第5巻第5号                    1992/2/1
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DOHC(年間百冊読書する会)MONTHLY

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毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]

(PDC00137, dmori@c1shin.cs.shinshu-u.ac.jp)



  前号で紹介の槌田敦さんの本を読んで以来、完全に欝です。欝は身体にも悪いらしく、風邪にかかりやすく、どうも胃の調子もおかしい。「厄年って本当なのか」とつい考えたくなるこの頃です。というわけで、とことん欝とつき合うために槌田敦さんの本をもう1冊紹介します。          (守 一雄)

【これは絶対面白い】

槌田 敦『石油文明の次は何か』

農文協 \1200


  「石油文明の次は何か」というタイトルの答えは「ない」である。「文明とは何か。端的に言えば、『あなた作る人、私食べる人』という分離である。食糧を生産しなくてもすむ人達が都市に集り、そこで文明をつくった。」「ところで、文明において、作る、運ぶ、売るの三つの要素を考える時、どれが本質だろうか。実は、運ぶことが本質なのである。文明とは運ぶことなのである。」と「まえがき」にある。物を運ぶために、まず人力が使われた(人力文明)。次に馬や牛などの家畜が使われた(畜力文明)。蒸気機関の発明により、石炭を動力とした「石炭文明」が起こり、次に石炭は石油にとって代わられた。そして現代はまさに「石油文明」のまっただ中にある。モーターバイクから、自動車、船、飛行機、宇宙ロケットとすべての運搬の動力に石油が用いられている。石油文明の次があるとすれば、こうしたすべての運搬に使える石油以上に便利なものXがなければならない。こう考えてみると、原子力発電(核分裂)も核融合も太陽熱発電もこのXたりえないのは明らかである。ではどうするか。槌田敦さんの答えは過激である。「運ぶことを止めればよい。」つまりこれは文明の放棄である。
 運ぶことを止めない限り、食糧を自分で作らない人達が食糧を作る人達を支配するという構造はなくならない。さらに言えば、運ぶことができる余剰食糧がある限り、権力側は「奴隷(人力)」を使ってでも「文明(=運搬)」を続けようとするだろう。それを阻止するためには、食糧を作る人達は余剰食糧を作らないことである。誰もが自分の食べる食糧は自分自身で作る。「これは家庭料理の延長である。鍋釜で煮炊きすることから家庭料理というのではなく、鍋釜に入れるものをつくるところから家庭料理なのである。(p.194)」こうした食糧自給社会は、ルソーのいう幸福で平穏な共和国に相当する。余剰食糧がないから他の国々から狙われることもないのである。(と、ここまでの話は至極もっともである。問題は、現在の私自身が「食糧を自分で作らない人達」の一員であることである。どこかに農地を手にいれて、家族の分だけでも食糧自給を始めようと思うが、体力に自信がない。それでも、農地を手に入れる準備は進めている。)
 ここまで徹底しないまでも、大量輸送、大量消費、遠距離輸送、国際分業などには断固反対していくことは必要だろう。(よって、アメリカ米の輸入にも反対であるが、そもそもGATT体制そのものに反対しなければならない。)地元でできた食糧を食べて、自分の足で歩き回れる範囲内で生活する。改めて読み直したシュマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』(講談社学術文庫)の思想をもっと広めたいものである。 (守 一雄)
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