第12巻第9号              1999/6/1
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毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]

(kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp)


【これは絶対面白い】

柳原三佳『これでいいのか自動車保険』

朝日新聞社\1300


 「ひき逃げされても、保険金が1円もおりないことがある。」と帯にある。そんなバカな、被害者の最低限の救済のために自賠責保険があるのではなかったか、と思って読み始めると、まず自動車保険についてのしくみが説明されている。自動車保険のしくみはわかっているつもりでいたが、なにごとにつけても「わかっているつもり」が一番コワイ。なるほどこんなカラクリがあったのだ。

 自動車なしでは暮らせない社会の中では、交通事故はほぼ必然的に起こる。そのため、交通事故の被害者への賠償のための自動車保険は必須である。なかでも、被害者への最低限の賠償を保証するものとして強制加入が義務づけられている自賠責保険の意義は大きい。加害者が保険に加入していなかったがために被害者にまったく賠償がなされないというような最悪の事態だけはなんとか避けることができるからである。ところが、この本を読むと自賠責制度があっても、被害者がまったく救済されないことがあることがわかる。

 自賠責保険の背景には、その加入を義務づける「自動車損害賠償保障法(自賠法)」という法律があって、その第三条によれば、「無責の三条件」が立証されると賠償責任がない、つまり保険金を支払う必要がないとされているのだそうだ。「無責の三条件」とは(1)運転者に過失がなく、(2)自動車に欠陥がなく、(3)被害者側に過失がある、ということで、この場合には「無責」とされ保険金は支払われない。「運転者や自動車は悪くない、悪いのは被害者だけだ、だから、保険金も払わないよ」ということになるのだ。

 たしかに、「普通に安全運転をしていた車が自殺しようと飛び出してきた人を轢いてしまった」という場合にまで保険金を出す必要はないのかもしれない。故意に死のうとする人はマレだとしても、故意にぶつかってケガをして保険金をとろうとする「当たり屋」はいる。ヒ素カレー事件の容疑者も保険制度の悪用の常習者だった。そこで、保険制度の「悪用」を防ぐためにも、こうした「無責の三条件」が必要なことはわかる。

 ところが、この「悪用」防止のための「無責の三条件」が保険会社によって、いわば逆に「悪用」されているのである。保険金を払う必要があるかどうかを調査するのは自動車保険料率算定会(自算会)という公的な特殊法人なのだが、その実体は保険会社の「出張機関」なのだそうである。ということは、「保険金を払うかどうかを保険会社自身が決めている」ことになる。そして、保険会社が営利企業である以上、できるだけ保険金は払わないほうがいいわけで、結果的にこの「無責」が乱発されているのである。

 そうはいっても警察が事故の検分をするし、そう簡単に被害者側だけに過失が押しつけられるはずがないと思うかもしれない。しかし、交通事故が日常茶飯事になっている現代社会では、警察の対応もおざなりになりがちである。そして、被害者側にとっては、命を救うことやケガを治療することが最優先で、保険のことなど考えているヒマはない。その結果、事故に関わる一切の保険業務は保険会社が取り仕切ることになってしまうのである。事故の悪夢からなんとか立ち直った被害者や被害者の家族が保険金の請求をするころには、すべてが保険会社の都合のいいように処理されてしまっている。被害者が死んでしまった場合には文字通り「死人に口なし」とされてしまう。現に死亡事故で「無責」となる割合は負傷事故で「無責」となる場合の十倍近くになることがデータにも現れている。

 驚きを超えて怒りがこみ上げてくるような話だが、こうしたひどいことがまかりとおっているのである。今も多くの被害者やその家族が苦しんでいるのだが、多くの人々はそれに気がついていない。こうしたルポが書かれたことが問題の解決への一歩となることを願う。そのためにもぜひ多くの人にこの本を読んでもらいたいと思う。  (守 一雄)


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