、あるいは気づいても「まあ、しかたがない」とあきらめるかのどちらかである。日常生活を送るのに精一杯の多くの人々にとっては、世の中の理不尽さにいちいち関わっている余裕がないのだろう。

 理不尽なことがなかなか修正されないのは、一般の人にとっては理不尽と思われることが、一部の人々にとっては好都合なことであるからだ。長野五輪招致委員会の帳簿が廃棄されてしまったことも、核廃棄物の最終処理の方法が見つからないままに原子力発電を続けていることも、エイズを感染させることがわかっていながら注射を打ち続けたことも、きわめて理不尽なことだが、一部の人々にとってはその方が都合がいい(よかった)のである。「一部の人々」というのは、長野県や電力業界や製薬会社などの権力者たちである。そう、理不尽なことの蔭にはかならずそれで利益を得ている権力者がいる。

 そうした中でジャーナリストは、世の中の理不尽さを見つけだし、指摘をして、権力者の横暴を監視する役割を担っている。しかし、残念ながらジャーナリストも必ずしもあてにはならない。権力者の横暴を糾弾する役割をもった彼らはいつのまにか、自分自身が「権力者」になってしまい、あるいは権力者に取り入って権力者の手先になってしまうからである。ジャーナリストは常に反権力・反体制側でなければならないのに、日本のほとんどの自称「ジャーナリスト」は権力側・体制側についてしまっている。

 日垣隆氏は現在、日本で最もジャーナリストらしいジャーナリストである。世の中の理不尽さを暴き、おかしいことはおかしいと敢えて言うことで、闘いを挑む。そうした日垣隆氏の日常の闘いの記録がこの本である。

 有名雑誌の巻頭を飾る「巻頭言」というコラムがある。エライ人が書くコラムであるが、同時に内容がなく読んでも何の役にも立たない。だから普通は誰も読まない。『週刊エコノミスト』という経済界の有名雑誌の巻頭エッセイを依頼された日垣氏は、この誰も読まない「巻頭言」の中で、敢えて闘いを挑むようなことを言うことにし、『敢闘言』と名付けることにした。「敢えて闘う」ということは、いろいろな人々を批判するということであり、わかりやすく言えば「ケンカを売る」ことに近い。週刊誌でこれをやろうというのだから、これは正気の沙汰ではない。(私も月刊で『教育心理学研究』掲載の論文批評を続けているが、批判をしようとするからには、相当の準備と覚悟が必要である。それでも、相手は国内の教育心理学者だけだから、まちがっても殺されるようなことはない。しかし、日垣氏の場合は相手を選ばない。しかも毎週。)

 ところで、今、国会で審議されている通信傍受法案が一番問題なのは、「一般人のプライバシーが侵害されること」ではなく、「体制側にとって都合の悪いジャーナリストが監視されること」なのではないだろうか。「オレは別に彼女との電話傍受されたって気にしません」なんてテレビの街頭インタビューに笑って答えているアホ男の電話なんかもともと誰も傍受しようとなんかしないのだ。おそらくこの法案が成立したときに日垣氏はかなりの影響を受けるだろう。心配である。

 本書には、「ダイオキシン猛毒説の虚構」と「裁かれぬ殺人者たち」という2編のルポも収録されている。「ダイオキシン猛毒説の虚構」は、ダイオキシン猛毒説が蔓延している中で、「ホントにそうなの?」とたった一人で疑問を投げかけたものだ。1970年代の立花隆「田中角栄研究」1980年代の広瀬隆「危険な話」に匹敵する1990年代を代表する大スクープだと思う。このルポ2編を読むだけでもこの本を買う価値がある。 (守 一雄)


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