毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]
(PDC00137, kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp)
著者の二木雄策さんは経済学者だが、最愛の娘を交通事故で失った一人の父親としてこの本を書いている。大学生だった娘さんは、青信号で横断中に、信号無視して進入してきた車にはねられて死んだ。娘さんの事故後、刑事裁判、賠償交渉、民事訴訟などを通して、著者は、被害者側に落ち度がないこうした場合でさえ、加害者に科せられる責任が驚くほど軽いことを知る。たとえば、刑事罰はこうした場合でも懲役2年執行猶予3年が普通であり「実刑」はない。これは「まったく罪のない一人の人間を一方的に殺してしまった」という重大な過失に対するものとしてはきわめて軽いものだと思う。しかも、裁判にまでかけられるケースはよほどの悪質なものだけで、ほとんどのケースは起訴さえされないのだ。これでは、刑事罰はほとんどないに等しい。
そもそも裁判のシステムそのものがあまりに理不尽である。被害者と加害者という当事者同士が裁判官の前で互いに主張を闘わすというようなことはまったくなく、加害者の代理人(=弁護士)と検察官とが形式的な書類のやりとりをするだけである。被害者側は裁判に「参加」さえできない。法廷で費やされる時間の大半は、次回の公判日を決めるための「打ち合わせの時間」であるという。裁判は、当事者不在の司法関係者だけによる「儀式」にすぎないのである。(こうした裁判の驚くべき実態については、山口・副島『裁判の秘密』洋泉社\1,800が詳しい。この本も絶対面白いおススメ本である。)
民事罰も同様である。交通事故の損害賠償額がきわめて高額であることは知られているが、ここでも加害者に実質的な痛みはまったくない。賠償金そのものは保険会社が支払うのだし、賠償額の決定のための交渉も含めて、そのすべてを保険会社が代行してくれるからである。加害者は事故を起こす前にあらかじめ加入していた自動車保険の保険料を払った時点でその責任を完了していたのである。
「加害者にせめてもの償いをさせたい、責任を感じさせたい」と考えた被害者側が、加害者本人の示談への参加や裁判への出頭を求めても、加害者側の弁護士がそれに同意しなければ加害者が「当事者」となることはない。他人事で済んでしまうのだ。つまり、加害者は、「道義的な罰」も受けない。著者は、最終的に、警察、検察、弁護士、裁判官、保険会社などの誰もが被害者よりも加害者側に立っていることに気づくことになる。
ではなぜ、こんなにも加害者側にばかり有利なシステムになっているのだろうか?著者は、誰もがハンドルを握る現代の車社会では「自分もいつかは加害者になるかもしれない」ということから、いつの間にか加害者に甘い社会になってしまっているのだと言う。損害賠償金にしても、それを「高額だ」と考えるのは知らず知らずのうちに加害者側の見方をしてしまっているからで、公平な目で見直してみると賠償額の決定方法も額そのものも被害者側には納得がいかないものであることがわかる。
社会の構成員のほとんどが加害者側に立っている限り、そして加害者に甘いシステムを認めてしまっている限り、交通事故はなくならないだろう。交通死をきちんと被害者の側から捉え、被害者の視点から現代の車社会を見直す必要がある。「自分自身や自分の最愛の家族がいつかは被害者になるかもしれない」ことを真剣に考えるべきである。エジプトのテロよりも対人地雷よりも自動車の方が怖いのだ。 (守 一雄)